君は、と掛けられた声にセオはそちらに視線を向けた。左にはジーモ、右にはドンと古くからの友が座っている。各々の手には食べ物、もしくは飲み物が持たれていた。
場所はジーモの部屋のベランダ。時刻は昼時。天気は快晴。ランチには全く素敵な三つの要素が揃っている。これで食堂に足を運んで食べるのはちょっとした楽しみを逃しているようなものである。
その会話の合間に、ジーモが、今日はとドンの問い掛けを一度遮った。
「ランチはこっち?」
「毎日来るなって言われた」
「成人した良い年した大人が毎日両親の家に行ってご飯たかってれば当然そう言う反応があって然るべきだとは思うけどね」
そっけない一言を加えたドンに、セオは軽く溜息を吐いた。
母の料理が食べられないのは痛手である。尤も、晩飯は食べに行っているので、そう痛手と言う程には痛手では無いのだが。そうは言っても、仕事や任務が詰まる時は結局こちらで食べることになるのだし、結局母の料理を食べに帰られるのは一週間に三日四日程しかない。残念で仕方ない。
今度は溜息を深く突いたセオに、ドンは一言、マザコン、と詰った。それにセオは怪訝そうに眉を顰める。
「俺はマンマが大好きなだけだ」
「あーはいはい。そうだったね、この林檎馬鹿」
「林檎は旨い」
「もう良いよ」
暖簾に腕押しの会話になるのは目に見えていたのか、ドンはそこで話を区切った。二人の会話をにこやかに聞いていたジーモは、先程自分が切ってしまった会話の続きをドンに求める。掘り返されるとは思っていなかったのか、ドンはああとすぐに返事をすることはなかった。一拍置いてから、そうそうとセオの銀朱へと目を向ける。
「君さ、家には帰ってるみたいだけど、オルガのところには滅多に帰らないね。一月に一二回?」
「ああ。ここから少し遠いし。それに何より、俺とオルガの愛は少し会わなかったくらいで」
「あーはいはいはいはいはいはいはい。分かった分かった。よーく分かったから、その鬱陶しい口閉じて」
今にも蕩けそうな幸せな顔をしたセオの言葉を、ドンはウンザリとしながら手を振って遮る。このまましゃべり続けさせれば、こちらの方がノックダウンさせられることは間違いない。反対に、セオは遮られたことに大変不思議そうな顔をして首を傾げ、聞いたのはお前なのにとばかりにぶつぶつと言う。
机の上に乗せていたパニーノが半分ほどに減って、それぞれの手前に置かれたカップからは飲み物が消えて行く。ジーモはお代わりいる?と下に下ろしてあるバスケットを指して聞いたが、二人は軽く首を横に振って否定した。代わりに、と二人揃って空になったカップを差し出した。にこやかに笑い、ジーモは電気ポットを動かしてコーヒーを淹れ、差し出されたドンのカップに注いだ。セオには言うまでもなく、林檎ジュースを淹れた。
「セオのマンマはこっちに住んでたよなーセオはそうしないの?」
ジーモの問いかけに、セオはいいや、と首を横に振って、口に添えていたカップを離した。黄金色の液体がその動きに合わせて揺れた。
「オルガは店があるし。そっちの方が良いだろ。ここに住まわせたら、オルガの方が大変だしな。オルガの父さんも心配だし」
「セオが向こうに住むって言う選択肢はないわけね」
「何かあった場合の対応ができない。それは困る」
「その理由は君らしいと言えば、大変君らしいよ」
ところで、とドンは話を少しばかり方向転換した。
「君たち、婚約者になってからどれくらいになったっけ」
「あー…二年くらいかな」
確か、と思い出しながら、うんとセオは唸る。そんな言葉にジーモはカップを傾け、少しばかり冷めたブラックのコーヒーを飲み、緊張感のない声を上げた。
「二年かー…」
