14:亀裂 - 1/5

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「ああ、クソ!」
 よりにもよってこんな時に、と男は溜息をついてカフスの取れてしまった袖をいじくる。しかしどう努力したところで、カフスが戻るわけもない。深く深く溜息をついて、がっくりと肩を落とした。
 これから自分はジロッティファミリーの一人になる。そのための儀式を受けに行くのだ。心臓がどきどきとして止まらない。緊張しすぎてどうにもならない。あまりの緊張のためにカフスボタンを握りしめすぎて―――――――結果がこれだ。カフス一つなくても儀式には全く問題はない。それどころか時間に遅れる方が大問題だ。  下町で盗みなどをしてどうにか生きのびてきて、そんな自分がマフィアの一員になれる。それもこれもあの下町から自分を拾って弟としてくれたウリッセのおかげなのだ。そんな彼の顔に泥は塗りたくない。長い長い期間を彼の下で働いて来てやっとつかんだ――――――成功への道。この地位さえ手に入れたならば、泥水を啜ってきた生活とは完全におさらばできる。
 そう考えると心が躍った。しかしその矢先にこれだ。幸先が悪い。
 ああどうしようかと時計を見て、カフスを見て。焦って汗ばんでいた手からカフスが転がり落ちた。

 赤い瞳が宙をさまよい、ガラスのショーウィンドーの中を確かめるようにして行き来する。静かな店内の中では時計の音だけが静寂を際立たせるようにしてかちこちと鳴り響く。会話はない。ただ、客がいて、店員がいて。ただそれだけの空間になり下がっている。どれかを勧めたり、どれかを求める音もない。
 二つの動きを見せなかった体の内の一つがゆっくりとその腕を持ち上げて、無骨な指でガラスの上からプラチナを指す。ぴたりと止められた指先の下には酷くシンプルな白金があった。飾り気など何一つない。宝石も埋め込まれていない。ただの白金色の装飾品。店員は指が落とした方向の品物に一瞬窺うような視線を向けたが、すぐに、かしこまりましたと初めてと時計以外の音を店内にもたらす。
「お送りいたしますか」
「いや」
 かまわねぇ、と低い声が静かに響く。店員はかしこまりました、と同じ返事を繰り返して、品物を取り出してガラスの上に置き、見せる。がつりとした腕がそれを手にとって転がす。
「お名前は如何いたしますか」
「……いや」
 男は逡巡してからそう答えた。そして店員は三度目になる、かしこまりましたを告げた。
「サイズはこちらでよろしいでしょうか」
「ああ」
 男の了承の返事を聞いて店員は頭を一つ下げる。二つのプラチナが箱の中に丁寧に入れられ、そして蓋が閉じられる。
「ダイヤ等、宝石類は如何されますか」
「いらねぇ」
「――――――は?」
 男の短い返答に、店員は思わず聞き返してしまう。果たして今のは聞き違いか、それとも本当に。店員の反応に男の眉間に僅かに皺がより、もう一度繰り返した。
「必要ねぇ」
「は、はぁ」
 間の抜けた返事を、一流としてあるまじき答えを返してしまったけれども、店員はすぐに立ち直って失礼致しましたと言いなおした。文字も彫らない宝石もない、そんなプラチナの入った小さな小箱を慎重かつ丁寧に紙袋に入れる。そして、小さなそれを店員は男に差し出した。店員はそれからとてもいい笑顔になって、心の底からこの言葉を告げる。それはこれらの装飾品を買う人間に対していつも言う言葉である。
「お幸せに」
 だが残念なことに男はそれに答えることもなく、ドアの上部に付いているベルを鳴らして出て行ってしまった。

 

