しあわせのいろ - 5/7

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 とおりゃんせ。

 暗い夜道を照らすのは自転車のライトと街灯ばかり。風通しの随分とよくなった頭を片手で撫でまわし、その手をハンドルへ戻す。マスク越しに感じる夜風の強さは皮膚の上をなぞってすぐ後ろへと置き去りになる。簡易でくっ付けた歯はインターハイが終われば歯医者へ向かう必要があった。

 とおりゃんせ。ここはどーこのほそみちじゃ。

 街灯に照らされた通りで影が一本、伸びている。

 きらきらと眩しい色を頭に被ったその人影を、御堂筋が見間違うはずはなかった。ペダルを回すのを止め、残された力でコンクリートの上を滑走するに任せる。そして、人影の前でブレーキをかけた。

「旭くん」

 ガードレールに体重を預けている人影に御堂筋は声をかける。携帯をいじっていた顔があがった。きらきらとした目が二つ、御堂筋へと向けられる。

「翔くんやない。なに?どないしたん、その頭。随分スッキリしてもうとるやない」

「これは」

 刈り上げた頭を撫でるように前から後ろ、項へと手を滑らせ、気まずげに手を下す。旭の質問には答えぬまま、御堂筋は反対に質問を返した。

「キミこそ、こないな時間にどないしたの」

「うん?心配してくれとるの?嬉しいなぁ」

 満面の笑みを浮かべた旭に御堂筋は暗がりで分かり易いほどに首筋まで朱色に染め上げ、光の速度で顔を背ける。咄嗟に口から出た言葉は酷くどもってしまい、どうにも上手くいかない。

 御堂筋はいつもの通り、否定の言葉を舌に乗せた。それでも相手には何もかもがお見通しではないのかと、そんな不安に駆られる。否、昔から、この友人には自分の考えていることは大半は見通されてしまっている。

「し、心配なんかしてへん」

「そか」

 そうやって笑うから、やはり見透かされているのだと思う。

 御堂筋はじとりと旭を睨みつけ、なに、と続ける。

「それとも、負けてもうたボクゥのこと笑いにでも来たん」

 旭がそんなことを思っているはずもないのに、それを口にしてしまうのは親しさ故である。相手がそれで自分と言う人間を誤解しないことは承知の上であるし、へそを曲げないことも知っている。一種の甘えに近い行動とすら取れた。

 御堂筋の言葉に旭は携帯電話をポケットへとしまいながら、彼の仲間のような、怯えたような動作も困ったような動作も取らず、そやねと笑って返しただけだった。

 以前から御堂筋は旭に対して、同年というよりも少し年上の友人という印象を持っている。何を言っても大丈夫だと根拠のない安心感があった。事実、御堂筋は旭に暴言を吐くこともままあったが、しかしそれに対して旭が声を荒げたりへそを曲げたりすることは一度もなかった。

「笑いに来たんやったら、笑えばええよ」

「精一杯戦うた人を笑うたりせえへん」

「…勝たな、意味ない」

 目を逸らした御堂筋が落とした言葉に旭はそやねとまた肯定の言葉を返した。

「キミ、そればっかりや」

「そやね。でも、今の翔くん見てたら他の言葉でえへん。ほんでも、今戻りよるんやろ?」

 明日走るために。勝つために。

 旭は言外にその意を込め、御堂筋の大きな丸く黒い瞳と自分の瞳を合わせた。真っ黒な眼に旭の姿がはっきりと映し出される。御堂筋は気まずさを覚え、視線をそらす。代わりに、小さく零すようにそや、と口から漏らした。

 御堂筋の聞き取れるか聞き取れないか分からないほど小さな言葉をきっちり拾い上げ、目を細めて柔らかな微笑みを向けた。

「うちがゆうことなんてなんもあらへん。明日も、負けへんよ」

「…そないゆうても、キミ、出走してへんやろ」

 御堂筋はその言葉を口にした後、しまったとばかりにマスクの上に蓋をするようにして手を乗せた。旭は怒ったりしないからと言って、傷つかないわけではない。インターハイに出ると常々言っていた気持ちを考えれば、今の一言は確かに失言だった。

 手を口で塞いだ御堂筋の姿に旭は思わず噴き出して腹を抱えて笑いを零す。あほやなあと笑うその姿は傷ついてはいない様子で、御堂筋は取り敢えずほっと胸を撫で下した。

「うちも一緒に走っとるんよ?気持ちだけ、きちんと乗せてもろとる」

 贅沢ゆえば、と旭は地面へと視線を落とす。

「うちも、勿論出走したかったけどな。せやけどかなわんかった。うちのすることは皆が全力で走れるよう、サポートすることや」

 満面の笑みを浮かべている旭に御堂筋は僅かな影を見た。ならば何故。

「どして、ロード持ってきとるの。キミは、今も走っとるやない」

 これも失言だったかと思ったが、御堂筋は今度は口を手で覆うことはしなかった。歪められた目が、下がった眉が、友人の感情を如実に表していた。しかし、旭は腕で顔を一拭いすると、何もなかったかのように再度笑顔で御堂筋に話しかける。

