Поедйндк

 ぶは、とラヴィーナは飲みかけていた茶を噴きだした。げほげほと咳込みながら、目の前に居る男に口元を盛大に引きつらせる。爽やかな笑顔で「彼」はそこに座っていた。
「Добрый день(こんにちは)」
「…」
 ラヴィーナが斜めに噴きだした紅茶は男の、ウラディスラフの手に持たれていたメモ帳でしっかりとカバーされており、白髪をも思わせるその銀髪が紅茶に濡れることはなかった。苦手、どころではない初対面の仕方をしたウラディスラフから逃げようとラヴィーナは飲みかけの紅茶を右手に立ち上がりかけたが、左手がいつの間にか、ウラディスラフの大きな手で押さえこまれていた。
 一回りは間違いなく小さな手の上に大きな手が重なっている。ラヴィーナの口元が怯えたように引き結ばれるのをみて、ウラディスラフは目を愉しげに細めた。そして上に重ねた手をゆるゆると小さな手を掬いあげるように己の手をラヴィーナの下に持ってくる。その指先の動きは手慣れたもので、そのままラヴィーナの指を絡め取るとぐいと力でウラディスラフのその唇の下に強制的に持ってこられる。中指の第二関節にその唇が当たる。
 誰にもされたことのないやけに紳士じみた、しかし指先の動きだけは妙に色気を感じさせるその行動にラヴィーナは布の下で大きく目を丸くした。ウラディスラフはく、と口元を吊り上げてラヴィーナを見やる。
「Очень рад Познакомиться. Меня зовут Владислав. Владислав=Даниилович=Калашников. Как вас зовут?(またお会いできて光栄です。私はウラディスラフ。ウラディスラフ・ダニロヴィチ・カラシニコフ。あなたのお名前は?)」
「…」
 しかしラヴィーナは返事をしなかった。返事ができなかったというのが正しい。右手には紅茶のカップ、左手はウラディスラフ握られているままであれば、メモ帳を取り出すことも、どこかに自分の名前を書き記すこともできない。初対面時からは想像もできない程の紳士さにラヴィーナは混乱した。
 あの獰猛な男の目をラヴィーナははっきりと覚えている。セオのような感情すらもなくした瞳ではなく、根底に感情がしっかりとあり、その上でそれらを愉しんでいる瞳であった。恐ろしい、とラヴィーナは背筋を震わせる。
 黙ったままのラヴィーナにウラディスラフは人のよい笑顔を向ける。そして喋らないままのラヴィーナにでは、と軽く掴んでいた手を持ち上げさせて、細めの女の指先に唇を添えてそこで囁くように呟く。
「マリンカ、とお呼びしましょう。私に恋と言う春を告げる可愛らしい苺の花。私のことは是非ウラドとお呼びください。親愛を込めて」
 笑顔が恐ろしい、とラヴィーナは自分の腕を引きはがすために軽く腕を引いた。しかし、掴まれた腕はびくともしない。目の前の男の笑顔は酷く嘘臭い。兄や母たちの笑顔とは全く別種のものである気がして仕方がなかった。指先が、布から下の露わになっている口元が、彼の男から溢れだす威圧感に震えている。
 逃げたい。
 ぐい、とラヴィーナはもう一度強く腕を引いた。しかしやはりウラディスラフはラヴィーナの手を放さない。にこやかな笑顔の目、恐ろしいほどに深い碧眼は、獲物を見つけた捕食者の色をしていた。ぞくりと走った恐怖にラヴィーナは咄嗟に右手に持っていた紅茶のカップを机の上に叩きつけ、懐に入れていたメモ帳を引きずり出して乱暴にペンを走らせるとウラディスラフにつきだした。「Отпусти меня!(放して)」とロシア語で書かれたそれに、ウラディスラフは嗜虐的な色を滲ませて目を細めた。
 ぞくと本能的にラヴィーナはウラディスラフの腕を叩く。ウラディスラフはそれに、かたと席を立ち、ラヴィーナを力任せに引き寄せた。高い位置から見下ろしてくる瞳の強すぎる支配的な感情にラヴィーナは全身を強張らせた。腕に、密着した体にその恐怖と戦慄が伝わり、ウラディスラフはさらに口元に愉悦を滲ませた。体を密着させるために腰に添えていた手が、ラヴィーナの太腿に落ちる。あの時と同じようにラヴィーナはウラディスラフの体を押したが、力対力で敵うはずもなかった。どん、と今度は拳を作って厚い胸を叩く。が、やはり一片の効果も見られない。
 ウラディスラフはほくそ笑みながら、上半身を折り曲げてラヴィーナの耳を軽く食むと、そこに優しく囁くようにして吐息と言葉を与える。
「Очень хочу тебя(貴女が欲しい)」
