しあわせのいろ - 2/7

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 ここからの景色が一等綺麗や。

 そういって自転車を二人で走らせた山頂から眺めた景色は鮮やかな夕日であった。

 御堂筋は旭が案内した場所で呼吸を忘れる。目の前が、まっきいろに染まる。おかはんに見せてあげたいと心底思ったが、流石に景色までは持って帰ることができない。

「きれぇや」

 ぽつりと零した言葉に、旭はからりと声を立てて笑った。

「せやろせやろ。ごっつぅきれぇきれぇやろ!」

「うん」

 御堂筋は一つ頷き、自転車一つで上ってきた景色を眺め、きれえやと一言ぼやいた。ただその言葉に尽きる。

 また次の日は、海に行った。自転車の後ろに釣竿とバケツを括り付けて釣りをした。

 初めての投げ釣りは御堂筋には難しく、投げたはずの針が自分のTシャツに引掛り、自身を釣る羽目になった。初めての釣りの初めての釣果は鯵と鰯が少しずつで、御堂筋はその時の話を嬉々として病院の母に語った。

 またある日は、川へ行った。舗装されたコンクリートを走り、山の中へと突き進む。すると川が見えてきて、その川に沿って自転車を走らせる。照りつけるような日差しは木々に遮られ、木漏れ日となって降り注ぐ。蝉の鳴き声と川のせせらぎの中、一番高い岩の上から洋服のまま川に飛び込んだ。泳ぎは得手ではなかったが、溺れることはなかった。尤も、溺れたところで助けてくれる友達がいたことが一番安心できるところであった。

 川で見つけた綺麗な小石を病院にいる母に土産に持って帰り、その時の様子を仔細詳しく御堂筋は語った。

「翔は、自転車乗るようになってから、笑顔が増えたねぇ。友達もできたんやね」

「うん、できたんよ」

 彼は友達だと御堂筋は思った。

 夏休みの宿題は二人で一緒にやった。森の中に仕掛けを沢山作り、どの餌に一番昆虫が寄ってくるか調べた。日差しの中で、蝉を二人で追いかけまわして二人でこけて傷だらけになって叔母さんに呆れられた。

 運動会は自転車以外の運動はひどく苦手な御堂筋だったが、それでも隣で一緒にやってくれる誰かがいるとそれは大きく違った。一番ケツではあったが、二人で走った二人三脚はとても楽しかった。

「一番はとれへんかったけど、楽しかったんよ」

「せやの。お母はんもはよ元気になって、翔の運動会見にいかんとね」

「うん」

「友達も、紹介してなあ」

「うん。紹介、する」

 強面の爺が住む家には柿の木があって、そこに実る柿はとてもおいしい。旭は壁に手をついて台になり、翔はその肩の上に両足を着いて柿を二つ三つもぎ取り、それを爺に見つかって二人そろって頭に大きなたんこぶを作った。最後には、柿を二つ馳走になった。

 勿論、それをおかはんに話したら、泥棒はいかんと怒られた。

 冬には積もり積もった雪道を自転車で走り、埋もれ、雪だるまを作り、二人で雪合戦をし、カマクラを作り、中に火鉢を持ち込んで暖を取った。真っ赤になった指先をお互いに息を吐いて温めながら、小さなことに笑った。

「雪うさぎ、作ったらええんやないの」

「溶けてまわん?」

「自転車やったら間に合うん違うの」

 黒い漆塗りの盆の上に二つ、雪うさぎを作って乗せる。今考えれば、病院の外の雪で作ればいいことだが、その当時はそんなことは到底思いもつかなかった。作ったうさぎは幸い病室までどうにか持ちこたえ、その二つの小さなうさぎをおかはんに見せることができた。

 それを、翌日、御堂筋は笑って旭に話した。正しくは、話そうとした。

 けれども。

 翌朝登校した時、御堂筋の机の隣にいつもあった机はなかった。まるで初めからそこには何もなかったかのように、ほんの半月程のことが、何も、なかったかのように、消え去っていた。

「ファ?」

 瞬きを繰り返し、目を何度も擦ったが、ないものはない。机の下にも上にもどこにも、旭が座っていた机はなかった。

「なんで」

 ないん。

 ホームルームで先生が旭さんは転校しましたとまるで他人事のように言っていたのすら、上の空に御堂筋は聞いていた。

 突然いなくなった友達は、まるで自分が作った空想の中の人間のようにすら、感じられた。

 きいろが一つなくなった世界は、薄らいで見えた。

 それからしばらくして、せかいははいいろになった。

 ひとりや。ひとりぼっちやなぁ。

 翔くん怒ってはるやろな、と旭は一人ごつた。

 病院のベッドで一人、横になっている。天井は高く広い。

 仲良くしてくれはったのに、なんも言わず転校してまった。半年しかいなかった教室だったが、翔がいれば、旭にとっては天国のような場所だった。まさか、小学校で自転車という同じ趣味を持つ仲間に出会うとは思わなかったからである。

