砂漠の英雄 - 3/4

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 カーテンを下した部屋で、グラスワインを揺らす。指輪を嵌めた指が滑らかなワイングラスを傾け、唇にグラスが付けられ、その中身が半分ほど飲まれる。椅子の傍らに置かれる小振りなテーブルの上に、開けられたボトルとその隣にグラスが置かれた。
 カジノ、レインディナーズの奥にある一室で、カジノの店員が両手両足を小鹿のように震わせて立っている。サー・クロコダイルと両腕を惨めな程に緊張させ、頭を必死に下げている。しかし、と言い澱んだ男は全く憐憫の情さえ催させた。
「つまみ出せ」
 命令はただ一つである。クロコダイルはそれ以外の答えを持たない。何しろ、ここレインベースにあるカジノレインディナーズは政府関係者は立入禁止としている。それを知ってなお、ここに立ち入っているのであれば、それは愚か者か、それとも政府のならず者くらいである。
 どちらにせよ、政府関係者をカジノ内に立ち入らせるわけにはいかない。クロコダイルはそれ以上の問答は不要とばかりに葉巻を吹かしてその全身をソファに預けた。
「このおれが、何故一介の海兵に会わなきゃならんのだ。なぁ?」
 そう思わんかね、と黒服の男を威圧する。さあ追い出してこいと目で支持する。
 そこで視界に一枚の白布の、まるで幽霊のような様相をした生き物が壁の向こうから現れる。足首まで覆うローブからは足が二本出ているので幽霊というわけではない。二つの足はしっかりと床を踏み、黒い影を残している。
 こいつが海兵か。クロコダイルは首を軽く傾げ、目元まで深く覆った海兵を観察するように眺めた。
「そう」
 愉悦を帯びた声があかりの乏しい部屋に反響して響く。声は高くもなければ低くもない。酷く中性的で男か女かは判断できない。ローブの下に顔が隠れているのも、身長が一般よりもずっと高いこともそれに影響した。
「怯えさせるな」
「…ここは政府関係者は出入り禁止だが。海兵というなら、出ていって余所で話してくれたまえ」
 クロコダイルから発された言葉に、ローブを頭から被っている人間は不敵に笑った。肩を揺らし、堪えきれないといったようにとうとう腹を抱えて笑い始めると、呵々大笑した。
 相手のペースである。クロコダイルは葉巻を咥え直し、相手の様子を見る。後ろに突っ立っていた従業員を手で追い払い扉を閉めさせる。部屋にはただ二人だけが残された。
 馬鹿にしているわけではないことは、空気から判断できるが、この海兵の意図が分からない。七武海と海軍の協定を破ってまでここを訪れる意味は何か。
 海兵は笑い終えると、手を挙げて失礼と一言謝罪を述べ、懐に手を入れ書状を一通取出し、クロコダイルへと放った。蝋印が押された書状をクロコダイルは受け取り、中身を確認する。何のことはない、海軍による緊急の召集である。ならば、とクロコダイルは思い直す。眼前の海兵はただのメッセンジャーで誰にも書状を預けることができなかった故、政府関係者立ち入り禁止であるこのカジノへと足を踏み入れたのかと。それもまた違うような気がした。
「…これ以外に言付けはあるか」
 海兵は目深にローブを被ったまま、残されたはっきりと見える口元に悪戯っ子のような笑みを刷いた。これ以上話に付き合う必要もあるまいとクロコダイルは顔を床へと向ける。
「ない。それだけだ」
 カモメ便でも使えばよいものを、とクロコダイルはこの海兵が登用された理由が分からない。内容から見て、緊急招集のそれのみであるし、秘匿性はあまりない。カモメ便で事足りる。敢えて言うならば、緊急性の一点のみである。
 書簡は手渡された。さあ、帰れとクロコダイルが口にしようとしたそれを遮るように、海兵は言った。
 久しいな、と。
「クロコダイル。英雄業は、愉しいか?」
 人を馬鹿にしている一言にクロコダイルは顔を上げた。水分を吸い尽くしてやると敵意を持って顔を上げた。しかし、それは海兵の頭からローブが落とされ、その顔が明るみに出たことにより止まった。
 短い髪に、何よりその顔。
