正義の名の下に - 2/3

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 准将か、とミトは一つ上がった階級に口元を歪める。
 もう少しだ。
 逸る気持ちを抑えつけ、ミトは椅子に腰かけて本日の溜まっている書類に手を伸ばした。クロコダイルが麦わらのルフィに倒されたと言う話を聞いてまさかとは思ったが、拘置所に居た本人は思っていたよりもずっとすっきりとした顔をしていて、ミトは思わず笑いそうになった。負けたことがクロコダイルにとって幸か不幸かはミトにとっては分からないことだが、それでも彼が良い顔をしていたのを見れば、嬉しい気持ちになる。
 自分が中将に上がる前に、とっとと海に帰って来いとミトは思う。そうすれば、それが間に合えば、きっとおそらく、多分間に合うだろう。いくら上官になったとて、あの男がやったことは恐らく死罪には値しない。それに刃を持つわけなのだから、自分もただでは済まない事はミトも良く分かっていた。
 だがそれでも良いか、とミトは思い考える。そのために生きてきた。そのためだけに這い上がってきた。他の目的などない。あの時、独り取り残された命。ここで使わずにどこで使う。
 手に取った書類の文字を左から右に読み、中身を確認してからミトはサインをしようとペンを取った。だがしかし、それと同時に扉が荒々しく開け放たれ、机に重ねておいた白い紙束がはらはらと床に散った。誰だ、とミトは眉間に皺を寄せ、それと同時に顔から表情を失くした。扉の下に立つ男は、ミトが心の底から憎み、いつかぶち殺してやろうと願っている男その人であった。少将の両脇には銃を持った兵士がかっちりと並んでいる。
 ミトはゆっくりと椅子から立ち上がり、刀の側へと歩み寄った。どう見ても和やかに会話をする雰囲気ではない。そして、男の口は憐れな玩具を見るかのように歪み切っていた。ミトはその笑みを知っていた。何年も忘れたい程の昔、この男は同じ下卑た顔をして、船長を殺し、船を沈めた。
「何か御用でしょうか、少将」
 冷たく言い放ったミトの足元に新聞が投げ出される。そこには、クロコダイルが捕まった記事が堂々と掲載されていた。相変わらずと言うべきか、写真写りが悪い奴だなとミトはクロコダイルの写真を上から眺めながらそう思いった。
 だが、そこでふと一文で目を止め、慌てて新聞を拾い上げた。海軍本部准将が元王下七武海クロコダイルの内通を謀ったと記載がされている。准将と言われれば、それは誰なのか現状から理解するに難くなかった。
 ぞぁり、と肌が泡立つ。
「何だ、これは」
 失望と言う名の絶望で目の前が真っ暗になっていく。声が震えた。
「やって…くれる。貴様、どこまでも愚図だな」
「正義に忠実だと言ってくれたまえ」
 嘲笑うかのような声がミトの耳に届くが、今はそんな感情の高低などミトにとってはどうでも良いことだった。ミトにとって今一番重要なことは、この場で取り押さえられれば、その罪状から考えてインペルダウンへ投獄される、つまり復讐を果たすことができなくなるということであった。
「一つ、聞いても」
「んん、何だ?」
 少将は顎髭を指先で抓むようになぞりながら、したり顔を深めた。
 女は一呼吸置き、そして尋ねる。
「お前は、私のことを知っていたのか」
 周囲からすれば、それはクロコダイルとの内通を示すそれに聞こえたが、当事者間のみで分かる言葉で少将は目を三日月に不気味に歪みに歪め、喉を晒して肩を大きく揺らした。
 ひゃはは、と高く嘲笑う。
「気づいていたよ!気づいていたとも!勿論だ」
 ひぃひぃと腹を抱えながら、少将はへらりと口元を醜く吊り上げてみせた。
「無論最初は気付かなかった。だがね、お前のその眼だ。その、私に向ける殺意のこもった眼だよ。思い出した、その気持ちの悪い血の色のような眼だ。思い出してからは、お前の行動のそれはまた滑稽なことだ!笑うしかない、無様だったよ。まったく、お前のその面を見る度、笑いをこらえるのに必死だった!」
 震えた。怒りで、目の前が真赤に染め上げられた。
「そう、か」
 発された声は怒りのあまり単語で区切られ、微かに震えている。睨みつける目の鋭さに男は一度体を震わせたが、すぐに気を取り直してミトに嘲笑を浴びせる。そして、その手をすいと軽く持ち上げた。同時に少将の背後に居た兵士が抱えていた銃口の照準を全てミトに合わせた。それが何を指し示すのか、怒りに打ち震えるミトでも容易に理解できた。
