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古巣の京都へ足を踏み入れる。
新しい義足の調整に一週間ほど時間を要するとのことで、旭はその間、車椅子生活を強いられた。義足ができる前は車椅子生活を送っていたのだから、これはひどく懐かしい感触である。手で押した分だけ、回した分だけ体は前進する。
からんからんと京都の道を押して歩く。
義足が完成するまでの間、ひどく手持無沙汰であるため、新幹線に乗って京都に来ていた。千葉へ越してからは、今日に至るまで、一度たりとも京都へ足を踏み入れたことはない。事故の思い出がどうの、というよりは、日常が忙しすぎて足を運ぶ暇がなかったのである。
見慣れた街並みはひどく懐かしく感じた。肌を撫でる風も、人の声も、言葉も、空気の匂い、足音の一つすら、郷愁を覚える。
「懐かし」
通っていた小学校へ一度足を運んだものの、当然と言えば当然か、かつての教師等はすでに移動した後だった。
尤もと言えば尤もであったが、半年しかいなかったその小学校は一番懐かしさを覚えた。御堂筋と回した鳥かごやブランコ。なかなか回れなかった鉄棒に鶏につつかれながら退散した飼育小屋。運動会で二人三脚をしたグラウンド。ドッジボールであやまって顔面に投げつけたボール。
彼は元気にしているのだろうか、と旭は思う。
同い年であるから、御堂筋もつい先日高校1年生になったばかりのはずである。
旭が入学した総北高校には自転車競技部があり、義足が完成すればそこに入るつもりで旭はいた。義足でインターハイに出られるのは難しい相談だろうが、それでも、自転車に乗るという一点において旭はそこに入部することを決めていた。どうやら寒崎自転車店の店員は総北高校自転車競技部のOBであるらしい上に、彼の妹も自分と同い年でその上、同高校の自転車競技部のマネージャーを志望していると聞いた。
見れば走りたくなる。乗りたくなる。
旭は脚を失って以来、一度もレースを見に行ったことはない。勿論漫然と日々を過ごしているわけではなく、体を鍛えることは忘れない。勉学に生活費を稼ぐこと。吐きたくなるほどすることはある。
指先に残るハンドルの感触と足の裏にまだ覚えているペダルの感覚。それだけが旭を支えた。
親から残された通帳の残高と少しずつ貯めたお金を旭は数え、拳を握る。自転車競技部に入る前に、欲しい物がある。大学は奨学金で行く。大学までと思われる通帳のお金は、申し訳ないが、別途使わせてもらうことに決めていた。
入学初日、遠くから眺めた自転車競技部の部室と置いてある自転車、部員の姿を見とめ、心が躍った。同時に喉が渇いた。渇いて渇いて、干からびそうだった。唾を飲み込み、衝動を堪える。
もうすこしや。
「うわ、あぶな」
生活道路のT字路に差し掛かった時、眼前をすごい勢いで車が走り去る。指先が震えたが、背中を車椅子に預け、滲んだ冷や汗を手の甲で拭う。
深呼吸を一つし、呼吸を落ち着けて、ハンドリムを握り、前へ車椅子を押そうとして。
思わず、息を止めた。
京都伏見高校に入学した。
御堂筋は、自転車競技部のエースになった。
ザクばっかりや。
そう、同時に溜息すら覚えた。とはいえど、インターハイに必要なのは6という頭数だけであり、それ以外の人格など必要としていない。勝てばいい。勝利さえあれば、それさえあればいい。
母が死んでから世界は色がなくなった。御堂筋はその日のことをはっきりと覚えている。ただ、自転車を走らせて走らせて走らせて、限界まで走らせて勝利をつかんだその瞬間だけ、世界は優しい優しい黄色を帯びた。母の色である。
ややもすれば、マザーコンプレックスと揶揄されるかもしれなかったが、御堂筋にとってそれはどうでもよいことであったし、勝利にこだわる理由を誰かに話すこともまたなかった。
ペダルを回している、その間だけが全てを満たした。
愛車のペダルを回しながら、御堂筋は前方にある信号に目を向けた。色は、青、黄色。
赤。止まらなあかん。
御堂筋はブレーキをかけ、正しくは指先に力を掛けようとし、視界の端をよぎった色に驚愕した。目を、丸くした。
