La mia terra

 腕が重い。体が重い。瞼が重い。脚が重い。全身が、重い。
 鬱屈した精神構造の中で、セオは只一人転がっていた。動くのが億劫で堪らなく面倒臭いとそう感じていた。別にそれは重ねた年の所為などではなく、心の問題である。
 三十二、口にすればするほど、年をとったのだなと言うことを改めて実感する。一つ言うならば、三十代を迎えたからと言って、自分の体に何ら変化などなく、相変わらず俊敏に動くし、重たい物も持ち運べる。跳躍力も落ちてはいない。無論視力も問題は無かった。ただ。セオはただ、とそう思った。
 転がった庭の芝生からは土と刈ったばかりなので青臭い匂い、否、この場合は臭いが鼻を吐く。上から落ちてくる日差しは温かく、心地良い。このまま空や空気に溶けて消えてしまいそうな気がする。気がするだけで、実際にそんな事があれば、それはかなり不可思議で、まさに超常現象と呼ぶに相応しい。
 鼻の上に蝶々が止まる。翅が、閉じる。
 じぃと微動だにせずに居れば、蝶々は飛び立つことも無く、ただその場に留まって居た。銀朱の瞳に映しこまれた蝶々を酷く細やかに観察する。麟紛、触角、複眼、脚、腹、関節。近距離で観察すると寄り目で疲れるので、右目だけでその構造を見つめる。調べることをせず、セオはただ見つめていた。
 だが、蝶々は音と共に去り行く。草を踏む足音にセオは僅かに首をもたげて、音を作った主を確認した。そこに居たのは、鮮やかな短髪を有した二十歳前後の男。実年齢を知っているから良いものの、日本人のその面は随分と幼く見えるため、まだ十四五にしか見えないことをその男に言えば、一体どういう返事をするだろうかとセオはぼんやりとそんなことを考える。
 彼はイタリアに来てまだ間もない。イタリア語はまだほんの片言しか喋れないが、通訳も居るし、それに何よりボンゴレファミリーの者はほぼ全員と言ってよい程(これにはVARIAも含まれる)日本語が話せるので、彼が言葉に困ることはまずない。セオが日本語で話しかけようとした時、男が目元を緩ませてイタリア語で親密さを表す挨拶をしてきた。
「Ciao, Theo. Che bella giornata(おはよう、良い天気だね)」
「Si, davvero bella(ああ、良い天気だ)Buongiorno, Don Vongola」
 大層型に嵌まった、というよりも随分と堅苦しい返答にドンボンゴレと呼ばれた男は苦笑、どちらかと言えば失笑を顔に浮かべた。そして今度は日本語で、隣良い?と尋ねる。それに背中を地面に預けていたセオは挨拶とは対照的に酷く面倒臭そうな対応で、どうぞと隣を叩く。 男はその隣に座った。そして倒れて空を眺めているセオと会話をしようと試みる。彼は最初は大層友好的であったし(勿論それも首を垂れると言う意味での友好的な意味ではあったのだが)普段本部で顔を合わせても無視はしない。だが、と男は思った。
 一線引かれている気がする。
 と、そう思った。そしてそれはおそらく間違いでもなんでもないことも男には分かっていた。
 そしてセオにはそのつもりなど微塵も無かった。自分とその男との間には軽い挨拶を交わす間柄ではないし、それをしたいと言う欲求も欲望もない。その気持ちが一欠けらも存在しないのに、それをわざわざ実行に移すような男では、セオは、無かった。
 そんなセオに男は声をかけ、会話を続ける。
「明良だよ。沢田明良。ドンボンゴレって呼ばれるのはなんだか照れるから、止めて欲しいな」
「そうか、沢田」
「…できれば、父さんと間違うから沢田はちょっと…」
 渋った明良にセオは、不思議そうにその銀朱をずらし、その男を視野に入れる。安眠(否、端から眠ってなど居なかったが)を妨げられた猛獣の眉間には軽く皺が寄っていた。それはただ単に疑問に思ったために寄ったものであったが、父親譲りの目付きの悪さでそれをすると、どうにも迫力が出て睨みつけているように見える。
 明良の頬が軽く引きつる。それを見てとったセオは、悪いと一言謝ってからその眉間の皺を取り除いた。
「沢田綱吉は十代目と呼んでいるから、お前と混同させることはない」
「君のお父さんが沢田って呼んでるから」
「少なくとも、俺がバッビーノと同伴してる時にお前に会うことはないと思うんだが」
「いや、そうかもしれないけど。こう、気持ち的にね」
「命令か?」
 さも当然のようにできたセオの言葉に、明良は目を瞬いた。そして、ぷっと思わずといった調子で笑う。
「そうだなー…そんなつもりはないけれど」
「命令ならば有無を言わさず従わせられるぞ」
