A terrifying encounter

 毒々しい目に痛い桃色の、羽毛のコートが廊下を埋めた。
 通常の人よりも軽く二倍は大きい身体を軽く前方へ曲げ、普段使っている表情筋を逆に使い、口をへの字に曲げて不機嫌をこれ以上ないほどに露わにしていた。
 そんな海軍本部に召集されたドレスローザの国王、王下七武海が一角のドンキホーテ・ドフラミンゴに声をかける人物は誰一人としていなかった。
 爪先の上がった靴が地面を踏み先へと体を進める。珍しく少しばかり会議に早く来てやったというのに、召集時間を間違えて一時間早く告知していたとなれば、暇を持て余すのも自明であった。人一人いない会議室に一人ぽつんと座っているのは趣味ではなく、会議室を出たのは良いものの、耳に届くのは喧噪などではなく、男のむさくるしい訓練の声ばかりである。少し、そこここで会った海兵を寄生糸で操ってみたりもしたが、周囲に人も少なく面白くない。
 ああ、面白くない。
 特に最近単調で、仕事も軌道に乗っているため面白味がない。ある程度の予想外がなければこの世はあっという間に色褪せる。
 暇以上に退屈を持て余す。
 ドフラミンゴは窓の外へと視線をやった。軍隊が一つ。部隊員は全て地面に伏し、その筋骨逞しい両腕と両足の三点のみで身体を支えている。いち、の掛け声に合わせて体が地面ギリギリに伏せられる。胸板が地面に着くか否かのところで身体が止まる。停止状態でさらに数が数えられる。いち、に、さん、声が合わせられ、十まで数えると再度体は持ち上げられる。その繰り返しである。元の数字は既に千を超えている。男たちの顔はどれも一様に真っ赤で、顎から滴り落ちる汗が地面を濡らしていた。
 なんとむさ苦しい光景なのか。
 しかしとドフラミンゴは逸らしかけた視線を元へと戻す。
 さらに数字が一つ追加され、再度男達の体が地面ギリギリのところで制止する。倒れた兵士が一人いたが、髭の濃い男がその兵士の背中をしないで叩きつけ、何をたるんどるか!と怒鳴り散らし、兵士は再度皆と同じ姿勢を取った。一見しても分かる。良く統率のとれた部隊である。
 暇なのである。フフ、とドフラミンゴは口端から笑みを覗かせ、窓枠に腰掛けた。
「寄生糸」
 統率のとれた部隊は一瞬にして瓦解した。相手の骨を折る勢いで互いが拳を振るい、鼻が折れた兵士もいたのか、血が地面に飛び散る。おれに近付くなと泣きそうな声で叫ぶ兵士の絶叫は耳に心地よい。
 一人二人と地面に白目を剥いて倒れ伏していく。肋骨が折れた奴、あまりに強く殴りすぎて腕から骨が飛び出ている奴。成程、人間の限界値とは分からないものである。相手を負傷させた兵士の両目からは大粒の涙がとめどなく流れ落ちている。部下をしばき上げていた海兵が暴れている兵士を制圧し、縛り上げているもののどうにも追いつかない。
 愉快痛快な光景にドフラミンゴはついつい声を立てて笑った。だが、その笑いはすぐに止められる。強い視線が一つ、こちらに向けられていた。頭が剃り上がり、顔に大きな傷のある海兵が一人、ただ一人その喧噪のなかでこちらを向いていた。その男も暴れる兵士を制圧していたが、その手を止めすっくと立ち上がると、こちらへと大股で向ってくる。
 察しのよい男だとドフラミンゴは口角を歪めた。
「ドフラミンゴ様、戯れはお止めく」
 ださい、と最後までは言わせなかった。海兵の鳩尾に大きな足がめり込んでいる。3m越えの身長の半分より少し大きい程度の体はいとも簡単に地面から足を浮かせて吹っ飛んだ。背中が地面につき、砂埃が立つ。
「中佐殿!」
 野太い声が大気を押して叫ばれる。地面を滑った海兵は体を半身起こし、口に入った砂を吐出して口を袖で拭った。片手を上げ、声を上げた海兵には、暴れている兵士の鎮圧を片手を挙げることで命じる。
