услода жена

 気泡が液体に浮く。
 瓶の中に詰められている飲み物は気泡の入った分だけ、その内容量を減らした。色のついたボトルの底を天井に向けていた状態から、膝の位置に下げる。瓶のヴォトカは半分程度、男の胃の中に消えていた。一人はソファに深く腰掛け、一人は一人掛けの椅子に片肘を着き、もう一人はスパークリングウォーターのボトルを口につけていた。室内の端にある暖炉からは、薪が乾いた音を立てた。それに混じって、男三人の談笑に花が咲く。
 ウラディスラフは一本のボトルを空にして机の上に横たえられていた新しいボトルを手に取ると、上下の歯で蓋を噛み、乱暴に開ける。頬に空気を幾らか溜め、腹筋を使った呼吸でそれをゴミ箱に飛ばした。放物線を描きながら、蓋は綺麗に蓋の開いたゴミ箱の中に納まった。
 新しい瓶を開けたことにニコライは溜息を吐き、そしてそれを横目で眼鏡越しに眺めながら、ゲオルギーももう一本とヴォトカのボトルを手にして開ける。喉を焼き、体温を上げる飲み物は、そのおまけとして男たちの舌も滑りやすくした。そして、ウラディスラフは先刻まで話していた話題へと戻る。
「妻にする女の条件、か。ジョーラ、お前はどうなんだ。俺に聞く前に」
「俺?あーあ、そうだな…最低条件は料理ができる女。帰ってまで不味い飯は食いたくねぇ」
「つまりは家庭的な女、か?」
「有体に言えば」
 白い丸皿に置かれているクラッカーが一枚減る。ゲオルギーは歯に挟んだクラッカーを顎に力を加えて噛み割った。幾らか小さなカスが絨毯に落ちた。それから、ヴォトカのボトルを再度傾け、一口二口飲む。ウラディスラフもボトルに口をつけ、そして、まるで水でも飲むかのように、ぐびりと三口程ヴォトカを胃に落とした。口から放し、軽く瓶底を振るう。
「夜の方はいいのか?」
「欲をかくと馬鹿を見るのはどこの世界でも常じゃねぇか。そういうのは、追々仕込んでいきゃいいだけの話だと思うぜ」
 大口を開け、ゲオルギーは天井を見上げて笑う。その様に、ニコライは一つ掛けの椅子の上で足を組み、下品なと溜息交じりに口を盛大にへの字に曲げた。二人とは異なった、酒ではない飲料水、スパークリングウォーターは半分以上残っていた。左右に揺らせば、瓶の中で水泡が躍る。
 暖炉の薪が焼けていく音にバックミュージックに三人は話を続ける。ゲオルギーは瓶底をウラディスラフへと向けた。
「それで?お前は」
「…妻云々の前にすることがあるのでは?ウラドにしても、ジョーラ、貴方にしても」
 ニコライの諫言に名指しをされた二名は互いに視線を合わせ、そして馬鹿にするように肩を竦めた。
「おいおい、コーリャコーリャ!は、っは…ふぶっ、ふ、俺達の腹筋をこれ以上鍛えてどうするつもりだ?」
「全く、傑作の一言だ。ニコライ・アルノリドヴィチ!」
「…ヴォトカばかり飲んで、腹の肉を余らせるようになる前には丁度良いのでは?」
 手厳しい一言に喉を震わせながら、ウラディスラフはニコライの言葉なぞどこ吹く風と言った様子でヴォトカを半分ほど一気に飲んだ。唇を舐め上げながら、ボトル口を水滴を残して外す。
 下らない話で笑えるのは余裕がある証拠である。ウラディスラフは薄い笑みを口角辺りから中央に塗りつつ、あまりにも暇を持て余している退屈な時間を憂いた。時計の針を眺め、そして未だ響かぬ電話のコール音に耳を澄ませる。待つものは来ない。秒針が十二時を通り過ぎたのを網膜に写し、そして諦めたように会話を続行した。
「俺か?そうだな、表情豊かな女がいい」
「はぁ、お前にしちゃ意外に欲が無ぇな。ウラド」
「俺は謙虚なんだ」
「国宝級だな」
「当然だ」
 それと、とウラディスラフは続ける。
「反応の薄い女は詰まらん。俺の一挙一動で慌てたり泣いたり怯えたり」
