しあわせのいろ - 7/7

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 電話は酷く唐突であった。

「サカミチィ」

 いつの間にやら電話番号を入手したのか知らないが、インターハイ後時折総北の小野田坂道から電話が架かってくることがあった。話題といえばアニメの話ばかりで、秋葉原に行くことがあれば必ず連絡をくれとまで取りつけた恐ろしい男である。押し切られたのは自分である。

 電話をスピーカーにして坂道の話を聞きながら、御堂筋は今日の宿題を片付けていた。電話の向こうで坂道は非常に白熱した話を繰り広げている。旭以外にこんなに話をする人間はいない。とんだ変わり者だと御堂筋は坂道を認識していたが、そう悪くもないとも思っていた。

 そう言えば、と坂道は電話越しに御堂筋に問うた。

『御堂筋くんは斎藤さんに贈り物あげた?』

「はあ?なんでボクが贈り物なんてあげんといかんの。ワケ分からんわ」

 少なくとも旭の誕生日はここ最近ではない。御堂筋は長い舌を垂らして、毒舌を滑らせようとしたが、坂道の次の言葉に反対に目を大きく見開くことになる。

『え。斎藤さん、明日の朝、ドイツに発つんでしょ』

 なんやそれ。

 御堂筋の思考機能は見事に停止した。坂道の言葉がぐるぐると頭の中を巡って元の場所に戻り再度回りだす。目の前がちかちかと眩しく光る。坂道が自分を騙そうとしているのかと一瞬そんな考えが頭を過りもしたが、少なくとも小野田坂道はそういう男ではない。夏でもないのに、汗が背中を一筋伝った。

 目を瞬き、思考を再起動させて御堂筋はサカミチ、と電話向こうの相手に話しかける。

「それ、なんの話ィ」

『義足の勉強するためにドイツに留学するって…話だけど…、みみ、御堂筋くんもしかして』

「いつ」

『ひゃい!』

 怯えた小動物のような声が電話向こうで上がる。

 御堂筋はスピーカーで話しながら、必要最低限の物と財布を鞄に入れて、肩に斜め掛けにする。

『あ、明日の一便だって聞いてるけど…見送りは、その、いらないって…あ、明日も学校だし』

 今日も明日も平日なのはカレンダーを見て分かる。おおきにと一言礼を言って電話を切る。旭に電話を急いで架けるも、携帯電話からは現在使われておりませんと愛想のない電子音が響くばかりである。

 急いで階段を駆け下り、玄関に向かう途中でおばと顔を合わせる。あら、と御堂筋の外出時の格好に首を傾げた。

「どないしたん、翔くん。こんな夜遅うに出掛けるん?」

「…ボク、の」

 ボクのと御堂筋は口籠る。おばは静かに御堂筋の言葉の続きを待った。

「ボクゥの友達、が、明日、朝ドイツ行ってまうて、その、ボク、なんも聞いとらんで」

 上手く言葉が喉を通らず、つっかえりひっくり返り、肩掛け鞄の紐を握りしめて御堂筋は言葉を紡ぎ出す。目線を合わせることはできない。おばはそんな御堂筋の様子に事情を察したのか、細い二の腕を軽く叩き、気い付けてねと笑った。

「学校には連絡入れとくさかい」

 許しの言葉に御堂筋は胸を撫で下し、礼を言うと扉を引き開けて駐車場に止めている自転車に跨った。最終の新幹線に乗って、ネットカフェにでも一泊して朝に成田へ行けば飛行機の時間には十分間に合う。夏の蒸し暑さは夜の所為か随分とひやりとしている。自転車を滑らせるように走らせ、駅の駐輪場に盗まれないよう厳重に鍵をかけて構内で切符を手早く購入すると、出発二分前の新幹線にどうにか乗りこめた。

 今更ながらに汗腺から湧いた汗を鞄に突っ込んでいたタオルで拭い、冷房のよく効いた窓際の椅子に腰かける。ふ、と短い息を吐いた頃には窓の外の景色が流れ始めた。

 鞄から携帯電話を取り出してメールを打ってみたが、そのメールもすぐに宛先不明で帰ってきてしまった。考えてみれば、海外に長期間行くのであれば、通話料の面から考えても日本の携帯電話は解約していくのが普通である。現地で向こうの携帯電話を契約するか、それかパソコンなどの機械で連絡を取り合うかのどちらかである。あるいは文通か。