 強い視線である。しかし、手を挙げようとする意思は一切感じられない。成程、分を弁えた海兵であるとドフラミンゴは笑みを深めた。そういう男は嫌いではない。だが目が気に食わない。寄生糸で兵士を操ることをドフラミンゴはやめるつもりはなかった。
「無体はやめて頂きたい!」
「おれが?何故。理由を言え。てめえのような一兵卒の言うことを聞く必要がおれにはない」
「王下七武海である貴方と我々は友好関係にあるはず。このような手段にでられるなど」
「誰がおれに言うことをきかせられる?この、おれに」
 なあそうだろ、とドフラミンゴは開いた胸を指先で撫ぜた。
 一人また一人と制圧されているものの、負傷者の数はその倍である。ドフラミンゴは大時計を確認し、長針と短針から導き出される時刻が会議前に丁度良い頃合いであることを認めた。
 ああ、よい暇潰しになった。
 心底そう思い、ドフラミンゴは首を鳴らす。最後にあの地面に倒れている海兵にとどめでもさすかと、窓から体を下し、地面に反り上がった靴をつける。猫背ではあるが、高い身長分だけ長い足を数歩踏み出せば、蹴り飛ばされた男のすぐ傍らまで辿りつく。ここまで来てなお、海兵はドフラミンゴに武器を向けることをしなかった。
 賢いが、愚かである。
「死ね」
 足を振り上げる。覇気を纏わせているため、振り下ろせば背骨ごと砕け散る。
 しかし、眼下に倒れている海兵と視線が合わない。ドフラミンゴは眉間に軽く皺を寄せ、その原因を一瞬では理解できなかった。海兵の瞳は大きく見開かれている。少しばかり血が滲んでいる唇が動く。
 たいさ。
 そう、動いた。大佐、である。
 ドフラミンゴはその瞬間、海兵が向けていた視線がどちらにやられているものか気付く。ドフラミンゴ自身ではない。その、背後である。気配などなかった。しかし、ドフラミンゴは咄嗟にその巨躯を折り曲げた。先程まで首があった位置に正確に刃が通り過ぎる。音すらしない。気配すらない。
 サングラスの奥で背後の情景を確かめようと眼球がぐるりと眼窩で動く。男を踏み潰すはずの足は地面へと急遽付けられ、来襲した脅威に反応すべく、その羽毛に包まれた体を反転させるため、同じく地面に触れた手を支点に大きく回転した。
 刀を振り切っているため、正義の二文字が刻まれた白いコートに阻まれ敵の姿は見えない。
「大佐!駄目です!」
「弱え奴はスっ込んでろ」
 ドフラミンゴはこの強烈かつ鮮烈な感情を遮ろうとした男の顔を顎から蹴り飛ばす。今度こそ男の口から血が飛んだ。脚の平が海兵の顎へと入った瞬間、背後にあった気配がざわりと蠢く。殺意に等しいそれに全身が総毛だった。
 この間刹那。
 指先に張った一本の糸にドフラミンゴは神経を集中させる。如何に速かろうと操ってしまえば怖いものなどない。
「寄生糸」
 この心地良い殺意の正体が分かるとドフラミンゴは思った。さあ屈辱に塗れた面を差し出せと人差し指と薬指に力を込める。だが、それはサングラスの向こうで一線したその刃に強張ることとなる。伸びた糸が返した刃の先に触れる。
 ふつん。
 伸びた糸が分断される。斬れる刃の動きは速過ぎて視認することはできない。ただ、伸ばした糸が斬られたということは分かった。
 正義がはためく。相手と正対する。男か女かは分からない。ベリーショートの髪が風に叩かれて揺れている。二つの吊り上り気味の両の瞳にはこちらの姿がはっきりと映っている。こちらしか見ていない。部下の言葉も何も、この海兵の耳には届いていない。
 背筋に電流が走ったかと思うほどの間隔が一気に通り抜けた。ドフラミンゴは自分の顔にいつの間にやら笑みが浮かんでいることに気付かない。は、と息を吐出す。そういえば、ここ最近本気で戦りあっていなくて体が鈍っていた所だと、掌を握り、放す。
 五指に糸を伸ばす。振りかぶり、体を五つに分断するつもりで宙に浮いていた体目掛けて腕を振るう。だが。だがしかし、再度振り抜いた糸はドフラミンゴの前で力を失ったようにばらついて散った。指先の辺りで糸が斬られている。
