Молчание знак согласия

 こつん、と白さが際立った指先が机を軽くノックする。重さを持たないその音に、ラヴィーナは本から目を離して顔を上げた。目をしっかりと覆っている布がそれに合わせ、ほんの少しだけ靡く。が、その奥に潜ませてある彼女を生物兵器たらしめている瞳が周囲に晒されることはなかった。
 顔を上げたラヴィーナの瞳の布越しに見えたのは、男の影であった。そして、鮮やかな海の色、多少それは緑を孕んで寄り深い色を構成しているのだが、の瞳が二つ、穏やかに細められてラヴィーナを見下ろしていた。男の、ウラディスラフの口が動く。
「ごきげんよう、マリンカ。多少の時間を私の為に頂けますか?」
 ロシア。極寒の地。
 任務も先日無事に終わり、本日帰国なのだが、荷造りも済んだところで飛行機離陸までには十分な程の時間があったので、与えられていた部屋でのんびりとしていた。暇、と言えば暇なのである。
 だが、ラヴィーナはウラディスラフに対する答えを一拍二拍待った。かちこちと部屋の上部、壁に添えつけられている時計だけが時を刻み、そして知らせる。穏やかに笑う男性の表情のそのまた奥に潜むものを嗅ぎ分けようとラヴィーナは試みたが、優しげに細められたその瞳の向こうに見えるものはただただ優しさのようにしか見えない。
 最終的にラヴィーナは首を縦に振った。それに対して、ウラディスラフは重畳、と微笑む。大きな差し出された手に対して、ラヴィーナは恐る恐る手を伸ばした。その手が自身の掌に触れる前に、ウラディスラフは軽く手をもう少し先に出し、ラヴィーナの手を掴み取るとぐいと力で持って立ち上がらせる。兄であるセオと同じくらいの長身のウラドの胸にラヴィーナはごつんと鼻をぶつけた。
「失礼。大丈夫ですか、マリンカ。綿毛のように軽い。しっかり掴んでおかないと飛んで行きそうです」
 そう言い、ウラディスラフは少しばかり、その手に力を込める。ぎょっとしてラヴィーナは軽く手を振ろうとしたが、固定された手は離れることが無い。いつもの事ではある、とラヴィーナはとうとう諦めた。
 そしてウラディスラフの足が進むままに歩く。
 歩きながらラヴィーナは気付く。彼の歩幅は兄であるセオと同じコンパスにも関わらず、随分と遅いことに。セオと歩く時は少し早足を心掛けなければ置いていかれるが、こちらはゆっくりと歩いても置いていかれる気がしない。試しに少し速度を落とすと、それに合わせて、相手の足の運びはゆっくりとなった。良いところもあるのだ、とラヴィーナはウラディスラフを見直す。
 いつもこういうところばかりだとしたならば、セオもウラディスラフを邪険にすることもないのではないだろうか、とラヴィーナは引かれた椅子に大人しく座りながらそんな事を思う。
 大きな背、大きな手。大きな体。がっしりした肩。しっかりした眉、長めの睫毛、深い色をした瞳。凶悪に嗤ったり、優しく笑う口元。
 そしてラヴィーナは気付く。いつもしていた手袋を、ウラディスラフは今日はしていなかった。そしてその指にはいつも沢山の指輪をしている。右手の薬指だけは空いているのだが。左手の薬指には何も嵌められてはいないのだが、実は既婚者ではないのだろうかとラヴィーナは疑う。なので、自分に対する行為は全て冗談、もしくは遊びなのだろうとラヴィーナは思う。それこそ、彼はどことなくあのメフィストに似ている部分を感じる。セオとは真逆である。
 一生に一度の恋。そんなものを笑って吹き飛ばす。
 だがしかし、自分はそちらの方が良い、とラヴィーナはウラディスラフの手を布越しに見ながら考えた。その思考を強制的に遮断させるようにして、唐突に声が掛けられる。
「私の手がマリンカのお気に入りですか?妬けてしまいます」
 見られていたことに気付き、ラヴィーナは少しばかり肌を染めて首を横に振った。そして、ウラディスラフはふとラヴィーナの右手を取った。その薬指には嵐属性の指輪が一つ嵌められていた。いつもは中指に嵌めているのだが、セオがロシアに行く時は右手の薬指にと言って指輪の位置を変えさせたのは記憶に新しい。
 ウラディスラフの指先が、その指輪に触れ、そして笑顔を作る。
「大丈夫、奪ったりはしません。しかしマリンカ」
 優しげに掛けられた声にラヴィーナは首を斜め四十五度に傾ける。掌に添えられていた手はいつの間にか手首をしっかりと固定し、もう片方の手はするりと嵌めていた指輪を抜き取った。その動作にラヴィーナは布の奥で目を大きく丸くする。そして警戒態勢を瞬時に取り、開いている方の手で、いつも備えている四辺を加工したトランプを手にした。
