阿含は携帯電話をおそらく握りつぶすか握りつぶさないかぎりぎりのところの握力を加えていた。サングラスの下の目は状況に追いつけず大きく見開かれる。後にも先にも、金剛阿含という天才をここまで遣り込める事が出来るのは彼の双子の兄以外に存在しない。
一人暮らしには随分と広いマンションの一室はソファにテーブルにと家具は一揃いあるものの、立派なシステムキッチンは使われた痕跡はなく、折角美しいデザインテーブルの上にはゴミが散らかっている。生活感はあるが、どうにも自堕落な生活が垣間見えてならない一室である。
窓の外を覗けば肌の色も髪の色も様々な人種が雑多に人混みをなしている。
アメリカンフットボールの本場アメリカで金剛阿含はアメリカンフットボール選手として活躍していた。生まれてこの方金にも女にもとんと困ったことはないが、兄に関しては別格であった。
金剛阿含は金剛雲水にだけは頭が上がらない。最終的な所で折れてしまう。
携帯電話の向こうでよろしく頼むと優しい声で告げる兄の言葉はもはや決定事項で、阿含に拒否権などあってないようなものである。どうにも納得がいかなくて口だけはせめて反抗を見せるものの、意味などない。
『頼むよ、阿含。夏休みの半月だけだから』
「ざっけんな!この俺にガキのお守させるつもりか!」
『お前も子供みたいなものだから、二人で一緒に遊べばいいだろう』
如何に頭の回転が速くとも、如何に態度がでかくとも、金剛阿含は金剛雲水にだけは敵わない。
阿含は両方のこめかみを親指と薬指できつく抑え、滲むように響く頭痛を堪えた。いくらシーズンオフとはいえ、練習はあるのだから、一日中相手をしてやるわけにもいかない。そんなことは雲水も重々承知のはずである。
「大体、それ以前の問題があるだろうが」
そうだと阿含は最後のあがきとばかりに声を荒げた。
『何だ?』
「何だじゃねーよ。お前、年頃の娘を一人男の家に放り込んでもいいと思ってんのか」
阿含、と電話向こうの声のトーンが一つ落ちる。流石にここまで言われれば考え直したかと思ったが、しかし続けられた話は全く正反対のものだった。
『確かにお前は女癖が悪い。もう四捨五入すれば四十にも関わらず特定の女性と関係を持たず、あっちこっちに手を出して放蕩しているとは聞いている』
「…どこのパパラッチの記事読んだ」
『手癖の悪さは昔からだろう。もう十分に知っている』
聡い兄を喜んでいいのか悲しんでいいのかわからない。
『だがそっちの心配はしてない』
「なんでだよ」
『お前の趣味くらい知っている。それに発育途中の少女に手を出すほどお前、女に困っていないだろう』
当たらずとも遠からずな回答に阿含は言葉を失くした。
確かに、十四の少女に手を出すほど女に困ってはいないし、性欲を持て余しているわけでもない。兄は全く恐ろしいほどに自分のことを見透かしてくる。
とうとう諦め、阿含が分かったと返事をしようとした時インターホンが鳴り、阿含は携帯電話を耳に付けたまま玄関へと足を運んだ。
『もう着くとさっき連絡があった』
「雲水」
なんでお前は大事なことは言わない癖が抜けないわけ?
