そんなことはないのだろうけれども

 湯煙の先で、傷痕の上を水滴が走り落ちる。透明な湯の中に浸された体は、僅かながらも凹凸が存在し、体を分断するかのように走っている古傷からは気泡が一つ二つを零れて水面に空気を弾けさせた。
 狭い、とは言わないまでも、決して広くはない湯船の中で四本の足が向い合せに交差している。双方共に古傷はそれぞれ浅かれ深かれ負っているものの、片方は太くどっしりとしており、もう片方は細くはないが太すぎもなく、骨の周りを鍛え上げられた筋肉が覆い尽くしていた。爪先から膝へ、膝から太腿へ、太腿から股へと延びていった先には、片方には男性器が、もう片方には女性器があった。両性具有でもない限り、それは至極当然のことでもあった。
 そうして、性別故にくびれの一切ない体を湯に沈めていた男は湯気を吐きだした息で歪めながら、米神に拳を添えた。風呂に入っているというのに、疲ればかりがたまるのは、目の前にいる女のせいであると、クロコダイルはそう確信している。そんな溜息を吐けば、顔面に湯を飛ばされた。餓鬼かてめぇはと愚痴が口を突いて出てくる。湯気越し、湯越しに見える肢体は曲がりなりにも女である。ああ。うんざりするほどに吐いた溜息が再度吐き出される。
 いくら鍛えられた体とはいえ、湯に浸って温められれば、肌はほんのりと血液を末端にまで送り赤らむであろうし、風呂に入るために全裸になった体は、否応なしに眼前にさらされる。試されているのか、それともそんな意識にすら登っていないのか、おそらくは後者であることを理解しつつ、クロコダイルは指先でミトの顔に湯を跳ね返した。
「体洗ってやろうか?」
「餓鬼じゃねェんだ。てめぇで洗える」
 何気もなく、他意など一切ないであろう言葉も、時と場所をよくよく考えるべきである。
 酒にも強い体はのぼせにも強いらしく、眩暈を起こすことなく、平然とした調子で体を、クロコダイルが出たことによって広くなった湯船の中で回しながら、女は何気なく問うた。それもこれもいつものことであって、やはり溜息をもたらすような言葉であることには違いない。
 片手のない腕で椅子に座り、体をタオルでこすっていく。泡立ち、垢はこそげ落とされていく。背中に手を伸ばしたが、慣れたこととは言え、やはり上手く洗えないのは事実であり、ボディブラシはそう言えばないのかと、肩を落とした。体を上手く洗えない隻腕の男に、ミトはほらなと朗らかに笑い、湯船から体を出した。ぱたんと滴が、傷口を溝に床に滑り落ちていく。裸足が滴る湯を叩いた。
 泡立てたタオルが有無を言わさずに奪い取られ、手からすり抜ける。視線をやれば、胸の間には深い溝が走っている。少しばかり薄くなったような気もしないでもないが、気のせいだろうとクロコダイルは頬杖をついて背を軽く丸めた。タオル越しに伝わる固い両手が上下に動かされ、背に溜まった汚れを落としていく。ごしりと下に、ごしりと上に。
 もう少し、と説教染みた言葉をいつものように投げつけるつもりでクロコダイルは口を開いたが、それをよりも先に、懐かしむような声が背から届き、言いかけた言葉を喉元で止める。
「背中、大きくなったなぁ」
「…何年前の話だ、そりゃぁ」
「両手では足りないくらい前の話。あー…船長の背中に似てきた。年、取ったもんなぁ、お前も」
 少しばかり強めにタオルが背中を上下する。こだました声が耳に届き終わり、クハとクロコダイルは笑って肩を揺らした。
「年取らねぇ方が気味悪ィだろうが」
「年取りたくないか?」
「いや」
