心配性の - 1/2

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 うん、と一つ大きな伸びをして、人のベッドにその体を勢いよく放り投げる。ぼすんと倒れたその体は大の字に広げられている。圧し掛かってやろうかと嫌らがらせ心が多少なりとも芽生えかけたが、久々の再会に水を差すこともあるまいとクロコダイルはベッドの端に腰を下ろす。その隣には、女の足がぶらんと下がっていた。
 垂らされた足がふぃんと振り子のように動く。ああ、とミトは全身から力を抜いて船室の天井を見上げた。見知らぬ天井ではあったが、何故だろうか、隣にこの男がいると言うただそれだけでほっと安心できた。思わず小さく笑い、ベッドの上でごろごろと方向転換をしつつ、座っている男の膝の上に頭を乗せた。所謂膝枕の体勢である。かぷりと上から煙が吐かれた。それは煙たく、掌で吐き出された紫煙を空気に混ぜ返す。クロコダイルは吸っていた葉巻を灰皿に押し付け、火を消すとミトと同様にその背中をベッドに預けた。ぼすんと大きな体が布に沈む。
 ごそりと膝の上から頭が動き、よたよたと這うようにして女の体がさらに上に登ってくる。下半身に体が動いた拍子に触れて、びくりと腰が跳ねそうになったがそこは押しとどめる。レッドワインの双眸が金の瞳を見下ろした。無防備で穏やかな、これ以上ない程に安心しきった笑みが向けられた。手の出し様がない。
 体を支えていた両腕から力が抜け、ミトの体はクロコダイルの胸の上に落ちた。耳が、心の臓につけられる。確かな鼓動を刻んでいるそれに、ミトはほっと息を落ち着けた。自分の鼓動を合わせるかのように、ゆっくりと肩の力を抜いていく。溶けて、一つになりそうだった。
 穏やかな音に筋肉の緊張が解けて、その体重がどっと男に掛けられる。クロコダイルはその重みを感じながら、幸せそうな顔をして目を瞑っている女の頭を撫でる。柔らかな髪の毛の質感が指先に残り、淡い色をした髪が指の間をするすると動く。ぎゅぅと服を掴みしがみついているのは、まるでコアラの如き姿であった。欲情も何もない。
 伸ばした手。伸ばされた手。振り払われた手。掴まれた手。
 クロコダイルは胸の上に落ちている身体を少しずらし、そのかいなに抱いた。おぷ、と腕の中で空気が破裂する。一瞬体が強張ったが、もぞリと動き、心臓のあたりにぐりぐりと頭をこすりつけ、抱きしめ返された。了と取っていいのか、と少し戸惑う。言葉を紡ごうとした時、その中から、腕と胸の隙間に埋めていた顔が持ち上げられて、こちらを見た。にかっと子供の様に笑う。
「ありがとう」
 言うのを忘れていた、とそう続ける。それが一体何に対する有難うなのか、クロコダイルには始め見当もつかなかった。ミトはそんな男の表情を見て、ああと一つ笑って続ける。
「私を止めてくれて」
「いや。まあ、ありゃ」
 何だ、と言い淀んで視線をそらす。考えてみれば、随分と恥ずかしいことを口にしたものであった。咄嗟に、お前の言葉がと続けようとしたミトの口を手で塞ぎ、言うなと制止した。もぐりと手の中で吐き出そうとした言葉と空気が動く。あんなこっ恥ずかしいなど通り越した程の言葉は二度と口にしようとは思わない。周囲の空気に流されて、年甲斐もなくらしくもないことを言ってしまった。
 クロコダイルはごほんと咳を大きめにして、ふつりと湧いた羞恥を誤魔化した。男のそんな表情を見て、成程とミトはその心中を察し、それ以上はその時の言葉を繰り返そうとするのを止めた。代わりに、お前はと続ける。
「私の親友…いや、心友だ」
「…、あ?」
「心友だよ。心から理解しあえる、友だ」
 興醒めした。
 クロコダイルは軽く頭痛を覚えた頭を押さえる。この女、と口がへの字に曲がる。そんな過剰な期待を掛けていたわけでもないが、淡い期待くらいは持っていなかったというわけでもない。出会い頭に蹴りを顔面にかまされて、愛しているなどとほざかれた日には即座に干物にしてやる可能性も無きにしも非ずではある。
 お前と、と言われててっきり是だと思った。あれを叫んだ時、惚れた腫れたの感情は一切なかったわけだが、どう考えても聞く側からすれば、プロポーズのような言葉に聞こえることだろう。 それを受け取って、是と答えたのだから、それはそう、それをそう受け取ったと解釈してもおかしくはない。自分が自意識過剰であったということは、おそらく、ないはずである。勘違いはしたようだが。