「かんにんな」

 そう言って体を起こそうとしたが、うまく起こせず歯噛みする。起き上がれない主な原因はこれである。丁度膝から上あたりから、左脚の感覚がない。正しくは、左脚が、ない。

「あらへん」

 それは何度確認しても一緒である。ないものは、ない。

「自転車も、もう、乗れへんのやろか」

 翔くんと一緒に乗った自転車楽しかったなぁとそんなことばかり思い出す。ぼろぼろと黄色の大きな目から大粒の涙が零れ落ちてシーツを濡らす。

 何のことはない。不運な交通事故である。不運すぎた交通事故である。居眠り運転の車が、自転車に突っ込んできて、左脚が挟まってもぎ取られただけである。命があったのは奇跡だと医者から何度も言われた。

 幸運やったんやろか。

 そう、旭は思う。命の次に大事な自転車はぐしゃぐしゃに壊れて再起不能の状態で、スプラッタになったし、新しい自転車を購入したところで、そのペダルを回すための脚がない。両手を伸ばして掴めるのは右膝だけで、左はシーツを虚しく掴むばかりである。

「命があってほんとよかったわ、旭ちゃん」

 事故の後、目が覚めた自分に対して施設の先生はそう言った。そして、申し訳ないのだけれどと続けた。

「今、今ゆうのも気が引けるんやけど、あのな」

「ええよ、せんせ。前から、そないな話、あったもんね。ええよええよ。丁度ええんや。千葉やったら、東京のえろう病院いけるやろ」

「かんにん、かんにんな」

 施設が立ち行かないほどに切迫している状況であることは、幼いながらも旭は理解していた。夜遅くまで帳簿とにらめっこをしながら、うなだれる先生の姿は、胸に痛いほどであった。その中で、自分にあんな高い代物を一台、買ってくれていたのだから下げる頭がない。

 かんにんなと謝り続ける先生に対し、旭は笑った。

「ええよぉ、そないに泣かはらんで。せんせのきれいな目ぇが落ちてのうなってしまうさかいに」

「かんにんな…ッ」

 ぼろぼろと大人が涙を流して謝る姿は辛い。なかへんで。なかへんで。おねがいやから、なかへんで。

「せんせぇ、泣かはらんでなあ。うち、生きとるさかい。これから楽しいこともおもろいことも、ぎょーさんできるんやで。これもな、せんせがうち拾って大事に大事に育ててくらはったからやで。うち、ごっつぅごっつぅ感謝しとるさかい。」

 せやから、泣かはらんで。

 そうこうあって、千葉へ転校することとなった。まだ小学生であるから一人暮らしは無理であったが、中学からは許可をもらって一人暮らしを始め、しばらくしてから、新聞配達のアルバイトをやり始めた。お金は必要である。

 片足はないが、義足を作ってもらって、血が滲むほどのリハビリを重ね、歩けるように、走れるようになった。義足は一般の、つまるところ人の足に近付けたそれではないため、ショートパンツやスカートではひどく目立った。

 奇異の目は、自分の頭と目で慣れっこではあったが、とうとう下にまで奇異の目が行くようになった。全身が、針で刺されているかのようだった。

 しかし、それを恥じたことは一度もない。

 新聞配達は早朝である。この足では自転車には乗れないので、走って回ることになる。新聞を肩下げバックに詰め込み、左の義足と右の脚で地面を蹴りながら市内を巡り走り、新聞を各家家に投函していく。春秋はジャージで、夏はハーフパンツとノースリーブで、冬はネックウォーマーにウィンドブレーカーを着て走る。

 大学までいけるくらいのお金はあった。それは、先生から自分が捨てられていた時、籠に一緒に通帳が入っていたのだと渡してくれた。大層な額であった。金があるなら、なぜ育てなかったと憤慨した時もあったが、何かしらの理由があったに違いない。この目と頭では、どこか、否定できないところもあった。