「…泣かすことしか考えていないのですか」
「ぬか喜びしたり」
「最低ですね」
「どん底に突き落として、拾い上げたり」
「玩具では、ないでしょう」
 そんなニコライの忠告をヴォトカを浴びるように飲んでいる男は笑い飛ばした。そして喉を軽く震わせる。
「愛で方は人それぞれだ、コーリャ。堅いことを言うんじゃない」
 それが、とニコライはウラディスラフに問うた。そして、その答えは案の定というべきか、ニコライが想定したものであり、ゲオルギーが肩を揺らして笑うものであった。そこに驚きは一切含まれてはいない。代わりに蓋を開けたままのボトルから、僅かに炭酸が抜けた。
「イタリアのような、ただ居るだけで暑さで腐敗しそうな国。相応の理由がなければ、足を運ぶ意味もない」
「貴方のその愛で方を諸手を挙げて受け入れられるような女性は、それこそ特異な方でしょうね」
「人間の適応性を甘く見るなよ?」
 皮肉は軽口でもって返される。ニコライは遥か彼方、イタリアの地に住まう、ウラディスラフが妙にご執心の顔布の女を思い出して、多少なりとも哀れには思った。しかし、いくら憐憫の情を募らせたところで、目の前の男がどうこうなるとはニコライも、そんな甘いことは一切考えていなかった。ただただ、彼女の今後の不幸を考え、哀れには思いつつ、傍観するばかりである。
 玩具遊びに手を出せば、首をもぎ取られる。このウラディスラフとはそういう男であることを、ニコライはよく知っていた。脳裏を過りかけた、懐かしき、今でこそ巨漢であり、かなり性格のひん曲がったウラディスラフが、短い手足で一生懸命絨毯の上を転がるボールを追っていた光景を寸前で止め、現実を直視する。どうしたと不敵に嗤う男は、決して幼少期の面影を一片たりとも残してはいなかった。身震いするほどの残虐さは一体いつから身に着けていたのか、ニコライはとんと記憶になかった。記憶にあろうがなかろうが、結果としてウラディスラフの中にその残虐性は存在しているわけだから、過去を懐かしんだところで何がどう変わるというわけでもない。記憶通りのウラディスラフであれば、今頃彼は節足動物の餌になっている。土に還っていると考えるのが自然であった。結局のところ、ウラディスラフはウラディスラフであるからこそ、今もなお、この椅子に座っていられるわけである。
 ニコライはボトルから直接飲むことを止め、グラスを取り出してそこに炭酸水を流し込んだ。いつの間にか半分も残っていなかった飲料水は、グラス一杯にすんなりと収まった。最後の一滴が、グラスの中で小さな波紋を作る。
「言葉の安売りはできても、感情の安売りはしない主義だ」
「言葉の安売りも遠慮してくれれば、私も、少しは気楽になれるんですけれけど」
「お前がいくら気楽になったところで、俺の心労が減るわけでもなし。言葉一つで媚び諂う人間は、ジョーラ、なぁ」
「ああ、そりゃ」
 少しばかり鼻の下にずれた眼鏡を、ゲオルギーは指先で押し上げて戻す。
「売女と一緒だ」
「…ウラドにしてもジョーラ、貴方にしても、多少なりともフェミニストの精神を養った方がよいかと思います」
 フェミニスト!と笑い交じりに、ウラディスラフとゲオルギーは肩を揺らしてヴォトカを飲む。十分に想定内の返事であったが、ニコライとしては目を眇め、軽く米神を押さえるより他ない。いつか彼らは女性に背中を刺されて死ぬのではないかと思わせんばかりの発言の数々である。無論、そうなった場合でも命を落とすのは背中を狙った女であって、大層ひどい男達ではない。
 心痛を悩ましく思いつつ、ニコライは片肘をついて拗ねたように炭酸水を一口含む。しゅわりと気泡が口の中で弾け、心地よい感触が消えていく。