ここは京都。観光の土地。外国人が、頭の黄色い外国人が京都府内を歩いているのは一向に珍しいことではない。その対象が車椅子に乗っていることも、全世界的に見ればおそらくそう珍しいものでもない。
けれども御堂筋は、確かに、確かに面影のある顔にハンドルを本能的に回した。ぐるりと、学校の方向とは逆の方向へ、来た道へと帰る。ペダルを一回しする。力を持った自転車は車輪を回しながら、戻る。
戻って。
御堂筋は今度こそ足を止めた。T字路の右側にある車椅子に座っている人間に目を留めた。マスク越しに吸い込んだ息が春の生ぬるさを帯びていた。
嘘だと思う反面、まさかと思う一面がある。
驚きで言葉が出ないお互いが、先に沈黙を破ったのは、御堂筋ではなく、車椅子に座っていた人間であった。
「あ、翔くん」
自分を下の名前で、「くん」付けで呼ぶ人間は少ない。とても少ない。人付き合いを極力避けていたため、正しくは自然とそうなってしまっていたため、その名前を呼ぶ人間は少ないのである。
ふる、と御堂筋は背骨が音を立てて軋んだのを聞いた。
ある日突然なくなってしまった机が脳裏をよぎる。
「キミィ」
ああ嘘や、冗談や。
信じられないような目の前の光景に御堂筋は唾を飲む。
「まさかと思うケド、その」
キミ、と御堂筋は手探りで何かを確かめるように言葉を紡ぎ出した。
「小学校の時の」
黄色の目が、まっすぐに車椅子から自転車を押す男へと注がれている。間違いではないのだ、と御堂筋は言葉を失った。
視界が不意にぐにゃりと大きく歪む。世界が黄色を帯び、頬の上を温かい液体が伝って落ちていく。それに、目の前の彼がひどく驚いた顔をした。黄色の目をまんまるに大きく広げている。
ああ、ああ。
「そうやよ、翔くん」
そして、車椅子の彼は御堂筋が最も望んでいた言葉を発した。色が、世界に灯る。
涙が頬を零れて落ちる。自分自身の行動に驚きを感じながら、キモ、と御堂筋は小さく呟いた。これは涙ではないのだ、と自分の考えもよらない現象に弁明をする。
マスクを引き下げ、驚いている旭に御堂筋は違うのだと繰り返す。
「こ、これは泣いているワケやあらへんよ」
そやね、と旭は御堂筋の言葉に驚きながらも頷いた。
よく分からない感情が落ち着きを見せ、涙が眼の奥に引っ込んだ頃、御堂筋は長年顔を見ていなかった旭へと声をかけた。こんな姿が、京伏の人間に見つかりでもしたら、翌日にはその人間を抹殺してしまいそうである。
すん、と鼻を一つ啜る。
「今、どこのガッコ行ってはるの」
問いかけに言葉を濁らせた旭へ、御堂筋は目を細めた。先程から、一点、ひどく気にかかっている点は、胸にしこりを残す。
幼いころとはやはりどこかが違う。それは、身体的変化などではなく、もっとずっと根本的なものだった。
なァんで、と御堂筋は目の前の黄色へと黒手袋を伸ばした。それの答え次第では、世界はまた色を失ってしまうのに、それでも聞かずにはいられなかった。
「ボクに、目ぇ合わせてくれはらんの」
まっすぐにまっすぐに、見つめてくれた目は、今ではどこか気まずげに遠くを見るばかりである。
ただただ子供のような気持ちで御堂筋はそれを問うた。逃げようとした視線を黄色の頭に手を添えることで制止し、その回答を求める。
その、と小さく言葉が落ちる。
「お、怒ってはる、やろ。翔くん」
目の前のちいさな頭が下へと落ち、声が震え、涙声がにじむ。
少なくとも、少なくとも、御堂筋はそう思った。何も言わずに消えてしまったことを前にいる友達は何も思わなかったわけではないのだと。
その事実に少しばかり安堵を覚え、胸を撫でおろす。
謝罪の言葉など、ただもうその態度だけで御堂筋には十分であった。それ以上の何が必要であったのか、分からない。
マスクを指先に引掛け、御堂筋は少し、呆れる。
「そんなん怒っとらん。ボクもう子供やあらへんで。考えすぎてアホらしいわ。ボクは」
怒っとらんよ、と言いかけ、御堂筋は目尻にたまった涙を指差し、笑いからかう。しんみりとしすぎる空気は好ましい所ではなかった。
