Небрежность

 いよぉおおし!とセオはカレンダーを見てガッツポーズを決めた。その隣では頭二つ分は低いラヴィーナもほっと胸をなでおろしている。兄妹揃っての不可解極まりない、ともすれば変わり者扱いされそうな二人の行動を背中から眺めつつ、どうした、と火のついていない煙草を噛んだエドモンドが声をかけた。火のついていない煙草は彼流の禁煙であるそうなのだが、日に一本の割合で取り換えているところを見ると、本当に禁煙しているのか、はたまたできているのかどうかは全く怪しいところである。
 エドモンドの呼びかけにセオははーっと息を吐きつつ、いやぁと満面の笑顔をそこに浮かべて、それはいっそ気持ち悪いくらいの素敵な笑顔でエドモンドに向き合った。エドモンドはそんな、爽やかな笑顔が最も似合わない男の爽やかな笑顔を見つめつつ、気持ち悪いと心の中だけで思う。勿論口にすることはない。
「イワン野郎が帰りやがった!!」
 イワン、という名前に今度はセオの隣に立っていたラヴィーナが怪訝そうな顔をする。それにエドモンドが、ロシア人のことだと説明を加えた。
「イワンって名前はロシア人男性では最も多くてな。そういうわけで、イワンはロシア人を意味するところが多い。まぁ、蔑称でもあるか。ラヴィーナは使うなよ。口も性格も悪ぃのはそこのチビ助だけで十分だ」
「チビ言うな。でも、本当によかった!Sono al settimo cielo per la felicita!(最高だ!)」
「…イワンねぇ。そんな奴来てたのか」
 エドモンドの言葉にラヴィーナはこくこくと頷いて、メモ帳を引っ張りだすとそれに「Che sollievo(ほっとした)」と書いて見せた。あまり人のことを直接悪く言わない兄妹にしては随分と嫌ったものだとエドモンドは顎を軽くさする。尤も、セオの喜びようはラヴィーナが関係しているとみていいから、シスコンの境地に居る彼がそういう態度を取るのは至極当然だと言える。
 厄介なものだと思っているエドモンドの前でラヴィーナは外に出かける旨をジェスチャーでセオに伝える。身振り手振りで言葉を伝えようとするのは彼女の得意分野であり、メモ帳を使わない会話対象だからとも言える。そうだな、とセオは笑った。
「なら俺も一緒に行くから、そこで待って…え?駄目?」
 最後のセオの言葉にラヴィーナはこくんと頷いた。それにセオは酷く怪訝そうな顔をしてどうしてと尋ねる。今度ばかりはラヴィーナもメモ帳にその理由を書いた。エドモンドとセオはラヴィーナが書き記した言葉を同時に見た。それにエドモンドはああ成程と頷いた。が、しかしセオは相変わらず分からないと言った様子で首を傾げる。それどころか、しらっと平然とした様子で言葉を続けた。
「下着選ぶなら手伝うけど?」
「阿呆か、チビ助。何考えてんだ、お前は」
「何って…何も?ラヴィーナの下着選ぶの、そんなにおかしいか」
 デリカシーというよりも常識にどうにも欠けている一言にエドモンドは冷たい一言で素早く突っ込んだ。しかしながら、訳が分からないと言った様子で首を傾げたシスコンにエドモンドは非常に残念そうな顔をする。全くどうしようもない。
 セオはきりっとした表情で凛々しく続ける。続けられた一言が以下の言葉でなければ賛同するか、はたまた見直してやれるところだが、発した一言が一言であった以上、憐れみの目しか向けることしかできそうにない。エドモンドは咥えていた煙草を口から外して溜息をついた。
「紐パンツとか…!ガーターとかはラヴィーナにはまだ早い!」
「お前のその想像力の方がまだ早い。むしろ一生来なくていい発想だろうが。何沸いてやがる」
「いや。兄として当然だ」
「よーし、ラヴィーナ。この阿呆は俺が押さえておいてやるから、とっとと下着でも何でも買ってこい」
「な…!ラ、ラヴィーナ、派手な下着は駄目だぞ!できれば白でレースとかついてないへそ辺りまであるしっかりした下着買ってこい!」
「黙れ、変態ドシスコンが。おら、行って来い」
