砂漠の英雄 - 2/4

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 海の香りが消え、砂漠地域特有の熱いがからっと乾いた空気が肌を撫ぜる。砂粒が羽毛の隙間をかいくぐり幾粒か頬にあたり、名前1は落ちていた意識を引っ張り上げて目を開けた。
 目を開けた先はすっかり砂漠の王国である。
 雲の隙間を縫い地表を眼下に見る。大きな運河が大陸を二分するかのように流れていた。さて、と名前1は地図を引っ張り出して広げる。
「サー・クロコダイルは、レインベースだな」
「おや、アルバーナには寄らなくても?」
「後で寄るつもりだが…先の方がいいか」
「少なくとも先に首都の様子は見ておく必要があると思いますね。それからオアシスも。王宮も寄られますか?なんでも可愛い王女様がいらっしゃるって話ですよ」
 真面目な会話に茶々を挟んだギックの頭を軽く小突いて名前1は地図へと再度視線を落とす。確かに危急ではあるが、王下七武海に先に面識を持った後、町を見回るのは気持ちの悪いところがある。
 ギックの案に賛同し、名前1はヤッカにアルバーナへと先へ寄るよう指示すると、地図を懐へしまった。ついでに部下への小言も忘れない。
「王族の顔を見に来たわけじゃない。後で報告書にもまとめる、よく見ておけ」
「了解…ところでですね、この質問はこいつに乗る前にもしたわたけですが、敢えてもう一度似たような質問をしても?」
「何だ?」
 ギックは少しばかり町はずれに降下していく鳥類の背に身を伏せながら、人懐っこい笑みを浮かべて口元を軽く引き攣らせた。
「どうやって降りるんですか」
「二つある」
「安全な方で」
「どっちも安全だ。ほれ」
 名前1はそう言うが否やギックの体を担ぎ上げ、カヤアンバルの背を蹴った。体が宙へと浮く。ヤッカの飛行速度は変わらず通り過ぎた。ギックはああと項垂れながら歯を食い縛った。うっかり舌を噛みでもしようものなら笑いものである。
 轟音が耳へと叩きつけられる。宙に取り残された体は重力に従って落下を始めた。想像のとおりで、ギックはもう驚くようなこともせず、大佐と肩に担がれた状態で問うた。
「もう一つは?」
 ギックの問いかけに名前1はさも当然のように流れるようにして答えた。
「地上に着いてから降りる」
 あれよあれよという間に地上が迫る。会話は暢気に続行された。
「何故そちら採用されなかったんですか。おれとしてはそちらを採用してほしかったです」
「それは残念だな。見知らぬ土地でカヤアンバルを地面にあまり近付けさせたくはないというのもある」
 ど、と名前1は足で空気を蹴りつつ速度を落としながら、人のいない場所に無事着地した後、ギックを地面に下ろした。さら、と砂が風に混じり吹く。
 首都アルバーナ。城門をくぐり中に入れば一目見て分かるほど活気で溢れていた。行き交う人々の顔には笑みが浮かび、店には品物が所狭しと並べられている。走り回る子供たちは多く、物々しい雰囲気は全くない。良い国である。
 年の若い女性は腹を出したファッションのものもいる。ギックがそれに走りだそうとする度、名前1は後頭部を小突いて止める。一度は足をかけてすっ転ばした。深めの外套の下で、ギックは悔しげに下唇を噛み締めている。
「良い国だ」
「そうですね。表面上は取り敢えず。物価も安定していますし、治安もいい。女性も麗しいですし文句なしです」
「最後の一文は必要か?」
「女が豊かな国は繁栄してるんですよ、御存じない?」
「初見だ」
 ふ、と名前1は耳を掠めたざわめきに耳を澄ました。そのざわめきは人を伝い大きくなる。海賊が暴れている、と人の波がどよめきたった。
「大佐」
「ああ。お前はこのまま地面を行け。私は上から行く」
「了解しました」
 逃げ惑う人の波に逆らいギックは騒動の下へと駆ける。一方名前1は壁伝いに屋根まで駆け上がり、人の邪魔がない分走りやすい上を駆け抜けた。腰に帯びている刀の柄に右手を添える。
 声に悲鳴がまじる。泣き叫ぶ声。
 姿勢を一段と低くし、空気抵抗を抑える。爪先を曲げ、力をためる。一秒。次の瞬間、足元の石造りの屋根が砕けた。外套を纏った体が空気の中に放り出される。フードは風に押されて外れる。短髪が風を受け、音が置いていかれる。心臓の音だけが体の内から鼓膜を叩く。
 開かれた両眼に海賊の姿を捉える。
 鍔に左親指を押し当て、僅かに刀身を押し出す。柄に添えた手に力を籠め、握る。斯界に映し出されている海賊は五名。海賊の手には剣が一振り。脚でけり出された先には女。傍で震えている男児一名。
 空を見上げた剣が地面へと振り下ろされる。
 体を引き絞り、名前1は鞘走りの速度を上げる。しかし、その動作は次の一拍で押し留められた。代わりに体を屋根の上に伏せる。
 砂が、広場の中央に巻き上がる。それは砂嵐と呼ぶに等しい激しさである。名前1は外れたフードを被り直し、砂の直撃を防いだ。目が開けられないほどの砂粒が渦巻く。天候が変わったのかと思わせるほど砂は厚みを増し、太陽の光を遮った。呼吸をすれば口の中が砂でざらつく。
 砂の隙間から太陽が覗き始め、周囲が開ける。名前1は身を伏せたまま、広場の様子を覗き見た。
 広場の中央にいた海賊五名は全て砂に埋もれている。僅かにも動かないため生死の判別は遠目にはつかない。ただ、砂中から天を掴むように延ばされた手は異様なほどに乾涸びていた。
 海賊の凶刃に晒されていた親子は砂嵐に巻き込まれることなく無事である。そして。
「成程」
 あれが、と名前1は広場の中央に唯一立つ、目立つ左の鉤爪を掲げ、毛皮のコートを羽織る人物に目を向けた。
 サー・クロコダイル。
 ばっと周囲が沸き立つ。
 サー・クロコダイル!我が国の英雄!
