邂逅 - 2/2

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 随分と昔のことである。記憶にうずもれ、それは既に劣化し始めている。
 直情型な己が、ある程度「我慢」という名の感情のコントロールを身に付けたのは復讐のためであり、そして目的のためである。ミトはカヤアンバルの背から飛び降り、褒めてくれとばかりに懐いてくるヤッカの首を優しく叩くようにして撫でた。そこで、部屋の明かりが灯されている事実に気付く。部屋に鍵はかけて出て行ったことを考えれば、部屋の合鍵を渡している人間くらいしか、その部屋の明かりをつける人物は思いつかない。明日から暫く航海に出るので、顔でも見に来たのだろうかとミトはそんなことを考えながら、後ろを大きな巨体を揺らして付いて来るカヤアンバルに背をつつかれながら、玄関のノブに手をかけた。
「クロコダイル」
 来ているのか、と中に踏み入り、友の名を呼ぶ。だが、ソファの背もたれにその大きな背を曲げていたのは、友人ではなかった。
「よォ」
 目に毒々しいほどの蛍光色が光る。開きかけた扉は盛大な舌打ちと共に光の速度で閉じられた。喉をくるくると鳴らすヤッカがの声が耳元で空気を混ぜる。目をそらせはしない現実にあまりにも深い溜息を吐きながら、ミトは額を手で押さえた。頭が痛い。そうは言ったところで現実は何一つ変わらないのであるし、現状最優先すべきなのは不法侵入者を叩きだすことである。
 煩わしさを全身に感じながら、ミトは再度扉に手を伸ばした。だが、それは部屋の内側から再度開けられることとなる。金属音と共に、扉が外に向かって開かれ、玄関ライトにそのピンクが光沢をもつ。そして、サングラスをかけた男の第一声は不平不満であった。
「おいおい、いきなり閉じてんじゃネェよ。傷つくだ」
 ろうが、しかし最後まで男の言葉が続くことはなかった。
 大きな黄色い嘴が顔の横を凄まじい勢いで通り抜ける。頬には柔らかな白い羽毛が流れた。瞬きの程もなく、眼前に存在したサングラスをかけた顔はなくなった。正しくは、サングラスをかけた顔は、カヤアンバルの嘴に挟まれた。まるで蛇が獲物を一気飲みするかのようである。カヤアンバルの獲物はその体よりも大きな海王類であるため、通常は爪で押さえ、嘴で食い千切るのだが、ある程度小さい、海王類の稚魚、あるいは幼いものであれば、丸呑みにする。喉を一二度鳴らしながら、食道に獲物を落とし、そして食べた物を胃酸で溶かし、養分とするのである。
 しかし、食べられるだろうか。ミトは奇妙な光景を目前にしてその刹那の間にそう考えた。大丈夫だろうか、など、助けなければ、など、そのような人情にあふれた感情はちともわかず、ただ、現状をそのままに受け止め、そしてそこに至るまでの行動を起こしうるだけの理由を見つけられずにいた。見つけるつもりもまたなかった。これが、クロコダイルという友人であれば、ヤッカを叱り飛ばしたことであろうが、対象が対象であるが故に、何をする気も起らない。そうこうしている間に、ヤッカは首を一振りして、毒、あるいはあまりにも不味いものを食べた時の反応でそれを吐き捨てた。ドフラミンゴの体は十分に大きいが、それ以上にカヤアンバルは大きい。反り返った靴を履いた足が宙を振り回され、そして玄関という家のテリトリーから放り出される。どしゃり。地面に転がった音が背後でした。振り返って、大丈夫かなどと声を掛けやるつもりは、何故だか毛頭湧かなかった。
 攻撃的に一声、短く鳴いたヤッカの嘴を掌でなぞるように撫で、そのまま部屋に入り後ろ手に扉を閉める。それに合わせて指先で鍵を挟み、くるりと回す。かちんと無機質な音が響き、そして扉が無事に施錠されたことを告げた。