 海兵との距離はもうない。
 距離をとろうとドフラミンゴは一歩、地面を蹴りつけた。突き出される刃をかわすために体を反転させる。武装色の覇気でこの刀を受ける気には、何故かなれなかった。
 一撃を避ける。互いの前後が逆になる。次の一手をとドフラミンゴは指の糸を編み込む。けれども海兵の動きの方が一段と速い。空気が弾けるような音が響き、一気に距離が詰められた。海兵の体は既に懐に入り込んでいる。
「たい」
 さ、と背後の海兵が叫んだ。
 ドフラミンゴは真白な刃が己の胸を貫いている現実を見下ろした。痛みもなければ血もない。だがしかし、刃は確かにこの胸に突き刺さっている。筋肉の間を縫うようにしてその刃は水平に突き刺さっている。
 体の力が入らない。気を抜けば足から崩れ落ちそうだった。海兵を操ろうと糸を出そうとしても、意思に反して糸は具現化しない。海にも浸かっていないのに、どういうことだとドフラミンゴは目元に皺を寄せた。
 白のコートが重力に従って流れて音を立てる。
「な」
 ここに至るまで、海兵は一言も発していない。しかし、中佐階級の男が「大佐」と呼んだことから、彼らの上官であることは明白だった。ドフラミンゴは背に一筋の冷たい汗が流れ落ちるのを感じた。
 前から刺された刀は背中へと突き抜けている。不気味な状況である。能力者か、と唾を飲む。ただただ、抜身の刃のような瞳が向けられている。薄い唇が動く。一寸前に顔を合わせ、刃を交わし、ドフラミンゴは初めて海兵の声を聞いた。
「手を引け」
 男とも女ともつかぬ声である。その声は激情に満ちている。触れれば怪我をしそうな、そんな声である。どうやら、自分のした行為は大層この海兵の癪に障ったらしい。
 サングラスの下でドフラミンゴは目を歪め、細める。
「…引かなかったらどうする」
 海兵の口が動き問いの答えを発する前に、その瞳が大きく見開かれた。腰から両手が巻きつき、その手の主の両膝は地面についている。立つという行為すらしんどいのは、肋骨が折れているからである。
 大佐、とドフラミンゴと対峙している海兵のすがりついている兵士は口をきくことすら辛そうに話し掛けた。海兵と七武海の戦闘が開始されてから、他の海兵は糸が切れたように茫然自失と座り込んでいた。
 腰に回している手に力を込める。今しかないのだと。
「相手は…七武海、です。この方とこれ以上やりあうより、倒れている部下の…ぉ、え…っ手当、が、先です」
 大きく見開かれた瞳がぐると後ろへと動き、再度ドフラミンゴのもとへ戻った時には、その目に浮かんでいた攻撃色は失せていた。野暮なことを、とドフラミンゴは舌打ちをして、感情を露わにする。
 海兵は一度瞼をしっかりと閉じ、その瞳を開ける。攻撃的な色はなくなったものの、その瞳にははっきりとした侮蔑の色が滲んでいる。一見してそうだが、しかしその腹の内ではどれだけの殺意を溜め込んでいるのかと思えるほど、ドフラミンゴはその感情を肌で感じ取った。ぞくぞくと快感が神経を撫ぜ、勃起しそうな衝動に駆られる。
 小さく、フと笑みをこぼす。
 水平に突き立った刃がそのまま横に振り抜かれる。通常であれば肉を先、体を絶つ動きだが、何故か体に傷は一切なかった。ドフラミンゴは刃がなぞった部位を掌で触りその傷の有無を確かめる。
 能力者かどうかを疑う。
「おい」
「中佐。負傷の程度の低い奴に軍医を呼びに行かせろ。動ける奴は動けない奴の様子を見ろ」
 もう用はないとばかりに、海兵はドフラミンゴに目すら合わせようとしない。それどころか、いないものとして扱っていた。完全なる無視にドフラミンゴは表情筋を引き攣らせた。
 このおれに、いい度胸だ。
 海兵の肩を掴もうとドフラミンゴは手を伸ばしたが、その行為は紙一枚の隙間で止められる。
 喉元に切っ先が添えられている。僅かに切っ先は喉仏に食い込んでいた。力が僅かに抜け、先程と同じように能力が使用できない状態に陥っていた。
