Mother or…

 阿含。

 柔かなベッドの上で、微睡の中、懐かしい声が耳元で囁かれる。そんな錯覚に陥る。ひどく懐かしさを帯びた音は、体の芯を優しく包み込み温めた。

 二つの手が腕を押し、前後へと揺さ振る。

「阿含、起きて。朝ご飯できたよ」

 昨日、空っぽの冷蔵庫に生鮮食品を入れた。冷蔵庫は購入してから長い月日を経て、初めて冷蔵庫らしい働きを示してみせた。

 うるせーよ、このブス。

 そう、体を起こして言いかけたところで阿含は視線の先にいたのは彼女ではないことを思い出し、嬉しさで持ち上がりかけた口角を真横に戻した。

 今家にいるのは家主である自分と、それから兄と郁の子供つまり姪だけである。

 その姪は、見かけは丁度二人の子供といった様子で、声は、声だけはひどく郁に似ている。似ているどころではなく、本人の声を移しとったかのようなとまで思えるほどに、そのままである。

 だからこそ、寝覚めのこの声は、阿含にとっては半分拷問に近かった。残り半分は握りつぶした淡い初恋を思い出す苦味である。

「阿含」

「あ゛ー…ってる、行く。ダイニングで待ってろ」

 先に食っててもいいと言いかけ、見上げた双眸が歪んだのを視界の端で捉え、待ってろと再度繰り返した。

 言いたいことを飲み込んでしまう割に目に出るのは兄譲りのようだった。

 雲水もそうだったと阿含はよれたシャツに頭を通しながら、苦い思い出もしっかり含まれた昔を振り返る。その性格の所為で雲水はどれほど大量の針を黙って飲み込んだのか、知れない。

 両親の、教師の、周囲からの。雲水は面だけ取り繕って、心のどこかを一つずつ殺して生きていた。幼いころの自分はそれに気付いてはいたものの、それをどうこうできる術を持たなかった。

 阿含はシャツの首から頭を出し、首元を軽く引っ張る。だぼだぼのジーンズに足を通して、ダイニングへ向かう。普段人のいない家に赤の他人とまではいかないが、誰かがいるのはひどく新鮮な気分にさせられた。

 染めていない、絹のような細い髪は郁譲りだった。

 後姿に阿含は目を細める。ちくり、と小さな痛みが胸に刺さる。

 椅子を引っ張り、用意されている食事の前に腰を下ろした。その前にホットミルクが入ったマグカップが置かれる。

 ホットミルク。

 阿含はついつい笑いそうになって、口元を歪めるにとどめた。子供か。ここはブラックコーヒーでも用意してくれるものかと思いきや、姪と全く同じ朝食が用意されていた。

 パン、ベーコンエッグ、サラダ、ホットミルク。

 和食でないのは、材料が調達できなかったせいもある。朝食らしい朝食を口にしたのは驚くほど久々であった。朝食などコーヒー一杯で済ませる、あるいは寝過ごして昼食と一緒になるのが関の山である。

 阿含は用意された朝飯を口にする。余程料理の腕前が不味くなければ、このメニューを悲惨な食卓に変えることはできない。幸い姪の料理の腕前は母親同様そこそこだったようで、普通に食べられるものだった。

「おいしい?」

「あ゛?あ゛ー…不味かねえ」

 家のダイニングでかわされる他愛のない会話に阿含は不思議な気分になった。懐かしさすら覚える。高校は寮生活だったので、騒がしい朝食を送っていたはずなのに、ひどく懐かしい。

 ぽつりぽつりと会話がなされる。言葉の応酬は大層ゆっくりで、時間そのものを遅らせたかのようだった。

「は、あのブスまだンなことしてんのか」

 会話の中で阿含は呆れた様に頬杖をついて笑った。発した言葉は阿含にとって悪意のないものであったし、特段深い意味もなかった。

 しかし、姪にとっては違ったようだった。

「阿含は、お母さんのこと嫌いなの」

 ふつんと言葉と思考が同時に途切れる。

 サングラスを掛けていない、遮るもののない空間で阿含はそう尋ねられて、即座に言葉に詰まった。思えば、郁のことを名前で呼ばなくなったのはいつの頃なのか、記憶にない。苛立ち紛れでブスだと言った後、雲水にひどく怒られた記憶は残っている。

 雲水に注意されてもなお、郁のことを名前で呼ばなくなった。毎回毎回注意されるのは流石に鬱陶しかったので、途中からお前だとてめえだとか、雲水の前では極力そう呼ぶことにした。