 肩を反対側の手で押さえ、首を音を立てて曲げる。疲労がどっと背中から押し寄せ、そのまま泥のように眠りたい衝動に駆られた。先にクロコダイルが入っていたのだろうかと考えつつ、いくつかの扉を開け、部屋の中を探すものの、探し人は見当たらない。ともすれば、やはりあの男が合鍵なりなんなり扉を開ける手段を手に入れた可能性を視野に入れ、鍵を付け替えた方が無難であろうかとミトは溜息を零した。それでも、実被害が出て困るようなものは家に置いていないので、別に鍵が開けられて困ることなど片手の指で事足りる。それすらも必要ないのかもしれない。
 酒を盗まれれば流石に問題だなとミトは冷蔵庫を開けて中のボトルを一本取りだし、慣れた手つきで蓋を開けた。そして、グラスを手に取ることもなくラッパ飲みをする。味わう、という単語はその場には限りなく存在しないものであった。三分の一程飲み干した辺りで、ボトルの口から唇を外し、垂れそうになった酒を袖で拭う。いい酒である。
 宴の席でのことは日常茶飯事であり、ミトにとっては腹立たしくかつ忌々しくもあったが、怒鳴り散らすことの程ではなかった。いつか、その首をもぎ取り、かの男の生存という事象を奪い取るのであるから、それまでは耐え忍ぶしかないのである。あの男が嘲り騙った正義で、息の根を止めるのである。大きく口を開け、ボトルの口から開けた口内に酒を注ぎこんだ。残りの酒は一気に消えてなくなった。上手く飲み切れなかった酒が、顎を濡らし、首を伝って胸元を濡らす。
 丸々一本を五分と経たず飲み干し、空瓶を台所のシンクに放り投げた。全身に纏わりつくほどの倦怠感を感じつつ、ソファに倒れ込む。ソファのすぐ横にある透明なガラスを嘴で突く音がしたものの、ミトにはそれを開ける気力は残っていなかった。明日は早い。北の荒波へと乗り出さねばならない。ヤッカと共に行くのは自明の理であるが、今は深く考えるようなことをしたくなかった。反対側の鍵を閉めた扉が数度蹴り付けられてはいたが、こちらも無視をした。うるさいも喧しいも鬱陶しいも、それをすることすら煩わしく、取り敢えず、睡眠という沼にどっぷりと頭の上まで使っていたいと切実に願った。風呂ならば明日起きてすぐに入ればいいし、どうせ、体臭を気にするような男は船には乗らない。気にしそうな男は約一名いるが、別にその部下も口で言う程気にしている節はない。
 眠りたい。
 睡眠に身を任せることほど楽なことはない。ミトは背中で這うようにずり上がり、頭を肘かけに乗せた。丁度良い高さで、後は上に何かしら毛布でもあればと思ったが、そんなものはなく、ただ酒を一本一気に飲んだため、体は熱いと感じられた。目を閉じたまま、一つ二つとボタンを外し、ネクタイを緩める。酒臭い息を吐き、全身の力を抜いた。
「襲ってほしいのか」
 煩わしい声が、耳に息を吹きかけるようにして掛けられた。酔いがさめる、と言う程には全く酔っておらず、ミトは閉じていた目を半分開いた。逆さまの顔が目の中に飛び込んでくる。サングラスをかけた男は指先に鍵を垂らし、愉快さを含んだ笑みを顔一杯に広げていた。何が愉快なのかは、さっぱり理解できなかった。
「出て行け」
 今言える言葉はそれのみで、ミトはドフラミンゴの顔を掌で脇にずらすと、体を横にして睡眠を貪ろうと試みた。しかし、大きな手は上にある肩の内側をソファに押し戻し、ミトは結局天井と、その間に挟まっている男の見たくもない顔を拝むことになる。うんざりした。
「お前と遊ぶ気はない」
「いいじゃねえか。幸いワニ野郎も今日はいねえ。なあ、夜で、男と女が揃ってリャ、することは一つだろ?」
 それが分からねぇほどおめえも初心じゃああるまいとドフラミンゴは上からしたり顔で見下ろす。普段であれば、鼻の穴に指でも突っ込んで顔面に一発、強烈な蹴りに見舞われるのだが、押さえている女からは抵抗という単語はなかった。ただぼんやりと、自分を通り越した上を見ている。天井しかない。