 クロコダイルは即座に理解した。この海兵が書簡を持ってくるのに登用された理由を。確かにこの女に持たせれば、書状は最速で手に渡される。しかし、海軍としてもこの海兵と自分に繋がりがあるなどとは到底思っていなかったことだろう。右耳に取り残された金のピアスが熱を持つ。
 かつてカヤアンバルを従えたその少女は成長していた。
 よく見れば、それは倦んだ笑みだった。瞳の奥は一体どこを映しているのかわからない。足を踏み入れれば二度と浮かび上がってこられない泥沼から覗いている両眼があった。
「てめぇこそ、どうした。いつから海軍に鞍替えなんぞしやがった、似合いもしねえ」
「そうか?割と似合ってるだろ?」
 細められた瞳はどこか狂っているようにすら感じられる。
 こいつはこんな目をする奴ではなかった、とクロコダイルはかつて会った少女の顔を思い出しながら、その顔めい一杯に広げられた屈託のない海の広さを模したような瞳を細めて笑う少女を思い出す。
 葉巻を咥え直し、体重をソファに預け直す。
「…海狂いの奴が海軍に殺されたとは聞いていたが」
 その時に共に海に沈んだと思っていた。紫煙を吐き出し、クロコダイルは脚を組むと斜め下からフードをとった海兵を不躾に眺め回した。
 髪の色は以前と変わりなく、長さは随分と短くなってしまい頭の形がはっきりと分かるほどになっている。その瞳の色も変わりはない。変わったことと言えば、バカみたいにでかくなったその図体と、それからその纏う空気である。
 重たく、濁り澱んでいる。
 クロコダイルの問いかけに海兵は腹をさすって一二度笑ってから、答えた。目の奥には一欠けら、濁りようのない氷のようなものが浮かんでいる。それは、冷たく、硬く、凍えきっている。それこそが、かつての少女の名残だと、クロコダイルにはそう思えて仕方ない。
「生憎と私は取り残されてしまってな」
 海賊だった少女が親代わりの家族を海兵に殺し尽くされて、海兵に身をやつすなど、その理由は言わずとも十分に察せられる。クロコダイルは変わり果ててしまった少女の末路に眉間に軽く皺を寄せた。
「それで海兵、か?」
「そう、その通りだ」
「…下らねえな」
 一言、クロコダイルはそう言って捨てた。
 全くくだらない。それは人生をかけて行うほどの理由にはならない。しかしならがら、男の言葉に女は驚くことも憤ることもしなかった。ただ、その通りだと頷いて見せた。浮かべられた薄笑いは人間として大切な何かが抜け落ちているようにすら感じる。
 下らなくとも、と海兵は笑いながら部屋に置かれていたソファに腰掛けた。そして小首を傾げ、口角を軽く持ち上げる。
「私にとっては全てをかけるに足るものさ」
 そう言って、海兵はクロコダイルのソファのすぐ横にあるワインのボトルを掴み取ると逆さまにして中身を遠慮なく飲み干していく。最後の一滴までの干し、唇からボトルの口を外すと手の甲で零れ落ちたワインを拭う。
 ふふ。海兵は笑みを零して空になったワインボトルを高く掲げた。
「友との再会に」
 左耳のピアスが室内の細い光に当てられて鈍く光る。クロコダイルはその片割れである右耳の金のピアスを親指と人差し指で挟み、その冷たさを感じる。
 鼻で笑い、グラスに残っていたワインをクロコダイルは飲み干した。
 はっきりと分かるほど胸にしこりが残っている。ソファに座っている海兵を前に、クロコダイルは海兵が部屋に入ってきて初めてそのの名を呼んだ。
「名前1」
 かつて、ピアスを分けたことは記憶に懐かしい。自分でも何故そんなピアスを後生大事につけているのか分からなかった。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、未だにそのピアスはつけたままである。友人など、全く自分には一番相応しくない言葉である。それでも、こいつはただ一人自分を裏切らない奴なのだと、クロコダイルはそう思っている。
 約束を覚えている。
