ねらう

 珍しいこともあるものだ。
 エミリーはよく知るハンターが名を連ねる、未だ誰一人負傷していない協力狩りでそう思った。
 サバイバーのチェイスが上手い、というわけではなく、単純にハンターが攻撃をしていないだけである。アイテムを購入できる電話機の下に列ができ、各々が楽しげに溜まったポイントと交換している様子は平穏という他ない。
 ハンターが側の単なる気まぐれでしかない、穏やかなゲームは只今このひと時だけで、彼らの気が変われば目も当てれない。
 エミリーの視界の端では、いくつもの足を有したハンター、ハスターが触手をそこかしこに生やしながら、触手の原生林を作っている光景が広がっている。その周りでは他の仲間が地面を凍らせたり、煙玉を投げたりと楽しげに遊んでいた。神は気まぐれである。
 協力狩りのハンターは二人であり、ハスターの他にもう一人いる。だからこそ、エミリーは暗号機を大人しく解読していた。あの男の気まぐれは他に類を見ないほどである。
 最初にその姿を視界に捉えたのは、傘を広げて蛍が舞う池で優雅に踊る女の姿を眺めているところだった。
 直近で捉えた姿は、井戸の木枠に座る丸い白猫の顎を手慰みとばかりに撫でているところで、しかしそれについては言及しない方が利口そうなので、エミリーは遠巻きにその姿を眺めて距離を取った。猫に近寄るサバイバーに珍しく攻撃を仕掛けず、言葉を交わすその姿は異様でしかなく、身震いすら覚えた。特に、その姿が白に金梅を散らしているものだから、余計に違和感があった。
「エミリー」
「エマ」
 無心に暗号機を解読しているその背中に、親しげに声がかけられる。
 愛らしい笑みをその顔にいっぱいに浮かべて片腕をとったエマに、エミリーは解読の手を止めた。
「エミリーもあっちで一緒に遊ぼう。カヴィンさんに縄で担いでもらうの楽しいから!」
「担いでもらったの?」
「うん!ふわってなってひょいって!すごかったの!」
「エマ、あなたが楽しいならとても嬉しいわ。私はこの暗号機を解読してから」
 そこまで告げたところで、ガラスが割れる音が響き、足元と暗号機に墨が付着する。
 何を投げつけられたかは承知するところで、エミリーは誰が投げたかを確かめるために顔をエマからガラス瓶が飛んできた方向へと向ける。視線の先には鮮やかな金色の癖っ毛が跳ねた。
「せんせーごめんね!暗号機もその調子だし、一緒に遊ぼうよ!」
「マイク」
「解読してるの先生だけだよ、ほらほら。エマも誘ってるんだからさ」
 あそぼ、と軽い調子の声にエミリーは肩を落として首を横に振った。つれないその態度にマイクは頬を風船のように膨らませ、不満をその顔いっぱいに滲ませる。間伸びした声は何よりもその内情を明確に表していた。
 エミリーはマイクの説得のために口を開きかけたが、その時、マイクの腕にある見慣れない色、赤みの強い琥珀の液体が入っている小瓶に気付く。
「それは何。サバイバー側のアイテムでもないし、購入できるものでもないと思うけど」
「これ?電話機の下に落ちてたやつ。ボクらが買えるアイテムじゃないし、もしかしたらハンターのアイテムかも。でもどっちにしたって、害があるものじゃないと思うよっと!」
 不満げな顔がまるで悪戯っ子のような色を一気に帯びて、手に持っていた小瓶が宙を舞う。ガラスの小瓶はそれぞれの面と内容物の液体に光を通しながら反射させ、くるりくるりと放物線を描きながら回転し続ける。
 エミリーは視線でその放物線を追いながら、終着点に何があるのか、誰がいるのかを確認した瞬間、悲鳴にも似た声音で名前を叫んだ。
 そもそもマイクが持っていたアイテムがハンターが購入できる商品であるかどうかなど未確認であるし、仮にそうであったとしてもそれがサバイバーの体に無害であるなどとは到底言い切れるはずもない。
 伸ばした指先に細く華奢な肩が触れる。かき抱くようにエミリーは腕の中にその体を包み込み、その勢いに丁寧に編まれた麦わら帽子が空気にさらわれる。
