乗せた拳が頬骨を砕いた音が、密閉された室内に響く。尤も通風孔は開かれたままなので、完全に密閉されたとは言えない。室内の空気は、骨を折るという行為によって生じた鈍く重たい音を、同じ室内にいたもう一人の男と、殴られている男の耳にしっかりと届けた。壁の際に立っている男は、この室内に入って、今の今まで静かな目をしたまま、眼前の光景に表情筋一つ動かすことなく、傍観していたのが、ここに至ってようやくその声を響かせた。声変りを終わらせている男の声である。
メフィスト・ガブリエル。天使と悪魔の名前を持つ男は、銀朱色の瞳へと視線だけを動かしてその声を耳に入れた。
「顎まで外れてる。口がきけないだろう」
ひどい言葉である。
まるで、砂糖がなければケーキが焼けないだろうとでも言っているかのような口振りであった。男、青年にその筋の趣味があるのかどうかは定かではなかったが、彼の母親は確かそういったことが好きであり、彼の血の繋がっていない妹も同様に、そこまで上手でないにせよ好きだったようにメフィストは記憶していた。
そして、からからと笑いながら、問題ねぇよとそれをもって返答とした。頬骨を砕かれた男の胸座から手を放す。既に力の入っていない、圧し折った大腿骨が腿から飛び出て、チキンフライを彷彿とさせたそれが、床の血溜まりへと崩れ落ちる。幸い出血はそう多くもなく、実質は手加減をしているので出血死もショック死も起こしていないわけなのだが、サンドバッグのように殴られていた男はぶくりと血を泡立たせた。
メフィストは倒れた男を細め、歪めた瞳で見下ろす。引き攣った筋肉に合わせて、顔を割る傷が大きく曲がる。壁に立っていたセオは、何がと問質した。
「口がきけなければ、こいつがどこにヤクを流していたのか分からない」
「んーなのは、情報屋にでも聞きゃいいじゃねえか。ちと高くつくが、な。どうせ、あのジジイは何でも知ってんだ。そう、」
俺たちが、何の情報を欲しがっているのかでさえも。
砕けた頬骨に靴先の蹴りをかませ、歪ませた口に最後の言葉を乗せて発した。メフィストは挑戦的な視線をセオへと送る。
気に食わないわけではないが、嫌いでもない。むしろ、そのひどく冷たく、こちらでさえも凍らせてしまうような心の在り方はヒドク気に入っているといってもよい。もともとVARIAは実力主義であるから、お坊ちゃんであろうとゴマをする必要などどこにもありはしない。ボスであるXANXUS本人も、そしてその手足たるスクアーロたちも、そうなることを一切望んでいない。本人もその立場を傘に着るような態度は全くないので、メフィストをはじめ、他の隊員も気兼ねなく接しているといっても構わないだろう。
ひゅひゅとかすれるような、引き攣った呼気を漏らしている男へとメフィストは視線を移し、そして笑う。それにセオがもう一度口を開いた。
「二度手間だ。第一それでは任務が達成されない」
「任務第一主義!おうおう、クソ真面目だな、てめぇはよ」
からかいながらも、メフィストは床に蹴り転がした男の胸座をもう一度つかみあげてその体を持ち上げると、容赦なく壁に叩きつけた。力のない足がぶらりと勢い良く揺れ、血の混じった息がだらしなく開けられた口から飛んだ。
あー、とさも面倒くさそうな声が口から零れ、空いている片方の手を隊服のポケットに突っ込み、くしゃくしゃになっているガムの紙を広げて男の前に突きつける。そうして、ひどく残酷なことを、口端に笑みを乗せたまま男に告げた。
「足も腕も一本ずつ駄目にしちまったが、もう一本は使えんだろ?インクはまぁっかなお前の血でいい。さ、書けよ。少しでも生きながらえたけりゃな」
目の前で酷薄な笑みを浮かべている暗殺者に対象者はぐすりと鼻水を啜り、指一本動かすだけで走る激痛の中、それでも生にしがみつくためにゆるゆると爪の剥がされた人差し指で突き出された紙にアルファベットを書き記した。
助けてくれとの言葉も、もう発すること叶わず、言葉にならぬ音だけを顎の砕かれた口から発する。うるせぇな、と煩わしそうにメフィストは男を罵り、セオへとその血液で描かれた文字を投げた。宙でその薄っぺらな紙を掴み、セオは文字の羅列を確認すると即座に燃やした。
「…ボスに言われている時間に間に合うよう帰宅するには後」
「二分」
「その通りだ」
くくく。
メフィストはセオのまるでロボットのような言葉に喉を震わせ、ひっかくような声を響かせた。そして、懇願するような目をしている、既に死に掛けの男に両口端を大きく吊り上げて笑って見せた。深められた瞳は、女に対するように優しげな色を刷いている。それに安堵したのか、男も目から涙を一滴零し、眦から血液が付着している頬に流れさせる。が、しかし。
