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部下を放してもらおうか。
男は、愛くるしいぬいぐるみを抱えて涙ぐんでいる少女の頭部に銃口を押し付けてそう言った。どうやらかくれんぼをしていた少女は避難勧告を聞き逃していたようだった。強めに押し付けられた銃口は震えている。少女がそれを見たことがあるのは基本的にテレビの中でだけに違いないのだろうが、どうやらそれが人の命を奪うものだとは十分に理解しているらかしく、ふるふると怯えて震えている。恐怖はどうやら喉の動きすら麻痺させているらしく、助けてなど悲鳴の一言もこぼさせていない。スカートの中からにょっきりと伸びた足はがたがたと震え、今にも崩れ落ちそうだ。だが、それをしてしまえば即座に撃たれることを体は頭よりも理解しているらしく懸命に耐えしのんでいる。
放せと、と男は続けた。
「ガキの頭にでっけぇ穴開けられたくなかったら、放せっつってんだよ!!軍艦も一つ用意しろ!!ふ、船に乗り込んである程度離れたら小舟に乗せてガキは帰してやるよ」
「大佐」
額に傷を持つ海兵、中佐階級である男は、背中に正義の二文字を羽織っている女、自身よりも一つ上の階級であり、この隊を率いている人間に命令を求めた。だが、命令など伺わずとも、男の中で答えは出ている。
一人の子供のために大勢の人間の命を晒すような真似は極力避けるべきである。寧ろ忌避すべきことである。目の前の海賊は8800万ベリーの賞金首。襲った町村で非道を働くことで有名な男をここで捕え損ねて海に放てば、その先に何があるかなど目に見えてる。少女の家族と少女には悪いが、大を生かすために小を殺させてもらおう。
頭の良い人間はそうする。起こり得るやもしれない悲惨な未来にまで責任は取れない。中佐はすいと海賊の目に見えないところで軽く指示をし、兵卒に銃を命令と同時に構え引き金を引く体勢を取らせた。後はこの新しい大佐である女の指示通り。
新しく編成されたこの部隊だが、女の大佐などそう珍しくもなく、上の連中の考えることなど大体同じである。色々と癖者扱いされている人間が集められた部隊。この大佐も例外ではない。だがどうせ、多少の荒くれ者というだけで、基本的なことは変わらないとギックは踏んだ。
誰も、そう、誰もが、人の命を天秤にかけるような人間ばかりだ。
階級を登れば登る程にそれを実感する。人に命令を下す立場に代わり、海兵を駒として扱い、直接的に人の命を奪うことが少なくなる故かそう言った傾向は強くなるばかりである。兵卒をそう扱うならばまだいい。それは理解できる。兵士は戦うために在り、戦うために海兵になった連中である。そのために命をおとそうならば(尤も下らないにも程がある馬鹿げた命令で命を落とす犬死は御免であるが)納得できる。それが、兵士と言うものだ。
けれども、上に居る人間は得てして、人の命の軽重を考える。十を生かすために一を殺す。それは正しい姿であろう。苦渋の末の正しい選択であるとも言える。だが正しいと言うことが全てではない。世界は盤上の双六ではない。
中佐は、ギックは、大佐である女が初めて集められた時に聞いたあまりにも短く、拍子抜けするような言葉を思い出す。大佐だ、以上。阿呆みたいに短い言葉だった。それ以外でも書類を持って行ったところで、御苦労だの、ああやら、うんしか言わないし、実はこの大佐、ただの無能では無いのだろうかと疑う。どうやら、王下七武海であるサー・クロコダイルと昵懇にしているらしく、その権力で現在の地位を手に入れたという噂も強ち間違いではないかもしれない。
さっさとしろ!と海賊旗を掲げている男が怒鳴りつけた。銃を男に向けるまで、命令が発されるまで、海兵たちは大人しく待つ。大佐の唇がゆるりと動いた。撃て、それが命令だとギックは思う。だがしかし。
「解放しろ」
解放しろ、とその対象が分からず、男も海兵たちもうろたえる。尤も、ここで子供を解放しろと言っているならば、馬鹿も馬鹿、大馬鹿よりも馬鹿である。脳味噌の代わりにただの味噌が詰まっているとしか思えない。
この女は、一を取って十を捨てた。
動かない海兵に、大佐である女は眦を怒らせ、声を強くもう一度発した。
「とっとと放せと言っているんだ。聞こえなかったか!」
「し、しかし大佐」
「黙ってとっとと、解放してやれ」
「しかし」
ごく、とギックは放りかけた言葉を飲んだ。赤い酒の色の瞳が冷たい色をして沸騰している。不味い酒になりそうな予感がした。吹いた風が正義の二文字を揺らめかせる。大きな背中から発される気迫に言葉を失う。
