後知恵

 ずうずうしいという単語は彼のためにあるのかもしれない。
 傘をさしたままベッドの上にちょこんと、その長い脚を折りたたんでにこやかに座っている白黒無常の、謝必安の姿を扉を開けるや否や見つけてしまい、エミリーは額を押さえて、開けたはずの扉を閉じた。
 エミリーが閉めかけた扉を俊足とも呼べるその足で、手早く押さえる。力では敵うはずもない。
「今日は、とてもいい天気よ」
「ええ、とても良い天気でした」
「私があなたと以前にした約束を覚えているかしら」
「勿論。眠れない夜は、部屋を訪れてもいい、と」
「ひとつ前の文章が抜けているわね」
「そうですか」
「そうよ」
 諦めて、自室に入ると謝必安は傘を飛ばしてベッドの上に再度座った。
 いつの間にか、気付けばこのハンターはエミリーの部屋に入り浸ってしまっている。面の皮が厚いというべきか、何を言っても居座り、最終的には泣き落としをしてくるので、エミリーとしては頭を抱える問題の一つとなってしまっている。
 最初はこんな関係ではなかった。
 エミリーは、溜息と共に机の前に置かれた硬い椅子に腰かける。
「今日はどうしたの」
 それでも来訪の理由を尋ねてしまうのは、まるで彼が幼い子供と大差ないからである。
 駄々をこね、意見が通らなければべそをかく。泣いたカラスはすぐ笑い、下心のない笑みを向ける。言葉遣いこそ大人びているが、実質は五歳児と大差ないのではないかとすらエミリーは思っていた。
 我儘な第一次成長期に突入した子供と向き合っている気分になりながら、エミリーは謝必安と向き合う。
「髪を乾かしてほしくて」
 そう言われてはじめて、その長髪が濡れていることに気付く。
 風呂上りなのだろうか、しっとりと濡れた髪は全く拭けておらず、ぽたぽたと滴をたらし、最終的にはエミリーの布団を濡らしてしまっている。
 びしょびしょの布団で寝るのはごめんである。
 エミリーは自室に置いている柔らかく大判のタオルを引っ張り出して、謝必安の髪を優しく叩くようにして水分を取っていく。白と黒の混じった、長く細い、綺麗な髪。くせのある栗毛の自分の髪とは違うと、少しその髪の毛を羨ましく思った。
 エミリー、と謝必安は髪を拭いてもらっていることに気分を良くしながら話しかける。
「今日のゲームは完全勝利だったんですよ。無咎の大活躍と言ったら」
「サバイバーの私が、ハンターの完全勝利を手放しで喜ぶと思ったの」
「ええ。私が追いつめた獲物を無咎が次から次へとやっつけるんです」
「そう」
 そういえば、とエミリーは視線を逸らす。
 今日は燦々たる結果だったと、ナワーブが腹立たしげに荘園に戻ってきた姿を見た。一緒にゲームに向かっていた占師も疲れたように机に突っ伏していたのは記憶に新しい。イソップにいたっては、納棺する間もなくファーストチェイスでやられたようで、傷心ここに極まれりといった様子で壁に向かって一人呟き続けていた。
 髪が長いためか、タオル一枚では足らず二枚目のタオルで仕上げをする。
 エミリーは複雑な心境で謝必安の話を聞き、時折相槌を打つ。三十分ほど話を聞いていれば、ようやっと髪を乾かすことができた。
 ぽん、と骨ばった、肉のついていない背中を叩く。
「さあ、終わったわよ。帰ってちょうだい。私もこれから」
 これから、と言いかけたところでエミリーは、頭を本気で抱えた。
 にんまりと口角を上げたハンターは流れるようにエミリーのベッドに転がった。ご丁寧に慣れた動作で掛け布団まで被ってしまっている。
 非難めいた声が上がる。
「謝必安!」
「どうぞ。あなたの仕事をしていただいて結構ですよ」
「そうじゃないの」
「では、なんでしょう」
「その、今日は自分の部屋で寝てくれないかしら」
「どうして」
 知ってか知らずか、意図的なものかどうなのか、エミリーの質問の意味が分からないとばかりに返答した謝必安に、エミリーは言葉を選びながら話しかける。
 そう、小さな子供でも分かるように、丁寧に。
「ここは私の部屋なのはわかるわね」
「ええ、ここはあなたの部屋です」
「そして、あなたが寝ているベッドは私のベッドなのもわかる?」
「勿論です。私が寝ているベッドはあなたのベッドですよ、エミリー」
「あなたには、あなたのベッドがあるのもわかってもらえる?」
「はい」
 一つ一つ課題をクリアしていく。
 エミリーは、まとめにはいった。つまり、と続ける。
「そこは私のベッドで、あなたのベッドは別にあるのだから、あなたのベッドで寝たらどう」
「眠れなければ、来ていいと」
「どうしても、と言ったわよね。あなたのどうしてもは、こうも続くものなの?雨どころか、水の一滴も落ちてない。私はあなたのママじゃないのよ。毎日寝かしつけてはいられないわ」