御堂筋はひのふのと指を折り、再会に要した年月を数える。本当に久々すぎて、両方の指では足りない。
「今は京都に住んどるの」
「ちゃうちゃう、今は千葉におるんよ。小学校転校してからはずっと千葉におるんやで」
「ほしたら、今日はどないしたん。観光か」
「観光て翔くん…」
それはないわ、と旭はからりと笑う。
御堂筋は下へと視線をやり、旭が乗っている乗り物へと注目する。二つの脚が椅子の上に垂れている。彼の性格を考えると、足の調子さえ戻っていれば、今頃彼は自転車をその手に持っているはずである。
しかし。である。
御堂筋は大きな目を糸のように細めた。
「おみや、どないしたん」
京都は見所が多い。
かつてそれは、旭が御堂筋を連れまわしたことからも明らかであり、しかし当時のころと比べると随分と景色も変わっていた。積極的に見せたいと思いこそせずすれ、しかし、その景色をまた見たいというのは真実であった。
自分で考えつつ、キモと御堂筋は口の中で反芻しながら、それでもぼつと呟いた。
「ボク今度な」
「翔くん」
その言葉を遮る様に旭は声を発した。
やや俯きがちのその様子に御堂筋は話の内容を喉元でせき止めた。新しい話題はしかし出てこない。ただ、相手のそのどこか乾きを覚える笑みに何か言ってはならないことを言ってしまったのかと、御堂筋は察する。
けれども、俯いた黄色の瞳は力強く上を向き、御堂筋の真黒の瞳をしっかり捕らえた。
「治らへんのや」
言葉の重さとは裏腹に、顔に浮かんだ笑みと視線は強く逞しい。
けど、と負けじと言葉が続く。
「走るで、うち」
それは、それはそれは。
御堂筋は旭の言葉の真意を探る。治らない脚を抱え、その上で走るというのだから、それは間違いない。自転車に、ロードバイクに乗るのだと旭は言っている。
その決意が簡単に言葉にできないものであることを御堂筋は知っている。足の筋肉が疲れ果て、痺れ動きを片足でも止めてしまえば、ペダルは回らない。回らなければ自転車は前へとは進まない。自転車を漕ぐための脚がないというのは、致命的である。
しかしそれでも目の前のかつての友人ははっきりと「走る」という単語を使って示した。
「…そか」
御堂筋はマスクを引き上げ、口元に自然と浮かんだ笑みを隠す。
嬉しくて、仕方なかった。
のである。斎藤旭という人間は、その内面を何一つ変えないまま、めまいを覚えるほどの黄色でそこにいる。どうしようもない安堵を覚え、御堂筋はフフとマスクの下で笑う。
笑う久しい友に旭はそうやと紙切れを一枚取出し、そこに自分の携帯番号とメールアドレスを記載して、御堂筋へと差し出す。
「これ、電話番号とアドレスや。なんかあったら、いつでも連絡してや」
「これボクの」
差し返された紙を旭は受け取り、おおきにと満面の笑みを作る。
「あんま遅ぅなったら心配するな。ユキちゃん元気にしとる?」
「皆元気や。…なん、用事なかったらウチ来るか」
「おおきにおおきに。せやけど、うち今日の新幹線に乗って帰らなあかんのや」
旭はそう言うと、腕にはめた時計を確認し、時間やなと少しばかり寂しげに笑う。
「ほなさいなら、翔くん」
細い手が車椅子のハンドリムに手がかかる。
き、とタイヤが地面を転がる。御堂筋は待ち、とその半分見えた背中に声をかけて止める。相手が振り返り、らしくもなく、そんならしくもない自分に対し、しかしそう悪くないと腹の内で一人ごちながら、御堂筋は歯の裏を一舐めした。
「ちゃうやろ」
旭の目が訳が分からないとばかりに大きくなり、黄色の髪がくと傾く。
「ほな」
全く、全く不思議なくらい単純にその言葉は喉をするりと通り過ぎ、御堂筋の舌へと乗った。普段であれば、絶対に口にすることはない。感傷染みた言葉は趣味ではない。
「また、なァ」
らしくないらしくない。
それでもその言葉は恐ろしいほどにしっくり肌にしみた。逃げるようにペダルを踏み、回す。
車輪がコンクリートの地面と接触し、小石を踏みしめる音を風のそれと耳の横で体の中まで回しながら、風の心地よさに目を細める。
「あほらし」
口にしたその言葉は、全く納得がいかないほど嬉しそうなのだから始末に困るものである。