黙って従え。そう、背中が強く命令する。斬り殺されそうな殺気が足元から這い上がってくる。悪鬼羅刹のような。寒気が指先まで凍えさせた。解放しろ、と兵たちに命令し、一度は捉え縄につけた海賊を解放した。お頭、と仲間たちはわらわらと少女を盾に取った男の元へと集まっていく。全員が集まると、男は女に軍艦を要求した。一拍待ち、分かったと了承をする。
「私たちが乗ってきた軍艦がある。それを使えばいい。だが」
「んぁ?」
「その娘は置いて行け。部下には一切手出しをさせないと約束する」
ふざけるんじゃねェ、信じられるかと野太い声が詰るように響いた。だが、その声は男の足元に放り投げだされた女の腰に帯びていた刀で止まった。からからと地面を滑り、それは男の足に当たる。
「私の唯一の武器だ。さぁ銃口を私に向けろ。何か不審な動き一つすれば撃つといい。全兵!武器を下ろせ!これより人質解放まで一切の手出しを彼らにすることは許さん!」
怒号のような声が兵士たちの耳を打つ。静まり返った街中に佇む男は、ふふと口元を歪めた。そして女が投げた刀を足で踏みつけ、その背後に居る兵士たちが一切動かないのを確認すると、口角を勝ち誇ったように吊り上げた。そして高らかに腹の底からの笑い声を上げる。
「ぶ、っはあははははあは!!!馬鹿じゃねェのか!!ああ、殺されてぇなら殺してやるよ!おい、野郎共!ちょいと兵士たちを痛めつけておいてやれ!動けねェ程度にな!」
大佐、と怯えた声が背後から女を打ったが、女はそれを無視をする。ゆっくりと、銃口が女に向けられた。
「動くなよ?こいつを撃たれたくなけりゃァな。止まったままの人間の的なんざ、なかなかねェからなァ」
「言われずとも」
どん、と銃声が響く。赤い色が舞い、肩口が撃ち抜かれた。もう一発、左肩。嬲り殺すかのような撃ち方に、解放された海賊たちに蹴られ殴られ地面に転がったギックは顔を顰めた。それ見たことか、である。海賊たちから取りあげた武器は既に押収し軍艦に積んでいるので、憂さ晴らしの暴力であろうから、殺されるとまではいかないだろう。だが、骨を折るくらいの海兵はいるに違いない。背中に靴先がめり込むような蹴りが入る。痛い。
腹が撃ち抜かれる。両足が撃ち抜かれた。悲鳴一つ上げず、赤い液体を石畳に落としながら立っているその背中を、頭を抱えて防御しながら腕の隙間からギックは見ていた。馬鹿な大佐の命もここで終わり。次はどの部隊に配属されることやら、とそんな事を考えた。
海軍コートが赤く染まる。響いた銃声の数を換算すれば、既に九発はその体に弾丸は撃ちこまれている。失血死と言う死に方もあるくらいだから、まぁそろそろ限界だろう。ああもうとっとと大佐殺して軍艦でも奪って消えてくれ、とギックは願う。恐らくこの場に転がって暴力を受けている兵士の半数以上はそう願っていることだろう。報告書を書かされるのも酷く面倒くさい。死んだ人間の所為にするのはあまり好きではないが、この場合は間違いなく、一度捕縛した海賊を解放するように命令した大佐の所為なのだし遠慮なくそう記載できる。多少の脚色も加え、お涙頂戴のものに仕上げようとギックは心に決めた。
さて、と銃をくるりと回した男は、飽きてきたな、とにたりと笑った。
「やっぱり動く的の方が面白い。そろそろ死んでくれよ」
銃口が、今度はしっかりと女の頭に向けられた。この距離だとどんな下手でも当たる。尤も、下手糞ではないようだが。やれやれこれで終わりだ、とギックは安堵の息を吐いた。次に配属されるなら、もう少し賢い、もしくはこんな大馬鹿ではなく、少しお馬鹿なくらいの頭が仕切る部隊がよろしい。
男が引き金に掛けた指先に力を込める。持ち上げられた撃鉄が雷管を叩き火薬に着火させる。轟音が響く。銃弾は銃身を通り抜け、少量の火薬を撒き散らし硝煙の臭いを男の体に付着させていく。飛び出た銃弾はまっすぐに女の顔を射抜く。肉を抉り骨をへし折り、砕き、後ろにまで飛び出てその内容物を撒き散らして体はぐしゃりと倒れる。気が済んだ海賊はここから撤退し、自分たちの軍艦を奪って逃走する。
はずが。
ギックは化物を見た。化物でなければケダモノである。銃を握っていた男も目を見開き、顎をカタカタと震わせている。それほどの光景だった。大佐階級の女はその上下の歯で、頭を打ち抜こうとしていた銃弾を噛んでいた。歯で、銃弾を止めている。夢幻でも見ているのか、とギックは呆然とした。ともあれ、歯は少し欠けたようで、ぷっと弾丸を石畳に吐き捨てたとの一緒に、本当に小さな欠片も唾液と一緒に落ちる。かんっ。音が鳴る。
ようやく、大佐は声を出した。
「おいお前」
「…」
「知っているか?そのタイプの銃に込められる銃弾は最高で十だ」