 別に。そう括り、クロコダイルは湯に濡れた己の手を矯めつ眇めつして眺める。少なくとも、二十数年以上前までは、こんなに老いぼれた手ではなかったことは確かである。そして、背をぬぐう女の手はまだまだ、武器の扱いすら不慣れな子供の手であった。今ではすっかり、大きくなり過ぎた手である。沢山の、不要な傷も負ってきている。
 あの男が存命であれば、傷をつけた奴らを草の根分けても探し出し、海王類の餌にでもしたであろうことは、クロコダイルにとっても容易に想像はついた。しかし、そうであるならば、あの男は自分を簀巻きにして、海王類の餌場に放り込まれなければなるまい。
 すると突然、背中にぴったりと体が付き、開いていた隙間がなくなった。ここはそういう類の店ではなく、自分の船である。クロコダイルは目を一二度瞬かせた。しかしながら、ああと零れた女の声の感慨深さに瞼を薄く落とす。
「こんな、感じだったかなぁ。もっと大きかった気がする」
「…そりゃ、てめぇがもっとチビだったからだろうが。何食ったかしらネェが、馬鹿みたいにでかくなりやがって」
 そう笑い、体を腰から捻ると、年甲斐もない悪戯心と自覚の欠片もない女の大層貧相な胸を大きな手で掴もうとクロコダイルは触れたが、濡れて石鹸でぬめりけを帯びた手はすべり、ただありもしない胸を押さえるだけに変わる。鼻で笑う。
「肝心なところはちっとも育っちゃいねぇがな」
「…そういうお前はどうなん…っだ!」
 子供のような笑みを一杯にその顔に浮かべ、女が股間に伸ばした手をクロコダイルは慌てて叩き落とし、脇を掬い上げるようにして湯船に落とす。頭から湯船に落とされ、大量の湯が跳ね上がり、シャワーのように降り注ぐ。既に洗っていた髪はしっとりと濡れていたが、改めて湯を浴びせかけられるとそれはまた異なり、顔の傷口へと縫うように湯は伝った。
 突然であったために、湯を鼻と口の両方から飲み込んだミトは、気管に入ってしまったそれらを咳き込むことで外に出しながら、やったなと両手一杯に湯を掬い、椅子に腰かけているクロコダイルへとぶちまけた。咄嗟に避けたものの、それは見越していたのか、第二弾がクロコダイルの顔面に激突する。大きな手であるために、被った湯の量も十分に多い。
 転ぶような間抜けな真似こそしなかったものの、開いた口の中に湯は入り込み、背を震わせてそれを吐き出す。
「…ぇ゛、ほっ…てめ、」
 まるで子供のようである。
 しかし、そんな事実はどうでもよく、クロコダイルは傍らにあるシャワーを手に取り、コックをめい一杯に捻った。勿論、湯ではなく水である。シャワーヘッドをミトへと狙いをつけ、勢いよく水流を浴びせる。冷たい!と悲鳴が上がり、ミトは手を伸ばし、風呂の蓋を盾に流水を防いだ。さらに勢いよくそれを振るうことで、冷水をクロコダイルへとお見舞いする。思わぬ冷たさを浴びせられたクロコダイルは、その太く逞しい腕でミトが持つ湯船の蓋を掴み取り、固定し、その上から長身を生かして上から水のシャワーを注ぎ込んだ。
 ばしゃんぱしゃん。ばしゃばしゃり。
 風呂に入って何故にこのように疲労感を味わわなければならないのか。もはや戦場と化した風呂場でクロコダイルは溜息を吐いた。飛んできた水を右手を差し出し、飲み干す。湯気越しに舌打ちが聞こえたが、全く憎らしい限りである。
「クロコダイル!お前、それは反則だ!」
「反則も糞もあるか!遊んでんだったら、とっとと出ろ!おれはてめぇと違ってゆっくり風呂に入りてぇんだよ」
「まるで年寄りの発言だな」