 がつ、と両足で自室の床を踏む。仁王立ちになり、眼前のこの世で最も憎い男を睨み据えた。睨むではまだ足りない。噛みしめた唇からはつと一筋の血が零れ落ちる。
 能力者ではないミトは当然銃弾を浴びれば死に至る。少将はそれを知っていた。そこの、とミトが握りしめている新聞を指先で指し、少将は笑いを交えて言葉を発する。
「写真の男、元、王下七武海クロコダイル。お前はその男と内通し、海賊のスパイであるとみなされた。よって、同罪と判断し、お前を今からインペルダウンへと連行させてもらう。准将の階級剥奪は勿論のこと、海軍からも除名される。お前のような危険分子をこれ以上、正義の名の下に置いておくわけにはいかん」
「正義、だと?お前が、その薄汚い口で正義を語るのか」
 もう駄目だろう、とミトは腹を括った。
 本当はこの男よりも上の階級に登り詰め、復讐を果たしたかった。死の鉄槌を下したかった。このタイプの男の顔が、恥辱と屈辱にまみれた顔で死ぬ様を、見たかった。
 だが、何もかもが、崩れ落ちたのを知る。インペルダウンに収容されれば、もう二度と海軍に戻ることは叶うまい。ふ、とミトは薄く笑い、肩に羽織っていた海軍のコートを下に落とした。重みを持つコートは床に落ち、正義を折り曲げて落ちた。
 一つ息を吸い、ミトはその足でコートをぐりと踏みつけた。正義の二文字を踏みにじる。その行動に銃を持った海兵を始め、ミトの眼前に立つ男も小さく息を飲んだ。鋭い眼光で、ミトは男を射抜く。
「あの日、お前の背中に掲げられた正義を忘れたことは、一度もない」
 正義を靴の下に敷き、それを蹴り飛ばす。蹴り飛ばしたコートは少将の前に滑り止まった。銃口は未だ、こちらを定めたまま微動だにしない。引き金には指が掛けられたままである。
 ミトは続けた。
「お前をぶち殺す日を一日千秋の思いで待っていた」
「何を」
「だが!」
 殺す、と言う単語に少将の顔に焦りが生じる。圧倒的優位に立つ男はその気迫に押された。ミトはそれ以上の言葉を大きめの声で制止した。
「私が願った形で、貴様という愚図を殺せないのが、全く残念だ!」
 息を切らして言いきったミトに少将は初めは驚いた表情を崩せなかったが、ははと腹から笑いだす。何がおかしいのか、何故笑うのか、ミトにとっては既にどうでも良いことだった。
「お前の今の一言ではっきりしたな。やはり、お前はあのクロコダイルの仲間だったわけだ!必死になって庇うのはそういうことだ!はは!」
「私と彼は友人だ。仲間ではない。だが、そんな事を言っても、お前たちが聞く耳を持たないのも分かり切っている。それが、お前のやり方なんだろう。だが生憎、私は一つやり遂げていないことがある」
「ん?」
 男が軽く首を傾げる、その僅かな動作の間にミトは机に立てかけておいた刀を手に取った。その動作に背後に並んでいた兵士たちが一斉に引き金を引く。しかし、ミトが床を強く蹴る方がワンテンポ速かった。
 体を引き絞り、抜刀の速度を上げる。少将などと名前だけの男に負けるつもりは毛頭なかった。負ける気もしなかった。
 目がくらむ程の殺意に見舞われながら、ミトは柄を強く握りしめる。長年使い続けてきた刀。己の血と汗と涙を染み込ませた刀。自分を拾い育ててくれた船長の、形見の品。下卑た笑い声に消えた仲間。袈裟に斬られた傷。ミトが海軍に入った時、今刀を吸いこませようとしている男は、何一つとして自分の事を覚えていなかった。覚えるに値しない出来事だったと言うことなのだろう。無論、覚えられていないほうが都合がよかった。が、しかし、それはそれで許せなかった。
 こんな男に。
 悔やむ。こんな形で全てに決着をつけることに。だが、これを逃せばもう機会が無いこともミトは分かっていた。ならば、刀を振るうことを躊躇う必要はない。手段は選ばない。選べない。後方に並ぶ列の海兵の指が半分程引き金を引いた。しかし、ミトが抜刀する速度の方が数段速い。
「死ね。これ以上貴様が存在していることが私には耐えられない。ただ、塵屑のように、死ね」
 地面を軽く踏み上げる。両足が床を離れ、一瞬の宙空状態を体が味わう。まだ抜刀はしていない。横に引き絞った体。ミトはそのまま体を元の方向に戻した。すぱん、と何とも器用に刀の刃が首を両断した。胴体と頭部が切り離される。あまりにも綺麗に、それは起こった。筋肉の繊維を滑るが如く、骨の関節一つ砕かずに、流れに沿って刃が通った。