 その原因に心当たりは一つだけだった。
 ドフラミンゴはおそろしいほどに白い刃へと視線を落とし、口角を引き攣らせる。
「海楼石か…ッ」
「失せろ」
 ひゅ、と刀が一回転し鞘に納められる。一瞥し、今度こそ海兵はこちらを見ることをしなくなった。フフと鼻から笑いが零れ落ちる。大時計が大きな音を鳴らして時を知らせる。折角早めに来たのに、結局遅刻してしまう結果となった。
 ドフラミンゴは正義の二文字を背負っている海兵に、おいと声をかけた。
「お前、名前は」
 返事はない。ふり返ることすらしない。一海兵の王下七武海に対する態度ではない。
 腹立たしい。恥辱にまみれさせてやりたい。この、海兵を。
 どうしようもない衝動に駆られながら、ドフラミンゴはこれ以上の回答が望めないことを知ると、慌ただしく動いている海兵たちに背を向けた。名前ならばいつでも知れる。海兵の特徴は覚えたし、誰にでも聞けばよい。
 つまらない会議だが、良い収穫があった。
「フ。フフフッフ」
 愉しい。
 愉しくて愉しくてたまらないとばかりにドフラミンゴは笑った。こういった刺激を自分は求めていたのである。昂る熱が冷めやらぬ。
 子供が欲しい玩具を手に入れた時のように、ドフラミンゴは呵々大笑し、そして会議場の扉を押し開けた。
 空いている席はもう自分の分一つだけだった。珍しくアマゾンリリーのハンコックも出席している。明日は雨かとドフラミンゴは口の中で笑う。
 変わらずの絶世の美女である。ぬばたまの黒髪は流れるように象牙の肌に良く映えている。惜しげもなくさらされるすっとした長い脚に大きく開いた胸元は女を匂い立たせている。撫でまわしたくなるような木目細かい肌に、きゅっとしまったウエスト。侍らせれば愉しいことだろうとドフラミンゴは本人に知られれば首が飛びかねないことを胸の内で思った。
 舐めまわすようにハンコックを頭の天辺から爪先まで視姦して、不躾だといわんばかりの視線を受けてからドフラミンゴは視線を外す。不幸なことに空いている席といえば、絶世の美女の隣ではなく、40も越した男の席だった。黒い毛皮のコートに身を埋め、口には葉巻を咥えて煙たい空気をまき散らしている、顔に横傷のある男である。
 隣いいかと許可は求めず、ドフラミンゴはその隣の席に大人しく腰を下ろした。ぎ、と椅子を後ろに倒して遊ぶ。会議は始まっていたが、先程から話は頭に入ってこない。尤も、センゴクが説明しているだけで、眠たいことこの上ない。間違いなく真面目にこの会議の内容を聞いているのはジンベエくらいだろうと、ドフラミンゴは七武海の中では唯一といっていいほど唯一真面目な魚人を視界の端に捉えながら、手を伸ばして机の上に置かれていた林檎を一つ取って食べた。
 シャリシャリと果汁も程好く甘過ぎでもなければ、酸っぱ過ぎもない。誰が選んでいるんだろうなと大欠伸をかましたところで、ドフラミンゴ、とつるの一声が響き、ドフラミンゴはニタニタ笑いながら居住まいを正した。隣に座っている男がきっちりとした正装かつ正しい姿勢で話を聞いているから、こちらはいっそうだらしなく見えるのだとドフラミンゴは口をへの字に曲げた。
 しかし。しかしとドフラミンゴは思う。あの海兵は一体誰だったのかと。名前をやはり聞き出しておくべきだったかと少しばかり後悔する。考えてみれば、短髪で背のある、男か女か分からないなどと探すのに一苦労しそうな外見である。見たものを相手にそのまま見せる技術を手元に持っていれば話は別だが、そうでもない限り、あの海兵を探すのは酷く手間ではないか。
 その事実に気付き、ドフラミンゴはげんなりした。折角見つけた玩具を無くしてしまった子供のような気分である。
 深い溜息を零し終える頃、ようやく会議は終わっていた。話の内容は全く頭に入っていないが、他の連中の面を見るにそこまで重要な内容話していないと察される。問題はない。