阿含は扉を開けた先に立っていたひょろっこい、少女特有の細さを有し、体に合わない大きさのボストンバッグを斜め掛けにしている生真面目そうな姪っ子を見て、電話向こうにいる姪の父に連絡おせーよと愚痴をこぼした。
身長は高くもなければ低くもない。雲水と郁の子供なだけあって、スれている様子は皆目見当たらなかった。ともすれば少年のようにすら見える。涼やかな目元は兄譲りである。
小さな、片手で十分掴めるほどの小さな頭が下がり、これもまた綺麗なお辞儀をする。来てしまったものを追い返すわけにもいかず、阿含は諦めて半分に片手で目を覆い隠した。
「半月お世話になります」
耳に届いた声に阿含は掌の下、サングラスの下で目を大きくし、顔を覆い隠していた手を一瞬で払うと声のした方向へと目をやる。そこに立っていたのは、くるりとした丸い目を眼窩におさめている少女一人であった。
声は、怖ろしいほどに姪の母に似ていた。
「あの、上がっていい?」
「…あ゛ーああ、上がれ。部屋は空いてるトコ勝手に使え」
重たそうなボストンバッグを姪から預かることはせず、阿含は扉だけ押さえて唐突にやって来た姪を迎え入れた。
細い、頼りなさ気な背中が、迷い込んだアリスのように心細そうにしている。ボストンバッグの肩紐を両手でつかみ、空き部屋を見つけるまでにゆうに五分は有した。
荷物を部屋において出てきた姪は阿含の前へと来て、少し広めのパーソナルスペースを保ったまま、見上げる。
奇妙な沈黙に阿含は先に根を上げ、右手を互いの間に翳した。
「俺は部屋を貸すだけだ。キッチンでも冷蔵庫でも風呂でも勝手に使っていい。門限はねえ。俺も帰らねえ日もあるが、気にすンな」
そう一気に滞在中のルールを述べ、零れ落ちそうな瞳を向けている姪の手に合鍵を落とした。小さな頭は了解したとばかりに、上下にゆっくりと頷いた。
泥のように眠った体はすっかり疲れを取り払ったようで、阿含は瞼を上へと押し上げた。
そこで右腕に違和感を感じる。昨晩は女を連れ込んでいないはずである。それにしても、かかる体重はやけに軽いように感じた。合鍵を渡した女がいただろうかと阿含は自分の行いを振り返るが、そんな失態は侵していないはずである。
寝ぼけ頭を振り、サングラスをかけていない目で重みがある方へと顔を向け確認し、慌てて体を叩き起こした。心臓が一瞬止められたかと思う程に、酸欠を起こした。
細身の体がよれによれたシーツの上に体を守る様にして丸まっている。発育途上の幼さを残す肢体は可愛らしいパジャマを身に纏っているが、阿含にはそれが今までにないほどに驚く現実だった。柔らかで癖のない細めの髪がシーツの上に散らばる。
閉じられた瞼から伸びている睫毛はあどけなく、すっとしている。
目を開けていれば、雲水とよく似ているが、目を閉じれば高校、中学のころの郁にそれはよく似ていた。擦れた声が身じろぎと共にふっくらとした唇からこぼれる。
郁の、声。
阿含は顔面を片手で覆い隠した。ぞっとするほど、この姪は兄の妻に似ている。
それは、自分の初恋の相手で初めての失恋相手の。未消化の恋の、相手に。
取敢えず、ベッドから出させようと阿含は丸められた肩に片手をかけて揺り起こそうとしたが、姪の眉間には深い皺が寄り、それは兄に似ていたが、肩に掛けた手を振り払うと、半回転して阿含に背を向けると再度小さな寝息を立て始めた。
くそ、と阿含は舌打ちをしてパンツ一枚しか纏っていない状態で、床に放置していたくしゃくしゃになったズボンに両足を通して寝室から出て扉を音をたてないようにして閉める。背を、扉に押し当てて膝から力が抜けるようにして崩れ落ち、しゃがみ込む。
「あ゛ー…」
心臓に悪ィ。
阿含は渡米してから帰国することをほとんどしなかった。心配性の兄と気の良い郁はしばしば電話やテレビ電話で連絡を取ったが、それ以外で阿含は日本にいる連中と連絡を取ることをほとんどしない。
雲水の結婚式に出席して、笑顔を浮かべながらスピーチで笑いを取る自分に吐き気がした。二人の結婚を祝う反面、心のどこかでそれこそ自分ですら触れられない部分がひどく澱んでいる事実に気付いていた。幸せを願うと括った後、雲水の坊主頭を強く握って、双子宜しく笑いあった。郁には、雲水を泣かせでもしたらただでは済まないとくぎを刺した。
双子の兄である雲水には、それこそ生れ落ちた瞬間から自分のせいでひどい劣等感と、心無い周囲からの言葉を浴びせることとなった。生真面目すぎる兄はそれを全て受け止め、大層傷ついた。これ以上ないほどに。だから、雲水の相手として郁程の逸材はいなかった。阿含はそう思った。今でも、そう思っている。
ただ。
兄に向けられていたあの優しい瞳は、それは自分にとってもまた、優しいものだった。雲水を羨ましいと嫉みさえしたのは、後にも先にもこの一件ばかりである。
