表現欲

 底の見えない空間に眩い煌めきを繰り返す星屑は、窓枠の乗り越えによる恐怖の一撃を食らったエミリーを見つめていた。
 見つめている、という表現はいささかおかしいが、それでも、その空間は真っ直ぐに、ただただ無言のままに向けられている。
 長い、途中で雲霧のように溶けている脚が窓枠を乗り越える。
 盤面は、三人目を荘園へ帰されてしまい、最後の一人としてハッチを探している最中であった。長らく暗号機を触っていなかったため、頭上を舞った烏によりハンターに位置がバレてしまうのは仕方のないことである。
 それを差し引いても、見事に足元に傘で飛んでこられ、驚きのあまり何かを考える暇もなく、咄嗟に窓をゆっくり乗り越えてしまい、当然の如く、仕留められてしまった。
 もし今ここに佇んでいるのが謝必安であれば、「ああエミリー、どうしてそんな愚かなことをしてしまったのですか」と哀れみと共に軽めの嫌味は言われている。
 しかし、窓枠を乗り越え、エミリーの腰に風船の紐を結えたのは、古の双星と呼ばれる白黒無常の新しい衣装である。言葉を交わしたことはないものの、エミリーもその存在については、他のサバイバーから耳にして知っていた。
 宙に浮遊した感覚と、小屋の外に見える椅子にハッチ逃げの可能性は皆無であることを察し、エミリーは投降を選択し、ゲームを終了させたようとしたが、それよりも一寸早く、床板に落とされたことで、強く尻を打ち痛みに体を丸める。
 ハンターの突然の行動に理解が及ばず、エミリーは痛みで涙目になりながら、自分を落としたハンターへと視線を向けた。
 不気味なほどの静寂が、眼前に、在った。
 膝を折り曲げ、その顔面の高さは、先ほどよりもずっと近い位置にある。
 声も音もなく、広がる漆黒と深い青、或いは様々な色を混ぜ込んでできた混沌の中にまばらに浮かぶ千々の星は、言いようのない不安と、そして緊張をエミリーに与えた。
 じっと、ただじっと見つめてくる。
 少し離れた場所から風が抜ける音がしており、それは開いた状態のハッチを示していた。もう少し回復すれば、起死回生で立ち上がることができるが、ハンターが眼前にいる状態では、すぐにダウンさせられる可能性もある。
 しかし、ハンターはエミリーの顔をまじまじと見つめるばかりで、椅子に座らせることもなければ、どこかに移動させる様子も見られない。
 その意図を汲み取ることは叶わないが、エミリーはただ黙して機会を待った。
 体を引きずり、よりハッチに近い方へと移動する。しかし、エミリーが距離を取ると、暫くその行動を見守った後、腰を上げて、一歩で距離を詰めて、再度膝を曲げる。
 何を考えているのかは、全くわからなかった。
 エミリーは箱を開けた時に見つけた、なんとも運の悪いもう一本追加の注射器を窓の外へと投げ捨てる。
 ぱりん、とガラスが割れる音がした。
 底のない空間が音のした方向へと向けられる。
 その一瞬の隙を見逃さず、エミリーは立ち上がり、ハッチへと真っ直ぐに足を前に出した。距離はあるが、范無咎の射程は短く、運が良ければハッチから脱出することも夢ではない。
 しかし、淡い希望は足元をカーペットのように敷かれた星屑の道に、あえなく絶たれる。
 前方に滑り転び、頬が地面に擦れ、裂けた肌に砂利が入り込む。襲いかかった眩暈を頭を振るって払飛ばし、一歩、進めようとしたところを、後ろから刺すようにして殴り飛ばされた。
 呼吸が止まり、再度顔面から転げる。咄嗟についた両手は小石で傷つき、赤い肉が見えてしまっている。
 こういう小さな傷が、地味に痛いのである。
 帰れば、水で砂利を洗い流し、消毒しなければいけないとエミリーはどこか人ごとのように思考を巡らせる。
 起死回生を使っていることから、もう一度立つことは叶わない。
 もし、まだ仲間が残っていれば、あと一台残った暗号機の解読が終わらせ、中直りで立ち上がるという一縷の希望も抱けたものであるが、当然仲間はすでにおらず、その望みは描くだけ不毛である。
 今度こそ投降するしかすべはない。
 エミリーは敗北を受け入れ、顔を上げた。上げようとした。
 それは、風船に括るためのそれではなかった。足首に巻き付く感覚は、ハスターの触手に近い。しかしハンターは白黒無常であって、ハスターではなく、そして協力狩りでもない。
 体の前面が足首を引っ張る力によって、擦れ、痛みが発生する。
 地面に接地している太腿、その場にとどまろうとした手の爪。
「あ」
 掴まるものなど何一つなく、前腿と腕の柔らかな部分が地面に擦れ、足の方向へと引きずられる。
 見てはいけない。
 足首に巻き付いていたものは、本数を増やし、地面を叩く。恐怖から地面を見つめている両目の端にチラチラと映るそれは、白黒無常が操れるものではない。
 言葉もなく、ただ佇む悪夢ような存在に、冷や汗が全身から吹き出す。
