Happy Birthday

 はっぴーばーすでーとぅーゆー。
 灯された蝋燭の火を吹き消したことがあったろうか。クロコダイルは咥えた葉巻の煙をくゆらせながら、深く体をソファに埋める。きっちりと隙間なく着込んだシャツの袖、カフスボタンを右手で触れ、その精巧な細工に目を細めた。
 本日は9月5日。俗に言うと誕生日、というそれである。その日を盛大に祝った記憶をクロコダイルは持たなかった。祝ってほしいなどと、年端もいかぬ子供のような戯言を言って駄々を捏ねるつもりもなく、何より、成長するというよりも、老化するという表現の方がしっくりする年齢を祝うという気もさっぱり起きなかった。
 誰かに誕生日を積極的に告げたこともなく、それならば、そんな日をおぼろげに覚えているのは自分だけである。クロコダイルはそう思う。何ともなしに、カレンダーを覗いたころにはとうに過ぎていた、というのも珍しくもない。アラバスタでの期間はそんな些事よりも、色々と忙しいこともあり、やはり記憶に薄い。痴呆症あるいはアルツハイマーではない。
 手を矯めつ眇めつ見、反対側の鉤爪へと今度はその指先を乗せる。冷たく、固い。この腕が切り落とされたのは一体いつなのか、思い出せはするが、まあそれも今の自分を形成するための道だったのだと思えば、やはり記憶を探さないと思い出せることはない。悪夢に魘されることもなく、ひょっとすると魘された日もあったのかもしれないが、目覚めてから忘れてしまったの可能性もある。夢とは、大様にしてそのようなものである。
 大きな手をごつりとさらに見せる指先の指輪の装飾もまた美しく、嵌められている宝石の輝きもそれが大層上質なものであることを教えている。満足気にクロコダイルはその美に口元を緩めた。軽く持ち上げた口端が、白い歯を覗き見せる。
「クロコダイル」
 上機嫌の背に女の声がかかる。クロコダイルは、しかしさして気分を害することもなく、首を回して窓から覗いている女の顔を確認する。確認するも何も、自身のことをそんな猫のような名前で呼ぶ女をクロコダイルは無論一人しか知らない。
「何だ」
「来い」
 来いよ、女は、ミトは年よりもずっと子供のような笑みを顔に浮かべて、クロコダイルを手招きする。下ろしていた腰を上げ、クロコダイルは窓際へと言われるままに進み、その外に顔を覗かせる。が、無論何もない。何も、というわけではなく、クロコダイルの視界に映ったのは、広く伸びる甲板と、上には真っ青な空、それから自分を悉く拒絶する海であった。
 特に目新しいものもなく、女が自分をわざわざ立たせた意味も分からず、クロコダイルは眉間に薄く皺を刻んだ。
「おい」
 何の用だ、と用件を聞こうとしたクロコダイルはそこから先の言葉を失った。視界は一瞬にして翳り、そしてその浮遊感に目を見開く。はは、と首謀者の笑い声をクロコダイルは聞く。この高さまで持ち上げられると、砂にして体を逃したところで、衝撃はすごい。あっという間に米粒大の大きさになってしまった船を眼下に望み、クロコダイルは深い溜息を吐いた。女が突飛なのはいつものことで、今更何を驚くこともなかった。
 窓枠を壊さんばかりに飛び込んできたのは、鳥、カヤアンバルの頭部であり、今まさに自分の首根っこを抓んでいるのは、その嘴である。海王類でさえ、餌とする猛禽類の鋭い、爪と嘴のうちの一つである。
 クロコダイルは、おい、ともう一度、機嫌を斜めにして口を開いた。すると、体は勢いよく振り子の反動で持ち上げられ、体は高く宙を舞った。落下する先には柔らかな羽毛がある。しかし、その先にミトの両腕が伸び、落下してきたクロコダイルの体をしっかと上に乗せる。すっぽりと腕の中に納まったクロコダイルににぃと笑みを向けた。その笑みの半分程は、上質のコートに埋もれている。