「そんなことまでして自分の呼び方を変えたいとは、少なくとも俺は思わないよ」
 その返答に、セオはそうかと短い返事をして会話を切った。それで話は終わりだろうと思っていたセオだったが、さらに柔らかめの声が耳に届いて多少の驚きをもちながら、その声に一応耳を傾ける。
 声は続けられた。だが、その声に乗せられた言葉は多少なりともセオに考えさせられるものだった。
「もしも、俺がVARIAと言う組織を解散させるとすればどうする?」
「もしも?」
 そうだなとセオは考える。だが、答えなどセオにとっては一つしかないのである。
「お前がそれを最強のボンゴレのためだと、その超直感を持って思うならば、それも已む無しだ。別に食うに困ることもない。仕事なんざ探せば山程ある。少なくとも俺の願いは最強のボンゴレだ。もしもVARIAと言う存在が、最強であることを阻んでいるのであれば、そうすれば良い」
「ただ、俺が荒事が嫌いってそれだけの理由ならば?」
「断固阻止だ。お前を殺す」
 短く、淡白な返事だからこそ、明良はセオの本気を感じ取った。彼の主は決して自分などでは無く「最強のボンゴレ」のみなのであろうと。
「最強であり続けることは、疲れない?少し、肩の力を抜けば?」
「疲れない。ボンゴレが最強であり続けることが俺の誇りだ。そして生き様だ。ボンゴレが最強で無くなるのならば、」
 俺は死ぬだけだ。
 セオは唇だけでその言葉を呟き、音は消した。恐らく母が悲しげな顔をするのであろうと、セオはそう思う。ラヴィーナも泣いてしまうだろう。声が出せない故に、声すら出さずにしくしくしくしくと、涙だけをはらはらと落とす。忌々しいが、あのイワン野郎がそれを慰めはするのだろうが。
 再度眉間に寄せられた皺を眺めて、明良は一体セオが何を考えているのかを想像したが、今一その全貌は掴めそうにない。セオは分かりやすいと彼の仲間内には良くそう言われているが、マフィアとはほぼ無関係の日常的な(そう表現するのは多少の間違いがあるのだろうが)生活を送ってきた明良にはそれは多少難しいものであった。
 ぐい、と体を起して、セオはその長く大きな体を曲げて座る。そして明良の方へと視線を動かした。
「まだ聞きたいことはあるか?」
「あ、分かってたの。セオ、本当は超直感持ってるんじゃない?」
「事実だけを述べるならば、持ってない。そんなものは俺には必要ないし、必要ともしていない。差し詰め、山のような書類に飽きが来てお目付け役の目を盗んで逃げて来たってところか」
「分かるんだ。まるで千里眼だ」
「経験者だ。俺の場合はバッビーノにしこたま殴られた…頭が変形するかと思った…」
 それを思い出しながら、ううとセオは呻く。思い出すだけで頭にあの時の痛みが思い出す。報告書提出をさぼって母のところでお茶をしていた時など、本気で頭蓋が叩き割られるかと思ったほどだ。それでも懲りずにそれをしていた幼い頃の自分は一体何を考えていたのだろうとセオは訝しむ。自分はもしかしたらマゾヒストの素質があったのかもしれないとそう考えてぞっとした。
 一人思考を巡らせているセオの隣で、明良はふぅんと軽く首を傾げた。そしてその指先で軽く芝を摘まむ。
「書類整理は嫌いじゃないけど、ああも沢山あると嫌になる」
「それは良く分かる」
 腕に大量の白い紙を抱えてきたウドルフォを見た時など眩暈がした。本気で倒れるかと思ったが、半分程はドンが手伝ってくれたのでそう面倒くさくもなかったが。無論、言うまでもなくジーモに書類処理を手伝う能力などありはしなかった。息抜きにとトマトを持ってきてくれるのは大層有り難い、が、どちらかと言えば、林檎を持ってきて欲しいところである。
 セオは今何時くらいだろうかと考える。今日は珍しく取り立ててすることが無い。だが、普段多忙を極めている身としては、反対に余暇の過ごし方を体が忘れてしまった。ただ、だるい。
 そんな中で逃亡者である明良の声だけが耳に届く。
「前から思ってたんだけど」
「何だ」
「セオは、人を殺すことに何も感じないの?」
「例えば」
「例えば、そう、例えば…可哀想だなとか、申し訳ないとか、できれば殺したくなかったとか」
「お前の言うことが理解できない」
「だから」
 続けようとした明良の言葉を、セオは軽く手を振って遮った。そして自身の話を続ける。
「理解できないだけで、他の連中、例えば全般的な人間がそう言う感情を抱くことは理解している。だが、俺はそうは思わない。そう思うことは、俺がこれから奪う命に、そして奪ってきた命に対して無礼だ。俺が殺人者であり続けなければ、誰が俺を憎む。殺された連中の思いは何処へ行けば良い。ボンゴレのために殺した奴らをないがしろにはしないし、できない」
