18:楽しい休暇の過ごし方 - 1/6

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 修矢はカレンダーをめくって、にやっと笑う。四月から五月へとカレンダーは月が変わったのを示していた。そのにやにやと気味が悪いほどに浮かれている修矢の腕の中には大量の冊子が持たれている。
「どうされましたか」
 そんなににやつかれて、と哲は未だ顔いっぱいに幸せを振りまいている修矢に声をかけた。それに修矢はくるりと振り返って、電卓を打っている哲の前にその腕の中の冊子をドンと置いた。哲は散らばった冊子に書かれている文字を目で追って行く。それはある一つの国名である。それを眺めている間に修矢は声を弾ませて、言った。
「もうすぐゴールデンウィークだよな!なっ!」
「…そうですね、もうすぐ五月の節句です」
 お祝いをしますか、と哲はわざとそうやって話をずらす。修矢はそれに気付いてむ、と顔を顰めた。
「違う!哲、ゴールデンウィーク!つまりは黄金週間だ!」
「訳されなくとも…英語の勉強に熱心なのは感心しますが」
 はい、と続けて哲はまた電卓を打ち始めた。修矢はばんばんと机を数回たたいて注意を自分の方に向けさせる。そして再度違う!と叫んだ。勿論哲にも修矢が言いたいことは重々に分かってはいる。だが。
「ですが坊ちゃん、自分と坊ちゃんと二人ともここを開けるにはまだ時期が早いかと…」
 哲の言うことはもっともであるのは修矢自身が一番よく分かっている。
 組長が変わり、関東を締めていた組が潰れた。水面下では各個それぞれ締結などを結びながら、また新たな形を作り始めている。桧がいくら孤立した組であるとはいえども、いきなりその頭と側近が抜けては問題がある。
「で、でも…だな、哲。せっかくのゴールデンウィークだし、俺は今年受験だろ?夏は当然勉強もしなくちゃなんないわけで、冬なんか詰め込みまっ盛りじゃないか!こんなことしてたら俺一年姉貴に会えなくなっちまう」
 なぁ、と修矢は必死におねだりをしてみる。だが哲はうん、と唸るばかりである。金銭的な問題は正直な話、ない。基本切り詰めてやってきたので、一回の旅行くらいならばどうにかなる。
 状況的な問題によって、適当な理由をつけて諦めさせるしかない。心苦しいが、と哲は思いつつ口を開いた。
「坊ちゃん、自分はイタリア語はさっぱりです」
「安心しろ、俺もさっぱりだ」
 突っ込み役がいないのが寂しい。
「残念なことに世界共通語もはろー、ないすつぅーみーとぅーくらいが関の山ですが」
「お前発音どうにかしろよ」
 生真面目な顔をして中学生も泣きだす発音をする哲に、今度ばかりは修矢も突っ込んだ。こほん、と哲はそれに一つ咳払いをしてそういうわけで、と続けた。
「言葉も通じない国に確固たる目的もないまま行くのは時間の無駄です」
「確固たる目的はある!」
「…何ですか」
 分かり切ってはいるが、哲は取敢えず聞いてみた。修矢はきらきらと目を輝かせて断言する。
「姉貴に会いに行く!」
 そうだろうと思いました、と哲はそれを括ってまた電卓と向き合う。修矢は哲の肩を叩きながら(ごますり)なぁ、ともう一度ねだる。しかし哲も頑として首を縦に振らない。ち、と修矢は小さく舌打ちをして最終手段に出た。
「あー、そーかそーか。そーかよ。別にいーぜ?哲がそんな態度なら俺にも考えがある」
「お一人で行かれるのは止して下さい」
 それもあったか、と修矢は思ったが(実際に一度は一人で行ったわけだし)軽く鼻を鳴らして、ぼそ、と呟く。
「カフェ・デラントの新作」
 その単語にぴくっと哲の耳が動く。かかった!と修矢は拳を心の中で握りしめた。そしてさらに言葉を繋げていく。
「この間笹川から、その半額券もらったんだけどなー…。折角の新作プリンなんだけどなー。勿体無いなー。二枚貰ったから哲と二人で行こうと思ったんだけど、仕方ねーし…一人で二つ食ってくるかなー…どうしよ