「降ろせ」
「誕生日おめでとう」
「…それだけのために、てめぇはおれにこんな屈辱的な体勢を強いてんのか?ああ?とんだ誕生日プレゼントだな」
 お姫様抱っこ、正式名称は横抱きにされた男は口元を盛大に引き攣らせて、女を睨み付けた。しかし、ミトは笑ってそれをやり過ごす。
「おめでとう」
 これ以上は何を言っても無駄だということを理解したクロコダイルは諦めを覚えた息を吐いた。ああ、と短く返事をすると、その両足が先に鳥の背に降ろされる。想像以上に安定感のある平たい背の両側には、風を受ける翼が広げられており、それは強靱で大きい。勢いをつけて羽ばたかれることはなく、今は風を受け、流すだけなので、両側に大きく広げられているだけである。
 それだけ安定があっても、風の勢いは強く、クロコダイルは柔らかな羽毛の上に座った。上質な絨毯よりも柔らかく、保温性があるそれは、金さえ払えば、この鳥の背から剥ぎ取ってやりたいと始終思わされる物である。無論それは、彼の主である女の許可は一生得られることはないことをクロコダイルは知っている。
 起立したままでミトは、クロコダイルを笑みで見下ろしている。強い風がその背を打ち、ゆとりのある服をバタバタと激しく音を立てて揺れた。
「ありがとう、おめでとう」
「…何回も言わなくても分かンだよ。大体何だそりゃ、ありがとう、ってのは。礼を言われる覚えはねえぞ」
 一切の他意なく祝われることに気恥ずかしさを覚え、クロコダイルは視線をそらし、首筋を右手でひっかいた。腕に触れた耳が、少し熱く感じられた。
 目をそらしたクロコダイルにミトはしゃがみ、視線を合わせて笑う。
「ありがとう、だ。生まれてきてくれて有難う。お前が、私を今、ここに、立たせている。だから、有難う」
「…おれぁ、おれのしたいようにしただけだ」
「私も私も言いたいように言っただけだ。思ったように、感じたように。有難う」
「もういい」
 もういい、とクロコダイルは右手で顔を全部覆った。穏やかに細められた瞳のまっすぐさが毒のように浸食し、己の心臓を止めそうな気がした。それが肌に触れる前に、断ち切る。
 言葉を濁しつつ、クロコダイルはそれでと話を変えた。
「なら、何か用意でもしてんのか」
「プレゼントか?そうだな、これからの私を全てをお前にやる」
「、」
 げほ。
 クロコダイルは思わず咳込んだ。それはそういう意味なのか、と目を一度見開いて、そんなはずもないと瞬く。案の定、女の顔はいつも通りで、期待した意味を持たない言葉だと、クロコダイルは知る。落胆はしない。期待はするだけ無駄であることは、学習済みであった。
 大丈夫かと前置きが一つされ、ミトは悪戯っ子のように笑う。
「私はお前の船に乗る。お前の行く所はどこまででも付いて行く。私は他の誰でもない、クロ。お前の、ただ一人お前の船員だ」
「…今更だろうが、それは。プレゼントも何も、初めから全部おれのモンだ」
「そうか?」
「そうだ。プレゼントにゃなんねえよ。おれのモンをおれにやってどうすンだ、てめえは」
 さも当然にクロコダイルはミトの人生を私物化したが、ミトは対して怒る様子も見せず、小さく首を傾げ、項を擦った。両の眉尻が互いに下がる。
「困ったな。私にはもう、お前にやれるものはないよ」
「馬鹿が無理して下らねえ真似するからだ」