 液体を内包したガラスは想像以上に薄かったようで、後頭部に当たると同時に割れ内容物を散らした。さらけ出されたうなじに液体は溢れ、余ったそれは背筋を伝い落ちる。ぞぞと肌が粟立ちを覚え、エミリーは腕に抱え込んだ華奢な体をきつく抱きしめた。
 一度強めた腕の力を緩め、エミリーはエマの無事を確かめる。幸い、エマには一滴たりともかかっていないようで、エミリーはほっと胸を安堵で撫で下ろした。
「ああ、よかった。エマ。無事ね。マイクさん」
「ちょっと」
 エミリーがマイクを嗜めようと険のある声で呼びかけたが、それを上から押しつぶすように、低い、重い声がエミリーの腕の中で響く。
 マイクは発され音に本能的に全身を大きく震わせ、恐る恐る警戒心を抱かせる元凶へと視線を向ける。向けた後、すぐに己の行動を後悔する。見なければよかった。光の差さない薄暗い瞳が、マイクのあ明るい瞳を一瞬で飲み込む。
「エミリーに、何するの」
「あの、エマ」
 無垢で無邪気な存在とは到底思えないほどの怒気を孕んだ声音に、エミリーは聞き間違いかと疑いながら声をかける。しかし、声をかけた瞬間にその気配は消え去り、エミリーの目の前にいるのは、普段の明るく穏やかで可愛らしい存在へと切り替わる。
 エマは大きな瞳を細め、愛らしげに微笑むとエミリーの手を取る。
「エミリー、大丈夫?私、少しマイクさんとお話があるからちょっと外すけど、何かあったらすぐにエマを呼んでね」
「え、ええ」
「ありがとう。さ、マイクさん、エマと大事なお話しましょうなの」
「いや、ボクは、いいよ。みんなのところに戻ろうか、な」
 踵を返したマイクはその腕を万力の力で掴まれ、身動きが取れなくなる。花を愛する少女は、庭園や花壇の手入れを欠かさない。土も水も、人の想像よりも重労働で一見細い手には青筋が浮いていた。
 ね、とエマは微笑む。
 逃げられないことを悟ったマイクは、胸の内でかけらも信じていない神に十字を切った。

 二人が視界から消え、エミリーは暗号機の解読へと戻る。
 一歩足を前へと出すと同時に、たたらを踏み、その場に尻餅をつく。一瞬何が起こったのか、エミリーは理解できなかったが、すぐにそれが平衡感覚が狂っていることが原因であることを知る。立ち上がろうと、近場の箱に手を伸ばすが、力を込めて立ち上がっても上下左右の感覚がなくなり、無重力の空間に放り出されたかのような錯覚に陥る。踏み出した足が本当に前へと進んでいるのかどうかすら分からなかった。右に伸ばしたはずの手がまるで左に伸びているかのような、あるいは上下に伸びているかのような感覚に襲われる。
 どうにか起立したところで、地面に足がついている感覚はなく、逆立ちでゆらめいている不安定さに吐き気が込み上げる。
 マイクが投げた液体は口には入っていない。故に経口摂取はしてない。考えられる可能性は経皮摂取である。うなじから背に流れた液体の感覚は覚えており、もっとも可能性が高い。
 エミリーは強い眩暈に抗いながら、どうにかして立ちあがろうと試みるが、靴底が地面に触れる感触は雲よりも不安定で、すぐにバランスを崩して膝をつく。それどころか、まともに座っていることもままならず、体はうつ伏せに倒れ込む。意識を保ったままの指だけが木箱を引っ掻く。
 マイクにはエマから注意したとはいえど、後できっちり薬品の危険性についてこんこんと説明をする必要がある。
 次にじわりと炙るような熱に力の入らない体は苛み始める。じりじりと焦げるような熱は次第に焼け付くような熱へと温度を上げていき、呼気を吐き出す気管すらも焼いていく。タンパク質が変質してしまうのではないかと震えるほどに、全身が熱い。
「は、ぁ」
 大丈夫、とエミリーは自らで恐怖を打ち払う。
 ゲーム中における、命に関わるような重度の負傷は荘園へと戻れば全てなくなる。ただ、と不安が躙り寄る。毒などの症状を受けたサバイバーはおらず、それはどうなるのかわからない。そもそも、マイクが投げた瓶に入っていた物が、なんであるのかすら分からない。
 怖い。