 眉間に皺を寄せている部下が持つ炭酸水のグラスにヴォトカを手早く入れ、ウラディスラフはそして残りの分を自分の胃の中に一気に収めた。その行為に顔をこれ以上ないほど不愉快な色を塗りたくった遠慮のない男に、笑いが飛ばされる。部屋には先程から、嘲笑なり談笑なりなんなり笑いが途切れることがない。
「別に俺の考えをお前に押し付けるつもりはないから安心しろ、コーリャ。ただまぁ、多少酒の席の肴として、生温い笑いを場繋ぎに使わせてもらうだけだ」
「配慮、といった言葉は貴方の中には…あるはずもなく」
 自己完結し、諦めたニコライは炭酸水に混じってしまったヴォトカを台所まで行き、流した。海に流されるか、川に流されるか、はたまた溝に混ざる予定なのかは、専門業者に聞いてみなければ分からなかった。しかし、もとより大した興味もなく、炭酸水と混ざったヴォトカの行方などどうでもいいのである。
 そんなニコライの行為に悲痛めいた声が上がった。ニコライはウラディスラフの嘆息を無視して、冷蔵庫から、今度は炭酸の入っていない飲料水を取り出すと、湯で洗ったグラスの中に注いで席に戻る。
「コーリャ」
「無駄にしたくなければ、私のグラスに入れないことです。貴方が悪い、ウラド」
 取りつく島もない返事に、ウラドはゲオルギーへと一度視線を送ったが、視線を向けられた側もどうしようもないと両手をお手上げのポーズへとした。やれ、とウラドは一度浮かせた背中を再度柔らかなソファの中へと埋める。
「さて、お前は一体どんな女がいいんだ?妻にするなら」
「娶る気は、ありません」
「ほーぉお?ウラド!こんなこと言ってるぜ」
 揶揄を多分に含んだゲオルギーの言葉にニコライは視線を鋭くして睨みつけた。しかし、それはゲオルギーを射抜く前に、ウラディスラフの方へと動かされた。
「俺からしてみれば、あのじゃじゃ馬以上の暴れ馬な姉上の一体どこにお前が惚れているのかさっぱり分からん。ちなみにそうだな、お前が姉上と結婚すれば、俺とお前は晴れて家族だな!おお、我がカラシニコフ家に下戸の人間が名を連ねるとは…信じられん」
「ナターシャの真似を貴方がしたところで薄気味悪いだけです。止めてください」
 胸を痛ましそうに押さえた男へとニコライは辛辣な言葉を叩きつける。僅かに不機嫌な色が覗き見え、ウラディスラフは人を煽るような笑みをそっと取り除いた。そして、先程とは打って変わって、真剣な声と言葉でニコライを射抜いた。
「欲しければ、欲しいと言えばいい。奪えばいい。姉上はお好きだぞ?」
 そういうのは、と括ったウラディスラフの言葉に、一度は射抜かれた視線をニコライはゆっくりと逸らした。己の指の腹を擦り合わせる。沈黙を保ったままの男にウラディスラフは続けた。
「蹂躙すればいい。相手の意向なんぞ、噛砕いてしまえ。犬のように尻尾を振ったところで、チップはいくらも出ない。腹が減ったら、」
 食えばいい。
 少々とがり気味の犬歯がウラディスラフの口元から覗く。ニコライは炭酸の入っていない水を一気に飲み干した。喉が上下に動く。
「私の幸せの在り方と、貴方の幸せの在り方は違うのです、ウラド。ナターシャが幸せであることが、私にとっての最良の幸せです」
「意気地なしめ」
「私からしてみれば、牙を立てることでしか繋ぎとめられない貴方の方が、腰抜けかと」
「は!くっく…はっ、言ってくれる。俺はお前のそういうところが好きだ。コーリャ」
 目を細め、大層嬉しそうに笑ったウラディスラフにニコライは有難う御座いますと穏やかな笑みを返した。それと同時に、柱時計が深夜を告げる音を鳴らす。その時報に混ざり、リリと電話が震えていた。ああとウラディスラフは笑い、電話を取り耳にあてた。
 Алло. Вас слушают.(はい、もしもし)
 男の口元は、既に肉食獣の、それであった。