忌々しい

 忌々しい。
 そうやって世界の全てを憎んだ。憎めば憎むほど虚しくなるのは承知であったが、それでもなお憎まずにはいられなかった。憎悪という感情を理不尽の中で育てた。そうすることで、自我を保ち、他者と一線を引き、錆びついて自分にはどこまでも冷酷で残酷な世界の中で生きてきた。
 と、そんな顔をしている少年、イタリア人にしては珍しく幼い面立ちを年端の割に残している男を無遠慮にじろじろと舐めまわすようにして見つめながら、メフィストはそう感想を抱いた。くくと小さく喉を震わせて薄く、見る者が見れば殺意さえ覚えるようにして、笑う。無論、天使と悪魔の両方の名を持つ男はそれを重々承知の上で、そのように笑んでいた。寧ろ、相手の感情を逆なですることに快感を覚えているといっても過言ではなかった。
 任務時であればナックルをはめている手の関節部分をもう片方の手、指先でなぞるように撫でながら、メフィストは資料をめくる小柄な男を嬲るように見つめた。とうとうその視線に耐えかねたのか、それとも元より我慢強くないのか、視線の先にいた男、ドン・バルディは男をひたと睨み返した。彩度の低い緑色の視線が向いたことにより、メフィストは口角をゆるりと持ち上げて、少しばかり笑みの形を変えた。ドンの口が動く。
「じろじろ見るの、止めてくれる。気持ち悪い」
「好いた奴を見たいっての、世の常識だと思うぜ」
「君はストーカーと呼ばれた時に純愛を主張するタイプだね」
「ああ、俺の愛はいつだってピュアに違いはねぇな」
 一体どこがピュアだと言うのか。そう言わんばかりの視線を受けつつ、メフィストは部屋にある椅子をくるりと回した。からからと回る椅子の音が、どこかあざ笑う声のように部屋に響く。男二人しかいない部屋で統括者に渡された資料を一枚一枚めくりながら頭にそれを叩き込んでいく。馬鹿馬鹿しいとは口にしつつも、メフィストもそれを怠ることはしなかった。失敗、などという言葉がお互い、VARIAの中に存在しないことは暗黙の了承である。存在しない、ではなく失敗した者を排除していく、が現実でもあった。
 それであるからこそのVARIAである。
 メフィストもそういう殺伐とした完全実力主義の組織を気に入っていた。そうでなければ、このクオリティの高さは保てない。気に入っている。自分に興味を失ったのか、それともこの自分という存在を認識したくはないのか、黙り込み資料へと視線を戻した男を眺めて、ニタニタと口を歪めて笑う。無理矢理そうしている様子がまた面白い。守護者選抜の際には、ちびで役立たずのどうしようもない足手纏いだと判断したが、任務を共するうちに、そうではないことに気付く。
「もういいじゃねぇか」
「君が死にたいならそうしたら。俺は別に君が死んでも一向に構わないから」
「心にもねーことを」
 そうなのだ。メフィストは薄く、そしていやらしく笑んだ。侮蔑を含んだ視線を緩やかに受け止め、そして喉を鳴らす。
「俺のこと、嫌いなんだろ?ま、体の相性は悪くても、戦闘パターンの相性は良いわけだからなァ。仲良くしようぜ、ドーン」
「嫌。俺は、君のこと嫌いなの。大っ嫌い。君が仲間でなければ、殺しているほどに嫌い。どうしようもなく、嫌い」
 ドンの言葉を受けた男は軽く肩をすくめ、目を細める。至極楽しそうに見えるその表情に、ドンはさも嫌そうに顔を歪めた。そうに、ではなく実際に嫌がっていた。その笑みにぞわりと背筋に怖気が走り、表情筋を少しばかり強張らせる。くるくると回っていた椅子が回転を止め、メフィストはきぃと椅子を鳴らして立ち上がった。足で椅子を蹴れば、タイヤがついていたそれはくるりとしながら遠ざかった。
 伸ばした腕が、ドンが座るイスを囲むように肘置き場に乗せられる。下から殺意を込めて睨み上げてくる視線を感じながら、メフィストは喉を愉快気に震わせた。安心しろよ。そう、言葉を形作る。
「俺も」
 一拍おいて、いやらしく。
「てめぇのことは、嫌いだぜ」
 どこかの傷を抉るようにして言葉を紡ぐ。目の前の瞳がゆると微かに動いた。本当に僅かに、それこそ凝視していなければわからないほどの動きであった。ずっくりと、柔らかな肉を食むように犬歯を突き立てる。
 肘置きの間に挟まっている細く小さめの体はしかし微動だにしない。退いてよ。そう、唾を飲んだ後に声が落ちた。そんな言葉を聞いてやる義理など毛頭ない。無視をして、メフィストは肺の空気をそっと外に囁くように出した。腰を折り曲げ、その距離を詰める。押し込めた男が手に持っていた紙の束がくしゃりと開けた服に当たる。
「その保守的な姿勢が嫌いだ。自分が一番かわいそうって姿勢も嫌いだ。僕頑張ってきましたーって態度もむかつく。欲しいもん手に入れて、本当はもっと欲しいけど我慢してる面も嫌いだ。何より、その、かまってチャンな態度が大っ嫌ぇ。むかつくとか嫌いとか、そんなもんじゃネェよ。見てて吐きそうだ」
