You need him.

 金品を没収されると言うのは、囚人として、まぁ至極当然と言えば当然のことである。嵌めていた指輪が取り除かれる様をどこか客観的思考で眺めながら、クロコダイルは静かにそんな事を考えた。ほんの少しだけ己の熱を持った指輪が親指、人差し指、中指、小指と取り外されていく。幸か不幸か、それともはなから興味が無いのか、体の一部として換算されているのか、鉤爪を取り外されることはなかった。武器を持たせたまま拘置所に押し込むとは愚かしいも甚だしい。否、海楼石をつけていれば能力者は戦力として換算されないのだろうかと思い直し、腹の底でクハと嘲笑を海兵に浴びせる。無論その嘲笑が相手の耳に届くことはない。ただただ、腹の中で嗤い声は弾けこだました。
 金品も全て没収したのか、兵士はクロコダイルから手を引いた。だが、その動作に後ろに控えていたもう一人の海兵が声を掛けて注意を促す。
「おい、ピアスが残っているぞ」
 その呼びかけに、クロコダイルの先程まで立っていた兵士はああと思いだしたように顔を上に持ち上げて右耳のピアスを確認した。2mを越す長身は一般の人間からすれば首を思いっきり持ち上げて手を伸ばさないと届かない位置にある。そして兵士はめい一杯に手を伸ばした。
 だが、その手は止まる。
「コイツに触るんじゃねェよ」
 空気がびりと震えた。海楼石を嵌められようとも、相手は七武海。肌を打つような気迫に兵士は伸ばした手を即座に引っ込めて、一二歩下がった。触んじゃねェとクロコダイルは兵士を見下し、同じ言葉を繰り返した。兵士二人は顔を見合わせて、一拍の間逡巡すると、こっちだ、と上質の服から囚人服に着替えたクロコダイルをカメラの前に立たせた。
 向けられたそのカメラの意味合いをクロコダイルは知る。深く考えずとも答えは容易にはじき出されるものではあるが。一度小気味良いシャッター音が響き、そのカメラの前から連れ出される。インペルダウン行きだなんだのと低い所で言葉が交わされているが、そんなことはどうでもよかった。どこに行っても面白そうなこともなし。少しばかりの骨休めと行こうじゃないかと、口元は笑みで歪む。
 奪い取られなかった(と言うよりも自分でそれを拒否した)右耳のピアスが揺れる。その片割れを左につけている女をクロコダイルは思い起こした。小さな子供が「船長に買ってもらった!お前は、私の初めての友達だから半分こしよう。友達の、証!」そう言って笑って、差し出してきたピアス。そんなものを今でも後生大事に付けている自分に全く笑いが止まらない。その女はおそらく自分が捕まったことを、そうかと笑っていることだろう。楽しげに。海賊として負けたのだろう、と小生意気な顔をして笑う姿が簡単に想像できた。
 ピアスがほんの少し冷たく感じる。
 そして多少の不安を覚える。自分がいなくなって、あの女は。
 くだらないことだと考えを振り払った。そんな事を考えたところで結果何が変わるわけでもない。かちんと鉤爪の切先が海楼石の手錠を叩く。鎖の音を聞いていると、あの女を思い出す。馬鹿な女の事を思い出す。自分を友と呼ぶ、海を愛する女を思い出す。
 葉巻が欲しい、そんな風に思った。

 意外と冷静なんだな、と窓に腰かけている大男がそう言う。大きな体とそれを覆うさらに大きなピンク色のコートで窓から入ってくる陽光は普段よりも一等少ない。煩わしげな瞳が自分に向けられることは間違いないと、ドフラミンゴは女からの視線を想像しながらその返答を待った。だが、女が寄越した表情も言葉も、想像していたものとは一線を画していた。斜めに行かれてしまう。
 ミトはまあなと軽い調子でドフラミンゴの言葉に返した。怒ることも、傷ついた表情も、煩わしそうに返すこともせず、とんと手元の書類の端を机の上で叩いて揃える。自分がここに居るのに機嫌が悪くないのは久々、というよりもほぼ初めてではないだろうかとドフラミンゴは珍しいミトの対応に反対に言葉に詰まった。
 居るだけで害になると言わんばかりの普段の対応は一体どこへ行ってしまったのだろうか。それとも、ワニ野郎が捕まったことがそんなに嬉しいのだろうか。しかし彼とこの女は友人ではなかったのだろうか。友が捕まることに喜びを見出すような奇異な行動をとる女だったのだろうか。助けだそうだとかそういった行動に出たりはしないのだろうか。考えは尽きることはない。
 ようやく出た言葉は、一番最後の、そして最も大きな疑問だった。
