朴清は愕然とした。
視線の先には見るも無残に四散した木片と、もはや扉としての形を残していない木板が蝶番に僅かにぶら下がっている。扉のない室内は明らかな上、外から扉を破壊したため、床や褥に散らばった木片で片付けに時間がかかるのは目に見てとれた。
久々に広がる光景に朴清は頭を押さえて溜息を吐く。以前連続的に起こった事象であるが、時間をおいての犯行はその横暴さを印象付けるには十分だった。
立場上紅炎の側室である朴清の室にこのような暴挙を行う人物は一人しかいない。
犯人を見つけて理由を問いただそうにも、その理由など朴清には一つしか心当たりがない。どうせ、お前がいないのが悪いなどと子供染みた、しかし至極まっとうなことを言うに違いない。
矢筒と弓を壁に立てかけ、朴清は無事に夜を過ごすため、室内に散らばった木片を箒で掃き片付ける。扉は今日は布で代理を立てる。青褪めた顔で室の惨状に言葉をなくして立ち尽くす女官に、何か手ごろな厚布を探してくるよう依頼し、ものの十分程度で誂えたように丁度良い布を持ってきた女官からそれを受け取り、卓の上に椅子を置いて上に乗ると、梁の部分で留める。最後に蝶番で張った布が裂けないよう、蝶番に寂しく残る木片と共に取り払った。重めの布であるため、強風が吹かない限りはそうそうめくれるものでもない。扉自体は後日改めて依頼するしかないようだった。
今日眠るために必要な程度の修繕を終え、朴清は額に浮かんだ汗を袖で拭った。
一服しようと先程まで台に使っていた椅子に腰をおろし、女官が淹れてくれた、しかし冷めてしまった茶を喉を潤すために口を含み、直後それを噴き出した。噴出した茶は床を汚す。
朴清の視線は先程簡易の修理を終えた扉へと注がれていた。布が白い焔に焼かれている。ああ、と朴清は頭を抱えて項垂れた。
「不恰好だな」
「不恰好だが、紅炎殿が壊した扉の代理には十分でした」
事の元凶が剣を鞘へと納めながら室の中へと踏み入る。朴清はウンザリしながらも、茶を淹れ直して紅炎へと差し出す。差し出された茶を紅炎は椅子に腰かけ、楽な姿勢を取ってから茶の入った器の縁へと口をつけ一言、薄いと述べた。
扉を壊した上の横柄な態度に、朴清は溜息を交えながら抗議を舌に乗せた。
「紅炎殿」
「何だ?」
「…俺の室の扉を壊すのはやめてくださいとあれだけお伝えしたでしょうに。俺にも馬のことや室にいないことはあります。その度に扉を壊されてはかなわない」
「俺が出向いた時にいないとは、妻失格だろう」
「失格結構!ならばいつでも側室などやめて差し上げます」
弾くような受け答えに紅炎は顔を顰め、眉を寄せて眉間に深い縦皺を作る。
再度風通しがよくなってしまった一室でかわされる会話はひどく冷え切っており、室の前を通り過ぎようとした人間は皆迂回をする始末である。
外気以外の理由で氷点下近くまで室温が下がったころ、紅炎はようやく立ち上がった。最後の一言が交わされてから二人の間に会話は一切ない。立ち上がった男へ朴清は視線を上げ、帰られますかと言おうとして、しかし出かかった言葉を変える。
「次おいでになる時に俺がいない場合は、扉を壊さず、座って待たれるか伝言を残してください。後で出向きます。それか」
「お前が俺が出向く際にいつも室にいればいいだけの話だ」
当然のように言い切った紅炎だったが、朴清はそこで彼の用向きを伺っていないことに気付く。扉を壊すほどの代償を支払わなければならない用向きとは一体全体なんだというのか。茶器を卓に戻し、朴清は立ち上がった紅炎の宝石のような目に視線を覗き込むようにして向けた。
奥底まで見透かすような、いっそ弓で射抜くようなその瞳に紅炎は居心地の悪さを感じ顔を顰めた。
「そういえば、用向きはなんですか。折角作った簡易の扉を台無しにしてしまうだけの用向き…なのか」
用向きなどない。