「…君に、」
「ぼくちゃんの何がわかるんですかァ?って言うつもりかよ。ドンドンドーン。は、はははっ!」
 眼下の顔が怒りに歪み、振り上げられた紙片が顔に叩きつけられる。ばちんと音が鳴った。しかし、本当のところ、それは頬に衝突する前に片手で軽やかに防がれている。それくらいできないで、接近戦を誇る人間にはなれない。防いだ紙をぐしゃりと手で潰す。やわらかな紙は見るも無残に皺くちゃになってしまった。
 潰して奪った紙でぽんぽんとあどけなさが何故か未だに残る頬を叩いた。
「俺。てめぇのそーゆーとこ、マジで嫌いだわ。悲劇のヒロイン気取りすんなら、他でやれってんだ。ココにはてめぇみたいな可哀そーな奴、いくらでもインだよ」
 言わせておけばと言わんばかりに、ドンは空いている腕でメフィストの体を押した。資料には目を通した。打ち合わせもした。こんな男と同じ空気をいつまでも吸っている必要などどこにもない。しかし、押した体はその重みと力でぴくりとも動かない。
 メフィストは笑う。
「そういう態度、てめぇ、してるぜ?マジでうぜぇ」
「言掛りも甚だしい。そんなに嫌なら俺に近づかないで。話しかけないで。視界に入れないで。気持ち悪いんだよ」
「あーあー、そゆとこも。苛々する。何様だよって言いたくなンだよな。小動物が怯えてるみてえでさ、ぐっしゃぐしゃにしてやりたくなる」
「その割には愉しそうな顔してるね、変態」
「好きじゃネェが、最高だろ?エクスタシー感じるぜ。俺と話してる時のお前、ほんっとにイイ顔してくれてるからよ」
 大きな掌でメフィストはドンの両頬を掴み取った。見れば何とも面白い顔になる。腕に小さく華奢な指が絡みつき、指先を立てて抵抗するが、それすらも己の楽しみのうちだとばかりにメフィストは口元を大きく歪め、そして笑い声を薄く開いた歯の間から零した。
 足が膝を蹴るが無視をして、その両足の間に自身の足を割り入れさせる。成人男性二人分の体重を支えた椅子は大きく軋んだ。
「ソソられる。無様に足掻いてるてめぇの顔に泥つけて、地面に押し倒して壊してやりたくなる。さぞかし、スカっとするんだろうなァ」
「…君の玩具になるつもりは、ない。退いてよ」
「あーぁあ、あー退いてやるぜ?ああ、退いてやるよ」
 黒板を引っ掻くような、人を不快にさせる音が響く。メフィストは嘲笑をした。
「あいしてるぜ、ドン」
「死ねば?メフィスト」
 名前を呼んだとさらに腹を抱えて笑えば、腹に靴底がめり込む。鍛えられた腹筋と、もともと攻撃力の低い攻撃など、脅威でもなかった。この男は、本当に仲間を傷つけられない。メフィストは愉快に痛快を含ませて、はっはと笑い始める。仲間というそれだけをどうしても手放せない。
 ひっひと横隔膜を引き攣らせながら、メフィストは手を付けていた肘置きから手を放して、上半身を起こす。その時、下からの視線に気づいた。何だと問うて笑う。
「君の愛なんて、嘘ばかりだ。俺の知ってる嘘つきよりも、君はもっとひどい嘘つきだ。君は誰も愛してない。誰も愛せないの?」
 素朴な質問に、それはもう、今まで関わってきた女も男も、捨てたやつらは結構これに似た質問をしていた。メフィストは両手を腰に当て、後ろの机に体重をかける。
「愛してるぜ?俺は。俺の言葉にどこにも嘘はない。愛しているの定義が多少俺とお前で違う、それだけのことだ」
「君と一緒なんて死んでもごめんだね」
「マァそれ以前に。お前に、愛、なんて意味分かってんのかどうか」
「黙ってくれる」
「あーあー図星」
 べりべりと眼前の男の防護壁を肉を合わせて無理やり剥がしていく。血が滲み出し、苦痛が精神を端から侵食する。歪められた表情に股間が熱くなる。なんとたのしい。愉快で愉悦。
 メフィストはぐしゃぐしゃにしてしまった書類の皺を丁寧に伸ばしてドンの胸の放った。そして、机にかけていた体重を自身の両足に戻すと扉の方へと進む。ドアノブに手をかけ、手前に引けば、鍵をかけていない扉はすんなりと開いた。時計の時刻は出立までもう暫くの余裕を告げていた。トイレに行って一度抜いてきた方がいいだろう。アソコが痛くて任務に支障が出たら笑い話では済まない。
 三日月のような笑みを口に乗せ、メフィストは振り返る。ターゲットロック。
「前言撤回。俺、お前のこと、だぁーいすきだわ。そういう、ムカツクとこも含めてな」
「そう。俺は君の全てが嫌いだ。髪の一筋に至るまで。一切合財」
「だから、好きだぜ?ドン」
 イキそう。
 後でなと手を振り、メフィストは扉を閉めた。皺が伸ばされた書類を、ドンはぐしゃりと手で潰した。