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詰まらねぇ、とドフラミンゴは空っぽになった部屋に立っていた。ミトが使っていた机は見事に新品同様になって置かれている。彼女の私物はもうどこにもありはしない。そして海兵名簿からも彼女は除名され、その名前は既にリストに載ることはないだろう。
ミトがいつも座っていた椅子をドフラミンゴは見下ろす。自分が訪れる度に鬱陶しげな視線を向け、出て行けと常に出入り口でこちらの姿を認めた途端にそう吐き捨てた。おつるさんはそんな事言わねぇのにな、と言えば、ならば中将の所へ行って来いと切り返され、やきもち?と嗤えば、ぶち殺すぞと睨みつけられた。
クロコダイルはそうそう海軍本部を訪れることはなく、実質的にこちらに出向けば、クロコダイルと鉢合わせすることなく、ミトを占有できた。尤も、彼女は自分を酷く嫌い、顔を見るたびに嫌悪の色で顔を顰めていたが。それでもまぁ、自分をちゃんと見ていることには変わりないので、嬉しいものである。
邪魔をするな!と大声で叩きだされたのも、クロコダイルから助言されて無視を決め込んで居る様子だったのに、三分ほどで耐えきれなくなって出て行けと背中にひっつく自分の顎を殴り飛ばそうとしたのも(勿論防いだが)、ここには居ないのか、とドフラミンゴは空っぽの部屋で、空っぽの椅子で机で、それを実感した。
ミトの椅子を少し引き出して、ドフラミンゴはそこに腰かける。サイズが馬鹿みたいに違うので、背もたれの部分に腰をおろすという奇妙な行動をとっている。こうやって座ってミトが帰ってくるのを待って居れば、何をしているとばかりに喧嘩腰に睨みつけてくる。椅子から下ろそうと、退けと声を叩きつけられるのは日常茶飯事であったが、その度にその自分よりも一回りも二回りも小さな体を腕の中に収めて楽しんだ。かなり嫌がられたが。
「ワニ野郎と会ったのか?」
今頃、とドフラミンゴは椅子をぐらつかせながらぼやく。血の染み込んでいた壁は綺麗に張り替えられていた。
「妬けちまうなァ。ワニワニワニワニ。お前はいつだってワニ野郎の事ばかりだった。口を開けば、クロクロ。ちったぁおれのことを見てくれてもよかったんじゃねェか?」
猫背気味の背中にのった目に痛い程のピンクのコートがわっさりと揺れる。貸してやろうかと笑って言えば、いらんと睨まれた。あの時は大人しく受け取った癖にと続け、寒くないと言い返される。
全く自分の思い通りに動かない女であった。否、女である。現在進行形。インペルダウンに連行されたのも、そこでクロコダイルと再会しているかもしれないであろうことも、何もかも自分の思い通りにならない女。YESを求めればNOと即答し、NOを求めればYESと即断する。そんなに自分が嫌いなのかと尋ねれば、即座に、ああそうだと言われた。全く傷つく。レッドワインの瞳は、舐めれば酔えるのではないかと思った。
ただ一度、とドフラミンゴは思い出す。ただ一度、ミトは自分の言葉に多くの言葉で持って返事をした事があった。ドフラミンゴはそれを今でも鮮明に思い出すことができる。
そんなに自分を嫌うのはどうしてだ、と聞いてみた事があった。だが、その答えは、最も、気違いじみた言葉だった。
『純粋に、私はお前が人として嫌いなんだろうな』
『傷つくぜ?流石のおれも』
『お前は、「嫌な感じ」しかしない。何を考えているのか分からない。お前は言葉の裏に何かをいつも隠し持っている。そしてきっとそれは、私が嫌な何かだ』
この返答に言葉を失った事をドフラミンゴは覚えている。まるで獣のようにミトは何かを嗅ぎ取った。
『お前が、嫌いだ』
まるで熱烈な告白のようであったとドフラミンゴはその瞳を思い出しながら、体の奥がぞくりと快楽に震えるような感覚に襲われた。舌なめずりをし、フフと口から零れた笑いを隠そうともしない。椅子の上で笑う。思い出し笑い、とはまさにこのことである。
『それと力尽くなのは結構なことだが、それで人の心が折れるとは思うな。力で命を奪うことはできても、心までは奪うことができない。海賊が奪うのは基本的に金品、もしくは命だろうからお前はそれを知らないかもしれないな。お前は、私から何を奪うこともできはしない』
『ワニ野郎を殺すと言ってもか?』
『あいつがお前に殺される玉か?海賊としての格が違う』
あまりにもはっきりと言い切られた。そしてその後、ミトは書類に目を向け、珍しく出て行けとは言わず、書類に目を通す作業に戻った。追い払おうとしても無駄だと悟ったのか、それともその日だけは機嫌が良かったのか、それを聞くべき相手はもうここには居ない。
