12:迎えにきました待っていました

 東眞はきゅっとバツ印をつけた。静かにその印を見つめて、マッキーを下ろす。いくつもいくつもつけてきたそのバツ印をつけるのは今日で最後である。カレンダーをから視線を外して東眞は手に持っていたマッキーをペン立てに挿した。家の隅々までを見まわし、当分は見ることのない景色なのだろうとそう実感する。心が躍る反面、寂しい気持ちも当然ある。
「お嬢様、そろそろ行かれませんと」
「え、あ、もうそんな時間ですか?」
 哲に声をかけられて東眞は慌ててそちらを振り返る。それに哲は苦笑しながら、玄関を開ける。東眞はその先の光景に目を見張った。黒塗りの車。
「…あの」
「お送りいたします、お嬢様の晴れ舞台ですから」
 坊ちゃんからも言い遣っておりますので、と付け加えられれば東眞は首を縦に振るしかない。哲は後部座先の扉をさっと開けて東眞の手を取った。気恥ずかしさを覚えながら東眞は玄関から一歩足を進める。すると、両脇からいってらっしゃいましぃ!!と舎弟たちが笑顔で見送っている。その中にはぽつぽつと涙顔が混じっているのは気のせいではない。
「まさかお嬢が嫁に行っちまうなんて…っ」
「お嬢!たまには帰って来て下さいね!」
 何故か嫁にまで発展しつつ、卒業おめでとうございます、との言葉に東眞は有難う御座いますと笑って返した。そして、哲の手に誘われる様にして後部座席に乗り込む。哲も運転席に乗り込んで扉を閉める。ばたりと音がした。
 車が発進する。車内の音はぐぅとなる低いエアコンの音だけで、妙に静まりかえっている。
「よくお似合いです」
「有難う御座います。修矢が選んでくれたんですよ」
 これ、と東眞は袴をちょいと持ち上げてくすくすと笑う。これ一つ選ぶのにかかった時間は正直な話振り返ると笑い話にしかならない。哲もそれにそうでした、と返してははと笑った。そしてその後に一拍置かれる。
「――――――――早いものです。もう、行かれるのですか」
 しんみりとした声に東眞は少し間を置いてからはい、と答えた。俯きだった顔をすっと上げて、にこりと微笑む。
「待っていると約束しましたから」
「そうですか……ところで怪我の調子はもう大丈夫ですか?」
「はい」
 大丈夫です、と東眞は腹のあたりにそっと手を置いた。傷はすでに完全に塞がってたので痛みもない。東眞は車の音を聞きながらぽつりとこぼす。
「哲さんとも修矢とも、暫くお別れですか」
「寂しくなりましたか?」
「それはやっぱり寂しいですよ」
 からかうような口調に東眞は苦笑しつつ、勿論と返す。寂しくないわけがない。どれだけ期待し望んだものであろうとも、やはり寂しさは残ってしまう。
「それでも行かれるのでしょう」
「はい」
 はっきりとした答えに哲は口元を柔らかくして、小さく頷いた。そしてきっと車が止まる。卒業会場よりも少しばかり離れた所に停車していた。哲は先に車から降りて東眞が扉を開く前に、それを外から開く。
「流石にそこまで行くのは気まずいのではないのですか、お嬢様も」
 黒塗りの車が入口の前に止まり、そこからおはようの挨拶をさわやかにするには確かに聊か問題がある。東眞はそうですね、と笑って差し出された手を取った。かつりとげたが高い音を鳴らす。二人は道を歩いていき、入口の前まで辿り着く。華やかな衣服をまとった卒業生が門を行きかっている。哲はすっと上を視線を上げて、どこまでも抜けるような青い空を見上げた。
「いい天気です」
「本当に。修矢は今日は学校でしたっけ」
 そういえばと東眞が付け加えると、哲はちらりと入口の影に隠れて立っている方に視線を向けて、ええそうでしたがと白々しく加える。見るからに学校をさぼって来ているようだった。東眞は哲と視線を合わせてくすくすと笑う。
「修矢」
「あ、あ、姉貴!その、今日は!…が、学校が全部自習になって!」
 慌てているためか、もうはっきりと嘘だと分かってしまう。それでもその気持ちが嬉しくて東眞は修矢の頭をくしゃりと撫でてやる。
「有難う」
「――――――――ん、うん」
 顔を赤らめて頷いた修矢に哲が声をかける。
「坊ちゃん、親類の席はあちらになります」
 参りましょう、という言葉に修矢は頷いてちらりと東眞を見る。そして笑った。
「綺麗だ、姉貴」
 東眞はそれにもう一度有難う、と笑って手を振った。

 