 っかなー、と言いかけた時哲が待って下さい!と声を上げた。にやぁと修矢は意地の悪い笑みを浮かべて、ひらりとポケットからそのチケットを二枚ちらつかせる。哲はそれに目を奪われつつ、くぅ、と呻く。
「ひ、卑怯です、坊ちゃん…っ!」
「卑怯?これは知恵って言うもんだ」
「田辺氏のようなことを言わないでください!どこからそんな悪どい手を教わってきたんですか!」
「いや、お前にどうしてもって言う頼みごとをする時はプリン絡みが一番効果があるって聞いたから。田辺さんから」
 哲はあのしたり顔を思い浮かべながら、次会った時は殴り飛ばすことを決意した。しかし、目は心とは反対に、修矢の手の中にある二つの半額券を自動的に追ってしまう。
「で、ですが今の時期では…っ」
「あっそ、しっかたねーの。じゃ、これは俺が一人で今から今すぐ速攻で食べてこよーかな。あ、携帯も持ってって写真でも撮ろっかな。哲―――――――――写真で我慢しろよ?」
 鬼のような一言に哲は完全に焦る。しかし、最後で最終の砦はまだ看破できていない。穴は開いているが。
「ちょ、ちょ、ち、ちょっと待ってくださいい!!」
「えーもうすぐ閉店時間だろ?俺が待つ義理ねーじゃん」
「あ、明日でも大丈夫でしょう!」
「だって今日食べたい」
「晩御飯の前に甘いものはいけません!」
「お前の料理自体が甘いから、それはどうかと思う」
 どこの母親だ、と内心突っ込みを入れながら、修矢は冷静に切り返す。次々と切り札を捨てられて、哲は答えに窮する。しかし分かりました、と頷くこともできない。修矢も当然それは薄々感づいてはいる。分かっているのだが、どうにかならないものかと思う。
 修矢はす、と真剣な目をして哲に問うた。
「―――――――なぁ、哲。駄目か?どうにも、ならないか…?」
 懇願するような響きと、その眼に哲は言葉を飲む。
 東眞をあれほどに慕っていた修矢だからこそ、この言葉の意味は重い。もう姉と離れて二月程になるのだ。メールや電話も時折来るが、それでも寂しいのは手に取るように、哲には分かった。だが、しかし。
「ぼ
 っちゃん、と言おうとしたとき、からりと襖が開いた。
 ざらりと流れるのは麹塵(きくじん)色の羽織。全てが真白の髪は綺麗に整えられていた。鋭い二つの瞳が、そこにいた二人を見ていた。哲はその人の名前を呼ぶ。
「組頭!」
「爺さん」
 哲が組頭と呼ぶ人間を修矢は一人しか知らない。桧大地、祖父である。父の葬儀の時に初めて見たその顔は、ひどく冷たいものだった。線香だけあげて早々に帰ってしまった自分の祖父。桧を作った人間であり、父が尊敬し、そして忌み嫌った男。多大なるコンプレックスを、与え続けた男である。
「なんで…爺さんが」
 修矢の驚きを他所に大地は淡々と告げた。
「野暮用だ。構わん、行って来い」
「え」
「イタリアだろう。行って来い。暫くの間はワシが座っておいてやる」
 素気なく言った、その言葉に修矢は目から鱗であった。今まで完全に隠居して、ろくに顔も見たこともなかった祖父がそんなことを言っているのだ。
 驚きで何も言えなくなっている修矢に代わって哲が大地に質問をした。
「組頭、一体どういう…」
「組頭はよせ、ワシはもう隠居しとる。多少絵図が変わってしまってな。だが誤差もないし、これくらいのことはしてやろうと思っただけだ」
 大した理由はない、と言いきって大地は腰をおろした。哲ははぁ、と間の抜けた答えを返す。絵図、とは一体何のことか。
「好き勝手した。孫孝行とは言わんが――――遊んで来い」
「じ、」
 爺さん、と言いかけた修矢に二つの鋭い瞳が向く。その鋭さに、修矢はふと息をつめた。恐ろしさに身が強張る。だがそれはすぐに解かれた。
「修矢」
「あ、はい」
 思わず敬語を使って居住まいを正す。大地は腕を袖に突っ込んだまま、静かに告げた。
「姉は、大切か」
「…はい」
「大切なものは、」
 ぷつ、と言葉を切って、大地の目が下を向く。何かを思い出すかのように。一度目を閉じて、大地は目を細めた。

