俺の天使

 ふふ、とパスクァーレは口元を歪めて大層楽しげに笑う。ラヴィーナはその光景を前にして、ただ静かに座っていた。武器商人の長く、しかししっかりとしたその男の手にはラヴィーナの携帯が握られている。
 パスクァーレはセオが好きである。むしろ恋をしている。愛している?ラヴィーナは自分には処理しきれない情報を胸の奥でとどめながら、ず、と目の前に置かれているホットココアを口にした。
「ラヴィーナ。この写真ちょーだい」
 パスクァーレの頼みにラヴィーナは簡単に首を縦に振る。
 ラヴィーナは思っている。人が人を好きになるのはいいことである、と。また、ラヴィーナはセオを好きになってくれる人が同様に好きである。自分の自慢の兄を好いてくれているというそれだけで、何故だかとても嬉しくなれる。胸元がほっこりしてよい気持ちになる。なので、パスクァーレがそうやってセオのことを好きだと言ってくれることは、ラヴィーナにとっても大層嬉しいことであった。
 セオは、とパスクァーレは自分の携帯にラヴィーナの携帯に入っているセオの写真を送りながら、楽しそうに嬉しそうに笑う。
「俺の天使」
 天使なる単語をラヴィーナは本で読んで知っていた。しかしながら、世に言う天使なるものと、自分の兄はどう考えてもイメージ的にかけ離れていると思われる。ラヴィーナにはパスクァーレの言うことが理解できなかった。
 何しろ、セオは白い服を好んで身につけない。それに背中に羽も生えていない。空を飛ぶこともできない(跳ぶことならばできるが)両性具有ではないし、頭に光る輪がついているわけでもない。結論として、やはりラヴィーナにはパスクァーレの言葉は理解ができない範疇の言葉であった。文学的にすら思われるその文章の意味を理解するためには、ラヴィーナはもう少しばかり物事を柔軟に考えなければならない。
 黙ってしまった(もとより話すことはできないのだが)ラヴィーナにパスクァーレはそう!とまるで演説を始める恋の伝道師のように語り始めた。ラヴィーナはその話を幾度となく耳にしているが、その話も好きであった。その話は、彼が兄を褒めてくれる話であるからである。
 大きめの身振り手振りで、パスクァーレはいつものように、一言一句違わぬ(褒め言葉が多少増減している場合もあるが)話を美しき旋律に乗せて言葉を作り出す。
「そう、あの日は月の綺麗な晩だった。俺が酒をたらふく飲んでふらふらと帰り道を歩いている時、黒い大きな影が上を一瞬通り過ぎたんだ。俺はそれを月の下で見た。服の上からでも分かる脚線美、鍛え上げられた腕に腹、それはまるで完璧な肉食動物だった。夜空の下を一瞬で通り過ぎてしまったセオの姿はしっかりと俺の瞼に焼きついた。それほどまでに美しかった。ラヴィーナ、そういうわけで、今度は全裸の写真が欲しい!」
 嬉しげに話を聞いていたラヴィーナだったが、携帯を差し出したパスクァーレの言葉に困ったように首を傾ける。撮影はできないこともないだが、嫌がりそうなのをラヴィーナは知っている。パンツをつけているところくらいならば、許してくれそうである。
 ラヴィーナは最終的に携帯のフォルダをかちかちといじり、風呂上がりの写真を提示した。ぼた、と机の上に真赤な血が落ちる。ぎょっとしてラヴィーナはパスクァーレの方を見たが、パスクァーレは鼻を押さえて、ぐっと強く親指を立てていた。それはよくやった!を意味するボディランゲージの一種であるのだったが、何故そこでパスクァーレが鼻血を落としているのか、ラヴィーナの理解の範疇を超えていた。
 ぱちぱちと黒い布の下で瞬きを繰り返していたラヴィーナだったが、我に返って鼻血をぼたぼたと落とすパスクァーレにハンカチとティッシュを差し出す。パスクァーレはそれに一言礼を述べてから、興奮しすぎて溢れた鼻血を押さえた。
「セオの筋肉ってホントいい…!ボクサーだとこのきゅっとしまった尻の形が露わになって…あぁ…!」