 地面を這う体は大小の触手で持ち上げられ、エミリーは地面を見つめていた顔をその根源へと向けることとなる。
 暗闇を眩いほどに照らす星が、そこにはあった。
「投降、する、わ」
 喉を絞って、ようやっとでた声に、エミリーは全身の力を抜いた。

 痛い。
 医師であるにもかかわらず、今回のゲームで一番負傷したのは自分である。
 エミリーは流水で皮膚の裂け目に入り込んでしまった砂利を流していく。傷口に水は染み、後に塗る消毒液はより染みる結果になることはわかりきっている。
 爪が剥がれなかったのは運がよかった。
 太腿は自室で盤に水でも張って洗い流すことにし、エミリーは水を入れるための桶に手にし、水道の蛇口を捻って、五割ほど、自分が苦もなく持てる程度の量の水を入れる。
 腹に力を入れて桶を持ち上げた。
「Ms.ダイアー」
 そこに突如、なんの前触れもなくかけられた声に、エミリーは持っていた桶を取り落とし、腿から下、当然靴もであるが、下半身が水でびしょ濡れになる。
 ガラン、と空になった桶が床に転がった。
「双星の」
「出資者、と」
 それは人を呼ぶ時の名称としては相応しくないのではないだろうかとエミリーは思いつつも、その希望に従う。
「出資者、さん」
 敬称をつけるのも奇妙なものがある。
 しかし付けないのもどこか居心地の悪さを感じ、エミリーはやむなく敬称をつけることを選択した。
「何か、ご用かしら」
「ええ。私の星について、暫くお時間をいただければ」
「私の星」
「ええ、私の星について」
 不敵に笑ったその表情の意味について、不安は残るものの、エミリーは首を縦に振った。それに満足したのか、出資者と呼ばれることを希望したハンターはエミリーの手から空の桶を取ると、なみなみの水を注ぎ入れ、その細腕からは考えられないほどの力で軽々と持つ。
 では、と出資者は微笑む。
「あなたの手当の後にでも」
 幾重にも重なる金属のような瞳は何も写してはいなかった。
 無機質な表情であれば霜寒であるが、裏のある顔は目の前に佇む出資者であることに間違いない。
 返事を待たずに先を歩き始めた男の背をエミリーは黙ってついて行く。じくじくと傷口は痛みを伴ったまま、警戒心を忘れずに刺激した。
 どうぞ、と出資者は桶を持っていない手で診察室のドアを開ける。
 紳士然としたその態度ですら、見返りを求められるような気がして、エミリーは気が引けつつも、しかし中に入らないという選択肢はなく、言われるがままに室内へと足を踏み入れる。
 エミリーは大きめの盥を床に置き、出資者から水の入った桶を預ると、靴と靴下を脱いで盥の中に入れ、スカートをたくし上げた。凹凸のある地面を自重がかかる状態で引きずられた腿は痛々しいほどに擦れ、血が滲んでいる。
 桶の水を手近にあったビーカーに汲み取り、上からかけつつ、傷口を洗い流す。
 右脚が終われば左脚を。両脚の傷口を綺麗に洗い流し終えると、清潔なガーゼで傷口付近の水を押すようにして拭いとる。
 エミリーは慣れた手つきで、準備していたピンセットに脱脂綿を挟み、消毒液を染み込ませると、脚、手の平などの傷口を優しく叩きながら、手当していく。
 金属の接触する音が、双方黙ったままの静かな診察室に響いた。
 最後に膝の擦過傷に消毒液を塗り、エミリーはピンセットをトレーへと戻す。血が染みた脱脂綿は膿盆に積まれていた。
 足を残った桶の水で洗って、柔らかなタオルで拭き、裸足でスリッパに足を通す。
「申し訳ないのだけど、着替えをしたいから、そちらのパーテーションを引いてくださる」
「これは気が利かずに。ええ。こちらでよろしいですか」
「感謝します」
 エミリーは言葉で謝辞を述べると、転んだせいで泥に汚れた服を脱ぎ、診察室に置いていた簡易のワンピースに袖を通す。
 贅沢を言うならば、自室に戻ってシャワーを浴び、着替えまでしたいところであるが、訪問客を優先することにする。
 そう思考を巡らせながら袖を通していたエミリーに、パーテーション越しに声がかけられた。
「包帯は必要ないのですか」
 よく見ている。
 しかし、エミリーはええ、と否定した。
「出血はもう止まっていましたから。後は自然治癒に任せます」
「軽傷では治らないと言うのは、いささか不便ですね」
「重症であれば、ゲーム終了後に治っていると言うのも人智の及ばざる光景で不気味ではあります」
「映画であれば、駄作も駄作」
「そうですか」
「そうですね。治ると思っていたものが治らなかったという、ありきたりな展開になるのではと推測がつきます。或いは、それら全てが、幻覚であったとか」
 夢幻であっては困る。
 エミリーは最後の言葉は飲み込み、ワンピースの皺を払ってからパーテーションを引いた。視線の先には、デスクに軽く腰掛けている出資者がいる。
「お待たせいたしました」
「レディを待つ時間というのも悪くありませんでした。それで、私の星についてですが」