「命を賭して守れ」

 分かったな、と告げるその瞳に修矢は一瞬、祖父が何か誰か、大切な人を失ったのだろうか、と思った。失ったからこその、言葉であるかのように感じる。
「はい」
 そう言った修矢に大地は懐を探って、二枚の航空券を渡す。それはイタリアへの直行便である。目を皿のように丸くして、修矢はそれを受け取り、眺める。
「あの、爺さん」
 その、と言って修矢は言葉を探す。これを合わせて二回しか対面のない祖父にどういう言葉がいいのかよく分かっていない。だが修矢は東眞から教わっていた。感謝の気持ちを伝える言葉を。
「――――――あり、がとう」
 それに大地は構わん、と答えた。
 丁度そこにインターホンが鳴り響く。来客が多い日だ、と思いつつ哲は自分が、と断って玄関に向かう。そして、扉を引いた。そこに居たのは、透けるような金色の髪と深い海の色の目を持った男だった。哲はその男に面識があった。
 なかなか帰ってこない哲を心配してか、修矢も玄関に足を運ぶ。そして、その男を目撃する。
「ヴォルフ」
「Hallo、修矢」
 綺麗なドイツ語、もとい英語。名前は普通の発音である。男は単語を並べて会話を試みた。
「兄、?」
 二本の指で歩く動作を示す。此処に来たのかどうかを尋ねているのだろう。
「ヴィルが?哲、来たか?」
 懐かしの友人の名前を修矢は哲に尋ねる。友人とは言っても、昔生き倒れ(何とも間抜けな理由で)になったところを東眞が助けたというところの縁だが。
 修矢の質問に哲はいいえ、と答えた。
「ヴィルヘルム氏は来ていません。ヴォルフガング氏、なんでしたらお待ちになられますか」
 哲の言葉にヴォルフガングはこくりと首を縦に振った。靴を脱いで、家に入っていくヴォルフガングの背中を眺めながら、今日は忙しい、と修矢はひとり溜息をついた。尤も、渡された航空券の喜びはそれにも勝るものだったが。

 

 数冊の本を手にして東眞は多少ふらつきながら廊下を歩いていた。手にしているのはイタリア語の本である(無論初級の)全く話せないというのも問題である。少しずつでもいいので身につけて行こうと東眞は決めて、こうやって本を選んで持って来ている。
 そんな東眞は肌にぞわっと悪寒を感じた。肌、というよりも臀部にだが。
「ひ、ぁっ!」
 寒気が背筋を通り抜けて思わず本を取り落としかける。だが、それは完全に取り落とす前に、大きな手に支えられて落ちることはなかった。一体誰だと東眞は、慌てて振り返る。
 そこにあったのは、明るい調子の深い青と緑をした瞳が二つ。四十を超えるかそこらの面持ちの男はにっと笑って、口を開いた。
「よ、嬢ちゃん。暫く見ねーうちにいい尻になったもんだな」
 それが誰であるかというのは東眞は当然知っている。哲と最も関わりが深く、時折遊びに来ていたその男。
「田辺さん!」
「久し振りだな」
 元気にしてたか、と笑ったシルヴィオ・田辺、その人に東眞は大きく目を見開いた。