決して表面には出さない、誰にも打ち明けることのない、知られてはならないこの感情を人は何と呼ぶ。
阿含は自身を嘲笑うかのように口元を大きく歪めた。背中に感じる扉の温度はひどく冷たい。
滅多に帰国しないのは、あの暖かで優しい家族に出迎えられるのが、嬉しい反面心が凍えるからに他ならない。今寝室で間抜けに寝息をかいているあの姪が産まれてから、年端もないころに一度訪れたきりで、当時見た姪はまるで猿のようだった。
いくら女を抱いても、ものにしても、それは兄の妻の代わりにはならなかった。初恋を拗らせている自覚は十分にあったし、全くそんな自分を笑いもした。笑う以外に一体どうしようというのか。
雲水にだけは、何が何でも知られたくないこの感情を抱えて生きていくには、兄の傍らでいるのはひどく辛かった。いつかこの感情が薄れて消えていき、兄と幼馴染をただただ純粋に祝ってやれる日を待ちわびたが、待てど暮らせどそんな日はとんと来なかった。捩れた感情が受け止めきれず、器からこぼれる前に、兄の前からプロアメフト選手という名目で渡米した。
雲水も郁も、渡米前日はささやかながらもパーティーをしてくれた。頑張れと背を押す兄に、いつでも連絡していいよと微笑んだ郁に、後ろめたさを感じずにはいられなかった。
「おじさん」
思考を遮る様に響いた扉向こうの声に阿含は大きく体を震わせた。声は郁そのもので、阿含は一瞬返答を忘れる。扉がノックされ、再度声をかけられる。
「おじさん、開けて」
おじさん。
おじさんかと阿含はそうかと項垂れながら、ゆっくりと膝を伸ばしつつ立ち上がり、扉を開ける。頭一つ半分は小さい姪はきっちりと上までボタンを留めたパジャマ姿で佇んでいる。
顔を合わせてまずは一言。
「おはよう」
「…おはようじゃねーよ。てめーのオヤジは男の寝室にもぐりこむなって教えちゃくれなかったのか」
「部屋が」
ぽつんと呟かれた声に阿含は顔を顰める。
「部屋が、広かったから」
恥ずかしげに耳も頬も真っ赤に染めて俯いた少女に阿含はそれ以上小言を言う気にもなれず、あからさまな溜息を一つ吐くのを代わりに、首の後ろをかいた。
十四。
十四である。少年式も終えているが、まだ中学二年生の少女が単身アメリカに来たとなれば心細い思いもする。少なくとも自身が同年だったころは決して思わなかったことを阿含はズボンをきつく握りしめている姪を上から眺めて肩を落とす。
「寂しけりゃ、そう言え。朝起きた時に突然いたら驚くだろーが」
随分と丸くなってしまった自身を笑いながら、阿含は姪の頭を大きく一撫でした。
「他所の男には絶対するんじゃねーぞ。雲水が卒倒する」
卒倒するどころではないのは間違いない。緊急家族会議が開かれることは見て取れるように理解できた。
阿含は上半身が非常に涼しい状態のままで、姪の前に立っていることに気付き、しかし動じていない姪に関心と同時に同情を覚えた。後程雲水に連絡は入れて、如何な理由があれど男の寝室にもぐりこむ真似はさせないように忠告しておく必要がある。
世間知らずなのか、それとも親類だからという理由なのか、はたまた顔が父親に瓜二つだから安心しているのかどうなのか、原因は分からないが無防備すぎる姪に阿含は教育を施すべきだと考えてやまない。かつて、自分に何かあるごとに小言を繰り返した雲水の気分とはまさにこれだったのだろうかと、小さく堪え切れない笑いがこぼれる。
「朝ごはん、作れるよ」
「あ゛ー…」
泊めてもらっているからには手伝いくらいはと顔を上げた少女に阿含は素直に依頼しようと思ったが、そこで冷蔵庫の中には何もないことに気付く。
冷蔵庫の中に入っているのは、ミネラルウォーターとビール、ちょっとした酒のつまみくらいで、朝食に必要と思われるようなものは一切入っていない。デリバリーか外食かのどちらかで日々を過ごしている阿含にとっては、キッチンなど物置場と同等の価値しか持たなかった。
いつの間にやらパジャマから服に着替えて袖をまくりあげた状態で、臨戦態勢の姪には悪いが、阿含は外食を勧める。
「外行くか。おい、そんな顔すんな」
どうやら姪はひどく顔に出やすいようで、思わず笑いたくなるほどにがっかりした表情を見せる。眉はへの字に曲がり、口は唖然と開かれている。
郁も、顔に出やすい性質だった。
「おじさん?」
「まだおじさんって年でもねーよ」
「なら、なんて呼べばいい?」
上着を素肌に羽織ってチャックを閉めながら、サングラスをかける。純粋無垢な瞳はひどく眩しく、サングラス越しでなければ覗けそうにもない。
阿含はサングラス一つで随分と見やすくなった姪の顔に笑いかけた。
「阿含」
「阿含」
目を閉じれば、まるでそこにいるような気がした。
そうだ、と阿含は玄関を開けた。