 エドモンドに軽く肩を押されて、ラヴィーナはこくんと頷いて手早く荷物をまとめると、兄の心配様に一度振り返ったが、エドモンドが早く行けと手を振るったので、また前を向いてひょいと敷居を越えた。
 出て行ってしまったラヴィーナの背中をセオは追いかけようとしたが、その背中に見事にエドモンドの蹴りが直撃した。セオはもんどりうってこけかけたが、そこは自慢の平衡感覚でどうにか床とキスをする事態は避けた。そして、倒れかけた原因の男をキッと睨みつけて、何するんだと文句を言い口先を尖らせる。エドモンドはセオの対応にもう一本煙草を口に咥えた。火をつけていないので、息を吐き出してもその口から煙が溢れることはない。
 セオはエドモンドを睨みつけ、不平不満を叫んだ。
「ラヴィーナが変な下着買ってきたらどうするんだ」
「おい、チビ助。お前のそのねじが三本くらいぶっ飛んでる頭解剖してもいいか?」
「いや、良くない。でも赤色とか、レースとかスケルトンとか…困る。ラヴィーナにはまだ早いだろ」
「それを決めるのはラヴィーナ本人だろうが。女の子の成長は早いんだっての。ったく、お前も少しは成長しろ、チビ助め。もう二十も越してるだろうか。もう少しラヴィーナを信用したらどうだ。別に派手な下着つけたって構わないだろうが。むしろ、そう言うところから女は綺麗になって行くもんだ」
「ラヴィーナは今でも十二分に可愛い」
「もう分かった、お前はジーモに頼んで畑の肥しにでもしてもらえ」
 やれやれ、と変な方向に真面目になったセオにエドモンドは深い溜息を落とした。全くこのシスコンにつける薬はなさそうである。

 

 ひょい、とラヴィーナは店員の協力の申し出を断り、自分でブラジャーを見ていた。可愛いレース、白、赤、前ホック、後ホック、スポブラ、花柄。数点取って、ラヴィーナはそれをカートの上に並べるとうんと唸る。便利さから行けばスポブラがいいのだけれども、普通のブラジャーも捨てがたい。
 桃色の花柄も可愛いと思いつつ、ラヴィーナはそれを手に取った。だが、その伸ばした腕は瞬間的に固まる。大きな影。まさか、とラヴィーナは総毛立った。そしてその予感は的中した。滑らかなロシア語がラヴィーナの耳へと入った。
「Здравствуйте, малйна(こんにちは、マリンカ)」
 爽やかな笑顔にラヴィーナは全身を強張らせて、手に持っていたブラジャーを取り落とした。一見すれば、カップルで下着を選びに来ているようにしか見えない。ウラディスラフは笑顔でラヴィーナが取り落とした下着を取ると、ああ成程と笑う。
「しかし、マリンカ。あなたにはこちらの方がよく似合うと思いますよ」
 そう言って、酷く自然な動作で、何ら迷うことなくフロントフックの白くそう派手ではない、しかし質素ではない控えめの愛らさしさがあるブラジャーを手に取ると、それをラヴィーナに差し出した。
「フロントホックはいいですね。後ろから抱き締めたまま、外せます」
「…」
「ああ、マリンカ。下着はそれに合わせたこちらはどうでしょう。やはり上下揃っているほうが脱がせ甲斐があるというものですから。それに白はマリンカ、あなたの花です。春を告げるマリンカの小さな白い花―――おや、どちらへ?」
 後ずさったラヴィーナの腕をウラディスラフはしっかりとつかんで離さない。そして力技でラヴィーナを己の胸に引き寄せると、店員にこちらをと笑顔のまま先程選んだブラジャーと下着を会計する。支払いはカードで手短に済ませた。逃げようと慌てたが、腰をがっしりと掴まれているために、身長差が不幸して足が宙ぶらりんになり逃げることができない。
 ウラディスラフは暴れるラヴィーナをよそに商品を受け取り、そして笑顔のまま尋ねた。尋ねた、というよりも強制的な雰囲気をしっかりと孕んでおり、捕獲している時点でラヴィーナに拒否権など存在しなかった。
「お茶にしませんか?マリンカ」
