しあわせのいろ - 4/7

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 ベッド脇に置いていた携帯電話が小刻みに震え、着信音が響く。着信音は個別設定にはしていない。

 御堂筋は机横の置時計へと目を走らせ、時刻を確認した。もう寝る時間である。単調に響く着信音は誰のものか分からないが、しかし、この時間帯にかけてくる人間に御堂筋は一人しか心当たりがなかった。自転車雑誌を膝の上に広げたまま、携帯電話に手を伸ばすと画面上で指をスライドさせ、着信を取る。

 つまむようにして持ち上げた携帯電話を耳に添えた。

「…もしもし」

『あ、翔くん?こんばんはー!』

 イントネーションは最後が強い。屈託のない声が電話向こうから耳へと直接入ってくる。翔くん、と自分を呼ぶ人は数少なく、少なくともそれは同じ高校に通い、かつ同じ部活に入っている中にはいない。

 電話向こうの声の主は、自分にとってただ一人の友人であるのは自明であった。

「…キミィ、今何時やと思てるの」

 底抜けに明るい声に御堂筋はうんざりしたように舌をだらりと伸ばして口をへの字に曲げた。口から突いて出るのは毒ばかりなのは最早性分であるのでどうしようもない。しかし御堂筋もそれしきのことで相手がへそを曲げたり機嫌を悪くしたりはしないことを知っている。過ごした時間こそ短いが、気の置けぬ友人なのである。

 御堂筋の毒舌に電話を切ることなく、電話向こうの相手はすまんなあと声を高くして笑った。

『元気しとお?うちな、先週自転車競技部入ったんよ』

「随分遅かったやない」

 壁に掛けているカレンダーへと目を走らせる。入学が義足の関係で少しばかり遅れた話は以前の電話で耳にしていたため、それで遅れたのかとも推測できたが、所詮は憶測と、どないしたんと素直に尋ねる。

 御堂筋の問いかけに、電話向こうはその理由を端的に説明する。

『自転車用の義足がなかなかできひんかってな、それで遅うなったんよ。せやけど』

 電話向こうの声がはじけるように明るくなる。その楽しそうな声に目の前が黄色が飛び散った錯覚に陥る。胸の辺りがほわりと不思議な暖かさに包まれた。

 御堂筋は膝の上に広げている自転車の雑誌のページを一枚捲る。

『うち、自転車乗れてるんやなあ』

 あまりにも幸せそうなその声に、御堂筋は思わず電話越しに笑いそうになった。大笑は堪えきれず、ぎゅっと閉じた口の隙間から毀れた声が噴き出し、笑い声となる。

 自転車に乗るのはあの黄色を、幸せの色を見られるからである。

 一番にゴールを走り抜けた瞬間、母を彩っていた温かな黄色で視界が染め上げられる。あまりにも美しくやわらかなその色の中で、毎回自然と笑ってしまう。周囲の人間からすれば、それは大層不気味に見えるそうで不評ここに極まれりといったところであった。

 幸せや、と電話向こうで玉を転がすような声が跳ねる。

「なん、用事はそれだけか」

 自転車の雑誌の上に目を滑らせる。新しい自転車に乗るつもりは毛頭ないが、自転車の部品は壊れたりすれば買い換えねばならないということと、後は単純な興味である。

 そう言えば、と御堂筋は電話越しに疑問を口にした。

「キミ、自転車何にしたん」

『ゆうてへんかった?』

「ゆうてへん。電話する時いつもどこ走った場所とか友達できたしかゆわへんやないの」

 今迄の会話は大概それであったことを思い出しながら御堂筋は辟易した。そのくだらない話も、この友人であればこそ電話を切らずに聞いて来ただけの話である。これが、京都伏見の自転車競技部に所属している人間であれば間違いなく即座に電話を切ったに違いない。