 郁、と名前で呼ばなくなったのは何故なのか。

 それは、と阿含は自問自答しかけて、先に姪の答えに言葉を返した。

「嫌いじゃねーよ」

「ブス、なんて言わないで。お母さん、ブスじゃない」

「美人でもねーがな。そんな顔で睨むなっての」

 愛称。そう。

 言い訳の言葉を探し、たどり着いた言葉を阿含は苦し紛れに口にする。

「愛称みてーなモンだ。深い意味は、ねえよ」

 そういった瞬間に、姪の目が嬉しそうに星が散ったかのように輝いた。

 何もかもが、一挙一動が、彼女の母親であり、兄の妻であり、自分の幼馴染であり、そして自分の初恋の女であり、手に入らなかった、その存在を嫌でも思い出させた。

 ホットミルクが入ったマグカップを机に苛立ち紛れに叩きつける。それはただの八つ当たりである。

「阿含?」

「やめろ」

 戯れに、懐かしさに甘えてその名前を呼ぶことを求めたが、そう呼ばれる度に脳裏をよぎる姿に淀んで行き場のない感情に目を向けさせられる。

「あご」

「呼ぶな」

 腹に溜まっているものがせり上がり、喉をついて外へ出てしまう。

 阿含は両手をテーブルの中央について身を乗り出すと、姪へと大きな影を作った。怯えた表情がサングラスなしの瞳にはっきりと映っている。今にも、泣きそうな顔をしていた。それは雲水のそれとよく似ている。

 なにもかもを我慢しつくした兄の、あの顔に。

 それを自覚した瞬間、脳天からつま先まで一気に罪悪感と呼べるような後悔が襲った。

「呼べっていったの、おじさんじゃん」

 陶器のマグカップに入っていたホットミルクは冷めきっている。少女の指が取っ手にかかり、そして勢いよくその広がった口を阿含に向かって放った。

 かつての阿含を知るものであれば、その向こう見ずで無謀かつ自殺行為に卒倒したであろうが、そのようなものはこの部屋にはいない。

 避けることもできた牛乳が、顔にぶちまけられる。正しくは、避けられなかった。怒りでつり上がった眉と恐れずに口を利くその顔が、一瞬、彼女の母に重なってて見えた。

 顔の皮膚の上を生温かい牛乳が伝って落ちる。

 こわばっていた表情がくしゃりと大きく歪み、大粒の涙が眦から溢れていく。溢れて零れて伝って落ちて。泣き声をこらえるためか、唇は上の歯でこれ以上ないほど押さえられている。

「てめーもう帰れ」

 掌だけで牛乳を払い落とし、阿含はまっすぐに憑きつけてくる視線から逃げるように顔を背けた。

 この姪は存在だけで毒だ。鍵をかけたはずの思い出を容赦なくこじ開けてくる。

「雲水と郁には説明しといてやる。なんだったらホテルくらい用意しておく」

 今日中に手はずを整えて、姪子を自分の家から叩きだす。

 阿含は目を瞑って髪をかき混ぜる。一個人の都合に突き合わせることに対する罪悪感は一向に湧いてこなかった。視線を完全に外し、食事の終わった食卓を片づけもせず、立ち上がる。

「荷物まとめて…」

「私、お母さんじゃない」

 言葉が詰まった。

 呼吸も忘れ、目玉だけで唇を悔し気に噛みしめている姪へと視線をやる。

「お母さんじゃ、ない!」

 心臓が潰される感覚だった。

 そんなことは誰よりも自分が知っている。

 言葉が小骨のように喉元で引っかかり、上手くあしらう言葉は出て来ず、ただただ酸素の足りない魚よろしく口が上下に動く。それを追い落とすがごとく、姪は言葉を狼狽える叔父へとぶつけた。

「なんで、一回も私の名前呼んでくれないの。私もう中学生だよ。おじさんが、私を見て、他の誰か見てるなんてすぐに分かるんだよ!」

「何言って」

「分かんないなら、お母さんに電話する」

「あ゛?よせッ」

 ポケットから颯爽と出した携帯電話を神速のインパルスで奪い取り、叩き折る。そして、折った後に後悔した。ひや、と肌が冷える。

「おじさん、やっぱりお母さんが好きなんだ」

 認めているようなものである。

 かまのかけ方は雲水と同じだ。生真面目な雲水だが、姑息な一面も頭の良さから持ち合わせている。そうして。そう、そして。

 意地が悪い。

 中学二年生、若干十四歳の目が嬉し気に歪む。先ほどまでの泣き顔は一体どこへ行ったのか。

「ナイショにしてあげよっか?」

 この金剛阿含という、男が、他人に弱みを握られるというこれ以上ない屈辱。しかしこの時ばかりは、相手に手が出せない。

 短い同居生活に早くも暗雲が立ち込めた、その一瞬を垣間見た阿含は雲水さながら激しい眩暈を覚え、兄の娘に対する教育方針を呪った。