「でもセオ。君とオルガはお互いに結婚する意志もあるし、両親も公認してる。式の準備も始めてるんでしょ?大体ここイタリアでの付き合ってから結婚までの期間が長いのは経済事情の問題だ。それは十分にクリアしてるじゃない。とっとと結婚でもなんでもしてくれないと、君が一生独身で終わるんじゃないかと心配で気が気じゃないね」
椅子を傾け溜息を吐きながら、ドンはコーヒーにミルクと、三杯の砂糖を入れてかき混ぜる。それにセオはそうなんだが、と言いつつ、林檎ジュースを半分程飲み干した。
「式の準備がなかなか進まなくて…」
「二年?二年だよ?ちょっと、君、だらしないんじゃない?時間の使い方を間違ってるとしか思えないね」
「いやーでもゆっくりでもいいと思うよー?ほら、セオだし」
「そんなのはヘタレ男の唯の言い訳に過ぎないんじゃない?」
「…ドン…」
それはちょっと、とジーモは苦笑しつつ三分の一に減った自分のカップにコーヒーを注ぐ。
ドンの辛辣な言葉にセオはそうじゃないと否定を加えた。そんなささやかな否定の言葉にドンは冷たい視線をぶつけながら、セオを見た。軽く首筋を掻いて、困ったように息を吐く。その片手には最後のパニーノが持たれていた。
セオはそれを口にし、咀嚼をし、そして嚥下した。トマトが美味しい。
「そうじゃなくて、日取りが合わないんだ。後、一月に一二度しか会わないから、会ったらついつい別の事話したりで、ちっとも進まない。まぁ、別に現状に満足してないでもなし、問題も無い」
「ジーモ、良く見ておきなよ。これが最強と謳われるボンゴレファミリー独立暗殺部隊VARIAのボスであるセオ様の女性のリード一つまともにできないという情けないことこの上ない姿だ」
「…そこまで言うか?というか、ジーモ。お前もそこは否定しろよ」
辛辣極まるドンの言葉にセオは多少眉間に皺を寄せながら、ドンの言葉に反論一つせずにコーヒーをゆっくり飲んでいるジーモに声をかけた。鮮やかに刈り込まれた金髪の下にある空の瞳がにこりと微笑む。
「いや、だって…うーん…否定できないかなぁ…ほら、そういうことは、きちんとセオがリード取ってあげないと」
朗らかに言われ、セオは反対に言葉を失う。そんな困ったような顔で言われてしまっては、反論のしようがない。唸っているセオに向かって、ドンはさらに悪態を告いだ。とどめには、まだ、早い。
「忙しいなんて理由になるわけないでしょ。唯でさえ君は特殊なんだから、少しは安心させてあげたらどう?せめてジーモみたいに一週間に一度は帰るとか」
「だから時間が無いんだ。そりゃ、顔を見に行くくらいならできないでもないが、顔を見たら泊りたくなるし…抱きしめたくもなる。いや、だってだな。あんなに可愛い笑顔で、セオ!って名前呼ばれたら抱きしめないわけにはいかないだろ?話も沢山聞きたいし、というか、オルガの声を聞いてるだけで俺は幸せになれるわけだし。というか、料理を作ってくれてる時のあの背中もこうほんわり暖かくなるし、そりゃ、確かに料理の腕は今一、というよりも正直な話、美味しくないけれど、オルガが作ってくれたってだけで最高の料理
「言ってて恥ずかしくない?それと、今の最後の部分は是非ともオルガに聞かせてあげたいね。ビンタでもプレゼントされるんじゃない?」
「…まぁ、オルガのビンタなら別に…」
「君は一体いつからマゾヒストになったの?」
ああ嫌だ、とドンはぶるりと身を震わせて、砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを飲む。ドンが半分程飲み干したそのカップを机に戻すと、ジーモは空になった皿の上に、ざらりとクッキーを乗せた。形はそこまで綺麗ではないが、美味しそうな色をしている。
「ジーモが作ったの?」
「うん。人参のクッキーと南瓜のクッキー。形はちょっと失敗したけど」