「総北での話ばっかりやわ、キミ」

『そうやったかな。あんな、黒色のORBEA(オルベア)にしたんや。かっこええで』

「ふぅん」

 そうやの、とそっけなく返事をしたものの、かっこええんよと繰り返すその声についほだされて口元が緩む。

 こちらの様子を魔法の鏡で見ているのかどうか知らないが、電話向こうで、今わろたやろ!と声が跳ねる。わろてへんと咄嗟に言い返したが説得力は皆無に等しい。

『嘘ゆうても分かるんよ、翔くん。お見通しやからな』

 したり顔で言われているであろう底抜けに明るい声は耳に心地良い。

 時折夜半にかかってくる電話の主はいつでも楽しそうで、本当に片足を失っているのかと疑いそうになる。今日はどこまで行った、明日はここまで行く等々、彼は大層自転車生活を満喫しているに違いないことは言葉の端々でも理解できる。

 いつも電話は寝る前くらいにかかってくるので、メールで送ればええやろと一度提案したこともあるが、メールを打つのは面倒やと一蹴された上、電話やったら声が聞けるやろと嬉しげに言うものだから、かかってきた電話には結局出る羽目になる。

 この幼い頃にできた友人にはほとほと弱い。

 御堂筋は時計へと再度目を走らせる。もう夜も遅い。そして明日の朝も早い。電話を切ろうと口を開いたが、翔くんはどうしてはると尋ねられ、切ろうとした電話に口を添えた。

「いつも通りや。ザク共の相手して、自転車乗って…何も変わったことあらへん」

『何もて。なん、翔くん友達おらへんの』

「…そんなんいらん」

 そう言いきったものの、御堂筋はすぐにせやけどと小さな声で、本当に聞き取れるか聞き取れないかくらいの小さな小さな声で電話向こうの相手に告げた。

「キミは特別や」

 部屋中の鏡という鏡を叩き割りたい衝動に駆られた。今どんなに情けない顔をしているのだろうと思えば身が竦む。

 向こう側が暗がりの窓ガラスはまるで鏡のように耳の赤い自らの姿を映し出しており、御堂筋は手を伸ばしてカーテンを乱暴に閉めた。電話向こうの嬉しそうなはにかみ笑いに恥ずかしさで死にそうになる。

『友達はええよ。うち、翔くんおってほんまに嬉しい』

「…そ。せやけど、ボクはええ。友達なんて生ぬるい仲間意識なんかでおったら、自転車で優勝はできん」

『自転車以外でも友達はできるよ』

「そないな話続けるなら、電話きるで」

 友達などいらない。必要なのは勝利とそれを掴み取るために不可欠となる手足ばかりである。

 御堂筋は電話を切ろうと画面の通話終了ボタンに指先を乗せかけ、しかし電話口から聞こえた単語にその手を止める。インターハイと確かに聞こえた単語は高校生活において最も興味解単語である。

 電話を切らず、再度耳にあてる。

『インターハイ、出るん』

「出るに…決まっとるやろ。インターハイ優勝以外なんもいらん。箱学がなんか知らんけど、優勝はボクがもらう」

『何ゆうとるん。優勝は総北やで』

 至極当然のように優勝を否定され、御堂筋は顔を顰める。しかしここで優勝は京伏であると再度言ったところで子供染みた喧嘩になるのは目に見えている。戦いはインターハイの時に、である。

 自転車の雑誌を閉じて、机の上に放り投げると、ベッドの上に寝転がる。電話は耳につけたままである。

「キミは、インターハイ出るつもりなん」

 片足が義足の友人に御堂筋は問うた。

 現実的に考えればそれは不可能に等しい。等しい、ではなく、不可能である。

 義足で、その上ブランクが長い。友人が自転車に乗った最後の姿を見たのは小学生の時の話である。それ以降、本人から聞いたということもあるが、体を鍛えこそすれ自転車は持っていなかったとのことであった。生身の自分は意のままに動かせる足を持っている。意識せずとも足はペダルを回し自転車は前へと進む。しかし義足はそうではない。特に、彼の場合は太腿の辺りから足がない。余程、難しい。