 ドフラミンゴは目を細め、ゆるりと開けられている胸元へと唇を落とした。肌からは酒と、それから汗のにおいがした。自分のものであることを主張するのかのように肌に吸い付き、痒さを覚える程度に歯を立てる。ソファの下に垂らされた腕は微動だにしない。抵抗するのもオツであるが、されないのもそう悪くはない。それならば、悦がらせてあられもない嬌声を上げさせてやろうとドフラミンゴは笑みを深めながら、絞められていたボタンを歯で開けた。
 なぁ。そんな行為の中、思い出したように声が上がる。
「今更やめて、なぁんてのはなしだぜ?」
「やりたいから、やるのか」
「?」
 至極まっとうな言葉を投げかけられ、ドフラミンゴは上半身を持ち上げ、逆さまにミトを見、首を傾げる。
「そう、行動したいから行動するのか」
「おれたちに、倫理ってぇもんはねえからな。そんな堅苦しいもんはお断りだ」
 そしてまっとうに返事をしている自分に多少の違和感を覚えつつも、ぼんやりとしている女を、ドフラミンゴはサングラスに映した。
「そうだよなあ」
 執心している女が一体何を言いたいのかさっぱり理解できず、ドフラミンゴは肩を押さえていた手をソファの肘掛けに乗せた。天井から注ぐ光が下に影を作る。女を覆う大きく濃い影は、その表情を不確かなものにした。けれども、体をずらしてミトがどのような顔をしているのか、何故だかドフラミンゴは確認する気になれなかった。
「いいのかよ」
 らしくもない、普段であれば絶対にしないような質問をする。押さえつけ、抵抗を封じ、悦がらせ、我を忘れさせ、色情に塗れた行為におぼれさせることを躊躇わない男は、全く不自然な質問をした。女の体、胸の下あたりまで影はかかっている。表情は相変わらず見づらい。
 ミトは目を閉じたまま、返事をすることをしなかった。ドフラミンゴの存在などどうでもよく、そう言った、ある男の過去を記憶から探り出す。そう、言っていた。その時、自分にとって最愛の人物が一体何と言っていたのか。どうだったか。確か、
『譲れないものがあるのさ』
 そう言っていた。
『譲れないものを譲れないと、おれはそれを許容できないから、海賊なのかもしれんな』
 その後に何と言ったか。
 おれの。
「おれの、女を貶されて黙っちゃあいられない」
 おれの目の前で。
 そうだったような、耳に微かに残る声を思い出しながら、ミトは男の言葉を口にした。船長と一つ高い屋根の上から見た光景には、ガラスの破片と倒れた、真っ赤になった人間が倒れていた。一目見て、死んでいるということが分かる光景であった。白い刃についた赤い血液を拭い、船長は刀を鞘に納める。戦いの時はいつも船室に押し込まれていたから、人が死ぬ或いは人を殺すという光景をまざまざと、見たことがなかった。それでも死んだと理解できたのは、ただ本能的によるものに過ぎない。
 もう少し記憶を巻き戻せば、それがどうしてそうなったのか、その答えは簡単に今ならば知れる。
 海に唾を吐き捨てた天竜人。おまけにごみを放り投げた。そうしてそれを目撃した船長。
 病的に海を愛していた船長であれば、当時はおぼろげに頷いていただけだったが、あの行為は理解できる。それは法の中に生きるものであれば、不可能な行為であろうし、罰せられる行いでもある。海賊であるが故に、海賊だからこそ、その行為へとたどり着いた。船長は、海賊なのだ。その光景を目の当たりにしてから、ただそれだけは心底理解した。
 怒りに満ちた目で、顔で、空気を纏い、船長は吐き捨てるように言った。
『ああ天竜人なんだろう。だがそれが、一体何の免罪符になるんだ?お前が天竜人なら、ああ、分かるだろう。おれは、何だ』
 相手が答える前に、白い刃は天竜人の肉へともぐりこんだ。
「海賊だ」
 それは酷く傍若無人で、誰の法にも、敢えて言うなれば本人自身の法にしか従わない生き物である。
「あのよぉ」
 ドフラミンゴは先程から自身の存在を根本から否定し、存在しないものとして扱われている事実に痺れを切らし、一つ声をかけた。もう一つ不平を述べようとしたが、その時に丁度ミトの唇が言葉を紡ぐ。だが、一体何を言ったのか、それはさらに後ろからかけられた声によってドフラミンゴの耳に入ることはなかった。