 進行していく式。静かな会場。ゆっくりと一言一言がスローモーションのようにして過ぎ去っていく。風のように波のように砂のように。静かに静かに。こちかとなる時計の針が一分一秒を刻んでいる。東眞はそれを耳に留めながら最後の言葉を聞き終えた。会場は一気にわき上がりおめでとうの声があふれ返る。卒業生は列をつくってホールから出て行く。笑顔笑顔笑顔。ふと上を見上げると修矢が大きく手を振っていた。 東眞はそれに手を振り返す。手に持たれた卒業証書。
 ざわざわと騒がしい外。ぱっと開けた視界に青空の光が目に突き刺さった。思わず手で日よけを作って辺りを見回す。友達と泣いて抱き合っている人、家族と喜んでいる人様々である。しかし、向こうの一角で少しばかり空気が違うところがあった。騒がしさが喜びの騒がしさではなくて、少々戸惑い気味な感じのそれ。東眞は吸い寄せられるようにしてそちらに向かう。一角から避けるようにして作られている円。その中心には黒塗りの車。丁度東眞が今日ここまで来たような。ただしレベルが違うが。
 車に凭れかかるようにして立っている男が一人。黒いコートをまだ冷たい春風にたなびかせている。ざわめきの中に、ガイジン?ややくざ?との言葉が混じってくる。男の視線が上がり、はっきりと東眞を認めた。そして、その口元と瞳が笑みを作る。ほんの僅かな、笑み。ゆっくりと背を持ちあげて男はその体重を二本の足にかけた。ブーツがごつりと音を立てる。まるで赤い絨毯でも広げられているかのように、男の前は人が避けてすっと道ができる。ごつごつと近づいて来る足音に東眞は視線をそらせない。
 赤くて赤くて、紅の―――――――――――その瞳。
 最後の一つで音が止まる。東眞と男の距離はもう一二歩分しかない。男の影が東眞を喰らう。笑った男の口から言葉が零れて落ちてきた。東眞の耳はそれを拾う。

「来い」

 ただの二言だったが、東眞はやはりそれで十分だった。周りの奇異に満ちた視線など今は全く気にならない。東眞は笑った。そして答えた。はい、と。男はその答えに満足したように、東眞に手を差し出した。東眞は迷うことなくその手を取った。す、と東眞は一歩を踏み出す。しかし、その背中に大きな声がかかる。東眞は思わず足を止めた。人込みをかき分けて、ぽんと修矢が息を切らして出てくる。はぁと肩で呼吸をしていたそれを数回深呼吸をして修矢はすっと顔をあげた。瞳はまっすぐに東眞を捉えている。
「い」
 こくり、と修矢の喉が動く。眦に僅かに涙が浮いた。修矢はそれをぐいと拭って続ける。
「いって、らっしゃい」
 涙顔での精一杯の頬笑み。いってきます、と東眞は返す。修矢の肩に大きな哲の掌が置かれた。それに修矢は体を預けて東眞をじぃと見つめる。
 帰ってこないのは分かっているから、せめてもの見送りをと。
「行くぞ」
 開けられた扉に東眞はひらりと手を振ってから乗り込んだ。修矢は男に向かって叫ぶ。
「姉貴を大切にしなかったら承知しないからな!」
 男はその叫びにちらりと視線をやってから車に乗り込む。大きな体は少しばかり折り曲げないと上手く入らない。そして扉が閉められる直前に、男は修矢に向かって笑った。
「―――――――馬鹿にするな」
 ぱたり、と扉が閉じられてその世界は遮断された。ぉんと音をたてて動いた車を修矢はその姿が消えるまで見つめていた。

 

「XANXUSさん」
 東眞は車の中でふと尋ねる。その呼びかけにXANXUSは東眞の方に視線を向ける。そして、一拍置いてから返事をした。
「何だ」
 答えがあったことに東眞は小さく微笑む。XANXUSは何故笑うのか分からずに、怪訝そうに眉間に軽く皺を寄せた。東眞は口元に手を添えて、笑うのを一旦止めてから続けた。
「もう電話越しじゃないんですね」
 その一言にXANXUSは思わず言葉をなくす。東眞はにこにこと笑いながらさらに言った。
「何だか―――――夢、みたいです」
 そう言った東眞の頬に大きな手が添えられる。温かいその手に東眞はそっと自分の手を外側から添えて瞼を下ろす。嘘ではないこの感覚に胸がほっと温かくなる。ぱちんと額が弾かれて目を大きく見開けば、その先には二つの真っ赤な宝石の瞳が転がっていた。その瞳の奥には己の姿が写り込んでいる。XANXUSはにやりと笑ってその距離を詰める。
「てめぇで確かめろ」
 東眞の返事を聞く前に、XANXUSはその唇を喰らった。