「だから、人を殺し続ける?殺さなくて良い人も?」
「殺さなくて良い人間は殺さない。無駄な死人はボンゴレのためにならない。骸の山を築いて喜ぶのは快楽殺人者か狂人だ。少なくとも、俺はそのどちらでもない。まぁ、他の連中がどう思ってるかは知らないが。だから、そんな事を聞いたんだろう?」
「…セオの耳はまるで象の耳のようだ。一体どこからそんな事を耳にするんだろう」
「別に聞かなくても、ボンゴレ本部に足を運んだ時に向けられる視線で気付くさ。馬鹿でも。いや、ジーモはどうだろうな?あいつ気付いてないかも。いや、どうでもいいのか」
 ぶつぶつと言い始めたセオの横顔を眺めながら、明良はそうだと思う。実際、ボンゴレ本部でもVARIAと言う存在はひどく恐れられている部分がある。恐れられている、というか、忌避という意見もあるのかもしれない。完全武力派の組織であり、かつ「独立」と言う名がつく暗殺部隊である故に、そいう言った恐れが産まれるのは自然とも呼べるだろう。
 とりわけ、その頂点に君臨するセオという男のことは、よくよく明良の耳にも届いていた。残虐非道で冷徹冷酷人の心を持たぬ残忍なキラーマシーン。任務のためならばどんなおぞけが走る所業すらこなすと言う。彼が任務に赴けば、そこには死体も残らぬと聞き及んでいた。父親よりも彩度が落ちたその銀朱の瞳は感情が働いていないのではないか、とも言われていた。
 が、しかし。
 しかし、
「初対面、そう思わなかった」
「ん?」
 話が全く繋がらず、セオは眉尻を微かに下げた。
 別に暴力的なわけでもない。部下に無意味な暴力も振るわない。笑うし怒るししょんぼりとしているし、人並みの感情変化は見せる。一体誰が、セオの事を「そう」評価したのか、明良は良く分からなかった。一つ話をしてみれば、彼を殺人機械など呼ぶことはもう叶わぬだろう。彼はそれほどまでに感情表現が豊かである。ずれてはいるが。ちなみに空気も読まない。
「そうやって、人を殺すことに対して誠実にあるセオを、どうして理解しない人が居るのか、良く分からない」
 そう呟いた明良に、セオは目を細めた。
「人殺しに善悪なんて無い。勘違いするな。正義も悪も、存在しない。人を殺した者は全て例外なく殺人者だ。どんな状況であれ、どんな理由であれ、尊い命を暴力的に奪ったことには、一切変わりない。そしてそれをした人間は、それを自覚し、耐え、受け入れねばならない。それができなければ、死ぬだけだ」
 言葉が続く。
「お前の椅子を血痕一つ無い床に磨き上げるのは俺の仕事だ。だが、その床を拭いた布は血の色だ。忘れるな。それだけは、忘れるな。コーザノストラは、俺たちは、正義の味方ではない。だから、俺は俺を惨忍だと評価する人間を否定しない。俺がそう思わなくとも、俺の友人がそう思わなくとも、俺の仲間がそう思わなくとも、俺の殺し方を見れば、そう感じる人間が居るのは自明だ。尤もだからだ。そして俺自身、それに対して何の感情も割く必要性を見いだせない。そんな評価一つで、俺の何が変わることも、無い。問題は何一つない」
「…俺は、あまり嬉しくないな。セオ、君はボンゴレのために全てを尽くしている。それなのに、」
「俺は、評価が欲しくてボンゴレに尽くしているわけではない。ボンゴレ本部の人間が何と言おうが、俺には、俺達には関係無い。それを不服だと思うこともまた無い。お前がそれに対して気負う必要も無い。気にするな」
 まぁ、とセオはその視線を動かして、遠くで揺らめく蝶々を見つめた。ひらりひらり、と上下に揺れ動く。
「それで、俺の仲間や友が不当に傷つけられたならば俺が勝手に怒る。心配するな」
「なら、誰がセオが傷ついたのを怒るの」
「俺は傷つかない」
「絶対?」
「絶対、だ」
 そう、と明良はセオと同じ方向を見つめる。ひらひらとやはり蝶々が舞っている。
 眺めるのを止め、明良は座っていた体を起こした。両手で尻についていた草の葉を叩き落し、立ちあがって大きく伸びをした。空が、近く見えた。
「セオ」
「何だ」
 返った短めの返事に明良は笑った。
「明良って呼んでよ。ね?」
「…そう呼ぶことに」
「親密度親密度。セオと俺の仲が良い方が連携も上手く行って、ボンゴレにとっても良ことだと思うんだ」
 軽く、その銀朱が歪む。にやと明良は笑った。そして、再度押す。
「ね?」
「…分かった、明良。そう呼ぼう」
 そして、セオは困ったように笑った。