 Нет, спасибо(結構です)と書いてラヴィーナは慌ててそれをウラディスラフに表示したが、にこやかな笑顔でそれは一枚はぎとられて近くのゴミ箱に捨てられた。
「Болъщое спасибо(有難う御座います)」
 断る選択肢など初めからありはしなかった。
 ウラディスラフはラヴィーナを抱え直して、まさにお姫様だっこという―――はずもなく、俵に担ぎ直されてラヴィーナは手足をばたつかせたが、下ろしてくれるはずもない。しっかりした頑強な肩はラヴィーナ一人の体重など全く余裕で問題なく担いでしまっていた。嫌だと言う意思表示にその大きく広い背中を叩くが、気にせずにウラディスラフは歩く。
 しかし高い。ラヴィーナは抱えられた状態で地面を見下ろしながらそう思った。ヴォトカを一つと紅茶を一つと頼む声が聞こえたが、もはやラヴィーナの意思などどこにも尊重されていない。恥ずかしがらずに兄についてきてもらえばよかったとラヴィーナは心底後悔した。だがいくら後悔してももう遅い。何故帰国したはずの彼がここにいるのか、泣いても喚いても意味はない。
 抵抗の気力が失せたラヴィーナをウラディスラフは腕の力でひょいともう一度抱えて、引いていた椅子に座らせる。机の上にはすでに紅茶と一杯のヴォトカが置かれており、ここで飲まずに帰るのは流石に失礼である。ラヴィーナは観念して紅茶に手をつけた。アールグレイの紅茶はすいと良い香りを鼻にもたらした。
 そんなラヴィーナにウラディスラフはヴォトカを傾けて笑顔で話しかけた。
「今日は可愛らしいサングラスをしているのですね、マリンカ。よく似合っています」
 早く飲んで一刻も早く退散しようとラヴィーナはカップをぐいと大きく傾けた。喉を一気に熱さが通り抜けるが、喉元過ぎれば熱さを忘れる、一瞬であるとラヴィーナは飲みほしたカップをソーサに置くと、手早く自分の分の代金を机に置いた。が、いつぞやと同じようにその手の上に大きな手が重ねられている。白々しい、嘘臭い、ぞっとするほどの笑顔がそこにある。
 ウラディスラフは結構ですと続けた。
「代金は私が払いましょう。私が誘ったのですから」
 誘ったのではなく誘拐、もしくは強制的に座らせただけである。
 しかし、ウラディスラフは一向に気にする様子もなく、立ちあがることすら許さぬ目をラヴィーナに向けた。座ってください、と言っているが、ラヴィーナは既に着席している。これは立つなと言う意味であった。
「あなたにもう一度お会いしたくて、帰国を一日延ばしました。どうか立たないで下さい。私と話をしましょう。あなたと話すだけで私の心には春と言う喜びが訪れる。マリンカ、ロシアという骨も凍る極寒の土地に帰る前に、あなたと言う温もりを私に覚えさせて下さい」
 懇願する様な響きに、ラヴィーナは段々疑っていた自分を恥じて、小さくこくんと頷いた。それにウラディスラフはにこりとその碧眼を穏やかに細めた。ところで、とウラディスラフは話を続ける。
「男の子と女の子、どちらがいいですか?」
「?」
 突拍子もない話の変化にラヴィーナは不思議そうに首を傾げた。ウラディスラフはそんなラヴィーナを放って話を続ける。
「何人欲しいですか?ロシアは寒いですが、家族はとても温かい。あなたという人という作る家庭は大変温かなものになるでしょう」
「…」
「ああ、表現が多少遠まわしでしたか。ではもっとはっきりと申し上げましょう。Выходи за меня замуж(結婚してください)」
 もう一杯頼んだ紅茶が机の上に乗り、それを口にしようと持ち上げて、ラヴィーナは思わずカップを取り落とした。ばしゃん、と中身が服にかかってその熱さで慌てて立ち上がった。熱い、と服を引っ張ったが、そこに白いハンカチが一枚添えられる。ウラディスラフも椅子から立ち上がり、濡れたラヴィーナの服にそれを当てていた。
「大丈夫ですか、マリンカ」
 にこやかにほほ笑む男にラヴィーナは小さく頷いた。気のせいか、頬が少し熱い。