 体を内側から焦がすような熱の渦の中で、純然たる恐怖のみが残る。指先は薬液の影響からか小刻みに震え、呼吸のために開けられた口端からは涎が垂れる。焼けるような熱の正体を、うっすらとエミリーは恐怖の中で記憶していた。
 二度ほど、この熱には覚えがある。その時ほどに強烈なものではなかったが、自身が普段ゲームで使用する注射器の薬液を健康状態の時に鎮魂歌に打たれた時に。そして、ウィラの部屋で香水の原液を誤って浴びた時である。双方ともに興奮作用があった。身体的にも、精神的にも。
 マイクの発言がもしも的を得ていたのであれば、ハンターの使用する薬剤であるならば、この症状も納得できた。どのような種類の薬があるかどうかをエミリーは知らないが、しかしあのハンターの能力を引き伸ばす薬なのだから、サバイバーにとっては毒である可能性は十分にある。
「う、ぅ」
 ちかちかと視界が明滅を始める。
 意識がまともに残っていればいいが、あの時のようなはしたない姿を少なくともゲームの中で晒すのはエミリーとしても避けたかった。発情期の猫のよう無様な様を仲間に、特にエマに見せたいとは断固として思わない。しかし、逃げるだけの術はなく、ただその場に倒れているしかエミリーにはできない。暗号機に触らずに長時間いたことから、烏が耳障りな鳴き声を上げながら宙を舞い始める。
 せめて自制できるだけの意識が残る程度の効力であれば、と請い願うばかりである。
 ど、とその時にハンターの接近を知らせる心音が強くなる。ハンターの周りにはサバイバーが集まっている。まともな意識が残っている間に仲間に見つけてもらえれば、それは最良の結果とも呼べる。しかし、エミリーの懸案事項はもう一つ残されていた。
 それは射干玉の髪を持つ性格破綻者の偉丈夫である。
 お願い、とエミリーは冷たい地面に顔の半分をつけたまま、切に願った。
「うん、どうした」
 そして、当たりを引いた。
 一気に体の力が抜ける。宙を舞っていた烏が飛び去った。
「虎」
 視線の先に、黒染めに金梅を落とし込んだ絹と小豆色のズボンが映る。膝をついて確認をしているのか、銀糸が投げ出されたエミリーの手の甲に落ちた。
 錫色の大きな手が、エミリーの口元に添えられ呼吸を確かめる。小刻みに乱れているとはいえ、息をしていることを確かめたハンターはエミリーの上半身を起こして、体を傍の木箱にもたれ掛けさせる。
 視線をうまく合わせることはできなかったが、エミリーは落ち着いた、重低音の声が誰のものであるかを知っていた。
「ぁ、ん、范、将ぅん」
 舌の根本にまで痺れがきており、うまく発音ができていない。范将軍はペチペチと二、三度軽くエミリーの頬を叩くが、反応は鈍い。
 范将軍はエミリーの衣服に守られていない箇所に手を這わせ傷等がないかを確かめ、服についても破れがないかどうかを見る。傷の一つも見逃さないように、指先まで神経を手中させながら、熱いと感じるほどの熱を帯びた柔らかな皮膚の上を掌が滑る。
 悩ましげに寄せられた眉根に、熱っぽい吐息、不規則に震える小さな体は食べ頃を示すかのようで、范将軍は腹の中でバレぬように舌舐めずりをする。
 症状から、毒による体調不良を疑ったが、矢傷や刀傷がないことから、傷口からのものではないことに首を傾げる。いくらなんでも試合中に毒を煽る人間はいない。
 エミリーの不調の原因に小首をひねった范将軍の視界の端にチカリと光を反射したガラスの破片が映る。それを摘み、破片に付着していた溶液を見ることで、ああ、と范将軍は納得の声をあげた。
「強壮剤か。虎よ、これは我々の道具であって、お前たちのものではないぞ。飲んだのか」
「ん、で、ない…か、かっぇ」
「そうか。我々にとっては有益なものであっても、お前たちにとっては劇物のようだな」
 弱々しく首を横に振るったのを見て、范将軍はそう告げつつ甲冑を外し、墨染めの衣を脱ぐ。外した甲冑は側にあった木箱の上に揃えて置いた。
 エミリーはぼんやりとその光景を眺めつつ、喉を焼く浅い呼吸をどうにかして整えようと試みる。脳みそまで沸騰した熱湯に浸されている錯覚に囚われる中で、体が前方に傾いだのを感じた。額が厚みのある胸に落ちる。
