Wilhelm und Wolfgang

 小さな鳥が死んでしまった。
 車にはねられて死んでしまった。あっという間に死んでしまった。目の前で死んでしまった。さっきまで空を舞い、歌を歌っていたのに死んでしまった。あっさりと死んでしまった。
 死んでしまった。小鳥は、死んでしまった。
 もう、生き返らない。

 

「ヴォル」
 くすんくすんと泣く弟に兄は声をかける。弟はゆっくりと視線を動かした。その爪は泥だらけで、枝先で切ったのか少しばかり切れている。
 ヴィルヘルムはそれを冷たい空で見下ろした。
「何してるんだ」
「お墓を。さっき、鳥が、死んでしまったから」
「轢かれただけだ。あのまま放っておいても、どうせ烏か猫がつついて無くなる」
「でも、痛いよ。それは」
 死んでしまえばそんな感覚はどうでもなくなるのに、とヴィルヘルムはそう思った。
 自分の弟を見ているといつもいつも思う。父に母に、武器の使い方を教わる時、この深い深い海の色は緩やかに濁る。父と母が血の臭いをさせて帰ってくると、すぐに部屋に引っ込んで枕に突っ伏す。それでも嫌だとは言わない。
 小さな手が掘った穴の中にそっと命の片りんすら見当たらないただの肉と骨と、それから羽の塊を横たえる。そんなことをして助かるのはそれを行う者だけで、それをされる側は救われはしない。それはもう死んでいる。見れば、その青の瞳にうっすらと涙が浮かんでいた。ぐすりとしゃくりあげて、袖でその涙をぬぐう。
「どうして、泣くんだ」
「悲しいよ、ヴィル。だって、死んでしまったんだ。あんなに空を飛んでいたのに」
「どんな生き物だって、死ぬさ。生物は死ぬから生きてるんだ」
「でもさっきまで精一杯生きていたんだ。きっと埋めた鳥は僕らの家の上で歌を聞かせてくれたこともあったんだ」
「馬鹿だな。そんなの分かりやしない。ヴォルの想像だ」
「それでも、きっとこの鳥の友達は泣いてるよ。悲しいって、泣いてるよ」
 馬鹿言うなよ、と言いかけてその言葉を押しとどめる。鳥にそんなばかげた感情なんてあるはずもない。そういう生物に宿っているのは、ただの生存本能だけだ。
 どうして自分の小さな弟が泣くのか、兄には少しも分からない。そして泣く弟は兄に問う。その小さな背中を向けたまま。
「どうして、ヴィルは泣かないんだ?だって、とてもこんなに、悲しいのに」
「悲しくなんかないよ」
「強がり?」
「――――――僕には、ヴォルが悲しがるのがどうしてか、さっぱりわからない。だってそれは僕じゃない。僕は生きてるし、その鳥は死んでいる。ただそれだけのことだ。鳥は死んで、ただの土になるんだ。運命なんて言うつもりはないけど、死んだ、それだけの話だ。ヴォル、そんなくだらないことに泣くお前が、僕にはちっともわからない」
 冷たい目でそう言い切ったヴィルヘルムにヴォルフガングはさっくさぐと鳥の魂に土をかけていく。もうその鳥の目が、青い空を見ることも、優しいそよ風を感じることもないと思いながら。悲しみながら。
「ヴォル、そんなちっぽけな、振り返る必要のない命に悲しむなんて、馬鹿だ。そんなことをするだけ、時間の無駄だ。だって父さんも母さんも悲しい顔なんてしてない。僕らは命を奪う側なのに。どうしてそんなくだらないこと気にするんだ」
 ヴィル、とヴォルフガングは作った山を小さな手で固めた。
「命は、一つしかないんだよ。それを奪うことは、とっても悲しいことだって、僕は思う。でも分かってるよ。僕らはそうとしか生きられないし、それ以外の道はない。でも、夢くらい―――見たい。僕は動物のお医者さんになって、沢山の命を救って、それから、それから」