お前のそれは、恋なのか愛なのかそれとも友情なのか。それも一度聞いてみたかったとドフラミンゴは思う。無論言うまでもなく、クロコダイルとは友人だという答えが返ってくるに違いないが。鬱陶しい事を言うなというおまけの言葉がもれなくついて来ることも間違いがないだろう。
だが、とクロコダイルとミトの様子を思い出しつつ、ドフラミンゴにはどうしてそんな事をミトが言えるのか分からない。恐らくクロコダイルもふざけんじゃねぇと同じような返事をすることだろう。はたから見れば恋人同士のやりとりに見えなくもないのに、あの二人はそれを悉く否定し、友人だと言う(ワニ野郎は世話の焼ける奇妙な隣人だと言うだろうが)だから、自分がミトを手に入れられる可能性も十分にあるはずだと言うのに、何故だか、手に入れられる気が一切しない。
無関心などよりかは、嫌われている方がずっと良いのだろうが(つまりそれは意識をしていると言うことだから)有難うと一度「自分に」向けたあれをもう一度見たいと思うのは奇妙な話である。何を企んでいると言わんばかりの視線ではなく、殺意と敵意の籠った視線でもなく(いや、それも十分に愉しいのだが)好意をもった視線を向けて欲しいと思っている。力では手に入らないなどと認めたくはないが、あの女は、ミトはそういう類の女であることは、ドフラミンゴは理解している。ねじ伏せたところで手に入るものは、女の心ではなく、女の体であり、純然たる殺意と憤怒と敵意のみであろう。
椅子からひょいとドフラミンゴはその巨体を揺らしながら飛び降り、そして部屋を歩き回る。ふわふわとゆれる桃色のコートにたいして、羽毛一枚でも落としたら許さんと睨みつけられ、注意をされた。いっそコートそのものを置いて行ってしまいたい衝動にドフラミンゴは駆られていた。もしくは、そのコートにミトを包み込んでかっさらってしまいたい気分でもあった。恐らく、彼女は海兵である以上本気で七武海に手を出すつもりはなかったのだろう。己が分を強くわきまえていた。殺そうとすれば流石に殺そうとし返しただろうが。
ドフラミンゴはミトの本気を見たことがない。と、いうよりも海に出て海賊を捕まえている姿を見たことが無いのだ。広きグランドライン、多くの海に要請さえあれば出向くミトに鉢合わせする可能性は、それはもう低いものである。ただ、つるの言葉からすれば、かなり強いことは間違いない。七武海、ともすれば四皇とも張り合うことが可能ではないのだろうか。そう、ドフラミンゴは踏んでいる。尤も、純粋に腕力だけでならば、彼女は七武海の誰に勝つこともできないだろう。それは、人間の女であり非能力者の限界と言うものだ。勿論非能力者であれば、海でおぼれ死ぬということもないだろうが。
監禁するだけであれば、ミトは自分を殺さなかっただろうなと、血の色で塗りたくられていたその壁紙をドフラミンゴは見つめる。既に白く張り替えられているそれからは、ここに無残な人の死体が転がっている様子など全く見せはしなかった。あれ程、正義を語っていた女が、同じ正義を背負う男を殺した。それはもう大事件であり、ドフラミンゴの中の「ミト」という存在を揺るがせた。そして、その内実を知らぬことにざわめきを覚えた。あのワニ野郎ならば知っているのだろうなと、同時に嫉妬した。妬けて妬けて、身が焦がれそうである。
「捕まえときゃよかったなァ」
「物騒なことを言うじゃないよ。あたしが返してもらいに出向いたさ」
「おつるさん」
ぼそ、と呟いた言葉に返答がありドフラミンゴはほんの僅かな期待を示したが、振り向いた先に居たのは小さな老兵であった。ドフラミンゴの視線につるはこつこつと体重の分だけの足音を鳴らしつつ部屋に踏み入る。
「ミトじゃなくて、悪かったね」
「おれはそんな目をしてたかい、おつるさん」
「ああ、してたよ。時代はスマイルだとか何とか訳の分からないことを言うあんたにしては、今日はその鬱陶しい笑い声は聞こえないんだね」
「フッフッフ!そんなこたぁねェよ」
肩を揺らして笑うドフラミンゴにつるは視線を一度だけ向け、そしてその視線を既に白くなっている壁へと向けた。ドフラミンゴの大きな手がそれに触れている。
「馬鹿な子だ、本当に」
もう数度聞いているその言葉にドフラミンゴはつるを見下ろした。はるか下にあるつるの体は元から小さかったが、さらに小さく感じられた。
ドフラミンゴはふとつるに尋ねる。
「おつるさんはあいつの親なのかよ?」
「違うよ。血の繋がりは一切ない。養子にもしていない。上官と下官の関係だったが…」
「が?」