 電話向こうで一拍だけ沈黙が落ちる。一秒に満たないほどの短い時間だったが、それは随分と長く感じられた。

 ベッドシーツに皺を寄せ、御堂筋は寝返りを打つ。

『当たり前や』

 その根拠のない自信は一体どこから来るのか、御堂筋には理解できなかった。その足で、どうしてインターハイに出られるなどと夢を見られるのか。

 これがザク相手ならば、夢を見るなと一蹴もしたが、電話向こうの相手にそれをしようとは御堂筋も思わなかった。

 否定も肯定もせず、御堂筋は相手からの返答を大人しく待つ。

『希望は捨てへん。うちの信条や。インターハイで会うたら、覚悟してな』

「…そら怖いなぁ。気ぃつけんと。もう寝るわ」

 ほなおやすみ、と御堂筋は話をそこで切った。電話向こうからも、もうこないな時間やねと笑ってほなねと何のために電話をかけてきたのか、結局わからないまま相手は電話を切った。

 切られた電話にアラームをセットし、枕元に放るようにして投げる。掛布団を引っ張り体に被せ電気を落とす。

 本当に何のために電話をかけてきたのかと御堂筋は寝返りを打ち壁へと体を向い合せ疑問に思ったが、おそらく毎度のことで大した理由などないことは目に見えて明らかだった。

 御堂筋は携帯電話を手に取り、通話履歴を手繰る。家族からのものと、それから事務連絡の部員のもの、一週間に一度は必ず旭の名前がある。友達、とは全く不思議なものである。

 キミだけや。

 御堂筋は目を瞑り呼吸を整える。体を仰向けにして天井と相対し、力を抜いた。

 小学校の時の記憶が一気に流れていく。落書きされた絵を綺麗にして返してくれた時のあの笑顔は、今でもはっきりと思い出せる。一緒に行った川原に、二人三脚の運動会。

 きれいなしあわせのきいろ。

 特徴のあるキラキラとした色は眼前に広がる。温かみのある思い出に安堵を覚える。微睡みの中に落ちていく。今日はとてもいい夢が見られそうな、そんな気がした。

 電話を切り、旭は壁にかかっている時計へと視線をやった。短針と長針が後五分もすれば天辺で重なる。

 合宿一日目で体はずいぶんと悲鳴を上げており、このまま待合室のソファで寝こけてしまいそうだった。風呂に入った後で、細い髪の毛はしっとりと濡れそぼり、日に焼け始めている頬に張りつく。

 十一時過ぎまでペダルを回して風呂に入って、体はもうクタクタでこれ以上動かせそうもない。しかしこのまま三日目まで上手くいけば完走できる。無論それを見越して、一人で夜遅くまでペダルを回していた。

 旭は己のハンデを十分すぎるほどに理解している。自転車用の義足を外し、通常の義足と生身の足の接合部を掌でなぞりながら目を瞑る。当然、感覚は太腿の切れ目までしかなく、義足の上をなでたところで視覚による「撫でる」という感覚しかない。旭が覚えている左足の感覚は小学生のその時で止まってしまっている。

 右足だけスリッパを履いて、もう片方の義足は何も履いていない。室内なので問題もない。

 小野田、鳴子、今泉はどうやら自転車に細工をされているようで、上手く周回を稼げていない。それでも彼らは旭より速くペダルを回す。だから、旭は彼らよりも遅くまでペダルを回す。

 自転車用義足は驚くほど自然にペダルを回すものの、競技部に入って暫くは上手に力を入れて回すことができなかった。ローラーから転げて落ちるのは当たり前で、慣れるまで一週間はゆうにかかった。

 腿から、ではなく膝から下であればまだペダルを回しやすかったと旭は心底悔しいほどにそう思う。ないものねだりはしたところで何の意味も持たず、悔しいと思う暇があればペダルを回すことに全力を費やした。結果として、この合宿に無事参加することができている。

 天井を見上げれば、模様が蛇のようにのたうっている。

「まだ起きていたのか」

「金城先輩」

 ぬっと音もなく現れた三年生に旭は慌てて立ち上がろうと足に力を込めたが、金城が手を振ってそのままでと笑いながら、旭の隣に腰を下ろした。

 鍛え抜かれた筋肉はぎっちりとした重圧を放っている。田所のそれとはまた異なった筋肉の質ではあるが、ソファが実際よりもずっと狭くなったように感じる。

「随分と遅くまで走っていたな」

「…自分のことは自分が一番よう分かっとります。うちが他の人と同じ時間走っても、走行距離は足りひんのです」

 さすり。旭は左足を撫でる。

 金城はその一連の動作を横目で見ると視線を前へと戻した。義足を除けば膝まで足りない足が湯で火照りほんのりと桃色に染まっている。ショートパンツを履くことに躊躇いのない後輩は自身の足にコンプレックスを持っていないようにすら見受けられる。