「悔しいよ。応援しとっても、悔しい。なんでうちはあそこでペダル回してないんや思ったら、悔しゅうて悔しゅうて仕方ない。でも、うちは仲間や。こんな思いも全部、皆が、誰かがゴールに叩き込んでくれる。うちは、それが嬉しい。嬉しゅうて仕方ないんや」

「…キモぉ」

 御堂筋は旭の言葉にいつものように言葉を返した。

 話が一度途切れたところで、御堂筋はほの暗い街灯の下に立つ友人の皮膚に擦り傷ができていることに気付いた。怪我をしているようだった。考えても見れば、こんな人気がなく明かりも少ない場所で一人立っているという事実の可笑しさに気付くべきであった。

 傷口は擦り傷で、血はもう乾いているようだった。

 幼い頃、灯りがほとんどない山道で怪我をしていたのは、自分だった。御堂筋は当時のことをふと思い出した。あの時旭は絆創膏と電池を譲ってくれた。

 だが、この丁寧に舗装された道で旭が落車するとは非常に考えづらいものがある。御堂筋は停められている自転車を見て、前輪がパンクしているのを目にする。

「メカトラ?」

「うん。道具は持っとるから自分で直せるよ」

 旭はそう笑うと、背に負っているリュックサックを指差して見せる。先程の携帯電話は帰るのが遅れる旨のものだったのかと御堂筋は納得した。そして跨いでいたロードバイクから降りると傍らに停め、旭が背負うリュックサックをはぎ取るようにして奪い取る。

「翔くん、ええよ自分でするから」

「ええ。キミがやるよりボクがやった方が早い」

 しゃがみこみ、ホイールを外しながら御堂筋は既に旭へと視線を上げることなく作業に没頭する。旭の足は、片方がかけている。普段つけている義足とも違うようで、御堂筋は足首から先がない奇妙な義足へと代わりに視線をやった。

 御堂筋の目に気付き、旭はこれと説明をする。

「このままペダルにつけるんよ。靴みたいな感じやなあ。パンクした時、上手う外せんかって、自転車と一緒にこけてもうた」

「下手やね」

「ひどいなぁ、翔くんは」

 からからと笑い、旭は御堂筋が外して不要になったチューブをリュックサックへと戻す。御堂筋は新しいチューブをホイールへと手際よくはめていく。

 小さな灯りの下で黙々とパンクの修理をする御堂筋を上から眺める。

「おおきに」

「ええよ、これくらい大したことやない。終わったで」

 手を払いながらすっくとその大きく細い体を持ち上げる。見下ろす形となって、御堂筋は以前は見上げていたと思い返す。

「キミ、こまなった?」

「翔くんが大きゅうなっただけや。初めて会うた時はこーんなにこまかったのになあ」

「そないにこまない」

 左手でハンドルを支え、右手で腰の辺りをなでるように回す。

「あん時は逆やったな。翔くんが怪我とって、うちが絆創膏あげたねえ」

「まだ、覚えとったん」

「記憶力はええんよ、うち」

 リュックサックを背負い、サドルへと尻を乗せてペダルへ足をはめる。かちん、と高い音が暗がりへと吸い込まれていく。

 御堂筋も停めていた自転車へと跨り、旭へと視線を向ける。かつてのあの日は先に暗闇へと消えてしまった黄色は今日は隣で自転車に跨っている。

 帰りは、と御堂筋は口にした。

「一人で平気なん」

「平気もなにも翔くん一緒に帰ってくれるんやろ?」

「ボ、ボクがいつ一緒に帰るなんてゆうたん!」

 肩を震わせ、御堂筋は口から咄嗟に言葉を発する。一部の悪気もなく、当然のように旭の口から発された言葉には驚かざるを得ない。御堂筋は何を言えばいいのか一瞬迷い、口を噤む。

 明らかに狼狽える友人の姿に旭はからからと声を立てて笑った。あまりにも楽しそうに笑うものだから、御堂筋も決まりの悪い顔をしてじっとりと旭を睨みつけるにとどめる。ペダルに片足をはめている足に力を込めて前進する。

