しあわせのいろ - 6/7

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 そうか。

 金城は短くそう言った。目の前に立つ黄色の髪を持つ後輩は、ほんに有難う御座いますと眩しいほどの笑顔を浮かべていた。彼女が告げた内容はあまりにも唐突であったが、納得のいく説明を添えていた。

「手伝えることがあれば、何でも言ってくれ。今泉達にはもう言っているか?」

「まだですけど、近いうちにゆうつもりです」

「分かった」

 頷き、立ち上がると同時に予鈴が鳴り、旭は金城に一礼し、その場を後にした。

 御堂筋翔は目の前の現実を受け入れられずにいた。

 小学生来の友人がどう見ても女子用としか思えない制服を着ている。上半身は納得のいくブレザーである。視線を上にのみ絞れば違和感はない。しかし、視線を僅かにでも下へとずらせばそこは未知の世界である。ひだのあるチェックのスカートがふわりと揺れる。下からすらりと伸びる二本の足が生々しさを覚えさせた。御堂筋は咄嗟に顔を逸らす。

「キ、キミィ、その」

 考えられうる可能性は三つである。

 一つ、友人は女装趣味がある。

 二つ、友人はいじめにあっており、無理矢理女性との制服を着せられている。

 三つ、友人は女だった。

 御堂筋は言葉を発する前に真剣に頭を悩ませた。おそらく、自転車以外の、人間関係のことでこんなにも悩むことは今までになかったように思う。

 ずっと男友達と思って接してきていた。だが、名前を呼んでしまえば男女の別はなくなる。ベタベタと体を触ることなどついぞなかった。触れたことと言えば、小学校の運動会で二人三脚の時肩を組んだ程度である。その上、当時の年から考えれば第二次性徴前であり、男か女かは分からない。出席番号も男女合同であったため、どちらかは分からなかった。着替えはどちらだったろうかと記憶を探るが覚えがない。

 狼狽える御堂筋を他所に、旭はあんなと笑って見せた。

「部活終わってそのまま来たんよ。宿とっとるさかい。日曜日の昼には帰る予定やけど、土曜日は一日空いとおから、一緒に走り行こ」

 そう言って、肩に掛けるロードバイクの入った袋を軽く持ち上げる。背負うリュックサックもそこそこの大きさではあるが、重たさは感じられない。御堂筋は一瞬考えることを放棄しかけたが、頭をぶるりと振るって疑問を口にする。

「そうやない」

「そうて?宿まではロードで行くけん心配いらんよ」

「日も暮れとう、て、ちゃう。ちゃうよ」

 ちゃうて。

 御堂筋は外れてしまった路線を一所懸命引き戻しにかかる。晒された生足はひどく艶めかしく、レーサーパンツの日焼けに何故だか生唾を呑み込む羽目になる。細いがしっかりと筋肉を纏った足はまさにレーサーの足である。

 ちゃう、と御堂筋は見入ってしまっていた足から視線を無理矢理引き剥がし、見慣れた顔へと視線を戻す。

 よく見れば。そう、よく見れば女の顔に見えなくもないが、今まで男として見てきた顔はどうにも女には見えない。軽く刈り上げられた後頭部とおかっぱのように切り揃えられた前髪。色は綺麗なお星さまの色。今までの概念を覆すほどの決定打を御堂筋は持ち合わせていなかった。冷や汗が滝のように流れ落ちて襟首を濡らしていく。

 御堂筋はその大きな眼に旭の全身、主に上半身を映し出す。少し大きめの制服のためか体のラインははっきりとしない。男女を見分けるための胸のふくらみは見当たらない。正解を必死に探す。

 視線は決して旭に合わせず、御堂筋は口元を僅かに右手で隠した。

「…ボクも別に人の趣味に口出すような野暮な男やあらへんけど…それは…ないやろ」

 最終的に御堂筋は一つ目の選択肢を口にした。

「なんが?」

 旭の不思議そうな顔を御堂筋はまともに顔を合わせられない。仮にそれが本当に旭の趣味であるとするならば、そうであるならば、友人としてその趣味を受け入れなければならない。服の趣味程度で、コスプレと思えばいいとそう思い込む。そう、無慈悲な年月が経過し、仮に彼の趣味を阻害するような結果になろうとも。

 御堂筋は意を決して続ける。

「何てソレ、キミ、女子の制服やない」

 総北の。

 ぐ、と最後の言葉を飲み干す。

「そやよ」

「ちゃうやろ。せやかて、制服、ちゃう、やろ」

 それとも、彼の中ではこれが制服なのだろうか。御堂筋は冷や汗が背中を大量に伝っていくのを感じた。総北のザク共はひょっとして、旭のこの性癖を認めた上で当然の如く受け入れてしまっているのだろうか。

