1
どこまでいっても自分はハンターで、彼女はサバイバーなのだと思い知らされる。
高揚する気持ちを抑えきれず、謝必安は胸を押さえた。
傘で、その柔らかな肢体を突き飛ばし、肉を抉った感触が掌に残っている。それは忌避すべきものなどでは決してなく、むしろ全身に甘い痺れが走るほど、刺激的なものだった。
いつだったか、ジョゼフのゲーム中に、彼女が雪面に倒れ伏した光景を思い出す。
純白の、汚れの見えない雪に彼女の赤い血が広がっていく様を、傷だらけで、這うように庭師へ向かうその姿に、謝必安は興奮を隠しきれなかった。嗜虐的な一面が、どろりと顔を覗かせる。
顔面を傘の芯で打ち付ければ、体は軽く吹き飛ぶに違いない。治療の間もなく弾き飛ばせば、彼女はもはや地面に転がる芋虫とそう大差ない。不安要素の起死回生は、救助の際にダブルダウンを受けて既に使用してしまっていた。
名前を呼ぶその声が苦痛に彩られ、温かな飲み物を入れてくれる手が鮮血に染まり、我儘を許容し向けてくれる笑みが恐怖に染まるその一瞬。
ジョゼフを悪趣味だと言ったことは、撤回しましょうと謝必安は腹の内で、湧き立つ感情を持て余しながら進む。
痛みを堪えて、それでも逃げようと必死になる、あるいは仲間を逃がすために囮となるその姿は、ひどく。そうひどく。
そそられる。
思わず口が緩みそうになり、謝必安は口元を手で押さえた。
もし彼女が振り返りでもした瞬間、その笑みを見れば、おそらく二度と彼女から自分に近付くことはなく、寝室への出入りも許されなくなるであろうことを想定して。
足の長さ故か、歩幅が大きく違う。
ちょこちょこと動き回り、塀を乗り越え、建物をかいくぐり、時に板で道を塞ぐ姿は、いっそ健気で涙が出てきそうだった。
それでも、彼女の二歩は自分の一歩である。
肺腑に溜まった息を外へと吐き出し、傘を大きく振りかぶり、そして容赦なく振り下ろす。決まった。
エミリーは側頭部を強打され、体がバウンドするほどに跳ね飛ばされた。びくりと一瞬動いて、その体は止まる。
あれ、と謝必安は倒れ伏したエミリーに近付き、そっと見下ろす。
「エミリー」
どうやら完全に意識を飛ばしているようだった。
謝必安はあたりを見回し、エミリーが囮になっている間に逃げたサバイバー、後はハスターの足元でなぜか平伏をしている占い師を確認した後、視線を元へ戻した。
あの様子を見れば、占い師がエミリーの救助へ来ることはないのは明白である。
ハスターと言葉を交わしたことは数えるほどしかないが、占い師がゲームメンツに加われば、深い溜息を吐く姿は知っている。
それはよいとしても。
謝必安は血で汚れてしまったエミリーの顔をまじまじと見た。
眠っている姿を見たことはあれ、気絶した姿は見たことがない。
見たことがある方が問題のようにも思えたが、指を伸ばして、乱れた髪をそっと直す。
「エミリー」
返事はない。血の海だけがじわりじわりと広がっていった。
自分が彼女を倒した。
気絶しているエミリーの前で、謝必安は目を細め、ゆっくりと口端を持ち上げた。
いけませんね。
「ゲーム、終わらせましょうか」
腰に風船を巻き付け、体を宙に吊り下げる。それでもなおエミリーの意識は戻らない。
実を言えば、付近の椅子は庭師に壊されていたため、椅子はゲート前にあるジェットコースターの離れた場所にしか残っていない。それでもエミリーが暴れないため、風船からその体が落ちることはなかった。
ゆっくりと、謝必安は歩を進める。寂れた遊園地の壊れた音楽が狂ったように鳴り続けている。
サバイバーに興味などない。
白黒無常はそういうハンターだった。だった。だったのだ。
故郷の歌をゆっくりと口ずさむ。さながら、ジャック・ザ・リッパーのように。
しかし謝必安は思い直す。よく考えれば、興味は、確かにない。
エミリー・ダイアーというサバイバーがどういう経歴を持ち、彼女が何を考え何を願いここに来たかなど、やはり興味はわかなかった。
それに、興味はない。
彼女というサバイバーに興味はない。
椅子の前で、謝必安は足を止める。ハスターの前で跪いていた占い師がどうやら飛ばされたようだった。後は彼女を椅子に括り付ければ、五対三で勝利を得る。
「エミリー」
気絶したままの彼女から返事があるはずもない。
そして謝必安は、まだ開けられていないゲートの前に立ち、エミリーの体に括り付けられている風船を切り、乱暴にその体を落とした。そして傘を開く。大きな傘は、陰ですっぽりと謝必安の顔を隠した。
エミリーは落とされた衝撃で目を覚ます。
背後に立つハンターの姿に、咄嗟にその横をすり抜けて逃げるが、その場から白黒無常が動く様子がないのが見て取れた。服装は。
「謝必安?」
おそるおそる、エミリーは微動だにしない白黒無常の隣へ近づき、その表情を覗き見るも、真っ暗でそれを見ることは叶わなかった。
動かないハンターを背中に、早鐘のように叩かれる鼓動を押さえつつ、ゲートを開ける。
どうにか開放状態となったゲートに一歩足を踏み入れるが、白黒無常は動かなかった。
言葉をかけることもできたが、少し離れた場所から触手の影を捉え、もう一度だけ動かぬハンターを振り返り、エミリーはそのまま荘園へ駆け戻った。
どうして逃がしたんだい。
参加を許されないジョゼフに、謝必安はそう声をかけられた。
「わかりません」
「サバイバーが攻撃できなければ、もはやハンターではない」
そういう訳ではないと、謝必安は傘を抱きかかえる。
手を眺めれば、エミリーを弾き飛ばし、血塗れにした感触ははっきりと、驚くほど鮮明に思い出せた。その光景すらも、ジョゼフのようではないが、写真世界のように瞼に焼き付いていて離れなかった。
「私、彼女に興味があるんでしょうか」
「それを、僕に聞くのかい」
「無咎」
ジョゼフは、眉間に軽く皺を寄せる。
心ここに非ずといった様子の謝必安に、ジョゼフは肩を竦めるとそのまま何を言うこともなく、立ち去った。
謝必安は大事に抱えた無咎をゆっくりと、不安をかき消すように抱きしめる。
「無咎」
雨が降れば、考えるのはいつもあなたのことだけだったのに。
「無咎」
謝必安は目を閉じる。
「私、少し怖いんです」
答えるものは、誰もいなかった。