しあわせのいろ - 1/7

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 しゃりしゃりしゃりしゃり。しゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃりしゃり。

 とーぉりゃんせとおりゃんせ、ここはどこのほそみちじゃ。てんじんさまのほそみちじゃ。ちょっととおしてくだしゃんせ。ごようのないものとおしゃせぬ。このこのななつのおいわいに、おふだをおさめにまいります。

 いぃきはよいよいかえりはこわい、こわいながらもとーぉりゃんせとおりゃんせ。

 街灯のない、真っ暗な道の中、御堂筋翔はロードバイクにつけていた懐中電灯の電池が切れ、暗闇の中で一人佇んでいた。正しくは、自転車からすっ転んで、腕に膝に、全身に擦り剥いた傷の痛みに滲んだ涙を拭っていた。

 ああ痛いと思うが、絆創膏もなければ傷薬もない。病院から家までのこの帰り道、遅い時間帯にバスが通っているはずもなく、タクシーに乗れるだけのお金の持ち合わせもなく、歩いて帰るには距離がある。怪我はあるものの、幸い自転車は壊れていない。それは触って確かめた。

「…いたぁ」

 いたいなぁ。

 しかしそれ以上に、病院で会った母の笑顔を思い出せばそんなものは軽く吹き飛んだ。

 両手にハンドルをかけ、こけていた自転車を起こす。前を見ても、暗闇ばかりで明かりは一つもない。この先は坂道だったろうか。下りか上りか。毎日往復しているにもかかわらず、灯りがないただそれだけでこんなにも心細い。

 しゃりん。

 こんな時間にこの道を通る人間はいない。御堂筋はぞぞと身を震わせ縮めた。きょろりと周囲を確認するが、灯りも人気もない。聞き間違いだったかと前を向き直ったその時だった。

「なああんた、だいじょうぶか」

「ぴ、ぎ」

 真っ暗な夜道で突如横から掛けられた声に御堂筋は小便を漏らしそうなほどに身を縮こまらせた。おばけ、そんなものはいない。のに、人気はなかった。しかし今は先の道路が明るく照らされている。

「だいじょうぶか」

 掛けられた声に御堂筋は返事をすることもできず、並びの良い上下の歯を噛みあわせ、現時点において自分の唯一の味方である自転車に身を寄せた。

「おお!怪我しとるやない!あ、ウチ、絆創膏もっとるんよ」

 相手はおばけではなく人間だったのか、自転車が立てられる音がしたあと、これ貼りいと絆創膏が差し出された。そして、有無を言わさず、怪我をした部分が染みる。慌てて腕を引っ込めようとしたが、掴まれている力は相当なもので、細い腕では対抗できない代物であった。傷薬をかけられたようだったが、それならそうと一言あってもいいものである。

 怪我した箇所に一度預かった絆創膏がぺたぺたと手際よく張られ、よし、と納得したのか、相手は立ち上がった。

「これで大丈夫や!」

「ぉ、お、おおきに」

「めっそないめっそない。なん?あんた懐中電灯きれとるやないの。うち電池の予備持っとるさかいに、な」

「え、ぇえよ」

「かまへんて。うちも自転車乗りさかい」

 そう言って、相手は御堂筋が持っていた懐中電灯を預かり、すでに使えない電池を退け、新しい電池を入れると電源を入れた。ぱ、と二つ目の灯りが灯り、周囲が照らされる。そして、御堂筋は目を見張った。

 きいろや。

 御堂筋の好奇の目に気づいたのか、相手はからりと笑い、己の短い髪の毛をつまんで見せた。抓まれた髪の毛は、鮮やかに透き通った金色であった。

「日本人やよ、うち」

 細めて笑った瞳まで、金色であった。

 それは懐中電灯の明かりのためだったのかどうなのか、御堂筋が判断し終わる前に、相手は自身が乗っていた自転車にまたがり、御堂筋に手を振る。

「ほなね」

 そして、あっという間に暗がりの中へ溶けて消えてしまった。

「…きいろや」

 御堂筋は呆然と立ち尽くし、そして思い出したように慌てて自転車に乗り、帰路を急いだ。

 相手が吹っ飛んだ。

 横から伸びた手は筋がうっすらと浮いており、鍛えられたものであった。

 突き飛ばそうと思った、正しくは本気で怒って突き倒そうと思ったが、予想以上に自分は非力で相手は軽く押されただけに終わった。と、しかし現実、相手は吹っ飛んだ。

 御堂筋はその光景をスローモーションで眺めていた。驚きで、目は見開かれていた。

 固く握りしめられた拳が自分の横から伸び、自分の絵を笑い、落書きをしたクラスメートの頬にめり込んだ。めり込んだ。体重がしっかりと乗った拳はそのまま相手を殴り飛ばし、そして自分とそう変わらない体が遅れた様に視界の端から前面に飛び出してきて、眼前で仁王立ちした。