 ウラディスラフは取りだしたハンカチでラヴィーナの服に押し叩くように触れた。腹のあたりにかかった紅茶を丁寧にふき取る。しかし、段々とその手の位置が下がってきて、ラヴィーナはぎょっと体を引こうとしたが、いつのまにか肩に置かれた手はラヴィーナを無理矢理席に押し戻した。そして、体を僅かにかがめ、その耳元でひそりと息を吹きかけるようにして囁く。
「Тище(静かに)」
 押されたハンカチは腿の上へ、そしてゆるゆると内側に降りて行く。足の付け根へと滑っていくその動作にラヴィーナは腕を押さえようとしたが、意にも解さない様子であった。くつ、喉もとで低く笑う声が耳に届く。恐ろしい。サングラスの向こうに見える碧眼の嗜虐的な色にラヴィーナは背筋を震わせた。
 放して、と声を上げようとしたが、声を発することはできない。四方八方をふさがれて、ラヴィーナはどうしようもなく俯いた。その時、腿に触れていたその腕が強制的に退かされた。感じた安心する気配にラヴィーナは口元にぱっと笑みを浮かべる。
「――――ラヴィーナに触るなと、言ったはずだが?」
「!」
「…これは、怖い怖い兄君の登場ですか」
 銀朱の瞳がラヴィーナを押さえこんでいた男を睨みつける。殺気すら纏ったそれに、ウラディスラフは心地よいと嗤い、ラヴィーナから離れた。セオは手を伸ばしたラヴィーナをウラディスラフの視線から逃すように自分の背中へと回す。ラヴィーナは見なれたその背中にほっとして抱きついた。
 セオはウラディスラフを両眼で睨みつけたまま、口を開く。
「ロシアに、帰ったはずじゃなかったのか?」
「マリンカに別れの挨拶を忘れまして。しかし二人きりの時間を邪魔されて酷く残念です。あなたが居てはマリンカの怯える顔が見られない。マリンカ、大変申し訳ありませんが、飛行機の時間も差し迫っているので、今日はこの辺で。次はロシアにいらしてください。自慢の料理でも御馳走しましょう」
「二度とラヴィーナの前にその姿見せるんじゃねぇ」
 睨みつけたセオにく、とウラディスラフは口元を歪めるだけで終わらせる。そして、その碧眼をラヴィーナへと向けた。セオの体が前にあると言うのに、見られているのが何故か感じられて、ラヴィーナは恐怖で震えた。ラヴィーナの腕の震えを感じ、セオはさらに眼光を鋭くする。
 流れるロシア語が低く発された。
「Надеюсь, что мы скоро увидимся(近いうちに、またお会いしましょう)」
「Исезни!(消え失せろ!)」
 がなったセオを無視し、ウラディスラフはラヴィーナに向けて一礼するとくるりと踵を返した。そしてラヴィーナは兄の体に巻きつけた腕をようやく放した。

 

 ヴォトカを机の上に置く。薄暗がりの部屋で、くつくつとウラディスラフは喉を揺らして嗤っていた。ひっかくような笑い声に、扉を開けて入ってきた二人の男のうち一人、ニコライは椅子に座ってヴォトカを煽っている男に声をかけた。
「突然帰国をずらすなんて、どういう心境の変化ですか」
 かけられた声に、ウラディスラフは顔を歪めて残酷さを交えた表情を浮かべた。
「面白い玩具を見つけた。叩けば音が出る」
「はっは、ウラドに気にいられるとはなぁ。また、可哀想なことだぜ」
「ジョーラの言う通りです」
「お前らも大概俺に失礼じゃないのか―――随分と怖い守護者がついているようだが、まぁそれくらいの障害があったほうが愉しめる」
 喉を震わす笑いと共に、ヴォトカがウラディスラフの喉に落ちた。だが、その瓶はニコライの手にあっさりと奪われてしまった。それにウラディスラフはおい、と不満げに眉間に皺を寄せる。
「飲みすぎです。それで、イタリアはどうだったんですか?」
 ニコライの問いかけにウラディスラフは凭れかけていた椅子にずしりと体重をかけ、そして、その表情にシベリアの極寒とその惨忍さを思わせる笑みが口元に自然に浮かび上がる。
「全く――――暑さで腐るところだった。やはり、ロシアが一番だ」
 この血が絶えない大地が、と口元は大きく歪められた。