 泡立つような恐怖が全身を電流のように駆け巡った。今にも混ざり合いそうな吐息の距離を裂いたのは一つの強烈な声であった。
「Владислав, Отпусти её!(ウラディスラフ、ラヴィーナを放せ!)」
 がつ、と強い音を鳴らし、銀朱の瞳に怒りをともらせたセオにウラディスラフはくと口元を歪めると、そっと腰にまわしていた手を離した。セオはラヴィーナの手を取ると、ぐいと自分の方に引き寄せてその大きな背に隠す。同じ高さから睨みつけてくる視線に、ウラディスラフは失礼と笑った。
「あまりにも可愛いもので」
「…二度と、ラヴィーナに触るな」
 威圧を込めて、セオは唸るようにしてそう吐き出す。それにウラディスラフはああと穏やかに笑った。
「私のマリンカはラヴィーナと言う名前なのですね」
 ぞぁ、とセオの感情温度が一気に下がった。ラヴィーナは背中に隠れていて、そのシャツを引っ張るようにして握っていたが、あふれ出た殺気にも近いそれにぱっと咄嗟に手を離して一歩後退する。
「Sta’ zitto, russo cane(黙れ、ロシアの犬が)」
 口から吐き出された言葉の冷たさにウラディスラフの表情からも作りものの浮ついた笑みが退いた。舌先でその唇をぺろりと舐めると、その碧眼を大きく見開き口元に残忍な笑みを乗せられる。
「Закрой своу рот? Несчитай нас идиотом, скотина(黙れ?我々を舐めるなよ、獣風情が)」
 ウラディスラフの挑発にセオは締めていたネクタイを指先で引っ張り緩め、そして羽織っていたスーツの上を脱いでラヴィーナに渡す。
「ラヴィーナ、下がってろ」
 あ、と何か言おうとしたラヴィーナだったが、その前にウラディスラフの笑顔がそれを遮る。ウラディスラフ自身もネクタイを緩めて纏っていたスーツを下に落としてセオに対面する。
「マリンカ、私の勇姿をよく見ておいてください」
「二度とその口きけなくしてやろうか、ドカスが!」
 奥歯を折る勢いでセオはその拳をウラディスラフの頬にめり込ませた。殴り飛ばすつもりでやったので、相手の体が吹き飛ぶことも想定済みだった。だがしかし、セオはめり込んだ拳の先を見つめて、驚愕で目を見開いた。立っていた。にぃ、と反対に相手の口元が歪んだのを拳の先が感知した。一歩、下がる前に、ウラディスラフの拳がセオの腹に入る。打撃自体はそう重い物ではない。セオは、ぎゅ、と革靴で地面をしっかり噛んでもう一度拳を振るった。
 ごっと、ごっとお互いの顔面やら腹やら殴り合うデスマッチに近い光景を目前にして、ラヴィーナはおろおろと狼狽した。そこに、ウラディスラフの部下二名と同じくジーモとドンが通りかかる。こちらは至って平穏に何か話をしていた模様である。そして、殴り合う二人を見て、ニコライとゲオルギーは目を互いに合わせて軽く肩をすくめただけで止めもしない。ジーモは一人ラヴィーナ同様にうろたえたが、どうすればいいか迷っている様子である。そして、ドンはラヴィーナをちらと見やって、ああ成程と笑った。
「良かったじゃない、ラヴィーナ。これぞ両手に化物だね」
「!」
 ぶんぶんとラヴィーナは首を横に激しく振る。ジーモは恐る恐ると言った様子で、殴り合いを止めない二人を見ながら、ニコライへとその、と声をかけた。
「止めなくて、いいんですか?あの…セオ、結構本気で殴って、ます、けど」
「構いません。ああ見えてウラドは打たれ強いですから。鍋が変形するほど殴ってもピンピンしていた怪物です。問題はありません。ご心配なく」
 ご心配なくって、とジーモはああとさらに殴り合っている二人をラヴィーナと一緒におろおろと見た。ニコライの説明を聞いていた、ゲオルギーはははと笑う。
「攻撃力に秀でたセオと防御力に秀でたウラド。こりゃ、決着つかねえんじゃねぇの?」
「倒れるまでしたらよいでしょう。体力がなくなれば必然的に両者ともにノックダウンです。終わったころにヴォトカでも頭に振りかければ喜んで起きますよ、ウラドは」
 部下の辛辣な言葉なぞ聞こえていないようにウラドはセオに拳を振るう。そしてセオ自身もウラドの体に拳をめり込ませた。今しばらく決着がつきそうにない勝負にドンとニコライ、それからゲオルギーは殴り合う二人を避けて道を通る。三人とも己のボスの性質はよくよく知っているので、止めようなどと思うこともない。
 取り残されてしまったジーモとラヴィーナはお互いに視線を合わせて、二人の体力がつき果てるまで、その場に立ち尽くした。