狼の伴侶

 狼の伴侶は生涯唯一人。
 「いらねえ」
 差し出された写真を持ってきた役人に滑らして返す。余計な御世話だ。
 男やもめ、八重が死んでから二年が経つ。
 死んで一年は現世の家に帰らなかった。寄り付きもしなかった。
 あの家は細部に至るまで、八重との思い出が詰まっている。
 日本家屋にしたのは自分の我儘で、こればかりは八重と口喧嘩まで発展した。
 何故そこまでと家を建てた後に聞かれたが、たんに日本家屋といえば馴染みがあり、子供ができれば柱にあとなぞつけ、囲炉裏を囲み、つまるところ、家族の家としての印象が殊更強かったからにほかならない。
 尤も口が裂けても言えはしない。
 家具などは決めて良いと投げていれば、あっちやこっちやと引っ張られ、家に見合った家具を揃える羽目になった。
 曰く、「私の家でなく、允さんの家でもなく、私とあなたの、そしてこれからの家族の家なのだから、一緒に見ましょう」とのことらしい。
 だから、あの家にいると否応なく八重を思い出す。
 師匠を手にかけてから冷血漢と呼ばれ久しくないが、それでも自然に足は遠ざかった。
 むさ苦しい男所帯でも、八重を思い出すよりはマシであった。
 「矢間」
 役人を追い返してから、へし切りが口を開く。
 師匠の刀であったこいつは、人目がないと俺のことを かつてのように呼ぶ。
 「家に、一度帰ってはどうだ」
 「は?」
 「住まない家は駄目になる。庭もあったろう。草が、きっと伸び放題だ。駄目になった家は仮に建て直しても、それはもう別物だ」
 言いなりになるのは癪ではあったが、八重が大切にしたものを壊すのは気が咎めた。
 「そうだな」
 帰ってみれば、言われた通り、草は伸び放題で、そこかしこに埃が溜まった、兎も角寂れたといった表現が一番適した家屋に成り果てていた。
 袖を襷で絞り、裾を絡げて草むしりに没頭する。
 一日で終わるはずもなく、ただただ無心に家を掃除し続けた。
 埃をはらい、窓を拭き、黄ばんだ障子を張り替え、床や家具を磨き、虫干しをする。押し入れに眠っていた布団はカビ臭く、初日は諦めて畳の上に打掛を掛けて寝た。
 八重の、香りが残っていた。
 箪笥には八重の着物が畳紙に包まれ入っていたが、捨てる気にも売る気にもなれず、虫干しの際に汚れや綻びだけ確認して元へ戻した。
 二週間かけてようやく家は綺麗になった。
 神棚に神酒と榊をそえてしまいとする。
 まだ産まれていない子供のために買い始めていた物は始末にこまり段ボールに全部詰めて押し入れにしまっておく。どうせ、今後の出番はない。
 二人暮らしにしては食器や布団も多かったのは、笹舟がまま訪れることがあったからか。いつ買っていたのか、気付かぬうちに増えていた。
 八重は、そういう女だった。
 掃除を終えた家は広く閑散としている。
 「八重」
 勿論返事などない。
 机には猪口を二つ置き、酒を注ぐ。
 手酌をすれば決まって怒っていた。私がいるのにと、頬を膨らませて戻した。
「悪かった。家族の家、ほっといて」
 仏壇の前に猪口を置き直す。
 「ただいま」
 酒を飲み干した。
 翌朝身支度を整えて、外へ出る。
 そのまま帰ろうとして、足を止める。
 空耳だったろうか。それとも風の騒めきか。
「行ってくる」
 何かが、襟の袷を直した気がした。
 眼前で、着飾った女性の写真が台紙ごと破られる。
 地を這うような声が怒りに混じって室温を下げる。
「何度言わせりゃわかる。俺の妻は八重一人だ。生涯唯一人、あいつ以外は傍に置く気はねえ。帰れ。耳なし芳一にされてーか」
 泡を食って役人が転がるように逃げていく。
「塩まけ」
 そう主に言われ、燭台切は塩を取りに行くと、見慣れた姿を見つけ、少し愚痴る。
「主もあんな邪険にしなくても。話は聞こえなかったけど、政府の人、縁談の話を持って来てくれたんでしょ?会うだけ会ってみればいいのにね」
「主は、狼だからな」
「え?」
「…いや、塩だろう。とっとと撒きに行け」
 そう、塩を渡された。
 塩を撒く。
 僕の主は、全くひととなりがわからない。
 取り敢えず、恐ろしい審神者であることは分かった。今日も一振、壊された。
 いつか僕も壊される日が来るのだろうか。
 塩を撒きつつ考える。
「奥さん貰ったら、少しは変わるんじゃないかな」
 口が裂けても言えはしまい。