 今すぐ、その腕を掴んで体中の水分を皮膚の上と言わず、血液中まで吸い取ってやろうかとそんな殺意に背中をつつかれつつ、クロコダイルはいつの間にか誰もいなくなった湯船に体をつけた。長い息を吐く。それを押しつぶすように、上から湯気の立ったシャワーを頭から被る。大人の体をして、子供のような笑みを浮かべているミトを、クロコダイルは視線を上げ、そしてその短い髪の毛を鷲掴むと、まるで最初のように湯船に顔面を押し付けた。随分と減ってしまった湯ではあったが、それでも女を溺死させるには十分な量である。
 吐き出す泡の量がある程度少なくなった頃、クロコダイルはようやく淡い色をした髪の毛を放した。それと同時に、女の頭が跳ね上がり、足りなくなった酸素を肺一杯に吸い込む。吸い込み過ぎたのか、多少咽こんだ。
「何やってんだ」
「お前こそ、何するんだ。死ぬところだった」
「死にゃしねぇよ。大体、おめぇは殺したって死なねぇだろうが」
「殺されたら死ぬだろ。それは殺したって言わない」
「揚げ足取ってる暇があったら、とっとと出て体拭いてろ。湯冷めするぞ」
 そこまで口にして、クロコダイルは思い出したように右手で己の口を押えた。水滴が乾いた唇を湿らせる。これではまるで、彼女の父親、あるいは船長のようである。男の心中を知ってか知らずか、ミトはからりと笑った。
 なぁ、と湯船に波紋を描くように声が広がる。女の肌を鎖骨から胸元まで落ちる滴をクロコダイルは目で追った。下心がないと言えば、嘘になる。
「お前、船長と風呂入ったことでもあるのか?」
「ねぇよ」
 あってたまるか。
 むさくるしい男同士が風呂に詰まったところなぞ、想像もしたくない。片眼鏡のレオルの船は大きく、風呂もそれなりの広さはあったものの、男が詰まって入るような作りにはなっていない。少なくとも、自ら進んで彼女のかつての船長である男と風呂に入りたいとは、仮に男が生き返ってもしたいとは到底思えるはずもなかった。クロコダイルは苛立ちを腹に据えかね、葉巻を求めたが無論風呂場に置いてあるはずもない。探した手は宙をさまよい、そして風呂に戻った。
 ミトは風呂の縁に片肘を着き、もう片方の手で湯船をゆるりとかき混ぜる。
「船長みたいだ。いや、船長だけどな」
「知ってる」
 言われずとも、女が懐かしさを覚えながら口にする「船長」が自分を指示さないことくらいは、クロコダイルも承知の上であった。背は追い越したが、その背は追い抜けそうにもない。死人とは、総じて追い越せない存在に成り果てる。進退するはずもない相手と競争したところでただ虚しくなるのは目に見えている。
 ミトは湯をクロコダイルの顔に跳ねさせ、そして、にししと歯をむいて笑いかけたが、冷えたのか、くしゅと肩をゆすってくしゃみをする。それ見たことかとクロコダイルは扉を指差した。
「出ろ」
「もう一回温もり直してから」
「温めてやろうか」
「ああ」
 湯を、と体を、と、クロコダイルはいつものように互いにすれ違った、省略してしまっている言葉の齟齬に気付きながら、そして女の方に言葉を合わせ、コックをひねり、熱い湯を湯船に落とす。
 そうして風呂はまた、二人入ったことによって手狭になった。
 白い煙が充満しつつある天井を見上げ、クロコダイルは全身の力を抜く。脚の外側に、女の足が触れている。肌と肌の内側に走っている欠陥が脈打つ感じが直に伝わる中、冷めてしまった湯と熱い湯が混ざりゆく奇妙な温度差に体温が流されていく。もう十分だろうと、何故だか風呂に浸かるもう一人の人間に言葉をかける気にはなれず、狭苦しい湯船に詰まることを容認した。
 外に垂れている女の指先は血が集まり、赤くなっている。気持ちいいなぁ。女の言葉に、男はそうだなとどうしようもなく返した。それもこれも、
 いつものことである。