 発する言葉を冷や汗と共に探し出そうとしている御堂筋を他所に旭はきょとんとした顔で返答する。

「翔くん、なにゆうてんの。これ、うちんや」

「は?」

 やはり先程の答えで正解なのだろうか。

 御堂筋は目の前が驚愕で真っ白になったことに愕然とした。小学生から付き合いのある数少ない友人と呼べる友人は女装癖の持ち主であるという事実を受け入れるには暫しの時間を要した。

 否。御堂筋は目を見開く。女装癖があろうがなかろうが旭は旭である。おちつきいと御堂筋は穏やかな顔を浮かべた。次の瞬間、旭が口にした言葉を聞くまでは。

「…翔くん。うち、女の子やよ」

 今の一言は聞き間違いか。

 御堂筋は自然と開いた口を閉じることができなかった。女の子と聞こえたが気がした。気がしたではなく。

「はぁ?」

 理解するには、今までの記憶が全てを阻害した。

 ぐるぐると訳の分からない言い訳が口からつるつる止めどなく流れ落ちてしまう。汗が滝のように流れ落ち、傍から見ても動揺していることは明らかだった。

 心臓ががんがんと喧しい音を立てている。

「翔くん、汗ごついで」

 そんなことは言われなくても分かっている。しかしそれ認めてしまえば、色々と、そう、色々と駄目な気がした。あれもこれもどれもそれも。今までの付き合い自体に目を背けたくなる。

 性別が違うとそれだけで。

 顔面を両手で覆い隠し、御堂筋はショックのあまり仰け反った。しかし、ゆうても、と旭の言葉に動きを止める。

「うちと翔くんは友達やろ」

 当然のように口にされた言葉に顔を覆っていた手を外す。眩しい、いつもと同じ笑顔がそこに向けられていた。指切りげんまんのように小指が立てて差し出される。

「それは変わらんよ。な」

 その一言で全て吹き飛ぶのだから、自分も大概安いのだろうかと御堂筋は誘われるようにしてその小指に自分の指を絡めた。指先から伝わる優しい熱に思わず目を細める。

 狼狽えて散乱していた考えがようやく一つに収まりはじめる。胸の辺りがほっと落ち着いた。絡まった指が優しく上下に振られる。

 確かに今更男だろうと女だろうと関係ないと言ってしまえば関係はないのだが、それでも今まで男として接してきた行動を思えば顔から火が出るほどに恥ずかしい。何故気付かなかったのだろう。先入観とはかくも恐ろしきものなのか。御堂筋はぞっと背筋を震わせた。女子相手では絶対にしないことをしてきたことは振り返りたくもない。

「キミもボクが勘違いしてるの気付いとったなら、教えてくれればよかったのに」

「うちも勘違いしてとるなんて知らんかったよ。でも、どおりでうちのこと『くん』で呼んどったんやね」

「…旭…ちゃん」

 あかん。

 御堂筋は真っ赤にした顔に蓋をするように両手で覆った。聞かぬ慣れぬ響きは耳に痛い。

 どことなく、くすぐったい。

 今まで、当然のように手を繋いでいたことも、手を引っ張ったことも、抱きしめたことも、電話を夜中にしていたことも。相手が女の子と、ただそれだけで、ひどく恥ずかしい。

 狼狽えている御堂筋に旭は長い息を一つ吐いて、腰を両手に添えてない胸を張った。そないなことより、と凜と声を腹から出す。しかしメモ声も少しも笑ってはいない。

「うちとしては、今更性別が違った程度で掌返して友達やめるつもりでおった翔くんの方に驚きやわぁ」

「…べ、別に」

「ほんま」

 完全に目が据わっている。こうなった旭を御堂筋は数度見たことがある。一度は小学校で自分が描いた絵を笑って落書きをした連中をぼこぼこにした時。幼いからなのか、それとも他の要因があるのか、旭の背中があれほど逞しく見えた瞬間はない。

 アレのお蔭でそもそも男女を取り違えたのではないか、と御堂筋は横にそれた思考を走らせる。しかし、眼前の据わった目はすぐに現実に引き戻した。

「…別に、そないなワケやあらへんて」

 言い訳をするように、視線を完全に逸らして御堂筋は苦し紛れの嘘を吐く。僅かに事実も入っているが、友達をやめるというよりも、今後どのように付き合いをしたらいいか分からなかっただけである。

 突然、女の子だと告白されれば当然と言えば当然と言えよう。

「こっち向いてゆいや」

 逃げ道など残されていなかった。

 完全にドスの聞いた声に御堂筋は堪忍してや、と小さく零す。

「聞こえへんよ」

「うぁい」

 かなわん。ほんにかなわん。

 この友人にはかなわない。御堂筋は心底そう思った。かなうかなわないの次元の話ではなく、もっとこう、根本的なところで言い訳ができない。背けていた顔を御堂筋はそろりそろりと怯えた小動物のように旭へと戻した。困ったような、そんな苦い笑みが顔に広がっている。