 パスクァーレの言葉を、ラヴィーナは褒め言葉だと認識した。ちょっと嬉しくてへらっと笑う。もっとないかとフォルダを探りつつ、笑顔の一枚や、アークつつかれそうになって逃げ出した時の写真や、母に叱られてちょっとしょげている時のものや、アップルパイを美味しそうに頬張っているものや、他にも父に殴られて倒れている写真もある。
 ラヴィーナは写真を撮るのが好きであった。声を口にすることを躊躇っている分、ボディーランゲージや写真などは非常に有効な会話や意思疎通のアイテムとなる。それ以上に、思い出を形残せるというのがラヴィーナは大好きだった。
 いそいそとパスクァーレはラヴィーナにもう少し近寄って、写真ない?と尋ねる。それにラヴィーナはやはり嬉しそうに頬をほころばせて携帯をいじり、先程から見ている写真を一枚一枚流していく。その度にパスクァーレがおお!と声をあげるので、やはり彼は兄が好きなのだなとラヴィーナは単純にそう思い、そして嬉しく思った。
 全部の写真を見終えたパスクァーレは何故か前屈みになって机に突っ伏した。
「ラヴィーナはいいな」
「?」
 ぽつんと溢された言葉にラヴィーナは、パスクァーレの言葉の意味を理解しようと頭を働かせる。しかし、その立った一言でも十分に深い意味を持つ文章を完全に理解する前に、パスクァーレはさらに次の言葉を紡ぎ出した。
「セオが毎日こんなに側にいるなんて…まさしく天国!こんなに幸せな光景が毎日拝めるんだったら、俺いつだってセオで抜ける…!いや、勿論、今だって抜けるけど!」
 抜く、という単語をラヴィーナはやはり理解できなかった。そして一瞬自分の頭でその単語の意味を考えて、抜くと顔を青ざめさせ、慌てて首を横に振った。
 ラヴィーナはこう考えた。パスクァーレはセオを引き抜きたいと思っているのだ、と。つまりそれは、この機関からパスクァーレの店にセオを引き抜くということであり、そうなれば、もう毎日のように会うことはかなわなくなるかもしれない。それは嫌だ、とラヴィーナは激しく首を横に振って、口をかなりしょんぼりさせた。
 無論、パスクァーレが口にした「抜く」という単語はそう言う意味を持っていない。そもそも、セオ「を」ではなく、セオ「で」という時点で文法的にラヴィーナの説はおかしい。しかし、ラヴィーナはそこまで考えが回らなかった。駄目、とばかりにパスクァーレの腕を掴んで、ぶるると首を震わせる。
 そんなラヴィーナにパスクァーレは幸せそうな笑顔で答えた。
「大丈夫。セオは抜くには写真とか画像なんてなくても、十分に魅力的だから…ああ、俺の天使…!あーんなことしたりこーんなことしたりして、あんあん言わせたい…!」
 それほどまでに厳しく鍛えるのか、とラヴィーナはさらに顔を青くした。戦闘に関してはプロである兄だが、武器を作ることに関してはど素人もいいところである。しかしいい加減に自分の間違いに気付いてもいいのだが、ラヴィーナは混乱しきってそれに気づくことはない。ただ、駄目だと首を横に振る。
 不安そうなラヴィーナの顔を見たパスクァーレは心配しなくてもと、幸せ一杯な表情をほころばせつつ、話を続けた。鼻血はまだ止まっていない。
「そんな無理はしないから。縛ったりちょっと薬盛ったりして、嫌がるセオを押さえつけるのも楽しそうだけど…でもそこは嫌がっているってところがステータスだと思うんだ!恥じらって頬をほんのり赤く染めて、薬の影響で涙目なセオとか…!くっ!」
 そこでようやくラヴィーナは何か自分の考えがおかしいことに気付き始めた。おそるおそるパスクァーレから手を離して人一人分の、初めに空いていた分だけの距離を二人の間に持ち、そして悶えると表現するのが最も正しいパスクァーレを冷静に見た。
 何かがおかしい、と感じたのだが、その正体をラヴィーナは突きとめることができない。できないまま、パスクァーレははっしとラヴィーナの両手をその手で包み込んだ。鼻血は、おそらく止まっていないのだろう。
「ラヴィーナ!セオの写真とかあったら、俺に一番に送って!風呂に入ってる時とか、パンツ一つも大歓迎!というか、むしろ着替えの最中とかだともっと嬉しい!寝顔とかだとさらに嬉しい!ば、バナナ食べてるときとかも嬉しいな…!」