 范将軍はエミリーの体を、その火照った皮膚が視線に触れないよう、黒絹で頭の先から爪先まで包み込むと手慣れた動作で抱き上げた。
 不安定な浮遊感をエミリーは味わうが、もはやそれに何か反応を返せるほどの気力は残されていなかった。平衡感覚が狂った中で、腕の中にすっぽり収められている事実だけがエミリーを安堵させる。人の目につかないように、全身を布で覆われていることも気持ちを落ち着かせた。
 抱えている小さな生き物に振動を与えないように上下の動きを極力減らしながら、范将軍は目的地までゆっくりと歩く。抱えたまま傘で移動してもよかったが、そうすると移動先にいるのは謝将軍である。
 代わってもいい。
 可愛い義弟のためにそうも思ったが、しかしそうすると頭から足の先まで食われる未来はほぼ確定である。恩は売るにこしたことはない。
 羽虫のようにハスターの周りに群がるサバイバーの姿を認め、范将軍は目的の人物へと声をかけた。
「王よ」
 呼びかけに応え、底抜けの闇の中に浮かぶ眼球のうちいくつかが范将軍へと向けられる。
 畏怖すら覚えるその人外の佇まいは、しかし周りで戯れるサバイバーの姿のために、威厳はいくらばかりか減って見えた。
「人の子らとの戯れは飽きたか」
「王の遊びに付き合うのも悪くはないが、生憎俺はいつもの鬼事の方が好きだ」
「ならば今から再開するも吝かではない」
 物騒な会話に周りで呑気な顔で遊んでいたサバイバーの顔が引き攣るのを、視界の端で見つつ、しかし范将軍はいやと首を横に振った。
「その提案ではない。なに、俺の虎が調子を崩してな。悪いが、この遊びを終わらせたい」
 范将軍の提案にハスターの視線が、黒衣に包まれた状態で腕に抱えられた小さな塊へと向けられる。一度動いた視線は、ゆっくりと提案をした范将軍へと戻された。
「許す」
 ハスターの言葉に対し、重畳、と短く返した声をエミリーはすっかり虚になった頭で聞いていた。

 じっとりと肌に浮いた汗が気持ち悪い。
 エミリーは不快感と体の芯からこぼれ落ちる熱に小さく呻いた。揺れる感覚すら脳みそをそのまま揺さぶられるようで、正常な思考を奪われる。
 視界を頭まで被せられた布で覆われた状態で、音や振動ばかりが過敏に取り込まれる感覚ばかりが鋭い。柔らかなマットレスに沈む感覚と、そして慣れ親しんだベッドの香が、エミリーのぼやけた輪郭を少しばかり明確に戻した。
「靴は脱がすか」
 反応の薄いエミリーの同意を取ることは諦め、范将軍は横たわらせた体から放られた足から靴と靴下脱がす。手のひらの大きさ程しかない小さな足。踵に親指の腹をかけ、伸ばした先の人差し指では長さが余りすぎる。
 小さい、と范将軍は口角を緩く持ち上げて微笑んだ。
 もっとも、その小さな体はすっかり白黒無常に馴染んでいるのだから、馴れとは恐ろしいものである。
 脱がした靴と靴下をベッド下に揃えると、かけ布を剥いで将軍はエエミリーをベッドの中央へと移動させた。熱を帯びた瞳は繰り返される浅い呼吸はベッドの上で見ると誘っているようにしか見えない。
 范将軍は慣れた手つきでエミリーの青のケープを外すと、上まで閉められたボタンを一つ二つ外す。その手に平温よりもずっと高い指が震えながらかけられた。
「ぁ、め」
 熱に浮かされ、潤んだ瞳で言うものではない。
 しかし、范将軍は薄い笑みをその口元に刷くと、虎、とまだ自制心をかろうじて保っているエミリーへとゆっくり語りかける。
「お前が望むならば、お前を苛む熱を鎮める手伝いをしてやるが。どうする」
 外したボタンの隙間から覗く火照った皮膚に人差し指を這わせ、軽く、未だ閉められたままの服の合わせを下へと引く。
 エミリーは現状においては最も甘美な囁きに心臓を震わせる。揺れる頭ではまともな思考は望めないが、しかしエミリーは甘く痺れる舌をどうにか動かして、それに返事をした。
「しゃ、ぁ、ぐ、か、ぁ、らない、で」
「なんだ」