 ぱち、と男は首の間に刃が通ったにも関わらず瞬きをする。体が完全に戻り、しかし回転の勢いだけは死んでいない。その勢いを殺さずに、流れにのせられて、足で少将の首を蹴り飛ばした。体が付いていくことはなく、頭部だけがサッカーボールのように飛び、壁に当たって落ちる。ぶつ、と頭がもがれた部分に血の球が浮かび、そして瞬時に噴水を作りあげた。真赤な鉄の臭いがきつい雨が降る。
 引き金が完全に引かれ、左肩を貫通し、いくつかは体をかすって背後の壁にめり込む。
 頭が吹き飛んだ体は血を噴き出しながらぐらりと床に倒れ行く。少将!と悲鳴じみた声が上がる。そんなものはミトにとって大変どうでも良い事であった。前面から真赤な血しぶきを浴びた体はまるで血の池にでも浸ったかのように赤く染め上げられた。頭を蹴り飛ばし、両足がようやく地面につくと、男の体が倒れ行く方向とは反対側に大きく一歩踏み出し、その刀をまっすぐに向けた。肋骨とぶつからないように水平にした刃は、まるで結婚式のケーキ入刀の儀式のようであった。するり、と音もなく胸にその切っ先が吸い込まれる。少しばかり左寄りに添えていた切先は心臓に突き立った。それを乱暴に回転させ、心臓を二度と生き返らないように破壊する。半分えぐり取られた肉穴からは、血がさらにあふれるかと思ったが、首から撒き散らされた血の量が想像以上に多く、そちらから溢れる血はあまり多くもなかった。すでに血まみれである刀は微量の血が伝っても分からないようになってしまっていた。
 男の体に足の裏を押しあて、刀を引きぬくために抜く方向とは真逆に力を込める。背後まで突き抜けていた正義の二文字は綺麗に切裂かれていた。
 惨忍たる光景に銃を構えていた海兵はごくりと息を飲む。少し前まで真っ白であったその床は今現在は人一人分の血で染め上げられている。その血の海に倒れる上官が一人。そこには頭部は存在せず、彼の頭は少し離れたところで、壁に一度ぶつかりそこに血の跡を残して床に転がっていた。そして何より、その場に一人立っている女将校の姿は、鬼のようであった。静かに静かに、怒声を上げるでもなく咆哮を立てることもなく、たった一人を殺しただけだと言うのに、その気配に飲み込まれる。ぱたりと顔を伝う血の滴の中で二つだけ覗く瞳の薄暗さは恐怖を与えた。
「は」
 ははと腹から声を出して笑う。嗤う。大声で、嗤った。  全て、終わった。
 ミトは刀を放り投げる。もう役目は果たし終えた。疲れてしまった。倒れてしまいたい。こんなことならば、もっと早くにこの男の命を絶っておけばよかったと少しばかり後悔した。こんな男に母なる海を汚され続けた時間を思えば、悔やまれる。
 刀を血の海に投げたミトに海兵たちははっと気づき、力を抜いた体を押さえこむ。抵抗一つしないミトではあったが、先程の暴威を見ている者は、ミトに対して一切の手加減を考えなかった。体を床に押し倒されて、男が流した血に叩きつけられる。押さえつけられ、手枷を嵌められる。能力者ではないので海楼石ではなかったが、それでも手首を締めた重さは、ミトには十分であった。
 引きたてられつつ、ミトは思い出したように、ああと声を上げる。それに海兵が数名反応した。ミトは口元を薄く笑わせ、何もしないと言ってから、そこのと血の海に広がる刀を指し、そして自分の腰に佩いているその鞘を指した。
「拾って、これに収めてくれないか。どうせインペルダウンへ連れて行くのだろう?武器も服も取り上げられる。それは、私にとってとても大切なものなんだ。頼む」
 海兵たちは一度顔を見合わせ、そして渋々と言った様子で血の中に落ちた刀を拾い上げると、ミトから取った鞘におさめた。ああまで血に濡れてしまったものをそのまま収めたのであれば、あれはもう使い物になるまいとミトは心のうちで笑う。だが、もうそれで良いような気もした。
 クロコダイルの仲間として連行されるのであれば、もう二度と外の空気を吸うこともない。運が良ければ、クロコダイルとも会うことができるだろうかとミトは真赤に染まった足元を見下ろした。
「海で」
 ぽそ、と呟いた声にミトの手枷の鎖を持っていた海兵が反応する。
「海で、会う筈だったんだが」
 残念だ。
 歩け、と急きたてられミトは血溜を跳ねさせた。背後に転がる死体は誰かが掃除をしてくれることだろう。閉められた自室、そう長くもなかった准将の座は惜しいとも何とも思わなかった。血に汚れた正義の二文字は、形だけのものだったのかと腹の底で笑いながら、ミトは外に出た時の空の青さと、そして海の広大さを目の当たりにし、美しいと息を吐いた。