「ほら、置いてくで」

「…キミよりもボクの方が速いやろ。置いてくことはあっても、置いてかれることないで」

 僅差をあっという間に埋めて、御堂筋は旭の横に並ぶ。暗めの道を自転車のライトが二つ、明るく地面を照らして進む。

 さっきのな、と旭はみちなりに進みながら、御堂筋へと話しかける。

「ほんに懐かしい思たんや。うちと翔くんが初めて会うたんも、こんな暗い山道やったろ。覚えてる?」

「覚えてる。初めて見た時、幽霊かと思た」

「そやったら、いい加減成仏せなあかんなあ」

「成仏て」

 ぷ、と御堂筋は思わず笑った。それに旭はわろたわろたと両手をハンドルから放して手を叩いてひどく嬉しそうに笑った。ペダルから足は離れていないので、くるくるとペダルは回っている。

 あまりにも楽しそうに笑うものだから、御堂筋は首筋まで真っ赤にしたものの、マスクの下で反対に口元にだけ笑いを残す。こうやって素直に笑える友人は旭だけである。

「…来年は」

 来年は。

 御堂筋は喉まで出かけた言葉を飲み干す。まだ今現在すら終わっていないのに、来年の話をするのは滑稽な話である。しかし、御堂筋の意図を汲んだのか、旭はほやなあと前だけ向いて走る。御堂筋にとって、答えはそれだけで十分な気がした。

 夜の風は冷たく肌を撫でていく。小さな明かりがぽつんと見えた。この速度で行けばもう十分とせずに到着する。

「翔くん」

 風の音に紛れて名前を呼ばれる。

 御堂筋は名前を呼んだ友人の顔を見るために顔を横へと向けた。風の流れに沿って月明かりを浴びてキラキラと光り輝く髪の毛が流れていた。黄色の睫に月の色を模した大きな瞳が細められ、笑んでいる。

「明日、きばりや」

「…ボクゥは勝利を掴むためならなんでもしとる。キミに心配されるまでもない。キミこそ、敵の応援なんてしてもええの。ボクが優勝するで」

 友の言葉に旭は嬉しそうに笑った。

「何がそんなにおかしいの」

「翔くんが元気そうで嬉しいだけやよ」

「…ナニそれ、きもぉ」

 耳まで赤く染まる。

 この時ばかりは夜道に街灯が少なくてよかったと御堂筋は心底思った。夜風は顔を冷ます冷却材がわりとなる。デローザの車輪の音に耳を集中させ、旭の言葉を頭から叩きだそうと試みたが、心にあっという間に染み入ってしまった言葉はもう絞り出すことはできそうになかった。体の中心で、あたたかで優しい色をちかちかと滲み出している。

 この友人と話をするといつもこの色が視界をちらつく。きらきらと目にあたたかい幸せの色。

「キミと」

 指先に力をこめ、ブレーキをかけて止まる。旭は突然止まった御堂筋を振り返り少し先で止まった。

 翔くん、と御堂筋の耳に心地よい声が届く。マスクの内側で自然と浮かんだ笑みを消そうとはしなかった。指先でかぎを作りマスクを引っ掛けると顎下まで下げ、表情を外気に晒した。こもった熱から解放された肌が一層の冷たさを感じさせる。

「次、勝負できたら思うよ」

 その一言に、きらきらとした色の瞳が一度大きく見開かれた。零れそうなほどにまぶしい瞳は細められ、一瞬、それは泣きそうにすら見えた。何か間違ったことを言っただろうかと御堂筋は月と逆光になり、二つの目だけがはっきりと見える友人の顔を凝視した。

 泣きそうに見えた。

 旭くん、と御堂筋はたった一人の友人の名前を呼ぶ。その呼びかけに黒い影は返事をしたが、違和感が抜けない。

 白いライトに虫が群がっている。その下で旭は自転車を止めて降りると、御堂筋を見上げて礼を述べた。

「おおきに、翔くん」

「…大したことやない」

 もう遅いからはよう寝やと口にしかけ、そこまで言っては流石に友人の枠を超えている様な感じを捉え、御堂筋は口にするのをやめて、自転車を走らせた。

 見る見るうちに手を振る旭の姿は小さくなって消えた。街灯がまた等間隔に道路を照らしている。一つずつその下をくぐり通り過ぎながら、御堂筋は明日のことを思う。

 今日味わった敗北に一時は打ちのめされた。しかし、まだ終わっていない。インターハイは三日ある。最後の最後で掴む勝利の美しい色は間違いなく、幸せの色をしているに違いない。どんなことをしてでも掴み取る。

 その瞬間を思えば、歓喜で肌がざわついた。

 インターハイ最終日は、明日である。