 麻痺のために舌ったらずな発言は一度では聞き取れず、范将軍は再度聞き返す。エミリーは煽るような熱に呻きながら、かち、と歯を噛み合わせて同じ言葉を紡いだ。嫌がらせで聞き取れないふりをするような男ではないことは、知っている。
 渇きに餓えた喉を唾液で湿らせ、范将軍は震え動く唇へと、発された言葉を聞き逃さないよう耳を寄せた。
「謝将軍、に、代わら、ない、で」
 ぱちり。
 范将軍はエミリーの言葉に目を丸く大きくして瞬く。ゆっくりと頭の中で紡がれた言葉の意味を咀嚼しつつ、体を起こしその言葉をぎりぎりの淵に立って紡いだ女の顔を見下ろす。
 そして、大笑いした。
 空気を揺らすほどの笑い声が部屋中に充満する。何がおかしいのかと申し立てる気力も余力もなく、エミリーは燻り続ける熱をどうにかやり過ごしながら、肩を揺らして笑い続ける男の声をどこか遠くで聞いていた。
 ひとしきり笑い、しかしまた笑いが込み上げてきたのか、范将軍は腹を抱えてヒイヒイと声を上げながら、ベッドを叩く。
 はあ、とどうにか笑いを収めると、苦しげに啼くエミリーを上から見下ろして范将軍は、エミリーの願いを聞き届ける言葉を告げた。
「お前が、そう、望むならば」
「ぁり、あ、と」
「しかし、そうまで厭う必要もあるまい。いつぞやも言ったが、あれは可愛い義弟だ。あまり穿った目で見てくれるな。ああ見えて繊細で多少ではあるが傷つきやすい」
 正常な思考が働いている時であれば、一体誰の話をしているのだと呆れた顔で苦言を呈したいところであったが、今のエミリーにそれをできるだけの思考能力は残されておらず、しかし小さく首を振る程度の否定の意は示すことができた。
 范将軍はエミリーのそんな仕草に喉を鳴らし、楽しげな表情で眺める。
「それに連れんことばかり言うと、首輪の前に檻に入れられても知らんぞ。流石に俺もそこまでは責任が持てん」
 背骨を立たせ距離を置き、穏やかな口調でそう笑いつつ、范将軍はエミリーの火照った頬を指の背で産毛を摩るようにして触れ、広い手のひらで丸みのある頬を包み込む。常人よりも低い体温は熱を帯びた体には心地よく、エミリーは疼く熱から逃げるように目を閉じてその冷たさに全身の力を抜く。
 警戒心を解いて瞼を閉じた姿に、范将軍は熱を解く手伝いを求められていないことを知り、頬から首の頸動脈の辺りを冷たい手で冷やす。親指と人差し指だけで一周できてしまいそうなほどにその首は細い。或いは手が大きい。
「高くつくぞ」
 やれ、と范将軍はしかし嬉しげに傍に腰掛けたまま囁いた。

 汗でぐっしょり濡れてしまった服は不快でしかない。
 エミリーはすっかり冷えた体を起こして、頭を下げた。頭を下げた先には、黒衣の男がベッドに腰掛けたまま微笑を浮かべている。
「ご、ごめんなさい。あと、それからとても助かったわ。ありがとう」
「生殺しと言うのは、あまり望ましくないな」
「あなたが?冗談が上手ね」
 突然の范将軍の発言に、エミリーは口元に手を添えて笑う。しかし、范将軍は組んだ足の上に嘆息をこぼしながら肘をつく。
「虎よ。お前は俺が朴念仁か修行僧かと思っているのか?或いは宦官か。俺は男で当然についているべきものはついているんだが」
「そ、れは、そうだろうけど。でも」
 その言葉にしどろもどろになる姿に満足したかのように、范将軍は肩を揺らして軽く笑う。冗談を言われていたのだとエミリーは口をへの字に曲げ、子供のように頬を膨らませた。その隣で、ベッドが軋み、男性一人分の体重が退く。
「からかうのはよして。本当にしんどかったのだから」
「揶揄う、か。まあそうだな」
 うん。
 うん、と范将軍は一人納得したように頷きを繰り返した。エミリーはその仕草の意図がわからないまま、怪訝そうに眉根を寄せる。
 銀糸が揺らめき、その合間に白金が溶けた。
「揶揄で済ませていいるうちに、存分に笑っておくがいい」
 覗く色は獲物を捕らえた猛禽類のそれで、エミリーは思わず自身の喉を手のひらで押し隠す。
 本能的にされた仕草に范将軍は満足げに笑みを深めると、ははと一つ笑って傘で部屋を出ることなく、ドアノブを回して部屋から出ていった。