 携帯電話を鞄へと押し戻し、御堂筋は椅子に体を預けた。終点は東京。

「なんやの、キミ」

 何も言わずに外国へ行ってしまう友人の顔を思い出しながら、ぽつりと呟いた。

 搭乗手続きを済ませ、手荷物を預ける。必要なものは向こうで買い揃えるつもりでいるので、荷物はそんなに多くはない。

 旭は空になった両手を後ろで組み、搭乗時間までカフェでゆっくり時間を潰そうと大きく伸びをした。時間にゆとりを持ってきたので、あと二時間ほど余りある。

「翔くん、怒ってはるかなあ」

 怒っているかもしれない。

 旭は何も言わずに別れる御堂筋の顔を一瞬思い出し、近くのカフェでカフェオレを一つ頼む。残暑とはいえど、空港内は冷房がよく効いておりいっそ寒いくらいである。

 一人用の丸椅子に腰かけ、一口熱めのカフェオレを飲む。小さな飲み口はいっそう熱さを感じさせ、あちっと火傷したかもしれない舌を放し、口の中で口蓋を舐めながら冷ます。

 隣に人が座った。満席でもないのだから、一席くらい空けて据わるものではなかろうかと思い、旭は横目でこっそり盗み見ようとして目を大きく見開いた。

「火傷でもしたん。間抜けやなあ」

「あ、あき、翔くん!」

 驚きのあまり開いた口が塞がらない。名前を呼んだ直後は盛大に頭を叩かれた。なにが翔くんや、と御堂筋は吐き捨てる。棘のある言葉から御堂筋が怒っているのは明らかだった。旭は言い訳する術も思いつかず、カフェオレに小さく口を付ける。

「なんでおるん」

「サカミチから聞いた」

「…小野田くんとお友達になったんや」

「友達ちゃう。ボクはそんな話がしとうて、新幹線乗ってきたわけやないで」

 片手にアイスコーヒーを持ったまま、御堂筋は苛立ちを抑えて言葉を紡ぐ。カップに突き刺さっているストローに口を付け、中身を吸う。ガムシロップもミルクも入れていないコーヒーは舌に苦い。

 御堂筋の追及に旭はそやなと小さくぼやいた。

「後二時間で日本ともお別れや」

「それは聞いた」

「義足の勉強に行くんや」

「日本でも、いいやないの」

「ドイツの義足が一等進んどる。うちは、うちに夢見させてくれたこの脚で、他の子にも夢見させたい」

 まっすぐに前を見つめる瞳には一切の揺らぎが見られない。まっすぐで、こちらの方を見もしない。

「友達や思てたのはボクだけやったんか。最後くらい、連絡くれるもんと違うか」

 決して声を荒げるようなことはせず、御堂筋は淡々とした調子で旭を責めている。少し、格好悪い。御堂筋はそう思った。しかし、一度目はよしとしても二度目は許す気にはなれない。それも黙っていたのは、故意にである。

 勝手に現れて勝手に消えるなど、暴挙である。

「電話も勝手に解約して。サカミチから話聞かんかったら、ボクアホみたいやない」

「うち」

 うちな、と旭は御堂筋の方へと顔を向けた。御堂筋も視線だけは動かして目を合わせる。

「上手なさよならの仕方、知らんのよ。翔くんとだけは、さよならしとうなかった」

 熱いカフェオレはある程度冷め、口につけても飛び上るほどではなくなった。指先でカップの温度を確かめながら、旭は半分ほどカフェオレを飲む。

 店の壁に掛けられている時計へと視線をずらし、旭はまだ搭乗時間まで猶予があることを確認する。

「さよならゆうたら、それで終わりな気がして、おそろしゅうなったんや」

「…さよなら一つで終わるわけ、あらへんやろ。ほんまアホやな」

 アホくさ、と御堂筋は頬杖をついて溜息をもらす。そんな馬鹿馬鹿しいことで、最後の一言を言わなかったのだからやはり馬鹿である。しかし、御堂筋は言わなかった理由に一つ、胸を撫で下した。安堵が胸に広がる。