 両肘を膝の上に乗せ、金城は斎藤、と名を呼ぶ。太陽の色を模した両眼が金城の方へと移動する。金城は喉まで出かかった言葉を一寸止め、唇で言葉を舐め上げて滑らせる。

「インターハイ出場は厳しいと、思っていてくれ」

 それは、この合宿を無事に達成しても、という意味を含んでいた。分かり切っている言葉である。旭は両方の口角を僅かに持ち上げ、目を細めて金城の言葉に応えた。

 分かっとります。

 喉をついて出た言葉は瞳の奥を刺激する。かつてのようには動かない足が、鈍く重たい。

「それでも、目指さずにはおれんのです」

 握りしめた拳を胸の上に叩きつけて旭は顔をしっかりと上げると金城の瞳を真っ直ぐに見つめる。拳の下にある心臓は確かに脈打ち、手の横にその拍動を感じることができた。

 時計の針が一つ動く音が静寂の中に響く。

「一度は自転車諦めました。今ここにおられるだけで、うちはほんまにほんまに嬉しいんです。せやけど、見るなら上見たい。うちは、諦めたないんです。先輩」

 諦めない男と名高い金城は旭の言葉に目を丸くする。

 そうか、と目を細め、柔らかい表情を作り、金城は頷いた。

 ほぼ間違いないと言っていいほど彼女のメンバー入りの可能性は低い。正しくは、ない。速さも技術も、彼女にはない。ただ自転車に乗るのが幸せといった様子でペダルをひたすらに回して、回して、回す。しかし、好きなだけではどうしようもない。如何に誰よりも長く自転車に乗っていようとも、それで彼女はようやっと周囲に追いつく。

 その現実を知ってなお、諦めないと言う。

 勿論今年は駄目でも、来年再来年が彼女にはある。ある、が、今年のインターハイは今年だけのものだ。出たいと、その願いだけで出られるものでもなく、金城は悔し涙を嚥下する姿まで容易に想像できた。

 旭は右足から立ち上がる。座っていた部分が元のかたちへと戻った。向けられた背中に金城は言葉をかけた。

「インターハイに出られなかったら、自転車をやめるつもりでいるのか」

 金城の言葉に旭は背筋を一直線に伸ばした。目線を一度足元へとやり、再度前へと向ける。廊下に残る灯りは随分と少なくなっている。壁にかかった時計の針がとうとう天辺で合わさり、日付が変わったことを知らせた。

 旭はないです、とはっきり答える。

「やめへんです」

「そうか」

「…夜も遅うなりましたし明日もあります。うち寝ます」

 旭は金城に頭を深く下げ、おやすみなさいと就寝の挨拶をする。金城もそれにおやすみと返されたのを旭は耳に聞くと踵を返す。

 長く続く廊下を一人で歩く。大欠伸をするほどに体は睡眠を欲していた。瞼が重く、一瞬でも気を抜くとあっという間に気を失ってしまいそうだった。足は重たく体はだるい。

 明日も自転車に乗って風を切る。こんなにも体はしんどいというのに心だけは一人先に風の中で自転車に乗ることを楽しんでいる。

 割り当てられた部屋に辿りつき、ドアノブを回して室内へと入ると、それからは引かれている布団にまっしぐらである。干されていたのか、布団は温もりを持っており、ふっくらを空気を沢山含んでいる。隣ではすでに寒咲が寝息を立てていた。

 義足を外して布団にもぐりこみ、目を瞑れば睡魔はあっという間に脳髄まで浸食する。枕元に置いた携帯のアラームの時刻は早い。朝早く起きて夜遅くまでペダルを回し続ける。何という至福。こげない自転車の前で項垂れていたばかりの当時を振り返り、今日一日中握りしめていたハンドルの感触を思い出す。指先は軽く痙攣した。