 椅子から長身を退け、あの海兵を探すのか否かを考えながら部屋を出る。左前には黒の毛皮のコートが闊歩にあわせて揺れている。
 しかし、運は自分に味方したようだとドフラミンゴはサングラスの下で目を細めた。前方に海軍コートが揺れている。帽子を被っていないその髪の毛と顔は確かに見覚えがある。
 あの海兵だな。
 口に笑みが自然と浮かび、筋肉がざわめく。相手はこちらなど変わらず無視をしている。見るのもいやとばかりにその視界にこちらを入れていない。
 気に食わねえ野郎だ。
 掌に糸を収束させる。シュルシュルと赤い糸が巻かれていく。狙うはただ一点である。ドフラミンゴは鞭のように糸を撓らせ、振るおうとした。が、しかしその腕が前方にいた黒い毛皮のコートから伸びている右手に掴れた。葉巻の煙がくゆる。
「何のつもりだ、ワニ野郎」
 ぼろ、と来ていた洋服の袖が砂のようになって廊下に落ちる。皮膚が乾いていく感触を覚え、咄嗟にドフラミンゴはそこから手を振り払った。強く掴んではいなかったのか、手は簡単に離れた。
「…そりゃ、こっちの台詞だ。フラミンゴ野郎」
「クロコダイル。会議は終わったのか」
 海兵は前方にいたクロコダイルへと知り合いのように語りかけた。こいつの一体何なんだ、という疑問が頭を埋める。変わらず、海兵はドフラミンゴへ視線をやることはない。いないものとして扱っている。
 クロコダイルもそれに気付いたのか、そうだ、とドフラミンゴを無視して海兵の問いに答えた。
「そうか。今日は暇か、それとももう帰るか」
「おい、お前」
「帰らないなら、うちに寄れ。いい酒が手に入った」
「おい」
「酒か…悪くねえ」
「だろう。寄るなら一泊していくだろう」
「ああ」
「おい、聞こえてんだろうが。海兵」
 一切相手にせず会話を進めていく二人にドフラミンゴはとうとう業を煮やし手を出した。大きな手が海兵の肩を掴む。しっかりと筋肉が付いている。男か、女か、分からない。しかし既にそんなことはどうでもよかった。
 骨をへし折るつもりで掌に力を込める。クロコダイルの手が横から伸びかけたが、海兵はそれを右手を軽く上げることで差し止め、ドフラミンゴよりも二回りは確実に小さい掌で肩にかかった手首に手を乗せた。みし、とその手に青筋が浮く。
「聞こえている、ギャーギャー喚くな。無視されているのも理解できんのか」
 肩が砕けるのが先か、手首の骨が砕けるのが先か。
「私は先の一件、許したわけではない。今すぐにでも、お前をぶちのめしたい気分だ」
 肌が泡立つ。これだ、とドフラミンゴは顔の片側を大きく歪めた。胸が早鐘を打ち、血が騒ぎ立てる。
「よせ。馬鹿に付き合うな」
「黙ってろ、ワニ野郎」
 二度も邪魔をされてたまるか、とドフラミンゴは腕の力をいっそう込めた。肩の骨が悲鳴を上げているはずである。にもかかわらず、海兵の顔には一向に変化が見られない。痛みをこらえているのか、それとも痛みを感じないクレイジーなのかどちらかである。
「そうだな。私はお前に取り合わない。部下にも約束させられてしまった。七武海とは騒ぎを起こすなと」
「賢い部下だな。てめえの空っぽな頭の代わりか」
「まぁ…そんなところだ」
 クロコダイルの言葉を海兵は受けて答える。骨が折られる方向に手首が一気に曲げられ、先に手を放したのはドフラミンゴだった。二つの冷めた目が一度だけドフラミンゴのサングラス奥に向けられる。
 ぞくん。
 心臓が、奇妙な音を立てた。衝動が電流のように全身に走る。
「名前は」
 外された手を再度伸ばし、海兵の腕を掴むとその背を壁に叩きつけた。大きな背で覆い隠し、後方にいるクロコダイルには手出しをさせない。元より、クロコダイルがこれ以上手出しをする気配は感じられなかった。
 大きな体を籠にドフラミンゴは二回りは小さい体に圧迫感を与える。
「聞かせろ。名前だ」
「生憎と、下衆に名乗る名前は持ち合わせていない」