 馬鹿言えと酒を飲みながら、本を片手にクロコダイルはそう言った。開け放たれた窓から両肩にカヤアンバルの大きな爪を乗せて、窓枠に腰かけている少女は屈託ない笑顔でこちらにピアスを差し出すと、こちらが何かを言う前に右耳につけてしまった。何しやがるという前に、少女は自分の左耳にピアスを付けて見せる。
 友の証だ、クロコダイル。
 笑ってそう言った。汚れも知らぬ少女は純粋にそう告げた。
 私はお前を信じる。誰が何と言ってもお前の言葉を信じる。海賊同士の約束だ。
 そんな取り決めを勝手にして、海狂いが知ればトチ狂ったように暴れるのではないかと言えば、少女はお前は私の初めての大事な友人だから私が守るなどとそんな馬鹿げた事を言っていた。子供の戯言と、クロコダイルは鼻で笑いつつ少女の頭を小突いた。小気味よい笑いだった。嘘偽りのない言葉を船員以外から受け取るのは、酷く懐かしかった。
 何が友人だ。馬鹿野郎。
 酒が飲める年になってから言いやがれ、と少女の短い髪の毛をかき回し、カップに酒を注いでやった。それを一気に飲み干して、柔らかく丸い頬を桃色に染めていた。次に会った時は、船長に怒られたと頭をさすっていたのも懐かしい。
 少女はクロコダイルがどこにいようと関係なく現れた。それはビブルカードを気まぐれで渡していたからである。ビブルカード一枚あれば、カヤアンバルを乗りこなす少女からすれば、どこでも会いに来られたというわけである。こつりとガラス窓を蹴る音が聞こえれば、クロコダイルは窓を開けて、裏表のない少女を招き入れた。
 変わった。クロコダイルはそう思った。
「窓から入ってこねえだけの分別は、身に付けたか」
「私も大きくなったろう。お前、もっと大きかったもの」
 名前1は眉のあたりに手を平らに伸ばし、横に軽く動かした。ああ懐かしいと空になったボトルを振る。女の動作にクロコダイルは眉間に軽く皺を寄せ、居住まいを直した。
「…今、てめえはおれの前にいるわけだが」
「うん、そうだな」
「おれは、てめえの過去を知っているわけだ。そしておそらく」
「ああ、海軍は私の過去を知らない。当然だな。そんな危険因子を取り込むほど海軍も馬鹿じゃない。だがまあ私は嘘は言っていないぞ。何一つ」
 名前1はそう言いきった。そしてそれは事実である。何一つ嘘は言っていない。船長が信じた正義であの人でなしを殺してやりたいのは事実であるし、家族を海賊に殺されたのも嘘ではない。あの時あの場所にいなければ、真実など誰にも分からない。そして、名前1は海賊でありはしたものの幼く手配書がない。誰が、己が海賊であったなどと分かるだろうか。否、分かるまい。
 小さく笑んだ名前1にクロコダイルは目を眇める。
「変わったな」
 男の口から零れ落ちた言葉に女は再度高笑いを発した。背を思いっきり反らし、ひぃひぃと笑い終えた後体をくの字に曲げる。
「お前の英雄業と一緒さ」
 陰りができた顔から二つの瞳だけが鈍い光を放つ。
「私もお前も海に生きることをやめた、海賊のなれの果てさ」
 言い得て妙である。
 クロコダイルは名前1の言葉を素直に受け取った。何年、海に出ていないかもう覚えていない。海賊であることをやめた覚えはないが、B・Wもニコ・ロビン以外のメンバーとは顔すら合わせたことがない。そもそもこの会社は海賊というよりも秘密結社である。海賊船に乗る仲間は、いない。欲しいとも、クロコダイルは毛ほども思わなかった。
 信頼など。
 全く笑わせる言葉である。誰一人信用しない。ただ、こいつだけは。
 細く紫煙を吐出す。
「おれがてめぇを海軍に売るなんてことは考えもしねえのか」
 クロコダイルの言葉にソファに深く腰掛けていた海兵は高く笑った。可笑しくて可笑しくて仕方ないといった様子だった。酒が足りないと立ち上がり、勝手に人のワインボトルを開けて口をつける。そのワインは高かったと一言言えば、成程美味しいわけだと笑った。
 ボトルを半分ほど飲み干した後、名前1は先程のクロコダイルの問いかけに答えた。
「思ってない。お前に利益が出ないから」
「成程」
「それに。お前、今はそんなことにかかずらってる暇はないって面してる」
「ほう」
 それについて名前1が言及することはなかった。