 そこまで言って、エミリーははっと口を塞いだ。言い過ぎたと、視線を落とす。最初に気にかけたのは自分であるし、きっかけを作ったのも自分である。中途半端に投げ出すのは、一番好ましくない。医師としても、人としても。
 エミリーの態度に気づいてかどうか、謝必安は一寸黙る。しかし、ぱっと顔を明るくして、エミリーへと話しかける。
「毎日でなければいいんですね」
「え」
「では一日おきでどうでしょう」
「ちょっと」
「でも一日おきは急に減りますね。二日に一日開けるのはどうでしょうか」
「ま」
「ああ、六日に一日開けると丁度七日で一週間ですよ。それで、また一日目から始めるんです」
 そうしましょう、と謝必安はエミリーに二の句を継がせることなく手を叩いて決める。部屋の主の賛同がまったくないルールが今ここに決定した。
 言葉が出てこず、エミリーは口だけ、餌を求める魚のようにぱくぱくと喘がせる。
 悪意のない笑顔ほど性質の悪いものはない。彼は至って自然であると、これが当然の帰結であると信じているし疑ってもいない。
 わかったわ。
 エミリーは椅子から立ち上がり、自分の枕をぶんどり、前に抱える。
「どこへいくんですか」
「あなたの部屋よ」
「どうして」
「あなたが私の部屋で寝るなら、私があなたの部屋で寝てもいいでしょう。ベッドは貸してあげる。六日後には返して」
「私の部屋がいいんですか」
「現状、そうなるわ」
 苛立ちを隠せず、エミリーはとげとげしく言い返した。しかし、それは、その言葉は失言と呼べるそれだった。
 あ、と気づけば体は骨と皮の腕の中に収まっている。足は宙ぶらりんで、少し上を向けば、上機嫌ここに極まれりといった満面の笑みを浮かべた謝必安の顔があった。
 枕を抱えた状態でエミリーは、なぜこうなったのか理解できず、足をばたつかせる。
「私の部屋がいいなら、最初からそうと言ってくださればいいのに。なにしろハンターだらけの居館ですから、私の部屋はいやだとばかり」
 それは、確か最初に交わした会話にあった。
 投げたボールがストライクどころか、一切合切全て尽く暴投してしまっている。ここにオフェンスのウィリアムがいれば、ラグビーボールのキャッチの仕方を懇切丁寧に一から十まで教えてもらいたいとエミリーは心から嘆いた。
 さあ行きましょう。
 待ってという言葉すら傘に飲み込まれてしまった。
 目を開いた時には、すでに彼の部屋に立っていた。自身の部屋とは一線どころか一線も二線も違う光景に、正直エミリーは部屋をまじまじと見てしまう。はしたない、と思いもしたが、柔らかな良い香りに少し気持ちが落ち着く。
 部屋の隅に焚かれている丸い香炉に目をやる。鮮やかな柄が一層目を引く。
「これですか?よい香りでしょう。無咎が好きなんです」
「そうなの。ええ、とてもよい香り」
 流され、正直な感想を述べてしまうが、そうではないとエミリーは首をふるう。
 さて寝ましょうと謝必安は寝台にエミリーを下ろすと、いつものようにその横に転がる。
「帰るわ」
「どうしてです」
「どうしてって」
「一人で?ここはハンターの居館ですよ」
「それは、そうだけど」
「朝になれば送ります」
 そういうや否や、謝必安はエミリーの腕から枕を抜き取り、寝台に枕を据える。自身の枕とエミリーの枕、並んで二つ。枕を謝必安の細い指が優しく叩く。
 エミリーは白旗を上げた。
 かなわない。
 ささくれ立った心に蓋をして、エミリーは枕に頭を突っ込んだ。上から大きな、柔らかな香が焚き染められた布が被せられる。何故この環境で眠れないのか分からない。
 そしてエミリーは眠りに落ちた。
 眠ってしまった謝必安の上に傘が開く。
 穏やかに眠る姿が傘に一度飲み込まれ、そして再度傘が開き、范無咎は隣で眠るサバイバーを見下ろした。寝つきはいいようで、すうすうと心地よさげな寝息をたてている。
 そうして、起こさないようにそっとその体を抱え、傘に沈んだ。

「無咎!無咎!あんまりです」
 范無咎は何も言わない。
 そもそも二人が同時に顕現して会話をすることはない。それでも謝必安は傘をぽこぽこと叩いた。きっと范無咎には伝わっているだろうと思って。
 朝起きれば、そこにはエミリーの姿はなかった。すでに寝台は冷たく、人がいなくなってから随分と立っているのは明らかだった。
 そもそも謝必安は眠りが浅く、第三者が動けばすぐに目が覚める。それは相手がエミリーであっても例外ではなかった。だから、エミリーが自分で起きて自分で出て行ったのであれば間違いなく気付くはずだった。
 気付かなかったということは、もはや答えは一つしかない。
 うんともすんとも返さない傘を謝必安はしょんぼりと項垂れて抱えた。
「叩いてすみません」
 でも、やはりあんまりである。
 謝必安はぐすりと鼻を啜った。