 唇は、暗い影の中で動いたが、何を言っているのかまでは理解できなかった。
「何してる」
「…あー…空気読めよ、ワニ野郎」
 イイコト、とふざけた返答をしようと思ったが、ドフラミンゴはそれを止めて立ち上がった。頭一つ分高い身長でも、ひどい猫背のせいで、クロコダイルとはそこまで視線の差はない。フッフッフ、と笑ってはみるもののやはりどこか浮いていて、ドフラミンゴは同様に止めた。
 明るみの下に曝け出されたミトの視線が、もう一人の男が現れたことによって、ようやく動く。やはりそこでも差を見せつけられたような気がして、ドフラミンゴとしては全く面白くもなかったが、暴れる気にはならなかった。クロコダイルはドフラミンゴの傍を、それはミトと同じようにいないものとして扱うかのごとき対応で通り抜け、何してる、ともう一度、今度はソファに横たわっている女へと視線をやり、質問した。ドフラミンゴはその際にふと思い出し、サングラスの隙間から、横目でクロコダイルの顔を盗み見る。窪んだ眼窩の奥にある爬虫類のような視線は女の胸元で止まり、そして眉間に深い皺を刻んだ。それが少しおかしくて、ドフラミンゴはようやくフッフと笑う。
「悔しいかよ、ワニ野郎」
「…こんなとこで寝てんじゃネェよ。風呂には入ったのか」
 一拍。一度は振り返りかけた顔を押しとどめ、クロコダイルはミトの頬を軽く叩く。
「朝、はいる。今日はいい」
「…酒でも飲むか」
「もう飲んだ。クロコダイル」
「何だ」
「お前にも、譲れないものがあるのか。法に、逆らってでも」
「…酔ってんのか、珍しい」
 すぱりと葉巻の煙を吐き出す。白煙は天井へと立ち上り、四散して消えた。ミトは目線だけでそれを追う。
「あるんだろう、な。海賊」
「悪い夢でも見たか」
 はぐらかすように口元を歪め、クロコダイルは右手でミトの目を覆った。生身の両手がその右手をさらに覆う。唇だけが小さく動いた。明るさの下で、クロコダイルは女が何を呟いたのかを知った。
 暫くそうしていれば穏やかな寝息が口から毀れ、厚くもない胸が落ち着いた調子で上下した。クロコダイルは羽織っていた毛皮のコートを脱ぎ、眠る女の上に掛ける。目覚まし時計はなくとも、勝手に起きる人間なのでこれでもう用はない。しかしとクロコダイルは外へと視線をやる。とうに陽光は落ちており、夜中に船を出すことほど自殺行為なこともない。風呂とベッドでも借りるかと立ち上がった時、ようやくそこで、ドフラミンゴの存在にクロコダイルは目を向けた。すっかり、意識の外に放り投げてしまっていた。
 不服さを前面に押し出した男をクロコダイルはやや斜め下から見上げる。
「用がないなら帰れ。ここはてめぇの家じゃねぇよ」
「おめえの家でもネェだろうがよ」
「少なくとも、招かれざる客のお前とは違うんでな」
 疑いようもない程、全くその通りである招かれざる客は苛立ちに顔を歪めた。そして、ただ広いばかりの部屋をぐるりと見渡す。あまり物がない部屋である。生活感は一応あるものの、それは非常に希薄に感じる。ソファ、机、椅子、戸棚。生活を彷彿とさせるものはごまんとあるはずなのに、そこで誰かが生活をしているという印象は言われない限り感じられない。人がいなければ、引っ越し前か、あるいは引っ越された後のように感じる部屋である。
 当然のようにスカーフを外し、ベストを脱ぎ始めた男にドフラミンゴはふと声をかけた。悪意も他意もなく、ただ質問通りの問いかけであったが故に、クロコダイルも葉巻の煙を吹き付けず、窪んだ瞳で言葉を投げかけてきた男へと顔を向けた。それは、対応の代わりである。
「ここは、こいつの家だよなあ」
 返答はない。正しくは、返答するまでに一分ほどの間が持たれた。ドフラミンゴはその意図的に空けられた間を己から潰すようなことはしなかった。