 どろりと思考が蕩けていく。

 溶けていく思考の中で、特別やと小さく恥ずかしげな声が反芻される。電話向こうの声は相変わらずどこか面倒臭げで、しかし無暗に切ろうとはしない。

 友人との電話に口元に自然と笑みが浮かぶ。ついつい電話をかけてしまうのは、あまりにも嬉しいからである。翔くんもそっちで毎日走っとるんやろと、いつかまた二人でどこか遠乗りへ行こうと昔話に花を咲かせたくなる。

 旭にとっても翔は特別であった。

 暗闇の中ペダルを回している時に出会った少年の小さなこと。再会した時は驚くほど背も伸び、男の子を卒業してしまっていた。微睡みの中で、姿勢の宜しくない背中がぼんやりと浮かんでは泡沫のように消える。

 枕に包まれた頭は活動時間の限界を知らせていた。途切れ途切れになる意識の中、旭は自転車を走らせている。その隣には、ここはなぁ、と京都の景色を案内する青年の姿があり、そこで意識はぷつんと途絶えた。

 アラームが鳴り響き、旭は大きく伸びをして音を止める。直ぐに止めなければ寒咲が起きてしまう。

 マネージャーを起こさぬよう、音を立てずに義足をつけて着替えを済ませる。抜き足差し足忍び足で扉を開け、隙間を縫うようにして外へと出る。廊下へと滑るように出ると、出た時と同じように音を立てずに扉を閉めた。

 外へと出れば、清々しいほどの心地良い天気である。まだ日の光は薄く、気温は低い。自転車用の義足に付け替え、サドルの上に跨る。ヘルメットを装着する。体温を移していない自転車はひんやりと冷たい。

 両手を擦り合わせてからハンドルを握れば、まるで体が自転車と一体になったかのような錯覚に陥る。

 朝の冷たい風が体温の残る頬の上を掠めて後方へと流れていく。左足は完全にペダルと一体化しているため、停車時は気を付けないと転ぶ羽目になるものの、自転車が走行している間は何の問題もない。

 昨日の疲労は質の良い睡眠で改善できた。一周し終わったところでボードを横目で見る。ペースは順調、メカトラブルもなし、義足の調子も良好。

 行きたい。

 旭は純粋にそう思う。体のハンデを視野に入れてもなお、走り抜けたい。六人で、ジャージを、インターハイの道を走りたいと切実にそう思う。この総北の自転車競技部で自分がメンバーに選ばれる可能性の低さなど承知の上である。この合宿で完走しても、出場の可能性などないに等しい。それは、金城の言葉からも旭は十分に理解している。

 だが、0ではない。可能性はないわけではない。

 は、と息を吐く。坂道でブレーキをかけるギリギリのタイミングを見計らう。体を内側に倒し、カーブを抜ける。カーブの先に見える道に自転車の影はまだない。

 懐中電灯一つで走っていた暗闇の山道を思い出す。のぼりのカーブを抜けた先に白いノースリーブの小さな男の子が座っていたのだ。怪我をしているようだった。あれが、御堂筋との出会いである。

 ふつりと体の内が熱くなる。

 御堂筋は、彼は確かに優勝はもらうと口にした。

 吐き出そうとする呼吸が沸騰したかのように気管を内側から焼き焦がす。全身に痙攣のような震えが駆け抜け、思わずハンドルを強く握り直す。電話越しの声は、勝利しか見えていない声であった。

 不謹慎やろか。

 旭はそう思う。それが、あまりにも楽しみなのだとそう言えば、それは酷く不謹慎なんやろうかと思う。血の一滴まで絞り出し、ぎりぎりの一線で戦うというその競争行為を切望する。ブレーキなど取り外し、カーブを最高速度で曲がって、ゴールまで一気に走り抜ける。両腕を振り上げ、勝利の美酒に酔いしれる。