 クロコダイルは鼻で笑い、ようやく冷めてきた耳の温度を触れて確かめ、ミトへと指の隙間から視線を逃して戻した。しかし、途端、満面の笑みを取り戻したミトにクロコダイルはさっと全身の血の気が引く感じを味わう。この女のこの笑みに、ロクな思い出をクロコダイルは欠片たりとも持っていなかった。
 クロコダイル。そう呼ばれるが否や、腕を持っていかれる。
「待て」
 制止など全くの無意味であることもまた、学習済みであるというのに、クロコダイルの口を突いて出てきた言葉はただそれだけであった。浮遊感が全身を押し上げる。ぴゅーい、と高い口笛が空を貫いた。そして、
 青に飛んだ。
 足元が消えてなくなる。鳥はくるりと旋回し、二人を命じられたままに落とした。風の抵抗を強く受けたコートは上へと吹っ飛ぶ。空へと消えた黒いコートはカヤアンバルの爪が受け止めた。穴でも開いたら、焼き鳥にしてやるとクロコダイルは視界を一瞬で流れ去った光景に確かな恨みを覚えた。
 耳を叩くのはただ風の音で、まるで壁のような風の隙間を凄まじい速度で落下していく。対面を見れば、同じように落ちて行っている女の顔が見え、その顔は満足そうに笑っていた。ばばばばばと音を立てて揺れている服の合間から笑い声が空気と風を叩いて舞い上がり、そのまま鼓膜をついて消える。しかし、このまま落ちれば、叩きつけられて即死であることは目に見えている。
 おい。
 声は風に喰われて消える。笑っている相手に届いているのか、おそらくは、いない。ばたりと空気に押し上げられ、重力に落とされている空間の中で暴れる。落下してく足元に広がるのは、まるで空に落ちていく、そんな光景であった。空の色をくっきりと映し出した海は、空そのものである。海に、空に落ちていくのか上がっていくのかが、もうよく分からなくなる空間の中で、自身よりも細い腕が、しかし鍛え上げられている二本の腕が、足と腰に回されたのに気付く。よせ、と腕で押そうとしたが、その腕を上手く掴まれ、相手の首に回される。本日二度目のお姫様抱っこにクロコダイルは眩暈がした。
 耳元で、声が跳ね上がる。
「しっかり、つ、かまれ、よ!」
 落下速度は音を奪う。
 ミトは足で空気を蹴りつけた。二人分の体重に合わせ、落下による衝撃が膝に加わるため、数度に分けて重みを殺していく。ど、と最後の音をクロコダイルの耳が確認したのは、海面の水を叩き上げた時だった。
「ふ、」
 ねまで、と怒鳴りつけてやろうと口にしたその瞬間、声も言葉も今度は全て海水に消えた。視界は空の青から、深い海の青へと変わる。幾重にも空の色を重ねた海の色は濃く重い。ごば、と吐き出した空気が海面へとのがれ、泡へと弾けた。
 当然、悪魔の実の能力者であるクロコダイルが泳げるはずもなく、体はただ鉛をつけたように重たく沈んでいく。しかし、頬を叩かれる感覚にクロコダイルは閉じていた目を開けた。青色の中、腕が一つ、泳いでいる。指さす方向は海面であった。目をはっきりと開けて、クロコダイルは海を見た。絶句、もとより言葉は発していなかったが、クロコダイルは言葉をなくす。
 宝石の原である。
 太陽の光をめい一杯反射した海面は、眩しいほどに取り込んだ光を波の動きに合わせて踊らせる。吐き出した泡に光が絡みつき、大小いくつもの宝石となって海面へと消える。
 重たい体を腰に巻き付いている腕が波の合間を縫って引き上げる。
「げ、っほ!え゛、ほ、ごほっ」
 海面上に出た口で飲み込んでしまった水を吐き出し、クロコダイルは肺一杯に空気を取り込む。ミトはその様子を隣で支えながら見、からからと笑い、上空へと向かって手を大きく振る。高い口笛をそして吹いた。波を荒立たせるように、翼が空気を下へと叩き、コートを掴んでいない方の爪が伸ばされ、人間二人を掴むと、甲板の上に転がした。