ぐぼり、と腕が埋まった。胸座にかかっていた重さが一瞬だけ退き、そして次の瞬間には痛みすら忘れさせるほどの速度でもって、ナックルをはめた拳が、二つの鎖骨の間を砕き、気管と食道を押し潰し、さらに後ろの背骨を砕いた。髄液が血液と共に後ろの壁に付着する。焦点を結んでいたその瞳は、それを失い、最後には瞳孔が広がり切って止まる。
杭のように突き立った腕が抜かれると、死体は足から砕けるようにして床に倒れた。ぶつりと返り血が、真っ赤な腕をした男の顔を濡らす。そうして、ほらなとメフィストは笑う。
「丁度間に合う。ボスの雷が落ちることもねぇ」
「そうだな」
任務が終わればそれでおしまいと、セオは閉めていた扉に手をかけた。内側に引こうとした扉だったが、途端、セオは手に込める力を失くした。そして、開閉を阻害するために、扉に手を押し付けている男を振り返る。
「間に合わない。手を退けろ」
父親と同じ、人を委縮させるタイプの眼光を放つ青年を眺め下しつつ、ふんとメフィストはその口角を歪め、さらに眉間に深い皺が刻み込むと、今度はからりと笑って言葉を続けた。
「急ぐんじゃネェよ、Jr.。バッボの叱責がそんなに怖ぇのか?」
「恐ろしくはない。だが、無駄なことをしてやる時間も勿体ない」
「なぁ、」
言葉を無視するようにして発された一言にセオは、メフィストの瞳の奥、その網膜を覗くように目を向けた。それが気に入ったのか、メフィストは目を細め、喜びを示す。セオには全く理解できない喜怒哀楽のパロメーターであった。
扉に乗せられたままの指先がこつんと扉を叩く。
「暗殺者としてはお前の方がセンパイだが、人生のセンパイとして、Jr.、お前に一つ助言をしておいてやるよ」
不敵に笑み、腕一本分の距離を取っている、その間にはセオの体が入っているので、筋肉で押し固められた体からすれば、腕三分の一くらいは取っているのであったが、メフィストはすいとその顔を近づけた。
父親に似て、端正な面立ちである。違う点を述べるのであれば、その目の色と、身を竦ませる程の苛烈さは持ち合わせていないこと、尤もこれは彼の母親の教育の賜物であろう。それから、顔面に傷がないことである。上の連中がこぞって、Jr.と呼ぶから、こちらもつられたようにJr.と呼ぶのだが、実際のところ、メフィストからしてみれば、Jr.と呼べる程には、セオはXANXUSとは似ていない。笑えるくらい、それは正解だと思う。ボスは、XANXUSはこのように近づくことなど微塵も許したりしないであろう。生意気な口をきいた瞬間に消し炭にされそうである。決してガードが甘いと言っているのではない。ただ。
メフィストは笑った。音も立てずに時計が動く。タイムリミットは後一分。弧を張った唇を一舐めし、言葉に音を乗せた。嗜虐的な笑みが色を強くし、銀朱の中に映し出される。
「そんな調子じゃ、てめぇ、いつか本当に大事なモンを失うぜ」
「馬鹿馬鹿しい」
「おいおい。親身になって言ってやってるんだ。老婆心の忠告は聞いておくもんだ」
「男だろ。老婆じゃない」
「ちょっとした比喩だろうが」
その言葉が終わったと同時に、セオは扉に押し付けられていた手を払うこともせず、蝶番に向かって銃弾を二発撃ちこむ。どちらにでも倒れるようになった扉を蹴り破り、と倒れた戸板を踏みつけた。メフィストはそんなセオの背中を見ながら、薄暗く笑う。
いつか、と声が暗闇に反響する。
「お前は、俺の言葉を思い出す」
足を止めたセオの隣を、顔面に付着した返り血を血のついていない左腕で拭い取りながら、メフィストは通り過ぎる。ごつんと音が狭い廊下に落ちた。成人男性の背中は広く大きい。黒い、前を開けている隊服は一歩進むたびに風をはらみ、その下に着ているシャツを覗かせた。
足音が止まった。セオは扉を踏みつけた姿勢で一歩たりとも動いていない。
「約束してやる」
振り返ったメフィストの笑みに、セオは唾を吐きつけたい衝動に駆られた。
「そんな風に生きてっと、後ろに倒れる屍はいつでもお前の知る顔ばかりだ。そして、お前はそれを悔いることなく、そして、死ぬ間際に気付くんだ」
顔の、傷が歪む。男の空気すら歪められたように、セオは感じた。
「喪った者の、本当の重さにな」
「そんな後悔はしない」
「先のことだぜ?お前に断言できるかよ」
「その理屈だと、お前にも断言できない」
言うね。メフィストは笑う。ひどく心をかき乱すような笑い方であった。