「他に、何に見えるんだ」
「空家」
 返答を求めている回答ではなかったが、口にしたい衝動に駆られ、ドフラミンゴは思ったことを素直に口にした。もとより、思ったことはある程度即座に口に出さなければすまない性質である。
 一つ。要求してもいない返答がなされ、反対にそれを返さなければならない義務を負ったクロコダイルは葉巻を灰皿の上に乗せた。ある程度時間が経過すれば、それは自然と消えていく。煙草のように押し付けて消すことはない。空家。ドフラミンゴの答えは間違ってはいない。クロコダイルは生活感の希薄な部屋を眺めながら、最後にソファの上に酒を飲んで横たわっている女を見下ろした。
 ここは、彼女の棲家、ではない。
「クハ」
「アア?何がおかしい」
「ちったあ手前の頭で考えてみたらどうだ。もし、それができる脳味噌があるんならな」
 ドンキホーテ・ドフラミンゴなる男にそれを薄々なりとも感づかれた事実を眠りこけている女が知れば、酷く不快な顔をするだろう。クロコダイルはその顔を想像し、表情を落とした。
 そして思い出したようにクロコダイルはその指輪をはめた手をドフラミンゴへと差し出した。差し出された指先にドフラミンゴは虚をつかれたように、自身の長く、形の良い指を乗せた。薄気味悪いとばかりに、クロコダイルはその手を払う。
「気安く触ってンじゃネェ」
「手ぇ出したのてめぇじゃねえか。何だ?お手か?生憎てめぇに三回まわって鳴くほど落ちぶれちゃいねえよ」
「ハ、喜べ。おれとしても、お前みてえな部下は欲しかねえ」
 鍵だ。クロコダイルはいささか鬱陶しげにそう続けた。差し出された手をドフラミンゴは矯めつ眇めつ見、ニカと自慢の歯を見せて笑う。鉤爪でそれら全てを叩き割ってやろうかという衝動に駆られながら、クロコダイルは軽く手を振って催促した。
「出せ」
「おれが?どうして合鍵なんざ持ってンだ」
「自分で作ったんだろうが。そうでもしなきゃ、てめえがここにいられるはずもねぇ」
 言い終わると同時に、タイミングを見計らったかのように窓ガラスがひどく耳障りな音を立てた。割らないように加減はしているのであろうが、大層な爪痕が残されている。それが終われば、ごつごつとふわふわの羽毛がガラスに叩きつけられる。出て行け、と言わんばかりであった。
「嫌われてんなァ。傷つくぜ」
「出せ」
「…ここで出すことに何か意味でもあんのか、ワニ野郎。どうせ他にも持ってるかもしれねぇぜ?それとも、腐れ縁の女の家の合鍵をおれが持ってちゃ不満か?」
 腐れ縁、という部分を強調したドフラミンゴにクロコダイルは喉奥で舌を打った。
「保護者でもあるめえし。彼氏なら、まあ彼氏でもなんでも関係ねえけどな。それを、おめえがおれに命令するだけの権利があンのか」
 顎を突出し、ドフラミンゴは四十を超えた男との距離を詰めた。感情が表にはっきりと出ている男をからかうのは、それなりに楽しいものがある。フフと噛んだ口端から嘲笑に近い笑いを零す。
 軽く俯き加減であった男が床に向けて深い溜息を吐いた。
「勝手にしろ」
「おっとぉ、いいのか?」
「もういい。どうせ、てめぇにゃそいつをどうこうできっこねえんだ」
「ア?」
 聞き捨てならない一言が鼓膜を叩き、ドフラミンゴは口を一気にへの字に押し曲げた。不愉快である。形勢逆転し、クロコダイルは脱ぎ捨てたベストをハンガーに掛け、シャツのボタンを一つずつ外す。あからさまな軽視をドフラミンゴへと注いだ。
「何も、できやしねえよ」
「…何なら、てめぇの目の前で犯してもいいんだぜ。今、ここで」
 いたくプライドを傷つけられた男をクロコダイルは目を細めて嘲笑い、そして生身の指先でソファに転がる女を指差した。
「やれるもんならな」
「フ、フッフ。ならそこで指咥えて見てろよ」
 音を立てて、体重をソファに掛ける。クロコダイルが来る以前とほぼ同じ体勢をドフラミンゴは取った。変わったことと言えば、女の体に毛皮のコートが乗せられている。それだけである。