 バナナ、とラヴィーナは不思議に思い、いつも持ち歩いているメモ帳に、林檎?と書き記してパスクァーレに示した。それにパスクァーレは一瞬考えてから、そうだなと唸る。
「果汁たっぷりの林檎を口の端から垂らしてるってのもイイ…っ。ヨーグルト顔面に被った写真とかでも嬉しい!」
「…」
 ようは何かを食べている写真を送ればいいのだろうかとラヴィーナは混乱しつつ考える。追いつかない思考に駆け足で走りながら、ラヴィーナは取り敢えず首を上下、縦に振って了承の意を示す。それにパスクァーレはラヴィーナ!とその両手を再度しっかりと握りしめた。
「Graaaaaazie!で、セオも男だし一人でやることもあると思うんだよ…もし!もしそういうシーンがあったら是ひぶ!」
「――――ラヴィーナに何吹きこんでやがる…てめぇ」
「セオ!ああ…っちょっと後ろに当たってる胸板の感触最高…!揉ませて!」
「黙れ」
 怒っているセオの顔にラヴィーナはどうして兄が怒っているのか見当もつかなかった。しかしながら、目の前で見事にセオの肘で首をギリギリと締め付けられているパスクァーレは何故だか喜んでいるように見えた。そして兄の米神にははっきりと青筋が立っていた。
 いいじゃない!と悲鳴じみた声が上がる。
「俺だって男なんだから恥ずかしがることは何もない!はず!」
「尻をもむな!」
「おふっ!」
 椅子から無理矢理立ち上がらせられたパスクァーレの背中にセオの膝が入る。気のせいか、パスクァーレのズボンにテントが張っているような気がしたのだが、ラヴィーナはそれが一体何であるか、その知識は未だ持ち合わせていなかった。
「ケチ…!ラヴィーナと一緒にお風呂に入ってどうして俺と一緒にベッドインしてくれないの!?」
「当然だろうが!ラヴィーナとお前を同列に扱ってたまるか!」
「大丈夫!最初は優しくしてあげるから!」
「抜かせ!」
 兄とパスクァーレはどんどんと言葉を投げ合っている。しかし、兄は嫌いな人間は本気で歯牙にもかけずに無視を決め込むので、パスクァーレのことは嫌いではないらしい。男の子の喧嘩は少し荒っぽいところがあるのよ、とルッスーリアが言っていたことを思い出して、ラヴィーナはこくこくと首を上下に振る。言われてみれば、父とスクアーロもいつもこんな感じで体を張った喧嘩をしている。
 一見(ラヴィーナから見ると)楽しげに見える光景にラヴィーナはホットココアを半分ほどまで飲んだ。甘くて美味しい。
 セオの腕が完璧に決まっているので、パスクァーレは身動きが上手く取れないが、腕は自由に動かせるので、それでセオの太腿あたりをするすると撫でるようにしてさする。それにセオの眦はつり上がり、顔色は白くなる。
「気色の悪い触り方をするな!」
「失礼な!愛撫って言って!」
「…腕へし折るぞ…っ」
「え、口でしてほしい?…本当は手でイかせたほうがセオの顔がよく見れていいんだけど、セオがそうやって言げふっ…、セオ、締まってる締まってる…そろそろ本気で――――!」
「そこから離れろ!ドカス!」
「イきそう…!」
「ああああ!!てめぇはもう来るな!」
「でも俺はセオをイかせてあげるほうが!ていうかむしろイかせたい!勿論俺の自慢の」
「黙れ!永遠ポジティブシンキング野郎――――がっ!」
 体を掴んだまま、見事に裏投げが決まる。おお、とラヴィーナは綺麗に決まった技に拍手をした。セオは嬉しそうに拍手をしているラヴィーナに、何も言われなかったかやセクハラされなかったかと心配そうに尋ねてくる。ラヴィーナは笑顔で首を横に振った。そして、手にしていたメモ帳に文字を連ね、セオへと提示した。書かれた言葉に、セオは違うと小さく呻いた。
 セオは深い溜息をついて、ラヴィーナの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「ああ、うん…そうだな。ラヴィーナ…でもパスクァーレに俺の写真やるのはやめてくれ…」
 がっかりと肩を落とした兄に妹はよく分からないまま首を縦に振った。