 小さな紙袋を机の上に置いて、椅子に鷹揚に腰掛ける。体のラインを打ち消す柔らかなそれに埋もれて、グラスにテキーラを注いでそれを一つ煽る。そして引出しを軽く引いて、中に入っている一枚の紙切れに視線をやる。
 その時、がんごんと扉をたたく音が響く。それからそれよりも喧しい声が扉の向こうから響いた。相変わらず返事をしないでいると、扉は向こう側から押し開けられて銀色、スクアーロが姿を現した。スクアーロは目ざとく机の上にある小さな紙袋に気付く。
「なんだぁ、こ
 れ、と言いかけて、ははーんとにやにやと嫌な笑みをXANXUSに向けた。そのしたり顔にXANXUSはむっと顔を顰める。スクアーロはその物知り顔をやめないままに、XANXUSに言葉を投げてみる。癪に障る。
「そうだよなぁ。東眞がこっちに来て早一月、まぁ俺としては遅かったくらいだと思うぜぇ?」
「何が言いてぇ」
 鋭い視線に一切物怖じをせずにスクアーロはぱんと机の上に手を置いた。そしてぱっとイイ笑顔になる。
「めでてぇなぁ、って言ってんだぁ」
 からからと嬉しげに笑っているのだが、どうにもそれがXANXUSには腹が立つ。スクアーロが勿論そんな機嫌の急降下に気付くわけもなく、そのまま話を続ける。
「それまで手も出さずに頑張ってきたんだろぉ?ぶふっ!てめぇが我慢大会なんざ、笑っちまう!!あーっはははぶっは!!で、どんなの選んできたんだがば!」
「うるせぇ」
 テキーラが半分ほど残っていたグラスをXANXUSは容赦なくスクアーロの顔面に叩きつけた。スクアーロはそれにわなわなとふるえつつも、何故だか今日は怒鳴り返すことなく、テキーラでべとりと濡れた髪をすく。そして口元を引き攣ってはいたがどうにか笑わせて続ける。
「まぁ、てめぇのめでてぇ日だから我慢してやるぞぉ…。今日だけだからなぁ」
 今日でなくとも大して変わりはないとXANXUSはそんなことを思いながら、ちっと舌打ちをした。一体何の用事で来やがったと問いただしたいところだが、悦に入っているスクアーロにそれが届くとは到底思えない。このまま演説会が始まるのは御免である。
「東眞にはもう
「どこだ」
 呼んで来い、と言外に言っていた。スクアーロはそれに言葉を詰まらせる。そこにもう一つノック音がして、じゃまするわよぉ、と華麗にルッスーリアが入ってくる。今日は厄日かもしれないとXANXUSはふと思った。そしてルッスーリアもスクアーロ同様机の上の紙袋に気付いて、きらりと目を輝かせる。眩しい。
「あっら!ボス…っ!!もうもうもう!とうとうなのね!私待ちくたびれちゃいそうだったわ!」
「…」
 返事をする気も失せたようで、XANXUSは肩肘をついて視線を部屋の隅にやった。
 スクアーロはそれで思い出したようにルッスーリアに尋ねる。いつになっても使えねぇカスだ、とXANXUSはぼつりと思った。
「そういや東眞知らねぇかぁ?」
「あら、東眞?ボス、駄目よぉ」
 こういう時は男からがつんと行かなくちゃ、というルッスーリアのまっとうなアドバイスだったが、生憎XANXUSはもう二人の会話を聞いていない。それに気付いてルッスーリアは仕方ないわねぇ、と肩を竦める。そしてスクアーロに先程の質問の答えを返した。
「東眞なら町のパン屋」
「パン屋ぁ?何でまたそんな所に行ってんだぁ」
 訳が分からない、と言った様子でスクアーロが首をかしげる。ルッスーリアはそれにうふふと口元に手を添えて笑う。XANXUSの方に視線は向いていた。
「それがね、この間朝食でボスがパンがおいしいって言ったじゃない?」
「…あぁ、そんなことも言ったなぁ」
 本人を目の前にしての会話ではないが、それを気にするような人間はここにはいない。スクアーロはうんうんと思いだしながら、ルッスーリアの言葉に頷く。
 先日の朝食の際に珍しくXANXUSの手が早いものだから、一体どうしたことかと皆が不思議に思っていた。それで東眞が珍しいですねと一言をかけると、うまいと返していた。そんな光景だった、とスクアーロははっきりと思いだした。
「それでね、今日の晩御飯はシチューにするらしいんだけど、そのためのパンをわざわざ買いに行ったのよぉ!」
 ボスのために!と続けたルッスーリアにスクアーロは成程なぁ、と頷く。そしてちらりとXANXUSを見やって、また笑ってみる。
「愛されてんなぁ、ボスさんよぉ!」
「――――――――――――は」
 鼻で笑い飛ばされた。
 流石のスクアーロもこれには少し驚かされる。それから同時にごちそうさまでした、という気分になった。XANXUSは僅かに開かれていた引き出しに覗く書類と紙袋を交互に見やって、くと口元を吊り上げる。これなら心配はいらねぇ、と。
 そして、扉を叩いた本題に入った。

 

 グラツィエ ミレ(ありがとう)、と片言のイタリア語で告げた東眞は頭を下げてから店を出る。腕に抱えた大量のパンは今夜の晩御飯になる。自分で焼いても良かったけれど、やはり美味しいと言ってくれる方がずっと嬉しい。しかし買い過ぎただろうかと東眞はずしりとくるパンをもう一度抱えなおす。そして、同時に全部食べきれるかどうかも不安になる。(それはどうせ杞憂だ)
「…大丈夫かな」
 多分、と思い直して東眞は笑顔になる。その足元にからころと音が響いて、石畳の上を器用にカフスが転がって爪先に当たった。それを東眞はしゃがんで拾い上げる。そして、その上に長い影が落ちた。