 穏やかに笑いながら、胸の上で肘を組んでいる女をクロコダイルは見る。その頬に手を添えれば、嬉しげに眼を細め、手に頬を寄せた。好いた女にそんな事をされれば、邪推をしてみたくなるというものである。畜生、とクロコダイルは腹の内で舌打ちをした。どうせ、そんな手に顔をすり寄せたのだって、動物的行為であり、そこに恋愛的意味は一切ないのだろう。正しくは、在る筈も、無い。この女の中で、自分と言う男はあくまでも「友人」であり、それ以外の何者でもないのだから。男でも女でもなく、クロコダイルという名の友人である。尤も、その友人枠の中でも特別扱いをされていることは間違いないのだが。
 頬を撫でていた手で引っ張る。あまり肉の付いていない頬はそうびよびよと伸びたりしないものの、女の顔は不細工に歪んだ。あいたた、とこちらの生身の手を叩き、放せと示す。
「し、心友は迷惑か?」
「…いや」
 別に、と短く切って返す。
 この女に。
 クロコダイルはミトの狼狽し始めた目を眺めながら、軽く溜息をつく。
 この女に、恋愛という言葉や感情を押し付けるのはあまり好ましいことではないだろう。そう思う。頭の中がこれに関しては幼いのだ。まだ知識しか有していない。色々なことが、今この女の中では濁流のように溢れかえって、ずっと止めていた心の時間が動いている。彼女が家族を失ったその時から捨ててしまった心を拾い上げて、向き合って、沢山のことで許容量をすっかり埋め尽くしている。少しくらいなら、待ってやらなくもない。
 そうかとミトは笑い、後頭部をクロコダイルの体に預けてその天井を見上げた。落ち着く。クロコダイルは凭れかかっていた女の頭を小突き、葉巻をよこせと手を伸ばした。何か咥えていないと落ち着かないようで、物足りない。差し出された手にミトはマルコから預かっていた葉巻を箱ごとクロコダイルに渡す。それ受け取ると、クロコダイルは一本葉巻を取り出し、そこでふと箱の中、先程は気付かなかった、葉巻ではない一本が丸められて入っていることに気付く。
「何だこりゃ」
「何だ?」
 眉間に皺を寄せ、その一本を籤の様に引く。どうやら一枚の紙をさっと丸めただけのようで、糊付けなどはされておらず指先で簡単に開くことができた。斜めに記されている文字をざっと目に入れる。長い言葉は書かれておらず、唯一言。大事にしろよい、と。口が自然とへの字に曲がる。
 女の柔らかな髪が手の甲に微かに触れ、その紙を覗きこもうとしたが、その前に風化させて砂にした。あっ、と非難染みた声が上がるが無視をする。
「これは」
 クロコダイルの問い掛けに、ミトは不満げに頬を膨らませたまま口先を尖らせて返事をした。そして、思い出したように手を打つ。
「マルコからだ。ああそうそう、泣かせたら承知しないだとよ」
 マルコか、とクロコダイルは鼻を鳴らした。全く、心配性の男である。小さい頃は、マルコの背に乗せて貰ってな、だとかよくよく自慢話をされた記憶がある。ヴィグと同様、彼女にとっては兄貴分なのだろう。そして、マルコにとってもこの女は妹分、否、家族であるのだろう。それは、白ひげの、エドワード・ニューゲートの考え方である。
 黙りこんだクロコダイルにミトはしたり顔で続けた。
「私が泣かせる方だから安心しろと返しと、ぐっ」
 鳩尾に肘をめり込ませる。女の口から一気に息が吐き出され、痛みに体を丸めて苦しげな咳を数回繰り返す。何をする!と不満も露わに怒鳴りつけたが、クロコダイルも一方で額に青筋を立てて、ふざけんな!と怒鳴り返す。
「誰が泣くか!この暴れ馬が!!」
「おお暴れ馬だこの野郎!後ろ足で自慢の顔面蹴り飛ばしてやるから覚悟しとけ!その面涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしてやる!」
 そう言うが早いが、ミトは側に在った枕を手に取り容赦なくクロコダイルの顔面に叩きつけた。いくら柔らかな枕でもこの速度で叩きつけられれば痛い。ぼこぼこと何度も叩きつけられる枕を鉤爪に突き刺し奪い取る。だが、その直後クロコダイルの視界は真っ白になった。正しくは、白いシーツで埋め尽くされた。いつの間にか、前に在った体が背後に回っており、がっちりとシーツを被せられたまま頭部をホールドされた。ぎりぎりと腕が締まり、首が締め付けられて行く。