 時間が惜しいとばかりに、本題に入る男にエミリーは椅子を引いて腰掛ける。
 その前に、と質問した。
「失礼ですが、その、あなたの星、というのは一体なんでしょうか。あなたの故郷、という意味ですか」
 エミリーの返答に、出資者はその目を大きく見開き、そして手を大きく一つ叩いて、おかしげに笑った。
「いいえ。私の星とは、私の唯一無二のことです。あなたにその怪我を負わせた張本人ですよ。記憶に新しいでしょう」
 出資者の返答で、エミリーは男が告げる星が、双星のもう一つの星であることを察する。ゲーム中、最後に見たのは、底のない空間に煌めく星空である。
「わかりました。しかしそれならば、ご本人に来ていただくのが一番だと思うのですが。あなた方は東風遙のように同時に存在することはできるのでしょうか」
「ええ、それは。ただ、私の星は今少々しょげておりまして。代わりに私が」
 向けられた言葉には心なしか敵意が垣間見えたが、エミリーはそれをぐっと飲み込む。
「それで、范無、んん、あなたの星について、何をお話しになりたいのでしょう」
「足首は折れていませんか」
「は」
 先程まで范無咎の話をしていたのではないかと、エミリーは唐突に切り替わった話についていけず、思わず間抜けな声を出した。
 しかし、気を取り直し、質問の意図を問う。
「足首、とは」
「私の星が、掴んだその足首は、ご無事ですか」
 そこまで問われ、エミリーは質問の意図を察する。
 軽症であれば治らない。骨折など、ゲームに支障があるような怪我はゲーム終了後に治る。
 出資者が問いたいのは、つまり、ゲーム中に絡まれた触手によって、足首を骨折したかどうかということである。しかし、この問いがどういう意味を持つのかまでは、エミリーは理解することができなかった。
「右足首に骨折はありませんでした」
 その返答に、出資者は別人かと思うほどに表情を明るくして、立てかけていた傘を手に取ると、声を弾ませる。
「私の星、聞きましたか。あなたの努力が実りましたよ。流石は私の星。ですからどうか輝きを取り戻してください。陰るあなたを見るたびに、私の心は悲しみで引き裂かれてしまいます」
 持って回ったような言い方だが、それは衣装の特質故だろうかとエミリーは一人思う。
 私の星、と出資者は繰り返す。
 そして、その繰り返された言葉の続きは、エミリーにとって、十分に衝撃的なものであった。
「私の言うとおり、練習あるのみだったでしょう。沢山沢山、人形を壊しましたからね。ゲーム中で、少々生身の人間でも練習しましたし、不安になることはないとあれほど言ったではありませんか。ですが練習したのはあなたですし、素晴らしいのはあなたですとも私の星」
「あの」
「なんです。私は今、私の尊く美しい星と話をしているのですが」
 咄嗟に出た問いかけに対し、先刻までの態度はどこへやら、ひどく煩わしげに出資者は答えた。
 エミリーは、聞き捨てならなかった言葉を拾い上げ、口にする。
「生身の人間でも練習したと、聞こえたの、ですが」
 骨折は、ゲームが終われば治る。
 出資者はことも投げに、今日の天気を告げるように歌った。
「ええ。やはり、何事も段階を踏まねばなりませんから。あなたを壊してしまって、私の星が陰るなど、そのようなことは私としても耐え難い。それに、最初に生身の人間で挑戦して、内臓が出ては汚いでしょう。グロテスクな要素も時にアクセントとしては必要ですが、私の星にはふさわしくないと思いませんか」
 つらつらと末恐ろしいことを言う男に、エミリーは言葉を失った。
 それを知った上で、出資者は微笑む。
「最初は何人か折ってしましましたが、安心してください。壊してはいませんよ。そのために、まず人形で練習したのです」
 そう言う問題ではない。
 しかし、そう告げようとした言葉は飲み込んだ。白黒無常は、正しくは、白黒無常の白無常は、そう言う性質を持っているものもいる。
 謝必安などまさにその最たる男である。
 他を犠牲にしてでも、范無咎という存在を肯定する男なのである。そこに善悪など存在しない。
 問題は解決したとばかりに、出資者は立ち上がった。恭しく、愛おしげに傘を撫でていた。
「私の星が、他の私たちが気に入っているあなたを気にしていまして。次にお会いする時は、ゲーム中でなくとも問題なさそうですね」
「失礼ですが、力加減を誤ったら、それは、」
 ゲーム中に負った、重傷は、治る。
 ゲーム中でなければ、当然それは言うまでもない。
 エミリーは背筋に冷たい汗が一筋流れるのを感じた。惑星の金が、ゆっくりと歪む。
「ゲーム中でも、何回か練習いたしましょう」
 傘の音と共に、ただ一人診察に残される。緊張が解け、全身から冷や汗が吹き出た。
 白黒無常の試合は、しばらく棄権した方がいいのかもしれない。
 脱脂綿に染み込んだ分の血液では到底足りない量が、ゲームの地面に染み込むことを想像し、エミリーはブルリと体を震わせた。