過去に追われる

 世界は驚くほど不平等で、そして驚くほど平等である。
 足元で神に祈りを捧げ許しを乞う男を見下ろす。
 圧迫的な個室。手を思いっきり伸ばし、少し背伸びすれば天井には手が届き、換気のための窓はなく、鉄製の扉が一枚、その部屋と外界を分けているだけであった。
 部屋には明りを求めて、天井から下がる小さな裸電球の周りを虫が飛び回っている。
 むっとする蒸し暑さの中に、饐えた臭いが混じる。人の汗と、それから。
 セオは臭いの発生源へと、部屋の隅へと向けた。
 部屋の隅に固まっているのは4人の子供。その誰もが痩せこけ、目は落ち窪み、どこかが欠損している。劣悪な手術環境から、欠損部位は腐敗し、蛆が這っている。表情は削がれ落ち、乾いた唇が何かしらの言葉を紡ぐことはない。
 部屋には、ただ、ただ男の命乞いだけが繰り返し巻き返し響いていた。
 ゆっくりと。至極ゆっくりと。それは時間が止まったかのように、ゆっくり、と。赦しを乞う男の頭部に冷たい銃口が押し付けられる。天に居はす神への祈りは、一瞬途切れ、後の祈りは恐怖によって塗りたくられた引き攣る喉から搾り取られるように叫ばれた。
 しかし、男の前にいる男は、神ではない。
 いっそ死神ともされる。
 子供の瞳以上に何も持たない銀に朱色を混ぜ込んだ瞳が、無慈悲に、無感動に、一寸も動くことなくただその一瞬を見つめた。
 人差し指が用心がねで守られている引き金を引いていく。
 跪く男は最後の、最期の祈りを以て、死神の瞳を覗き込んだ。
 ああ。
 ああ、と男は絶望よりも深いところに感情を落とし込んだ。
「死の神よ」
 その言葉は男の最期の言葉となった。
 脳味噌を大口径の銃で撃ち抜かれ、動きを止めた男の体は重力に従って床に倒れ伏した。ど、と一度体は跳ね上がり、その後額から血を流しつつ、指先ひとつ動かぬ屍となる。
 セオは銃をホルスターへと収めた。
「誰の神にもなった覚えはない」
 静かにそう呟くと、ゆっくりと壁際に固まっている子供へと視線を向ける。子供は動かない。誰も。それを、その何かを、待つかの如く。
 セオは銃に装填されている弾の数がちょうどこの場の子供の数であることを把握する。
 一人一発。
 ホルスターから再度銃を抜き取り、照準を合わせる。
 そこには一切の感情なく、躊躇いもない。
「セオ」
 背後から音すらなく、背後に立った男の声に呼ばれた男は肩を大きく震わせた。合わせた照準が、ずれる。
 セオは大きく息を吐き出して振りかえる。そこには、深い色を肌に映し込んだ男がゆらりと、まるで影と同化するかのように立っていた。
「ラジュ」
 声は至って平静で、動揺はない。
 しかし、ラジュは己の友人であり、幼馴染であり、そして上司である男のほんのわずかな、誰にも気づかれないであろうズレを感じ取った。
 ラジュは己の手を、セオの掲げている銃の上へと乗せ、そのまま足元へと下げさせる。
 そのまま、どこからともなく取り出した小瓶の液体を床に落とした。揮発性の高い毒であるそれは、一瞬にして空気中に混じり、壁の隅に固まっていた子供の命をたやすく奪う。
 毒について耐性のあるセオとラジュは命を落とすことも、気分不良になることもなく、その場に立っていた。
 セオはラジュへと、もう一度視線を合わせる。今度は、ずらすことなくしっかりと。
「セオは、少し、休む」
「は?」
「躊躇する。死ぬ」
 ずるりと喉の奥から、膿が零れる。溺れる錯覚に襲われた。
 友人の言葉に、セオは視線を床に落とした。
 黙りこくったその姿に、ラジュは何を言うまでもなく、肩に手を添える。
「少し、休む」
「昨日」
 セオはせきを切ったように言葉を発した。
 ここでこの話をするのが正しいのかそれとも正しくないのかは、全く分からない。鼓動が鼓膜の横であまりにも大きく、脈動を刻む。
 一度は下した銃を再度持ち上げ、天井から下がる電球の上にへばりつく、蜘蛛を一匹、撃ち落とす。ラジュが鉄製の扉を後ろ手に閉め、部屋は再度外界から遮断される。
 そうしてようやく、セオは深く息を掃出し、昨日、と同じ言葉を繰り返した。
「オルガの、夢を、見た」
 冷や汗が服の下の背を伝う。
 気持ちが悪い。体が冷たい。
「笑ってくれ」
「何故」
「ラジュのそういうところ、俺は少し、苦手だ」
「そう」
 平行線の会話に混ざるものはいない。部屋には死体5体。
「オルガは、俺を、指差した。あの、爪が剥がれた指で」
「…後悔」
「していない」
 セオは呻くように繰り返す。
「していないはずだ」
「後悔、している」
「していない!して、いいはずが、ない」
「何故」
 自己の選択を、ボンゴレ故の或いは育ち故の選択を肯定するかのように叫んだ友人に、ラジュは首を傾げた。
「何故、いけない。何故。何故。何故。セオ、愛しい人を、奪われた」
「俺が、今まで奪って、来たからだ」
「だから」
「やめろ」
「奪ってきた。だから。オルガ、殺されるの、当然?セオ、オルガ守らない、当然?」
 最後の言葉を言い切った瞬間、セオはラジュの胸ぐらを掴んで扉に叩きつけた。
 それが答えだと言わんばかりに、ラジュはセオの瞳を覗き込む。
「セオ」
「あの、選択以外なかった。俺達は、俺はVARIAで、俺は」
「セオ、助けたかった」
 胸ぐらを掴む手が小刻みに震えた。
「ただ、間に合わなかった」
 ありとあらゆる選択肢を模索した。
 しかし、どの方法も彼女を助けるには至らなかった。
「最善を尽くしても結果が伴わない、ある。だから、後悔する」
「オルガの、父も殺した。俺は、アンに」
 胸ぐらからセオの手がゆっくりと落ちる。開いた両手は男の、大きな男の顔を覆っていた。その表情は見えず、泣いているのかどうかさえ判断がつかない。
 ラジュは、セオの肩にもう一度手を乗せる。
「それが、決まるまで。セオは休む。そうするべき」
 一泊おいて、ラジュは追加する。
「足手まとい」
「は、はは。俺が、そんな風に言われるなんてな」
「事実」
 紛れもない事実だとセオは認めた。
 子供を即座に撃てなかった。オルガに、オルガの父親に、腕を絡め捕られたかのように。
 ああ、とセオは目を細めて口元を奇妙に歪める。果たして笑顔に見えているのだろうか。
「それじゃあ、少し」
 背を二度ほど軽く叩かれ、セオは己が神などではなくただの人であることを再度認識した。