「ふーん」
「ジーモは意外と料理上手いよな。味としては、オルガの料理より旨い」
セオ、と二人は揃って呆れた視線をセオに向ける。その視線に気づいたセオは、どうしたと不思議そうに軽く皺を寄せる。しかし言っても無駄なことは二人とも重々に知っているので、お互いの視線を合わせ、軽く首を振ってから何でもないと溜息を吐いた。
ドンは人参のクッキーを一つ摘まんで口に放り入れる。
「それで?君は一体いつ挙式するの。正直このままだと、一生婚約者のままってことは間違いないね」
「というか、結婚式ってわざわざする必要あるのか?婚約指輪渡して書類で済ませても良いような…そしたら、式も簡易で済む…っい゛」
ごつん、と見事に頭部にカップを喰らったセオは痛みに声を上げて、落ちてきたカップを取り敢えずキャッチし、当たった部分を押さえた。投げた本人を見れば、深い深い、それはもう深海にまでたどり着きそうな溜息がなされる。
ドンは呆れ果てた顔でセオを見た。隣に居るジーモでさえも半ば同情に近い視線を送っている。気心の知れている友人たちの冷たい視線を感じつつ、セオは全く状況が分からなかった。取り立てて間違ったことを言ったつもりはなかったのだが。
「考えても見ろよ。教会で式を挙げるとなると、あの面倒臭い…何だったか、そう、結婚準備講座なるものを受けないとならないんだぞ。一週間に一度一時間。しかもそれを三ヶ月!どう考えても時間の無駄だ。民事婚は確かに教会には宗教的結婚としては認めて貰えないが、それが何だって言うんだ」
ウンザリすると最後に括ったセオにドンはやれやれと肩を落とした。
「あのねぇ」
「何だ?」
きょとんとした顔で返されたドンは、そこから先の言葉を溜息に変えた。どうやらセオにいくら言っても無駄骨と解釈したらしい。暖簾に腕押し、馬耳東風、糠に釘。様々な諺があるけれども、全くやっていられない。
兎も角、とドンは今度は南瓜のクッキーをつまみ、口に入れる。そして、セオから投げたカップを受け取り机に戻した。
「教会で結婚式は挙げなよ。そりゃ時間的余裕はないかもしれないけれど、そういうのは、言わなくても楽しみにしてるものなの。君は本当に女心って言うか、人の気持ち考えないね。大切にしてるなら、君は少しくらい無理をしたってそのための時間を割くべきなんじゃない?」
「…そんなものか?」
「そんなものなの。ジーモみたいな馬鹿にだってそのくらいのこと分かるんだから、どうして君が分からないな」
「ドン…そこまで言わなくても…」
馬鹿と言われたことはもう今更なので、取り立てて追及することもなく、しかしジーモはドンの突き刺すような物言いには多少の抗議を試みた。一睨みされて、黙るに終わったが。
そんなものなのか、とセオはドンの言葉を繰り返しながら考える。
「分かった。今度帰った時にオルガに聞いてみよう」
「だから、聞くもんじゃないって言ってるでしょ…」
「…結婚式は挙げた方が良いと思うけどなー…うん」
二人の言葉にセオは怪訝そうな、そしてどこか面倒臭そうな顔をしながら溜息を一つついた。
皿の上に乗せられたクッキーを三つほど掴み取り、口内に放り込む。サクサクとした触感のクッキーを食べながら、そしてオルガの味を思い出す。少ししょっぱすぎたり、反対に甘すぎたり、煮込み過ぎたり。だが、セオはそれを美味しいと思う。正しくは、オルガが作ったから美味しいのであって、あれをドンやジーモが作ったら不味いと即答することだろう。食べないことはないが。
顔を合わせても特に結婚式の話をするでもなし、本当に二人の言うように結婚式に興味があるのだろうかとセオは反対に疑う。
「面倒臭いな…色々と」
ぼそりと呟いたセオの頭に二つ目のカップが舞った。