 この野郎。
 クロコダイルは力任せにミトの体ごと持ち上げて立ち上がると、そのまま投げ飛ばす要領で体をふるった。色々と物が壊れている音が響き、首を絞めつける感触が無くなる。シーツを剥ぎ取ると、仰向けで机に在ったものをその体で一掃して倒れている女の姿が眼前に広がる。はっと笑い飛ばすが、その顔面めがけてインクの壺が投げ飛ばされた。黒い墨が顔を汚す。けたけたと腹を抱えた笑い声が部屋に響いた。
 我慢の限界も頂点に達し、掌に砂を巻く。やるのか、とばかりにミトは壁に立てかけた刀を片手に取った。しかしながら、二人の緊張感を裂くように、呆れた声で、あの、と部屋の扉が開けられる。
「…飯にしませんか」
 普段は整理整頓されている部屋が見る影もない程に物が散乱している。中央に立つのは戦闘態勢になっている男と女が一人ずつ。もしこれで、女が一目見て敵だと分かるのであれば、ダズも迎撃態勢を取ったのだろうが、何と言うべきか、その女は見たことがある女であるし、彼らが旧知の仲であるのもダズは承知で在った。そしてクロコダイルの想い人であることも承知している。
 ああ、と刀を持った女は笑った。
「ダズ・ボーネス。ダズ、でいいかな。宜しく」
 人の良さそうな(実質人が良いのかどうかは甚だ不明だが)笑みで、刀を持っていない方の手をミトはダズに差し出した。クロコダイルも今日を削がれたようで、掌に発生させていた砂嵐を収める。
 握手をかわそうとしたその瞬間、船が大きく揺れた。爆音。波が破裂する様な、大砲が着弾した音である。
「敵か」
「…そのようです。飯はどうします」
「後で食う」
「分かりました」
 二人のやりとりを眺めながら、ミトはふむと顎をさする。そして、外に出ようとしたクロコダイルの肩に手を乗せた。口元は大きな三日月を描いていた。鮮やかなまでの挑発的な色をその瞳に滲ませながら、女は笑む。そうして、がつんとその足を踏み出し、床板を蹴った。男二人よりも一歩先に出、くると踵を返し振り返る。
 ミトは先程ダズに伸ばしていた手で美しい弧を描く。赤い瞳はまっすぐに筋の瞳へと向けられ、湛えられた笑みを歪み見せた。
「どうぞ、私にお任せを」
 船長。
 その単語を口にしたことに、ミトは不敵に笑んだ。くくっと喉を震わせ、今度は愉しげに笑った。かつんと足を鳴らす。どうんとまた波が大きく立ち、船を大きく揺らす。二人の男と女は見合ったまま、言葉を交わす。
「お前には、私と言う船員が必要だろう?んん?新しい船員の腕っぷしくらい確かめておけ。何しろここは新世界だからな」
「成程」
「そう言うことだ、船長。飯でも食って、酒を用意して待っていろ」
 足音が着弾音に混じり響く。背が向けられ、窓を開け、ひょいとその体をその窓枠に乗せる。ああ、と女は笑う。背にかけた砲弾で荒れた海にその笑みは大層よく似合った。
「言い忘れていた。お前の船に乗せろ、クロコダイル」
「言うのが遅ぇンだよ、てめぇは。大体もう乗ってんじゃねェか」
 かぷと揺れる船なぞどこへやらの態度で二人は笑った。ぴゅーぃ、と彼女の鳥を呼ぶ指笛が響く。白い翼が宙空を切る。大きな爪が、女の肩に食い込んだ。足が、窓枠を離れれる。
「まずい酒はお断りだ」
 笑った女が消え、窓から翼のはためきによって起こった風が叩きつけられるようにして入りこむ。紙が部屋の中に一気に散乱した。船はまだ大きく揺れている。
 酷い惨状である部屋をもう一度見渡して、ダズはクロコダイルへと視線を向けた。しかし、既にその背が向けられており、食事を用意してある部屋へと向かっている。どこへ、と声を掛けると飯だと単純に返された。
「構わないんですか」
「放っておけ、どうせ暴れたりねェだけだ。気が済みゃ戻ってくる。酒も用意しておけ。樽…取敢えず四つは出せ」
「…四つですか」
 誰がそんなに飲むのかと眉間に皺を寄せたダズに、クロコダイルはあいつが飲むんだと一つ笑って繋げた。
「馬鹿みたいに飲むが、腰抜かすんじゃねぇぞ」
 クハハと久々に聞いた楽しげな笑い声にダズは散乱した部屋と、そして酒樽が保存されている倉庫に繋がる廊下を見、肩をすくめて扉を閉めると酒樽を取りに向かった。
 いつの間にやら、砲弾の音はしなくなっていた。