 背に感じた確かな足場にクロコダイルはもう一度飲み込んだ水を吐いた。
「ぇ゛、めっ…!!」
 恨み言は咳に混じって上手く発音できない。同じように海に落ちたはずの女は平気な顔をして、男の背を叩き擦る。ようやく呼吸が落ち着きだし、クロコダイルは既に海水に湿って使い物にならない葉巻を甲板に投げつけた。
「何しやがる!!」
 普通の人間ならば震え上がるような怒号も、ミトは笑って意に介さない。
「綺麗だったろ?海も空も。今日だけの今だけのあの一瞬だけの、二度と見られない光景だ。似たような光景は見られようとも、さっきのお前の目に焼き付いた景色は、もう二度とない。Happy Birthday, my captain」
 そう言って笑うミトに頭痛を覚え、項垂れた。
 怒る気力も失せ、クロコダイルは手を伸ばし、ミトの頬を滴る水滴を拭う。ぐしょぬれだ、とミトは子供のように笑い、同じようにクロコダイルの髪を混ぜた。折角整えた髪はばらけて水をたらす頬や首筋にへばりつく。
 同じようにミトの服もまた肌にへばりついている。健康的に焼けた肌が水でしっとりと吸い付いた布の隙間からぼやけて覗く。普段ゆとりのある服を身に着けているが、海水に濡れたために体のラインは透けて見えた。
 クロコダイルは頭を撫でるミトの手を取る。肌で触れれば分かる、ほぼ治ってはいるが、目には見えない程の浅い傷が肌の上にいくつも無数に刻まれている。指先で、それをゆるゆるとなぞる。くすぐったい、と眼前の子供は笑った。下らなく笑い、男の腕が布の上から女の腕を伝って上る。そのまま、クロコダイルはミトを押し倒した。眼下に広がるのは、影に押さえられた女が一人。
 水が滴るほどに濡れた服はその下に何一つつけていない体の形を晒す。女につられる様、子供のような笑みを添えた男はそのまま、服の上から女の下腹部に手を乗せた。服の上からでもわかるのは、体を両断する傷痕である。笑みを深め、そのまま擽りにかかる。
「ひ、はは!こ、の!」
 ミトは擽られて声をはじけさせ、クロコダイルの腹に手を伸ばした。わら、と十本の指先がばらばらに動き、男の腹をくすぐる。ク、ハと笑い声が開いた口から飛び出た。
「ば、っか、か!おい、やめろ!ク、ふ、ハは」
 馬鹿馬鹿しい笑いは、海の色が変わる頃に終わった。
 肩で呼吸をしながら、引き攣る腹をクロコダイルは押さえ、じゃれている間にすっかり乾いてしまった服を正す。乾いたといっても、真水で洗濯したわけでもないので、塩を帯びた服は少しざらついている。
「なあ、クロコダイル」
 まだ甲板に大の字に転がっているミトへとクロコダイルは視線を落とした。片手を軽く持ち上げれば、コートをひっかけていたカヤアンバルがすすとその手の上に乗せる。大きく風を孕ませ、クロコダイルはそれを肩にかけた。
「おめでとう」
「…次は、もっとめでてえと思えるような日にしろ」
 そう、クロコダイルは転がるミトの腹を軽く蹴り小突いてから笑えば、下からは盛大に笑いが弾ける。今度は、と女が目をぱっちりと開き、そして細める。
「お前に欲しいものを聞いとかんとなあ」
「そりゃ…困る、だろうよ」
「そうか?そんなに高いものか?」
 上半身を起こし、眉根を下げるミトを見下ろし、クロコダイルはクハハと声を立てて笑う。
「てめえにとっちゃ、一生の買い物だ」
 ただただ訳が分からないと目を瞬かせるミトの頭を、クロコダイルは最後に小突いた。乾いた服から香った潮の匂いが、女のそれに思えて、小さく笑んだが、それをミトが見ることは、なかった。