 ただそれは、遊興に使う程余裕のあるものではなかった。

 旭が稼いだお金は義足と、それから。

 冷たい空気を裂くように走り去るものがある。真横を通り過ぎられ、旭は足を止め、その後ろ姿を見る。

 乗れない。

「翔くん、元気にしとぉかなあ」

 何も言わずに転校してしまった後ろめたさもあり、なにより連絡先をしらなかったため、あれ以来連絡できずにいる。何、ある程度の金はたまっているのだし、新幹線で京都まで行って、家は知らないものの、小学校に行けばよしみで住所くらいは教えてくれるに違いない。

 それでも、旭はそれを決断できずにいた。この様を、彼に見せるのは気が引けた。

 一緒にいたときはずっと自転車で会話をしていた。今更何の会話をすればいいのか分からない。翔くんは、彼はロードレーサーとして、今も道を走っているのだろうかと思う。多分、否、間違いなく走っているのだろう。翔くんのおかはんはもう退院して元気にしているのだろうか。彼は毎日毎日来る日も来る日も母親の病院に見舞いに行っていた。懐かしい。ひどく。

 旭は新聞の入っているバッグを抱え直して走るのを再開する。左脚は随分と体に馴染んだが、それでも自分の身体ではないとどこかで否定を繰り返している。

「自転車、かぁ」

 乗りたいなぁ、とぼやくが、この足では乗れない。車椅子のロードレースもある。そんな道もある。けれども、旭はあの風を感覚を忘れられないでいた。風を裂く、自転車と一体になって、風になるその感覚が、未だ指先に残っていた。

 新聞をすべて配達し終え、帰路へ着く。今日は日曜日で学校は休みである。

 家路の途中、自転車屋の前を通る。いつもいつも、ここで足が止まる。この店はロードバイクが充実している。ガラス越しの光景は、あまりにも眩しかった。

「乗ってみるか?」

 店内から声がかかり、驚きでバランスを崩して旭は尻もちをついた。大丈夫かとの声と共に手が差し出されるが、平気やと笑って自分で立ち上がる。

「乗るぅて、うち義足やよ」

「義足でも自転車は乗れるぞ」

「乗れる、て」

 嘘や、と旭は口の中で叫ぶ。ペダルを回すのに必要なのは脚である。確かに、片足でもペダルは回せる。しかし、遅い。それでは、あの風を味わえない。あの光景をまた見ることはできない。

 それならいっそ。

 俯いた旭に、店員と思しき男性は、旭が眺めていた自転車を目の前まで持ってきて止める。

「乗れ」

「せやけど」

「いいから、乗れ!」

 脇から掬い上げられ、サドルに尻が乗る。懐かしい感触が全身に電気のように走った。恐る恐るグリップを握る。その感触すら、忘れて久しい。グリップの感覚を確かめるように指を一本一本開いてまた握る。

 いいか、と店員は説明を始めた。

「最初は確かに難しい。だが、義足でロードバイク乗ってる人はいる」

 以前乗っていた自転車よりもサドルは随分と高い。それは、この店員が意図的にしたことなのかどうなのか、旭には分からなかった。

 旭の義足の先がトゥーグリップでペダルと固定される。

「回してみろ」

 言葉と共に、旭はゆっくりと脚に力を加えた。タイヤがくるりと回り、前へと進む。それはあまりに遅かったが、それでもタイヤがペダルと連動して回った。トゥーグリップで固定されているため、ペダルが義足の動きに合わせて持ち上がる。

「動かはっ、」

 左脚をかつてのように地面に着こうとしたが、トゥーグリップで固定されているため、動かない。あ、と気づいた時には遅く、自転車から盛大に体が転げ落ちていた。

 大丈夫かと店員が声をかけてくれたが、それ以上に高鳴る心臓の音が喧しく、そんな声は遠く聞こえなかった。

 乗れた。

 乗れた。自転車に、乗れた。

「寒崎自転車店だ。買うつもりがあったら、来いよ」

 呆然と座り込んでいる旭に店員は名刺を一枚、空になっているバッグに放り込んだ。旭はよろよろと立ちあがり、頭を一つ下げ、上げた。

 きらきらと。

 目が、輝いていた。

「うち、また、乗れる」

 自転車に、乗れるんや。

「よっ、よろしゅうお願いします!」

 諦め半分の目的皆無の貯金がようやく使い道が見つかった。ああと旭は顔を上げた。

 幼いころ、翔くんと見た山頂からの景色が、目の前一杯に広がった。それは、現実味を帯びたものである。夢でなければ幻想でも、非現実的なものでもない。現実可能なものなのである。

 足が一本、生えた気がした。

 何も言わずに去ってしまったけれど、次に会ったら、会ったらそうだと旭は思う。

「また、見に行こう。さそぉ」

 また、二人で。

 あの景色を。