 しかし、抜き取られた指輪は、その隣の指、つまり普段嵌めていた中指に納められる。一体ウラディスラフが何をしたいのかさっぱり分からずにラヴィーナは持っていたトランプを箱に収めた。
 にこやかに、ウラディスラフは笑う。
「マリンカ。私があなたが嫌がることをすると思いますか?」
 そう言われても、とラヴィーナは軽く首を縦に振った。それにウラディスラフはくつくつと喉を笑わせ、随分と信用を失くしたものですと言うに収める。
 強い指先で右手の薬指を撫でる。既に指輪が移動されたその指は、ただ滑らかに指先から手の甲までの指の移動を可能とした。やけに色気を感じるその動きに、ラヴィーナはさっと右手を引いて自身の膝の上に戻した。今度は簡単に引くことを許される。疑わしそうな視線をなんとやら、ウラディスラフは愉しげに、ただ愉しげに口角を吊り上げる。
「右手の薬指には、どうか指輪を嵌めないで下さい。私が嫉妬でどうにかしてしまいそうです」
 右手の、と言われても全く理由が飲み込めず、ラヴィーナは運ばれてきた紅茶を軽く傾けた。
 ラヴィーナの不思議そうな視線に気付いたのか、ウラディスラフは、ああと説明を続ける。
「ロシアでは結婚指輪を左手の薬指ではなく、右手の薬指にするのです。もう一つ添えておきますと、左手の薬指は離婚した証です。私も近いうちにあなたにゴールドの指輪を贈りたいものです」
「…」
 ふる、とラヴィーナはウラディスラフの言葉に首を横に振った。だが、ゴールドと言う言葉に耳を引かれて、メモ帳を取り出し「платина(プラチナ)」と記して差し出す。イタリアにおいても結婚指輪で主流なのはプラチナであって、金ではない。金の指輪もないわけではないが。
 ラヴィーナの質問に、ウラディスラフはにこやかに目を細める。
「金なのは伝統です。勿論多くの女性はプラチナの方が高いので、そちらを好みますが…マリンカがプラチナが良いというのであれば、それもまた已む無し、です」
 そう言われた言葉にラヴィーナは咄嗟に首を横に振って、そもそも結婚を前提に付き合っているわけでもなければ、付き合うことすらしていないことを思い出して欲しいと真剣に考える。
 しかしながら、ウラディスラフは見事にそれを違う言葉で言い変えた。
「そうですか、やはりゴールドが。結婚式はやはりロシアで挙げましょう」
 ぶんぶんとラヴィーナは強い否定を意味して首を横に振る。髪の毛がまるでプロペラのように回旋した。そんなラヴィーナをからかうかのように、ウラディスラフは笑い、そして近いうちにと言い、どことなく話をはぐらかした。
 腹の内が全く読めないまま、ラヴィーナは手にした紅茶を半分程飲み干す。そこで、対するウラディスラフが同じ紅茶を飲んでいるというのに気付き、不思議に思っていたことを質問した。それを書き記したものをウラディスラフに提示する。そうすると、軽い笑い声がカフェに響く。何か間違ったことを言っただろうか、と少し集まった視線に、ラヴィーナは少し頬を染めた。
 ウラディスラフは失礼致しました、と一つ謝罪してから手を振る。
「ロシアンティーなるものは、ロシアにはありません。それですので、紅茶にジャムを入れて飲むという風習も存在しません。まぁ、蜂蜜は入れたりすることもあります。茶受けの菓子は甘いものが多いですが」
 そう言って、その指先で前の皿に置かれているクッキーとチョコレートを口に含み、ウラディスラフは笑う。
「イタリアでもロシアの紅茶を楽しみたいのならば、サモワールをプレゼントしましょう。紅茶の淹れ方は紙に書いておきますので、是非とも帰国してからもロシアの味を思い出していただけると嬉しい。それと、私の事もそれに合わせて思い出していただければ、嬉しいのですが」
 細められた瞳にラヴィーナは、何故だか不思議とその目を見つめることができず、ふいと視線をそらした。

 

 セオはラヴィーナの部屋に置かれている、綺麗な装飾が施された物体を見る。
「ラヴィーナ、これ何だ?」
 指差した物体にラヴィーナは「サモワール」と書いてセオに見せる。そして、もう片方の手にはロシア語で何かと書かれているメモが一枚。そちらにセオが気付くことはなく、ふぅんと顎に手を添えて、美しい芸術品のようなそれをまじまじと眺めていた。
 ラヴィーナはその肩を指先で叩き、そして紅茶を淹れる仕草をする。セオはGrazieと言って、外を眺める。良い天気であった。
「なら、外で飲もう。折角良い天気だしな」
 セオの言葉にラヴィーナはこくんと頷いた。
 大きな体が外に準備をしに行った後で、ラヴィーナは少し癖の強いロシア語で書かれた文字を見る。今度イタリアに来た時は、サモワールで淹れた紅茶を馳走しようか、とそんなことを考えた。