 安心したら、何故だか無性に苛々してきて、御堂筋はアホアホと旭に唾を吐きかけるようにして舌を伸ばした。困ったように笑う旭の笑みが眼窩に残る。

 両手が自然と伸び、旭の両袖を引っ張るようにして掴む。ずる、と額を肩に擦りつける。

「ほんに、あほや」

「…かんにんなあ」

 旭自身も反対に御堂筋の肩に顔を埋める。そこはひどく暖かい。両手を御堂筋の細いが筋肉のついている固い背に回し、体を包み込む。かんにんな、と旭は繰り返した。

 一二分その体勢でいたが、先に御堂筋の方が我を取戻し、耳まで真っ赤にして旭の両手を振り払って上半身を持ち上げる。

「翔くん、かわいいなあ」

「か、っかわいいワケあらへんやろ!もう、搭乗時間やろ!セキュリティチェックもあるんやろし、はよ行きや!」

「そうしようかな」

 真っ赤になった翔を他所に、旭はカフェオレを最後まで飲み干し席を立つ。御堂筋はカップのアイスコーヒーを持ったまま、搭乗口まで旭を見送った。

 ゲートの前で旭は御堂筋へと振り返る。

「手紙、送るな」

「うん」

「それから」

 それからそれから。

 旭は喉に詰まった言葉を飲み下した。目の奥がひどく、焼けるように熱い。これは涙が出る前兆である。だから、上手なお別れは苦手なのだと旭は歪んだ視界に残る御堂筋をまっすぐに見て、袖で涙を大きく拭った。

「元気に、しいや。こっち、帰る時は連絡入れよ」

「うん」

 言葉を上手に発せない旭の代わりに御堂筋は別れの挨拶を述べる。

 旭は一歩、足を前に出した。御堂筋との距離が縮まる。そして、耳を貸すようにと手招きした。御堂筋は何の疑いもなく旭の方へ耳を寄せる。が、しかしその体は一寸の間の後、すぐに跳ね上がるようにしてもとに帰った。

 いたずらっ子のような笑みが旭の顔一杯に広げられる。御堂筋は近付けた方の頬を両手で押さえ、すぐ先のように顔を真っ赤にしていた。それよりも、もっと赤い。

 御堂筋の口からはひっくり返った蛙のような声があふれ出る。

「な、なっ、なななななに、な、なにし、なにしはるの!」

「ほななあ、翔くん」

「まっ、待ち!」

 伸ばされた手をひらりと交わして旭はゲートのすぐ下に立った。御堂筋も後を追う。しかし、行けるのはゲートの手前までである。手荷物も少ない旭の体はゲートをくぐり抜けた。

 なあ、と旭はゲート向こうの御堂筋へと笑いかける。

「うちなあ、翔くんのこと、ずっと好きやったんや。ほなまたな」

 そう言い残して旭の姿は見えなくなった。御堂筋は柔らかな感触の残る頬に手を当て、呆然と旭が消えてしまった先を見つめている。

「な、なんやの、それ…」

 聞いてない。

 しかもこっちの答えも言っていない。

 呆然と立ち尽くす御堂筋に答えを返す相手は既にいなかった。

 びりりと手元の手紙を破り捨てる。

「御堂筋、それ手紙ちゃうんか」

「もう読んだ」

 石垣の問いかけに御堂筋は短く答えた。破り捨てたのは旭からの手紙である。朝家を出る時にポストに入っていたのでそのまま持って来た。旭の手紙は丁寧な日本語で綴られていた。

 破り捨てて細切れになってしまった手紙はもはや既にゴミである。

「石垣クゥンは勉強せんでええの」

「たまに練習せんとなんやそわそわしてな」

「…勝手にしぃ。練習行く」  立ち上がった御堂筋の後に石垣が待ちやと続く。冷たいドアノブを回して外へと出る。季節は変わって、学校の銀杏は鮮やかな黄色を青い空一杯に広げていた。

 手紙の内容は、いつも通りだった。あの時の言葉に言及は未だにしてこない。こちらもしない。

 また、と彼女は言ったのだから「また」帰ってくる。あの時の言葉についてはその時にでも追及すればよい。パソコン越しにする時差のある会話も、そろそろ慣れてきている。画面越しでは、あの綺麗な色は少し変色しているのが残念である。

 また会う時は。

 御堂筋は自転車のハンドルに手をかけ、サドルに腰を落とす。

「言い逃げはなしや」

 そして、思いっきりペダルを踏んだ。