 ボトルの底をくいと持ち上げ、中に空気を入れながらその代りに中のワインを胃の腑に落としていく。こくこくこくり。とうとう二本目のボトルの中身が空になった。
 名前1はボトルをクロコダイルのソファ横のテーブルに置き、立ち上がる。立ち上がった女の横顔にクロコダイルは言葉を投げつける。喧嘩を売りに来たのか、と。
 名前1は笑いながら男が座るソファの肘掛けに腰を落とした。
「いや。ただ、懐かしくて、少し」
 な。
 小さく零した声は余りにも弱い。置き去りにした何かを、僅かばかり此処で何かを思い出しに来たかのようだった。しかし考えてみれば納得でもある。クロコダイルは視線を他所にやっている女を視界に捉える。
 一人で寂しいと泣いている子供が前にいる錯覚に捉われた。武骨な手を伸ばしかけ、宙で止める。
「お前の間抜け面が拝めただけで良しとするよ」
 へらりと笑った顔は先程の面影は残っていない。一瞬でそれは鳴りを潜めてしまった。
 クロコダイルは成程と納得する。こいつはこうやって生きてきたのだと。海兵の仮面を被り復讐に身をやつし、浸る思い出は胸を刺す。面倒で下らない生き方を選んだもんだとクロコダイルは煙を肺まで吸い込む。吐き出した煙は細く長く部屋の天井に棚引いて消える。
 簡単に仮面を被ってしまった女の腕をクロコダイルは掴み取る。一瞬被った仮面が剥がれ落ちる。驚いた瞳が零れ落ちそうなほどに大きく見開かれた。掴み取った腕は筋肉質で、幼少時の時とははるかに違う。
「止めるなよ。お前だけは、止めてくれるな」
 喉から出かけた言葉を無理に押し留められた。大きな瞳が瞬時に色を失くす。幼い子供を瞳の奥底に隠してしまい、それは手の届かないところまで行き果てる。
「私を、止めるな」
 ならば何故会いに来た。
 出かかった言葉は喉の奥で嚥下され、胃酸で溶かされる。
 腕を掴む手に力を込める。あらゆるものを枯らす手だが、今はただ掴むためだけに使われている。その手に少しばかり力を込めた。女の眉間に深い皺が寄る。後で痣が残るほどに強く掴んだ。それは言葉の代わりである。
 最後の海だ。
 ありとあらゆるもの全てを信じられなくなった自分がただ一滴だけ残した。下らないと理解しつつ、それでも右手で枯らしきれない海の滴である。
「…勝手にしろ」
 痣が残るほど強く握りしめていた手をゆるりと放す。解放された腕を名前1は自身へと引き寄せ、目を細めて口元を薄暗く笑わせる。大きな体が前へと伸ばされ、クロコダイルの胸元へと鼻先を埋める。すん、と一度鼻が鳴り、大きな掌がスカーフの上に添えられた。
「お前からは海の匂いがする。忘れるなよ、それを」
 体が起こされ、離れて行く。
 掌から指先へとゆっくりと離れて行く体は、遠い。どうにも。
「…気に入らねえな」
 目を合せないまま、唸るような声が地を這う。しかし、男の声音に女は一歩下がるとずらしていた外套を再度身にまとい、その顔をはっきりと見えないようにする。フードが顔を覆う。
「仕方ない。人は、変わる。私も変わった、決めた」
 手が差し出され、男の視界を覆った。指の隙間から、三日月にかたどられた唇が覗いた。
 もう、戻らない。
 それが一体何を示唆するのか、クロコダイルは知らない。女はそれについて語ることをしなかった。待て、と言葉を発する前に、女の声が男の声を押し潰す。
「じゃあな」
 指が暗がりを払った時には、既に女の姿は消えていた。
 クロコダイルは左の鉤爪と右の生身の手を膝に押し当て見比べる。陸地につけた足が歯がゆさを覚える。かつて両足で船に乗り波の動きを感じ取っていた懐かしさが血管を通して全身へと駆け廻る幻覚に眩暈を覚える。
 変わり果てていたにも関わらず、やはり変わっていない部分もある。あの女は海に生きることをやめたと言ったが、とクロコダイルは指先で葉巻を挟み唇から離すと膝の上に腕を乗せて、体から力を抜く。
 ならば何故、お前はそんなにも海に焦がれたような目をしているのか。
 濁った瞳の奥深くの色をクロコダイルは見逃さなかった。だからこそ思い出すのである。
「馬鹿が」
 呟いた言葉は己に向けてか、それとも久しく見えた女に向けてなのかは分からなかった。