 貪ってやろう。友と呼ぶこの男の前で、身の内まで辱めてやろう。情欲、あるいは傷つけられたプライドを取り戻さんがために、ドフラミンゴは体を乗り出した。掌でコートを押し下げれば、先程つけた赤が目立つ。簡単じゃねぇかと、ハードルを低く見積もる。再度そこに唇をつける。きつく、強く。吸い付こうとしたそこで、ドフラミンゴは寒気に襲われた。喉に、当たる鋭いモノ。生暖かい吐息が肌を擽った。鳥肌がびりりと腕を伝い、肩甲骨を震わせる。
 動けば食い千切ると言わんばかりに、開けられた口が人間の急所の一つである喉に牙を立てていた。肉食動物よりかは鋭くはないものの、それでも十分に尖った犬歯が皮膚に柔らかく食い込む。眼球の構造上、女の顔を見ることは叶わなかったが、人間らしからぬ、あるいは最も人間らしい顔が、そこにあることをドフラミンゴは肌で感じたような気がした。
 刹那。女の肌に触れ、喉に喰いつかれるまでの間は驚くほどに短く、ドフラミンゴは体をばねのように跳ね上がらせた。手で保護するように喉元に触れる。血こそ流れてはいないが、確かにそこには噛付かれたような感覚が残っていた。実際に噛まれた痕はなかったために、実際に噛まれたかどうかは分からない。それ見たことかとばかり、クロコダイルはドフラミンゴの背で嗤う。
「狸寝入りかよ」
 返事はなく、ただ女は寝返りを打っただけであった。まさか眠っていたのだろうかと、ハードルの高さを見誤った男は目をサングラスの内で見張る。そして、その背に向かって、クロコダイルの嘲笑交じりの声が撫でるように触れた。
「指を咥える暇もなかったな、ドフラミンゴ君。怖気づいたか?」
「…何だ?経験済みか?」
「どうだろうな」
 唇を歪め、ボタンを全て外したシャツを洗濯籠に放り投げる。ズボンに手を掛けつつ、シャワー室への扉を閉じる。扉一枚隔てた声がくぐもって鳴る。とっとと帰れと声は短く響き、クロコダイルは会話を打ち止めにした。
 金属がガラス台の上に軽く乗った音。それを聞き終え、シャワーコックを捻る。髪の毛を上から程好い温度の湯が叩きつけるようにして足まで流れ落ちる。湯気が視界を曇らせ、睫の上に零れ落ちた滴が耐えかねて落ちる。肌を滑り熱を奪うと同時に与えていく液体は緩やかに力を奪っていく。それでもシャワー程度では立てないと言う程ではない。
 生の右手を壁につける。指先から肘へと滴が次から次へととめどなく落ちていく。ハ、と笑った口に湯が入る。
「おれもお前も、大して変わりゃしねぇ」
 牙を剥かれずとも、全身で拒絶されずとも。何もできないのである。故に、何も変わらない。
 零した声は湯に溶ける。

 

 生活感のない部屋でクロコダイルは髪の毛を混ぜて起きる。くぁと大きく欠伸をして伸びをする。寝室を開けてソファを見れば、コートだけが背もたれにかかっていた。 温もりは既になく、毛皮のコートはただ冷たい。誰もいなくなった部屋には、そこに人が居たという痕跡すら残っていなかった。
 誰もいない部屋はまるで新築、あるいは誰も住んでいない部屋のようであった。空家だと、昨晩のドフラミンゴの表現は的を射ている。
 視線を動かし、そこで机の上に置かれている彼女のものでもなければ自分のものでもない部屋の鍵がクロコダイルの視界に入る。それを手に取り、ごみ箱に放り捨てた。そして、誰もいないソファにどっしりと全体重を預ける。
 女は今頃海にいる。仮住まいから、彼女の家へ。
『船長』
 懐古したから女は海に帰ろうとしたのか、それとも回顧したから海に還ろうとしたのか。
 仮住まいにしか過ぎないこの家は、居場所にすらなり得ない。「かいこ」すべき過去と言うものは、常に人を縛っていく。良かれ悪しかれ、それが選ばれることはない。クロコダイルはソファに掛けられていたコートを手に取り、自身の肩に羽織る。
 女の動いた唇が紡いだ単語が、暫くは忘れられそうになかった。