石畳に、血が飛び跳ねた。否、正しくは足を踏みきった衝撃で血が散っただけである。あの脚であの傷で、と驚かざるを得ない。多すぎても少なすぎてもいけない撃たれた銃弾。獣の体は、しなやかに伸びた。大きな手が、男の頭を鷲掴む。お頭!と海賊の一人が援護射撃で正義を掲げたコートを撃つ。血が飛び散る。それでも、女は止まらない。
倒れ伏した状態で、ギックは上官の声を聞いた。腹の底から凍えるよな、そんな、声が。
「お前が海賊だと?」
ただのちんぴらだ。
鷲掴まれた頭は、家屋の壁に後頭部から叩きつけられた。ひびが入る。どれだけの力で叩きつけたのか、組まれた石ががおんと崩れた。家屋の中が覗いて見える。掴まれていた少女は大佐の空いた腕で男から引きはがされていた。巻き込まれてはいない。ぬいぐるみが、その拍子に少女の腕から離れて落ちる。
蛙の潰れたような、ぐぇ、と情けない声が崩壊し、落ちて行く石の音に混じり響く。
「確保!!!!」
喝を入れるような声が大気を震わせ、「命令される」という行為に反射的に倒れ伏していた海兵は跳ね上がるようにして暴力をふるっていた海賊たちを押さえ込む。混戦。乱戦。海兵の武器を奪い銃口を兵士に向けた男に刃が飛ぶ。銃が、銃と言う形を失くし、無残な形で石畳に落ちる。正義がはためいた。
あの怪我で、圧倒的な強さを持った女が刃を振るう。完全に気を飛ばした男は縛りあげられており、その近くには腰を抜かした少女が呆け顔で座っている。
絶刀のミト。その異名を掲げた上官の異常さをギックは目の当たりにした。まるで鬼のような。そんな強さであった。脚の動きを司るアキレス腱と、それから上腕骨の隙間を狙って斬り上げる。手足の動きを奪うような攻撃をし、かつ命を奪わない。ああ成程、綺麗な戦い方である。立っていた最後の一人には柄を持ったままの拳で眉間をこれでもかと言う程にしこたま強く殴られた。ぐら、とたたらを踏んだ足で尻餅をつき白目を剥いて石畳に倒れ込む。死屍累々。否、死人は出ていない。気絶した海賊たちをもう一度縛り上げて行く。負傷度合いが酷い兵士たちも、動ける海兵に肩を貸してもらって、船医を呼び手当てを受ける。
ギックは大佐の背中に声を掛けた。
「大佐」
自身の血で、いや、今はそれだけかどうか定かではないが、ところどころ赤くなっているコートを揺らし、上官は尻餅を付いている少女に近づき、落ちたぬいぐるみを拾い上げて、差し出した。
「怪我は?大丈夫か」
「きゃぁ!」
「…」
怯えられた。成程尤もである。鬼のように荒れ狂ったあの姿を見せられては、怯えるのが普通の反応だろう。命の恩人とは言え、あんな光景を目の当たりにしては怯えるのも当然である。それに加えて、眼前で銃弾咥えて吐き捨てたとなれば、怯えるしかない。その上、黒いスーツであまり分からないとはいえども、あれだけの銃弾を喰らったのだ。血の臭いは、強い。
完全に怯えられた目で見られた女は拾い上げたぬいぐるみを少女の前に置いて、外傷が酷くなく、負傷者の手当てを手伝っており、かつ人相が悪くない海兵に声を掛けた。はい、と穏やかに声が帰ってくる。
「避難している親元に連れて行け」
「分かりました。お嬢ちゃん、お父さんとお母さんの所に行こうか」
にこり、と笑いかけると少女は我慢の限界が来たのか、わんわんと泣きながらその首にしがみついた。小さな体を抱き上げ、男は行って参りますと敬礼を取ってその場を後にしようとした。大佐はその背中に待てと声を掛ける。振り返った海兵の前にぬいぐるみが投げられた。受け取られる。
「忘れものだ」
「これは、どうも」
有難う御座います、と海兵は笑い、泣きじゃくる女の子をもう一度抱え直して、足早に避難所に向かった。
負傷兵の手当てが終わり、気絶させて縛り上げた海賊が船へと乗せられて行く。二つの脚で立って指示を行っている大佐の姿を見、ギックはあれと不思議に思った。あの人は手当てを受けていただろうか、と。
「大佐」
「何だ」
「あなたも手当てを」
「必要ない。あいつらを船内の檻にブチ込むまで気を抜くな」
「大佐」
ぽたり、とその足元に血が落ちたのを見る。十、正しくは九の弾丸をその身に受けて手当てもせずに血が止まるはずもないのである。大佐!とギックはとうとう声を荒げた。数人の海兵が中佐と大佐のやりとりへと気をそらす。だが、ギックが見たのは、凍てつく程に冷たい女の瞳であった。聞こえなかったか、と唇が動く。
「命令だ。最後まで、気を抜くな。敬礼と返事はどうした中佐。とっとと働け」
「しかし」
「その傷で海に放り込まれたいか」
「…分かりました」
渋った男に上官は米神にくっきりと青筋を立てて睨みつけた。鬼のような形相である。上官に部下はびっと敬礼を取って発された命令を遂行した。