 それは、なんと。

 歓喜するほどに焦がれる瞬間である。

「早いな」

 張り詰めた筋肉の緊張が一瞬でほぐれる。

 旭はいつの間にか併走している手嶋の姿に慌てておはようございます、と挨拶をした。かしこまった姿に、手嶋はひらひらと手を振る。人の良さそうな笑みを浮かべた手嶋の顔を旭はいつも京都の人みたいやと感じながら見ている。腹の内では何やら恐ろしいことを考えていそうな印象が強い。流石に恐ろしすぎて口にはしない。

 緊張している後輩を他所に手嶋は笑いながらアップだよと笑う。

「落ち着かなくてさ。ほら、いまいちパッとしないだろ」

「そないなこと…うち、手嶋先輩は努力の人やと思てます」

「努力、ね」

 何か間違っただろうかと旭は言葉を選び損ねたかと口を噤む。その仕草に、手嶋は朗らかに笑うと、斎藤は分かり易いと旭の背を二度ほど叩いた。

「いや。斎藤には結構驚かされてる」

「驚き、ですか?」

 目がくるりと丸くなり、旭は首を傾げる。しかし、すぐに納得もした。確かに、物珍しい気もするだろう。旭は自分の行動について、普通の視点から見れば、それは随分と奇異に映ることを否定はできなかった。

 手嶋は前を向いたまま会話を続ける。

「ああ、まさか入部初日から自転車と一緒に倒れて、インターハイ出ます!って言った勇者だからな」

 驚いたよ、とどこか遠いところを見る手嶋に旭は言葉をなくす。なんとも言いようがない。

 確かに入部初日は自転車に乗せてもらったものの、つい義足が上手くペダルから外れずに見事に自転車と一緒に地面に倒れ込んだ。情けない醜態をさらしたのである。

 項垂れた旭に手嶋はでもと続けた。

「本気だったのに、驚いた」

 車輪が高い音を出しながら高速で回転する。車輪の音と木々の揺れる音に混じって、手嶋の声が耳まで届く。

「本気で、インターハイ目指してるのに驚かされたよ。普通なら諦めそうだ」

「…一度は諦めとります。自転車用の義足がある知って、たまらんなったんです。どんなに細こうても道が見えたら、走らずにはおられんかったんです」

 その気持ちはよく分かる。

 手嶋は片方の口角が自然と持ち上がったのに気付き、グローブを嵌めた手でそれを隠す。凡人だと痛いほどに理解している自分は青八木と二人でインターハイを目指す。これが、俺達の「かたち」なのだと自信を持ってそう言える。

 それは蜘蛛の糸だ。

 それでも掴まずにはいられないのだ。そこに糸があるならば、掴むことをやめられない。細い細いその糸を掴んで離せない。

「まあ、そうだよな。だが、インターハイに出るのは俺達だ」

「…うちかて、狙うとります。前ばかり見よったら追い落とされますよ」

「肝に銘じておく」

 手嶋はそう言い残しあっという間にその背を小さくした。そしてその背に追いつくように青八木が追走する。一瞥のみして、その姿もあっという間に小さくなりカーブの向こうへと消える。

 旭もその背に追いつくためにペダルを回すことを考えたが、それをしては足が持たないことは分かっている。まだ慣れない自転車用の義足はペース配分を誤ると接合部が酷く痛む。一度それをして翌日立ち上がれないほど傷んだ経験は記憶に新しい。歩いたり走ったりするという行為とはまた違う。

 誰かの真似をする必要はどこにもない。

 一漕ぎ一漕ぎ。自転車は回した分だけ前に進む。だから回す。回すのだけはやめない。インターハイで会う友人がいる。

 ハンドルを強く握り直す。吐き出した息は既に熱さを持つ。背中の筋肉が躍動し、軋むような音を立てる。会うのは、インターハイでと決めている。電話はしても、顔は会わせない。まるでそれは願掛けのようである。

 ペダルが軽い。

「翔くん」

 離れた土地で同じように自転車を走らせる友人の名前をつい、呼ぶ。

 顔はまっすぐ先へと、先へと向ける。

「待っててや」

 会うときはインターハイや。

 走りだした自転車はどうやら止まりそうになかった。