しかし、セオは手を出すことなく、間に合いそうにもない時間に、眉間に深い皺を刻み込んだ。任務終了の報告をする連絡はボタン一つですでに済ませているが、帰還が遅いと叱責を食らうのもまた事実である。こんな男のために、時間を費やすのは全く持って馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
セオの思考を表情とその視線の動きから読み取り、メフィストは、口を大きく割った。そして、抉るように言葉を与えていく。
「そんな風に生きてて楽しいか?ボンゴレだけに人生捧げてよォ」
「楽しい楽しくないは関係ない。俺が、そうしたいだけだ」
「そうしないと、いけない理由でも?」
「人を殺した」
「殺したから?何だ?人は遅かれ早かれいつか死ぬんだぜ。それがちょっと早まっただけだ。大体、死人は何もできない。死人はただの肉の塊だ。有機物だ。生きているからこそ、人は意味がある。死ねば、それまで。そいつは敗者さ。だから言うのさ。なぁ、ボンゴレが滅んだ時、お前どうすんの?」
「ボンゴレが終わる時は、俺が死ぬ時だ」
「ばっかなやつ。可愛くねー糞餓鬼」
「なんとでも」
高笑いを続けるメフィストの隣を今度はセオが追い抜いた。そして、メフィストはその後ろを靴音を立てながら歩いて付いていく。付いていくとは言っても、長い廊下は一本道で、壁でも破壊しない限り、メフィストとセオが別の道を行くことはない。
振り返りもしない横顔を眺めながら、メフィストはその面から笑みを消した。
「死を無駄にしないためにとか、んなクソみてぇなこと抜かしたら、今殺す」
「意味のない仲間同士の殺害は禁じられている」
「沈黙の掟?違うな、そういう思考の野郎は総じて邪魔になるから言ってんだ。足手纏いになる」
視線が前しか向かず、お互いのそれが絡み合うこともなく、淡々と発される。ただ、ぎりぎりの殺気だけが錆びれた音を奏でた。
「俺達は、ただ、俺達の繁栄のためだけに人を殺す。それは所詮エゴに過ぎねぇ。矜持だ?信念だ?犬に食わせろ。耳が腐り落ちるような綺麗事抜かす奴はいずれ死人に足を取られる」
「信念も矜持もない殺人はただの狂行だ」
「そうじゃねぇか」
ははとメフィストは笑いながら階段を上がる。血塗れの片腕ともう片方の腕はポケットに突っ込まれている。
「殺人なんてもんは、ある程度狂った人間の仕業だろ。健常者は同族殺しなんてしやしねぇよ。いいか、Jr.俺達はもう既に十分イカれてんのさ。Jr.Jr.、お前はまだ何もわかっちゃいねえ」
地下にある空気は大層重たく、両者の肩にのしかかる。ただ、二人はその重さをものともせずに階段をゆったりと上がっていく。下方にある壊れた扉の部屋には今もまだ死体が放置されたままで、そろそろ冷たさを持ち始めているころではないだろうか。コンクリートの床の割れ目に血が流れ終わったころだとも思われる。
メフィストは階段の先から見える地上の世界の暗さに目を細めた。血に塗れていない片腕を上着のポケットに突っ込み、煙草とライターを引っ張り出す。一本咥えて取り出すと、かちんと火をつけ、その煙を吸った。ふぅと吐き出す。
「お前さぁ」
吐き出された紫煙が風に乗って顔にかかる。
「ここが、正常だと思ってんのか」
男の足が最後の階段を踏んだ。そして、両足が石畳の道路へと到達する。
セオはメフィストの質問に答えた。
「異常も正常も、俺には関係ない。それはただの他人からの評価に過ぎない。ただ、俺はファミリーのためにあるだけだ」
「…は、餓鬼。関係大有りさ」
片腕がポケットから出され、口に咥えていた煙草へと伸び、それを口から取り外すと、地面に落とした。ショートブーツがその火を消した。
「確かにそりゃ他人が決めた区分だ。だが、それを知らねぇうちは、お前はどこまでも足手纏いに過ぎねぇ。ここが『異常』な世界だってことは、覚えとけよ。その身に刻んどけ。異常が正常にいくら感じられようが、異常は異常だ。いや、異状なんだろう。もう」
「言いたいことが分からない」
「俺が教えても意味のねぇことさ。てめぇが自身で理解しねぇといけねえことだ。足手纏いのバンビーノ」
ああ、とメフィストは奥の暗がりに目を向けて嗤う。
「イー女はぁーっけん。おい、Jr.報告書任せた」
「は?」
「Grazie! Bambino!」
誰もやるなどと言っていない。
セオは開いた口が塞がらないまま、その血塗れの腕で一体どうやって女を抱くのかとそんな全く別方向の心配をした。そして、報告書を一人で提出をした時に、父の額に浮かんだ青筋と、投げつけられるグラスを想像してぶるりと身震いした。