 がんと跳ねのけた女の顔を見下ろせば、これ以上はどう脅迫したところで名前を言いそうにないとドフラミンゴは悟った。逡巡し、ふむと口端を軽く持ち上げる。
「なら取引だ」
「断る」
「おれが、てめえの部下に病院へ行って直々に謝ってやろう。代わりにお前はおれの三つ質問に答える。どうだ」
 一拍。
「いいだろう。約束しろ」
「おいおい、おれが約束を破るような男に見えるか?」
「見えるから言っている」
「出会い頭から無礼な野郎だ。約束しよう」
「行儀がよければ何かいいことがあるなら行儀よくしてやる」
 行儀よくなど一切するつもりのない受け答えである。ドフラミンゴはなら、と腕を掴んだまま首を傾ける。
「名前は」
「ミト」
 一つ目の質問を消化する。成程ミトか、とドフラミンゴは不遜な笑みを上から落とす。
「所属は?」
「海軍本部」
 やろうと思えばいつでもその面を拝めるわけである。二つ目の質問が終わった。さて、三つ目である。ドフラミンゴは背後からの視線に気付いてはいたが、いまいち関係性がつかめない。
「ワニ野郎との関係は?」
「友人だ」
「友人!フ、フッフ、友人か!」
 あまりにも可笑しく、腹が捩れる。ドフラミンゴはつい笑いに背をそらし、ミトを解放した。ミトから送られる視線は変わらず冷たい。
 友人などと、それも海兵と海賊の友情などと。それ以上にこのクロコダイルという男に友人という言葉ほど似つかわしくないものはない。否定するのかと思いきや、背後に立つ男は紫煙をくゆらせるばかりで、その言葉を否定することはなかった。
 本気かよ、とドフラミンゴは残った笑いを口から零す。
「質問は終わりだ。必ず私の部下へ謝罪してもらおう」
「ああ、いいとも。お、っと最後にもう一つだ」
「質問は三つだ」
「固ぇことは言うな。三つも四つも変わらねえ。このおれが、頭を下げてやるんだ」
 ドフラミンゴはミトからの返答を待たず質問をする。それに必ず答えるという自信があった。
「お前、男か?それとも女か?」
「女だ」
「そう…そう、女?」
 男か女か分からぬ外見ではあるが、ドフラミンゴはつい聞き返した。眼前の生き物に性別を聞いたのは間違いだったかと選択ミスをしたような気分になる。しかし、そうであるならば、先程の質問の内の三つ目がどうにも納得いかない。
「ワニ野郎の女か」
「友人と言ったはずだが」
「……男女の友情なんてもんは成立しねえ」
「そうか、ならば例外だな」
 なら。
 ドフラミンゴは女の言葉を咀嚼する。ならば。
「おい、ワニ野郎」
「…何だ」
「おれがもらってもいいな」
「…おれのモンじゃねえ……が、てめえにゃ飼い馴らせねえと思うが」
 そもそも許可などあってないようなものである。当事者は双方の言葉を聞き流し、ドフラミンゴの脇をすり抜けて通り過ぎる。待て、と延ばされた手は今度こそ止まった。右手で抜かれた刃の切っ先は伸ばされた掌の中央に触れるか触れないかのところで止まっている。
 海楼石でできたそれは触れることすら厭われる。
 ドフラミンゴは手を止め、そして体の横に下げた。
 何も今ここでなくとも構わない。玩具はイキがある方が興をそそられるというものである。
「また、だ」
 ざ、と一陣の風が廊下を吹き抜けた。三者三様のコートが空気を孕んで大きく揺れる。一歩二歩、下がりドフラミンゴは見つけた玩具に背を向けた。
 クロコダイルはドフラミンゴが立ち去った後に、長く煙を吐き出す。
「厄介な野郎に目ぇつけられやがって。何した」
「先に手を出したのはあちらだ」
 悪びれなく言い放つ女の顔目掛けてクロコダイルは煙を吐きつけた。全く反省の色というものが見られない。ぷは、と煙を酷く煙たそうに払ったミトをクロコダイルは横目で見て、顔を前へと向ける。
「気を付けとけ」
「…分かった」
「本当に分かってんのか、この馬鹿」
「馬鹿馬鹿言い過ぎだ」
「今日はまだ一回目だ」
 口をへの字に曲げた女に男は煙を三度吹き付け、笑った。