紅炎は責めるような視線をまっすぐに向けてくる朴清に、表情だけは一切動かさず口をまっすぐに引き結んだ。アシュタロスの柄に触れたまま、時間だけが無情に過ぎていく。
黙ったままの男は微動だにしない。ポーカーフェイスよろしく、表情筋が鍛えに鍛えられているためなのか、動揺すら掬い取ることはかなわない。炎帝と呼ばれるだけあって、腹の内で何かを考えることだけには十分に長けていると見える。またなにか恐ろしいことを言わないか、朴清は僅かに身構える。
小さく、紅炎の唇が動く。腹から空気を押し出したのか、帯留めが僅かに膨れ、喉仏が微かに上下する。
緊張の糸が一本が張り詰めた室に低い声が震える。
「茶が、薄い」
「それは先程聞いた、紅炎殿」
「もっとまともな修繕はできないのか」
「扉を壊した張本人の言ではないと判じる。俺が問うているのは、用向きであって俺への不満ではありません」
ぐ、と紅炎は喉仏を強く上に押し上げた。両腕を強く組み、自然と逃げるように視線をそらす。本日初めて見せた紅炎の敗走の視線に朴清は怪訝さを隠せない。
しかし扉を壊された被害者はこちらである。
朴清は手負いの獲物を追い詰めるかのように、紅炎殿とその名を呼んだ。
「本日はどういった用向きでいらしたので?」
「今宵」
一拍、紅炎は間を持たせて続けた。
「来い」
「…それを仰るためだけに、扉を壊したのか?」
「扉程度いつでも直せる」
「少なくとも直すのは紅炎殿ではないな。今宵は伺わない。生憎と出産予定の馬がいるので、今宵はつきっきりです。他の者には任せられませんので、この用事だけは外せません」
再度切り返された上に先手を取られ、紅炎は組んでいた腕を外し、朴清へと背を向け、無残な残骸と成り果てた布の下を通り抜けて室の外へと出る。
向けられた背が何故だか非常に物悲しげに思え、朴清はつい、緋色の髪を括っている男へと声をかけた。
「お嫌でなければ、出産に立ち会われますか?感動的ですよ」
「構わん。興味がない」
「それは残念です」
室をそのまま立ち去ろうとした紅炎に朴清は続けて声をかける。
明日。
「明日の夜であれば。先日、黄楼から珍しい話を送ってもらったので、お聞かせしましょう」
「…黄楼だと?」
あの男か、と紅炎は振り返ることはせず、己に武器を向けながらも生き残った、夫を奪われた哀れな妻だった。その男のために、朴清は選択を狭められた。利用勝手のいい男だったと紅炎は小さく鼻を鳴らす。あのまま息の根を止めた方がよかったかとも思えたが、今更考えたところで後の祭りである。
紅炎の声の調子が僅かに下がったことに朴清は気付きつつも、話を続けた。
「はい。今回は海を渡ったようで」
「そうか、分かった」
室の外へと出て、紅炎はどこへともなく歩き始めた。
扉を壊した理由は問われると、ひとえに、本当に口にしただけの理由に過ぎない。朴清が居なかったからである。この季節はまだ冷えている。夜は窓も扉も締め切り、中で暖を取らなければ、指先が冷えてかなわない。
ああ、今宵もひどく冷えるだろう。
紅明は羽扇で口元を擽りながら、軽い溜息を吐く。その隣には青秀が名前に負けず青い顔をして寄り添うようにして立っている。紅炎が朴清の室の前に立ち、布で作られた簡易の扉が破壊されたところから一部始終を四つの目で見ていた。
なんと。
なんと、兄王様の不器用な事か。
次から次へと女を宛がわれる兄の新たな一面を垣間見、紅明は言葉もなかった。隣の青秀などは、なんと表現すればよいのか青白い顔で理解できずにいる。
兄が扉を壊したのは、ああなんと。それはひどく凍えるこの季節が要因である。扉を壊せば夜はひどく冷える。その室で寝るのは自殺行為ではないにしろ、大層寒い一夜を過ごすこととなる。
兄王様は素直でない。
扉を直す手配をするのはもう少し先でいいですね、と紅明は隣で見てはいけないものを見てしまったように絶望している青秀にそう、声をかけた。