「あたしは、あの子が本気で海軍の掲げる正義を背負っていたとは思うけれどね。尤も、あの子がB.Wの一味だと証言したハルバラットが殺されては、それが真実か虚実か、もう誰にも分からないけれど。確定とは言え、ハルバラットが生きてさえいれば今一度真偽を確かめて、あの子を外に出すことも手を打てたんだけどね。それに、あの子は否定も肯定もせずにだんまりだった。何も言わず何も語らず、インペルダウンへ行ってしまったよ。中ではクロコダイルの元へ帰りたかったからだなんて口さがない噂をする者もいるけれど」
それは強ち間違いではないのではないだろうかとドフラミンゴは思う。彼女はいつだって弱みをクロコダイルにだけ吐いた。疲れたと寄りかかり、肩の力を抜いた。ただ、あの男の前でだけ。
ドフラミンゴの口元から笑みが消える。
「あたしには今だに信じられないんだよ、ドフラミンゴ」
「弱音かい、おつるさん」
「…そうかもね。老人の独り言さ。あたしは、あの子が振るってきた刀を知っている。あの子がどれだけ血反吐を吐いて今の地位に這い上がってきたか知っている。出自が明らかでない上に、あの子は海賊は嫌いじゃなかったからね。プライベートでは海賊に会いに行ったりもしていた。海兵の恥だと後ろ指を指す者もいたよ。だけど、あの子はそれを止めなかった。海を愛する者なら、それに敬意を払うべきだと言い張ってね」
ドフラミンゴの手の下につるの小さな手が壁に添えられる。そこは、血で真っ赤に染め上げられた部分だった。確か、ソファ近くの横には男の頭部がごろんと転がっていた。胴体にはシーツが掛けられて分からなかったが、その首の斬り口の鮮やかたること、この上なかったように記憶している。
どうしてだろうねとつるは小さく言葉を続ける。
「だから、ハルバラットがミトがクロコダイルの手下だと証言した時、誰もそれを否定することはできなかった。最も関係が深かった男だからね。恋人ではないようだったけれども。ただあたしはあの子は公私混同だけはしない子だと思っていたし、今でも思っている」
「おつるさんが一言言えばよかったんじゃねェのか?あんたにゃそれだけの信望があっただろう」
ドフラミンゴの言葉に、ふふとつるは自嘲を孕んだ声をこぼす。
「信望なんぞ、絶対権力の前には意味のないものだよ。そもそもあの子はクロコダイルとの関係を否定しようともしなかった。死んだ目を、していたよ。正直な話、見るに堪えなかったね。ここに居る意味をもう、あの子は見いだせていなかった。あの子をこれ以上ここにおいても、それは苦痛にしかならないだろう。愛した海に帰してやるのがあの子のためかね…これは、エゴなんだろうけれど」
さて、とつるは一つ大きく伸びをして首を軽く横に振ると、ドフラミンゴに背を向けた。その背中には正義の二文字が掲げられている。
「年寄りのお話もここまでだ。そろそろお帰り、ドフラミンゴ。もういくら待っても、この部屋にあの子は帰って来ないよ。七武海としてやることもごまんとあるだろう。今度は会議をサボるんじゃないよ」
「なァ、おつるさん」
掛けられた声につるは何だいと背中を向けたまま返事をする。ドフラミンゴの重たい足音が床を叩いた。
「何で、おれじゃないのかねェ」
「知らないよ、そんなことは」
本当に何故あいつなのだろうか、とドフラミンゴはつるを追い越して、その大きな背中を揺らしながら廊下を歩いた。理由など、これっぽっちもドフラミンゴには理解できなかった。
腕の中で、とうとう眠ってしまった。泣くことをせず、疲れたと一言こぼした女の体の力はすっかり抜けている。異色すぎるその光景に近付く者は誰も居なかった。
クロコダイルはミトの体を持ち上げて、自分の背中が壁に着くようにして逆に座る。囚人服、丸首のそこから、包帯が覗いた。止血はされているようだったが、地獄のぬるま湯で傷が少し開いており、包帯にはじくじくと血がにじんでいた。尤もそんな事を言ったところで、囚人の手当てなどされるはずもなし、ここで死ぬならそこまでかとクロコダイルはどこか遠くでそう思った。何よりも、この女がこの程度の傷をものともしないことも知っていた、というのも大幅を取っている。
ミトが膝に乗っていることで、クロコダイルはいつもの調子で葉巻をくわえようとし、それが無いことに気付いた。そうだった、と溜息をつき寝ている女の頭をごつんと叩く。身体的な疲労困憊は少ないのだろうが、精神的にもう駄目なのだろうとクロコダイルは思う。死に絶えた目をしていた。恐らく、意に沿わぬ形で仇を殺したに違いない。何年も何年も、その目的のためだけに生きてきたのだ。
「馬鹿な奴だ」
まったく、本当に。