「ワニ野郎、助けに行かねェのかよ」
「どうして?お前、時々本当に訳の分からないことを言うな。どうして、何故、私が、クロコダイルを助けに行かなくちゃならないんだ?」
「いや、だって、その」
 だってそうだろう、とドフラミンゴは全く分かっていない様子で首を傾げたミトに焦る。どんな答えを想定していたのか。それはきっと予想は付いていた。クロコダイルが連れていかれた、と悲嘆に暮れ落ち込み嘆き、そんな彼女を自分が慰める…という今時売れもしない三文芝居以下の展開を望んでいたのだ。多分。
 ドフラミンゴは両手を宙で彷徨わせ、次の言葉を絞り出す。
「例えば」
「例えば?」
「お前がおれに頼めば」
「だから、お前は、一体何を言っているんだ?」
「だから、おれに頼めば、あのワニ野郎を助けてやらねェでも」
「馬鹿か、お前は」
 驚きを通り越した呆れの表情をミトはドフラミンゴへと向ける。声と言葉にでさえ、その色は強く濃く、気の毒なまでにはっきりと表現されている。展開が展開なだけに、確かに自分の言葉は的外れであっただろうとドフラミンゴはその反応には多少の納得を示した。
 引き出しが引かれ、その中に丁寧にまとめられた書類が中に入れられる。
「お前、助けたくないのか」
「助けて貰う、なんてあいつのプライドが許さないだろう。それに何より、助ける意味が分からない。あいつはそれだけの事をやったんだ。スモーカーからあらましは聞いたが、まあ、当然の措置と言えばそうだろうな。あいつは、敗けたのさ」
「…そう言う時は、悲しんだり、しねェの?冷てぇ女」
 その言葉にミトはそうか?と不思議そうに尋ね返す。先程まで視界に入れていなかったドフラミンゴを椅子を回すことでようやく視界に入れ、レッドワインの双眸でドフラミンゴと言う男の映像を映し出した。
「国一つを滅ぼそうとした。内乱を扇動した。世界政府に立てつこうとした。これだけ揃えばインペルダウン連行は当然だ。お前は私にどうして欲しいんだ?泣けと叫べと?全く、それは馬鹿馬鹿しい対応だ。私は海兵だ」
「だが、てめェは今まで捕まえようともしなかったな」
「あいつが七武海であるのもあったが、私が何も証拠をつかんでいなかったということだ。何かを企んでいるのだろうと、そういった憶測の範囲でしかない。大体叩けば出るような埃をあいつが付けているはずもない。それほどに、クロコダイルと言う男は用意周到で頭のよく回る男なのさ」
 ミトの言葉を聞き終え、ドフラミンゴは一つの仮説を持ち出した。
「なら、あいつがそういう男じゃなかったら、てめぇはどうしたんだ?分かっていたら、捕まえたのか?」
「捕まえたとも」
 当然、とミトはそこで言葉を区切った。
 眉間にしわが寄せられ、何かを思い出すかのように指が机を叩く。一瞬、瞳が暗い色に飲み込まれた。殺意と憎悪が渦巻く瞳がぞぁりとドフラミンゴの背筋を撫で上げる。あからさまなまでの研ぎ澄まされた、抜き身の一口の刃が目の前に座していた。僅かに身じろぎをすれば、コートが窓ガラスをこすり音を立てる。それと同時に、その殺気は納まった。まるで初めから何もなかったかのように、女は静かな状態で座っていた。
 一体何だったのか。
 ドフラミンゴは問いかけることをせずに考える。問いかけたところで女は答えない。女が答える男、否、人間は唯一人であることをドフラミンゴはそう長くもない付き合いの中で学んだ。そしてその男は現在拘置所の中に居る。まあ、とミトは言葉を紡がないドフラミンゴを無視して続けた。
「あいつが海賊で、私が海兵で。ただそれだけのことだ」
「処刑されるとすれば?」
「だから?仮にクロコダイルが処刑されるとしよう。だから、どうした?」
 見上げてくる瞳はまったく、その言葉の意味しか持っていなかった。本当にどうした、としか問いかけてこない。
「私が海軍を裏切ってあいつを助けるとでも思っていたのか?だとすればそれは大きな間違いだ。あいつは海賊として敗北し、海賊として海軍に捕えられた。それはあいつの選んだ道であり、その結果だ。そして私は海軍で海兵だ」
 見上げてくる瞳が、あまりにもまっすぐで、思わずそらしたくなる。この女の瞳はまるでクロコダイルへの思いのようだとドフラミンゴはひどく見せつけられているような気持ちにさせられた。あの男の事を誰よりも理解し、そして理解されているのだと、そう言われているような気もした。
 ミトはゆっくりと言葉を続ける。