「動物にしょっちゅう襲われてるお前が言えることじゃないよ」
「うん、でもヴィル。僕らはそんな夢も見てはいけないの?」
「ヴォル、本当にくだらない。殺す人間が与えられるのはたった一つの死だけだ。たとえお前が動物の医者になれても、きっと後悔するよ。苦しむよ。救った命の数だけ、苦しむよ。奪った命の数だけ、泣くんだ」
 なんてくだらないんだろう、とヴィルヘルムは目を眇めた。
 自分の小さな弟は、ここまできてもちっともわかってはいない。殺す者はどこまでいっても殺す者だ。殺す者は命の重みを知って、それでも殺す。泣かずに殺す。ただ殺す。奪いとる。そこに感情をはさんではいけない。
「殺す時は、殺すことだけを考えるんだ。殺し終わったら、それはもう終わったことなんだ。死んだ者は生き返らないし、生き返らせられない。殺す人間のことを考えてどうするんだよ。その人のことを思ってどうするんだよ。これから殺す人間がどんな生活をしてどんな人生を送ってきたか、そんなことに気をやってどうするんだよ。同情でもして、殺すのをやめるつもりか?そしたら僕らはどうなるんだ。僕らは死んでしまう」
「分かってるよ、ヴィル。分かってる。分かってるんだ。でも、死を悼むのは人として、忘れちゃいけないよ」
「死を悼む?命を奪った張本人が?駄目だよ、ヴォル。潰れてしまうよ。お前はそんなに余裕がある人間じゃないんだ。殺す時は忘れてしまえ。殺すことだけを考えていればいいんだ。どうして殺すのかを考えるのは、僕らの仕事じゃない。
 僕らは『誰か』の殺意の塊だ。誰かが僕らに頼んで、他の誰かを殺す。だから、僕らはただの武器だ。誰かの心で、誰かを殺すための武器にすぎないんだ」
「分かってるよ、ヴィル。それでも、やっぱり僕は悲しいんだ。泣きたくなるんだ。でも考えてみてよ、ヴィル。もしも誰かが僕らの友達を殺せって命令したら、ヴィルはやっぱり殺すの?僕には」
「やるさ。殺すよ。だって僕らはそのために生きてるんだから。殺し屋は仕事を選ばない。誰かの殺意で命を奪う。それだけだ」
「僕だって、それだよ。でもでも、でも、ヴィル。僕は友達は、殺したくない」
「だったらヴォルは死ぬよ」
「死にたくない」
「だったら殺さないと。死んでしまうよ」
「殺したくない」
 さくん、と土の山の上に十字架が立てられる。死を悼む、それだけの符号。ゆっくりとヴォルフガングは立ちあがって、少し腫れた目尻をぬぐった。
 そして少し小さな弟は、兄のそばそそっと通り過ぎた。
「――――――――――――それでも僕は、悲しいんだ」
 そう言い残して。
 一人ぽっちになって、ヴィルヘルムは作られた墓に歩み寄る。みすぼらしい十字架を靴で蹴り飛ばした。こんなものに、意味などない。盛られた山を蹴り崩して、平らな地面にする。掘り返された地面は少しばかり色が違った。
 何の悲しみもわいてこない。死したものができることはなにもない。馬鹿にすることもないけれど。墓場を荒らすのが死者への冒涜だとは、思わない。墓場を荒らすのは、生者への冒涜だ。死を悼む、人への冒涜なのだから。死を悼まない人間にとって、それはただ、作りあげられた地面を元に戻すだけの行為にすぎない。
 ちっとも分からない。
「Wol, du kannst nicht der Mörder werden(暗殺者にはなれないよ)」
 空、よりもずっと冷たい氷の色をした瞳は、色の違う土を見下ろしていた。すぐ側には、ただの棒っきれに戻った十字架だったものが転がっていた。