 勝手に勘違いしていたのはこちらである。

「友達は、やめへんよ」

 ぼそり。と、小さく御堂筋は口にした。今更やめるやめないの話でもないけれども。

「うちやて、やめたないよ。でもほんま今日までずーっと翔くんがうちのこと男の子や思てたのは驚いたわ。時々勘違いしてはるんかな思た時はあったけど、ほんに思ってたとは思わんかった」

「そ、そやったらゆうてくれたら」

「もうええやない。どっちにしたって、変わらへんやろ」

「そうや…な」

 上手く丸めこまれたような気がしないではならないが、御堂筋は大人しく頷いた。旭はその隣で、ロードバイクを手際よく組み立て、義足を付け替えるとバイクに跨り、ライトをつけた。まだ周囲は明るいが、ライトの灯りで事故は僅かな確率でも減る。

 人通りもちらほら、仕事帰りの人が増えている。気ぃ付けや、と御堂筋は旭に声をかける。

「…旭ちゃん」

「くん、でええよ。なんや、うちもそっちの方がしっくりくる」

 からかうように笑う友人はこちらの内情など一切察してはくれていない。御堂筋はそれならええ、と頷いた。

「ほな、また明日。京都のええとこ案内してな。勿論、足はこいつやで」

「分かった。迎えに行くわ。」

 大きく手を振った旭に御堂筋は小さく手を振り返した。旭の姿はあっという間に雑踏に紛れて消えてしまった。

 こないな早うから、とおばさんが持たせてくれた弁当と水筒を背中の鞄に入れる。眠たげな目を擦りながら、ユキちゃんが玄関まで見送ってくれた。

「うちも旭ちゃん会いたいなぁ」

「…ユキちゃんがええ子にしとったら、また誘うてみるわ」

 頭をくしゃりと撫でる。

 幼い頃は何故ユキちゃんが旭のことを旭ちゃんと呼ぶのか不思議で仕方なかったが、謎が解けてしまえばどうということはない。勘違いしていたのはこちらだったというだけの話である。

 衝撃的な事実を目の当たりから一晩あけた朝、御堂筋はヘルメットを被り、バイクに跨るとペダルを回す。旭が宿泊する宿へとバイクを走らせた。朝のひんやりした心地の良い空気が頬を撫ぜていく。

 三十分もペダルを回せば、宿の前でバイクを止めている旭の姿に気付いた。ひらり、と伸びた手が左右に大きく振られる。既に頭にはヘルメットを被って準備万端といったようだった。御堂筋は旭の横でバイクを停める。

「待っとったん」

「さっき出てきたばっかりやよ」

 その日一日したことと言えばと御堂筋は振り返る。何のことはない、景色の良い所や名所を巡っただけであった。あっという間に日は暮れて、夕日が綺麗に見える場所まで旭を案内した所で御堂筋はひと息ついた。おばが持たせてくれた弁当は既に空の状態で背中のリュックに入っている。

 一日。

 久々に一日遊び倒した気がした。御堂筋はゆっくりと沈んでいく夕日を眺めながら横にいる旭へと視線をこっそり向ける。綺麗な黄色の髪に夕日がうつり込んで、幻想的な色になっている。触ろうとして手を伸ばしかけたが、慌てて伸ばした手を引っ込める。

「きれいやなあ」

「なら、よかったわ。明日には帰るんやろ」

 御堂筋は外していたヘルメットを被り直し、ハンドルに手をかける。

 返事がないため、一度地面に落とした視線を上げて、夕日を背中に立ち尽くしている友人へと顔を向けた。顔は、逆光でよく見えない。そや、と小さな声が返ってくる。

「うん、明日な。帰る」

「…そもそも、何しに来たん」

 ざわりと心臓が奇妙な音を立てた。顔の見えない旭に一抹の不安を覚える。逆光はその体をいっそう細く、小さく見せた。御堂筋の問いかけに旭はうんと頷いて答える。

 声はひどく小さい。耳鳴りでもしているのかと思うほど、その声は遠くに聞こえた。

「挨拶に来たんよ。うちがお世話になっとった先生、まだこっちにおるさかい」

 孤児院のと続けた声はやはり遠い。

 しかし、その影はすぐに大きくなって、御堂筋の横に止まっている自転車に手を伸ばした。その頃には輪郭ははっきりしており、目は軽く伏せられている。そこにいるのは夢幻ではなく、確かに現実のものだった。

「そやの」

「明日挨拶行って、それから帰るんよ」

「いつ、出るん」

「見送りはええよ」

「ええから」

 ここで言っておかねばならないと御堂筋は不思議な強迫観念に駆られた。何としても、聞いておかねばならないという。不思議な。

 語気を強めた御堂筋に旭は一旦目を丸くしたが、すぐに出発時刻と方法を告げる。

「見送り行くわ」

「ええのに」

 ロードバイクのペダルをぐるりと回す。御堂筋は旭に顔を合わせず、先に出発した。

「ボクが行きたいから行くんや。気にせえへんで」

「おおきに」

 大したことやない。

 そう言った御堂筋は顔を背中に隠して旭に見せることをしなかった。