「あいつが海賊として死ぬのならば、私はそれを見届けよう。目など、逸らさない。決して」
 ここまで思われているあいつはどこまで幸せ者なのだろうと焼け焦げるような嫉妬心が胃の腑を焼いた。ドフラミンゴは凭れかかっている窓ガラスの冷たさに指先を這わせる。女の言葉は耳朶を震わせ、中耳を麻痺させる。
「死ぬも生きるも海賊。ただ」
「ただ?」
「あいつが、もしも生きたいと願うならば」
「らば?」
 仮定の話が二人の間で続けられる。静かに、女は言葉を紡いだ。
 この命を懸けて、あいつを海に帰そう。
 そう、紡がれた言葉は、ドフラミンゴの心臓に落ちた。海兵として海軍として死を見つめると言ったその口で、ただあの男が生きたいと一言望めば助けるのだと紡いだ。焦燥が胸を焼く。
「海賊、ならば?」
「?」
「お前が、海賊ならば?」
 ドフラミンゴの問い掛けに、ミトははは、と声を上げて笑った。机を叩く音が部屋に響き渡る。腹の底から響く笑い声にドフラミンゴは口をへの字に曲げた。嘲笑は含まれていないが、全く馬鹿げた質問だと笑われているような気分にさせられる。は、と一息吐くと、ミトはようやくドフラミンゴの問いへと回答を渡した。
「助けるさ」
 あっさりと、さも当然のようにそう答えた。クロコダイルの話をする時だけ、この女はこんなにも良い顔をする。否、普段自分と話している時が酷く不機嫌そうな顔をしているのだとドフラミンゴは考え直した。多少機嫌のよさそうな、どこか懐かしそうな海の香りをさせて、女はクロコダイルの話をするのだ。
 いつもは決してどこにも転がってない表情を、その時にだけ思い出したように見せる。凛とした声は、自分に一度として向けられたことの無い声。同じ場所には落ちてこない。クロコダイルとミトという女の場所は、誰にも入り込めない場所になっている。妬ましい。
「拒絶されようが、嫌われようが、詰られようが、殺されようが。私が助けたいから助けるのさ。相手の都合なんぞ知ったものか。たとえ今はそうでも、いつか思わせる。死ななくて良かったと。あの時命があって良かったとな」
 無論、とミトは続けた。
「これは私が仮に海賊だったと仮定したらの話であって、現実はそうではないし、クロコダイルと言う男のあの山のように高いプライドから考えて、助けてくれと命乞いをするとも考えられない。そして、あいつは自分がしたことの重さを知っている。それがどういう罪に値するかも知っているだろう。だから、私はあいつを助けないし、助けようとも思わない」
 あいつのしをみとめるかくごはある。
 そうなったらどうなるだろうかとミトは、ふと考える。しかし即座に考えるのを止めた。そんなことは考えたところで仕方のないことだし、結局元の鞘に戻るだけなのだ。かの男を殺すまで。
 黙りこんだミトにドフラミンゴは言葉を投げかけた。
「やけちまうナァ」
「話はこれで終わりだな?なら出て行け」
 フッフと笑い、指先でこめかみを押さえたドフラミンゴへとミトは冷たい目を向けた。ああまたその目、とドフラミンゴはミトに向けられた瞳の色を見つめながら、肩を揺らす。桃色の羽毛でできたコートがふさふさとお互いにこすれ合いながら揺れた。少し冷える外と温かな中を遮断する厚手のコートが大きく揺れて、ミトの前に立つ。視界を覆い尽すようなその色をミトは静かに見た。何も言わない。
 お互いの空間に沈黙が落ち、だがそれをどちらとも破る気配もない中で、ドフラミンゴは女を見下ろし、女は冷めた目をしてドフラミンゴを睨みあげる。そこをどけ、手元に明かりが届かない、と言わんばかりの表情で睨みつけてくる。おめぇは、とドフラミンゴは喉を震わせた。
「ワニ野郎の何がそんなにいいんだ?おれの何が悪いんだ?」
 ドフラミンゴの言葉にミトは一拍の間を置いた。後に続ける。
「なら聞くが、お前の何がそんなに良いんだ?生憎だが、私はお前に魅力など見いだせないし、お前と言う人間を信用も信頼もしたくない。できない。お前の言動は全て嘘臭い。何故だろうな、正直、私はお前と知り合ってから自分でも不思議に思うくらい、お前を受け付けない。お前からは、嫌な臭いしかしないんだよ」
「香水?」
「そう言う意味で言っていると思うか?」
「いいや」
 違うだろうな、とドフラミンゴは肩を軽く竦めてミトの言葉を否定した。
「ここで、私も様々な見方を学んだ」
「おれに対する見方は?」
「答えを分かって聞くあたり、お前、実はマゾヒストの資質でもあるんじゃないのか。さあ出て行け。私はお前に用はな」