 殴られたクラスメートは突然のことに驚きで何も反応できていなかった。それは周囲も同様で、水を打ったように静まり返っていた。

 黄色や。

 クラスメートを殴り飛ばした子供の頭は黄色であった。それは染めてあるものではないと一目で分かるほど透き通った色であった。御堂筋はその色を見た覚えはあったが、当時のことは夢か幻かのように思っていたため、現実味を帯びていなかった。

「人の」

 腹の底から幾重にも重なった声が響く。どしん、とその声は腹に落ちる。

「夢笑うヤツは最低や」

 背中しか見えない。が、それでもその背中に声をかけるには躊躇われるほどの空気が漂っており、御堂筋は伸ばしかけた手を握りなおした。

「かんにんなんぞせえへんからな!」

 そして、子供は殴り倒したクラスメートに殴りかかった。後はもうわやくちゃである。殴り殴られ、お互いに傷だらけになりながら、最終的に止めに入ったのは先生であった。

 鼻血を右手で拭い、子供は今にも噛みつかんばかりの形相で殴り倒したクラスメートを睨みつけていた。

 明るい場所で改めてみた子供の目は髪の毛同様に鮮やかな黄色であった。黄色、黄金色なのか。

 乱暴はいかん、と先生が叱っているにも関わらず、乱闘の首謀者である子供はぎらぎらとした光る目でクラスメートを睨みつける。すでに相手は半泣き状態であるというのに、一向にその闘争心は収まることはない。

 その時先生はようやく壁に貼り付けられていた御堂筋の絵に落書きがされているのに気付いた。

「あら、これどないしたの。翔くん折角上手に描かはったのに」

「ボクゥ」

 突然焦点が変わり、御堂筋は冷や汗が背筋を伝ったのを感じる。何と言えばいいのかよく分からなかった。

 お世話になっている家に迷惑をかけるわけにもいかず、しかし、自分の絵に落書きをしたことを許していいのかどうかと言われればよく分からないし、今となっては半分くらいすでにどうでもよくなっていた。周囲がヒートアップしすぎて、自分自身が冷めてしまっていた。

 鬼の子のように暴れ倒した子供は先生が来てからは何も言わない。

「うん」

 先生は先を促す様に、優しく御堂筋に話しかける。

 ボク。

 その先は、クラスメートのわめきたてるような泣き声で遮られた。わんわんわんとそれは叫ぶような声で泣く。

 あ、嘘泣きや。

 クラスメートは乱入してきた子供を指差して、突然殴りかかってきたのだ等々嘘八百を並べる。確かに、クラスメートの方が怪我の度合いはひどく、顔面に青痣がくっきりできているし、口端は切れて血は滲み、鼻血は両方から流れ落ちている。どれだけ殴ったのか、全く知れたものではない。

 先に泣きだした方が勝ちなのか、先生は眉尻を下げ、子供の方へと顔を向けた。

「しばきはったの」

「どついた」

 こっちゃ来よし、とそして先生は子供の手を引いてその場を去った。先に泣き出した方は保健室へと他の先生が連れて行った。

 そして、主役が居なくなった教室は、あっという間にその場で解散し始め、何事もなかったかのように元の静かな教室へと返り、一人また一人と教室からいなくなり、御堂筋は最後に一人取り残される。

 どないしょ。

 このまま帰宅してもいいのか、それとも沙汰を待つべきか、小さいながらも原因となった身ではどうしようかと非常に迷うところであったが、一時間ほど待ち、教室の扉があいた。

「翔くんまだおらはったの。もう帰りよし」

 先生の言葉に御堂筋は一つ頷き、机の上に置いておいたランドセルを背に掛けた。

「よろしゅう」

 そして、子供は転校生だった。

 殴り倒されたクラスメートは顔を真っ青にしていた。しかし転校生は眼中にない様子で、まっすぐにクラスを見渡し、一言。

「斎藤旭や」

 転校生はまっすぐに空いている席、ちょうど御堂筋の横の席を引っ張り座った。ランドセルを机の上に放り、そして横に座る御堂筋に笑う。髪も目も、黄色の転校生の笑顔は恐ろしいほど眩しかった。

「名前なんゆうの」

「御堂筋、翔…や」

「うち、旭」

 まるでそれは、下の名前で呼ぶことを強要しているかのようであった。相手方は当然のように翔くん、と名前で呼び始め、御堂筋は諦めて、転校生も同様に旭クン、と下の名前で呼んだ。

 転校生は一枚の折りたたまれた画用紙を差し出す。

「かんにんなぁ、上手ぁ落ちんかったんよ」

 差し出された画用紙を御堂筋は言葉の意味も理解せずに受け取る。開いてみれば、見覚えのあるソレであった。しかし、落書きは丁寧に消されており、自転車に乗った自分の姿だけが画用紙に残っているその絵に、思わず声が漏れ出る。

 教室の後ろの掲示板に展示されていた絵が一枚足りない。朝来た時には気付かなかった。

「おおきに」

 きいろやなぁ。まっきいろや。

 口元に、自然と笑みが浮かび、それを見た転校生はめっそない、とあの暗がりの坂道で会った時と同じような黄色の笑みを返した。