 わっと国民が一斉に中央にいた男に喝采を浴びせた。顔に大きな傷があり、葉巻を吹かしたその男の顔を名前1は上から眺め下す。一寸見ればそれが上空で見た手配書の男だと確認できた。声が広場中に轟く。おれのシマに手を出すとこうなる、と。耳が声を覚えていた。
 あいつだ。
 呼吸が止まりそうになる。名前1は一瞬身を乗り出しかけて、咄嗟に抑えた。心臓が早鐘のようにかましく鳴り響く。それは警鐘なのか、それとも別の何かは判断がつかない。
 フードの隙間からクロコダイルの姿を再度見る。手配書とは違う実物は、かつての懐かしい風貌はわずかながらに残している。年を取り、皺がより体も随分と大きくなってしまったが、確かに、それは記憶の中にある青年が成長したものだった。
 ああ。
 名前1は両手で顔を覆う。
 海賊であった頃、彼は確かに海賊であった。それが今は一体どういうことか。
 両手で覆った指の隙間から砂粒が見えた。
 お前はなんでそんなものに成り果てた。
 英雄と拍手喝采を全身に浴びる男に名前1は項垂れた。あの男はもう海に生きるのをやめてしまったのかと、暗澹たる思いが募る。指先が痙攣するように震え、呼吸が止まりそうな激情に身を駆られる。
 海賊と名乗り海で会い見え、酒を酌み交わし、不器用な顔で笑ったあの男は。
 名前1はふらと幽鬼のように立ち上がり、再度フードの隙間からクロコダイルを盗み見る。傲慢に笑う男から海の香りは消し飛んでしまったかのように遠目からは見える。
 悲しい。悲しい。
「英雄扱いをするな。おれぁ、海賊だぞ」
 足を止めた。振り返る。
 名前1はフードをはぎ取り、高笑いをする男を見下ろした。砂塵に毛皮のコートが舞っている。あの男の両足は地面についている。しかし。名前1は男の瞳の奥底を見る。遠くからでは本当に小さくしか見えない。しかし僅かに、ああ本当に僅かに。だがこの感情は。
 懐かしいというよりも。
 名前1は喉まで出かけた言葉を無理矢理飲み下した。
 男はコートをはためかし、群衆とともに消えて行く。喧噪がおさまったころ、名前1は広場を眺め下すようにしてその場に腰を下ろした。背に人一人分の足音が響き、振り返らないまま名前1はそれで、と問うた。その足音からして、背後にいる人物は想像に難くない。先刻まで下にいた部下がここまで上がってきていた。
 上官の問いかけに、ギックは被っていたフードを外し、そうですねと軽い調子で答える。
「海賊が『英雄』なァんて、おれとしちゃゲロ吐きそうですよ。見た限り面構えは英雄ってより極悪人でしたけど」
 部下の真っ当な評価に、名前1は自然と口元が笑んだのを止められはしなかった。
「確かに、英雄向けの面じゃァないな、アレは」
 悪人役の方がよほど似合いの面構えである。悪い顔をして葉巻を吹かしていたクロコダイルの横顔を思い出しながら、名前1は口端を歪める。彼も自分もなんともまぁ変わり果てたものだと笑いが込み上げて仕方ない。
 頬に触れる風に混ざる砂粒を払うようにフードの裾を指先で閉じる。高みから見下ろす景色は先程の騒ぎなどなかったかのように人々は動き出している。砂塵に埋もれていた海賊は国の衛兵が手錠を嵌めて連れて行ってしまった。
 懐に入れた書状を取出し、名前1はギックに振るって見せる。
「さて、お前はこれから酒場にでも行って話でも聞いて来い」
「つまり可愛いお姉さんに美味しくお酌をしてもらってもよいということで?ちなみに、大佐の驕りですか」
「馬鹿言え。そんなもんはない」
 部下が人懐っこい笑みを浮かべてとんでもないことを言うものだから、名前1は怒る機会を失った。ただ一言馬鹿もんと背を殴るように叩いて急かしてその場を去らせる。去り際にお勘定は海軍につけておきますと随分楽しげに屋根を飛び降りた。あいつめ本気で女を買う気じゃなかろうなと多少心配すら覚えたが、行ってしまった後ではもうどうしようもない。
 名前1はフードを払い、再度街並みを見下ろす。口笛を一拭きすれば、カヤアンバルが上空へと姿を現し、強風を吹きつけぬように斜めに女を攫うようにして滑空した。速度は目に留まらぬ程に速く、町の住人が空を見上げる間にその白い鳥は視界から消え去った。屋根に立つ海兵の姿すら、消え去った宙を見上げた住人は僅かであった。