 い、と言いかけた言葉は強く机を叩く音にかき消された。大きな手が木の机を震わせている。不愉快を煽るピンクのコートがそのしっかりとした腕を七分辺りから覆っていた。羽毛アレルギーでもあればこの男の近くに寄らなくても済むのではないだろうかとミトは、どこか頭の端で考えながら、影を作る男を睨みつける。サングラスの向こうの瞳は笑っていない。口元には気持ち悪い程の笑みが浮かんでいると言うのに。
 ドフラミンゴは強く叩いた机から身を乗り出して、片方の指を器用にぎぎと動かした。ミトは自由を奪われたものの、その睨むという行為だけはやめることをしない。ドフラミンゴは口元からも笑みを消した。自由を奪った女へと顔を近づける。微動だにしない女の瞳はまっすぐにこちらのサングラスの奥を睨み据えていた。
 吐息が混ざり合う距離でドフラミンゴはミトの瞳を覗き込んだ。その瞳には今現在、自分の姿しか映っていない。だがしかし、そこには自分が「映っていない」と思えた。そこには、いないのだ。仮にその水晶体に自身の姿が映し出されようとも、女の中に自分と言う存在は「居ない」。憎たらしい。こちらを向け。自分を見ろ。おれを認めろ。感情の渦が腹の奥底で地団太を踏む。
 顔をほんの少し傾けて唇に触れた。外見は男に近くとも、やはり女であるので、その唇は柔らかい。尤も、それを生業にしている女に比べればその唇は固くかさついていたが。瞳を閉じもせず、瞬き一つしないミトにドフラミンゴは小さく笑う。
「こういう時は、目を閉じるもんだぜ?」
「黙れ、鳥野郎。私の前から消え失せろ」
「…そもそも、おれはここに居ねェだろ」
 お前の前に、おれは居ない。
 そうだろうとドフラミンゴは薄く笑い、ミトの唇を啄ばんだ。頭を殴るクロコダイルはここにはもう居ない。押し倒しても嬲っても、体の自由さえ奪っていれば、邪魔をする者は誰もいない。だが、次の瞬間鋭い痛みが唇に走り、血の味が舌に乗った。噛み切られた唇から、一筋の血が伝い、ドフラミンゴはそれを舌先で舐め取る。
 静かに、女は座っていた。全身から「ドンキホーテ・ドフラミンゴ」という男を肌から何から全てから拒絶しつつ。
「消えろ」
 唯一言、そう女の口から零れ落ちた。啄ばんだ唇からこぼれたのは愛の言葉ではない。ああそれもそうだろうとドフラミンゴは納得する。クロコダイルにならば、お前は愛の言葉を紡ぐのかと情動に駆られながら、フッフと笑い、体をゆっくりと離し、その体に自由を与え戻した。ぐい、と触れあった唇を袖先でさも嫌そうに拭われる。本人が居なくなってから拭えよ、と笑ったが、女は一言も返さなかった。
 どすんと影を落としていた机の上に腰かける。後ろから、退けと苛立った声が背中を叩いたがドフラミンゴは無視をした。代わりに別の話題を提供する。
「今の、ワニ野郎だったら」
「さあな」
 ドフラミンゴは前方を向いたままミトの方を振り返ることをしなかった。そしてミト自身もドフラミンゴが振り返ることを求めなかった。ドフラミンゴと言えば、もっと言うならば、振り返りたくなかった。フフフとコートを揺らしながら笑う。
「ずりぃ女。あいつが必要なら、そう言えよ」
 本当は必要なんだろう、とドフラミンゴは思う。おそらく本人が必要だと思っていなくとも、周囲から見れば、この女にクロコダイルと言う男は必要なのだと思わされるのだ。
 あたしはね、とかつてつるが呟いた言葉をドフラミンゴは思い出す。
『おかしな話だけれど、あたしはあの子が人らしいと思ったことは一度もなかったよ』
 それがどういう意味だと尋ねれば、老兵はさらに続けた。
『心を許すということは心があるということだよ、ドフラミンゴ。あの子はクロコダイルに会うまで一度も、ただの一度も誰にも心を許した姿を見たことがない。心なんてものはないとさえ思ったね』
 だからあたしは、そう続けたつるの言葉をドフラミンゴは言葉を変えて続けた。
「おれは、あいつに感謝なんかしねェぞ」
「は?」
「何でもねェ。ナァ、何か食べにいかねェか。奢ってやるよ」
「鳥の餌でも食ってろ」
 つれねぇ。
 フッフフと特徴的な笑いが部屋にこだまし、そしてドフラミンゴは側に在ったソファに体を寝そべらせた。嫌そうに顔をしかめたミトを見て、愉しげにまた笑うと、サングラスの奥で瞳を閉じた。
 目を閉じれば、女の隣にあの男が立っているような、そんな不愉快な気分をどこか腹の底で味わいながら。