寒気

 鳥肌が立つような冷気が足元を這う。
 エミリーは寒気から体を震わせ、腕をさする。視線を滑らせれば、開いた窓から流れ込む風でカーテンが持ち上がっていた。夜の風は冷たい。そのせいだろうかとエミリーは思いつつ、開いたままになっていた窓を閉め、鍵を落とした。
 しかし、部屋に入り込んだであろう冷気は変わらず体温を奪う。
「うう」
 寒い。
 ポットに入れていた紅茶はティーコージーを被せていたにも関わらず、すっかり冷めてしまっていた。半分ほど残っているが、冷えてしまった体でこの冷たい紅茶を飲む気にもなれずに小さなため息をこぼす。
 冷えたままで眠るのは望ましいことでもないことから、エミリーは余った紅茶で蜂蜜をたっぷり入れたミルクティーを作ることにし、トレーの上にカップとポットを乗せる。
 そして、ドアノブに手をかけ、その余りの冷たさに思わず手を離した。
 自分の手が冷たいのか、ドアノブが冷たいかなど、一瞬思考を巡らせるが、恐る恐るドアノブに再度手を伸ばし、ドアノブの方が冷たいことを確認する。まるで、極寒の地の玄関ドアノブのようである。指先に息を吹きかけて温めた。
 エミリーはそっと手のひらをドア自体につけてみると、木製のドアもかなり冷えてしまっている。ドアノブは真鍮製だからか、より冷たさが際立ったようだった。肩にかけていたストールを一枚噛ませてからドアノブを回し開ければ、その先には何もなかった。氷もなければ雪もない。室内なのだから、それは当然である。しかし、廊下は室内などよりもずっと冷えていた。体の芯まで凍えるような寒さに震えが足元から頭のてっぺんまで走る。
 室温と見合わないドアの温度に首を傾げるが、原因は分からなかった。

「そりゃ先生、幽霊じゃねえのか」
 からりと笑った、荘園の客のうちでもっともその類を信じていなさそうな男が朝食を口に詰め込みながらそう告げる。当然、エミリーも幽霊などという非科学的なものは信じていない。ナワーブとのこの会話は互いに信じていない者同士のそれであるから、会話における些細な話題である。
 エミリーは白い平皿の上に乗せられた葡萄の皮を剥きながら口に放り込んだ。
「美智子と怪談で盛り上がったと聞いたようだけど、まだその余韻が残っているかしら」
 数日前、深夜の時間帯にサバイバーとハンターから希望者で怪談会を行ったという情報は小耳に挟んでいたことから、エミリーはそれを告げながら返答する。余程美智子の語りが上手かったのか、深夜の時間帯に、それこそ幽霊の存在などかけらも信じていなさそうなトレイシーが半泣きになりながら、一緒にトイレへついてきてほしいと頼みにきたくらいである。ちなみに、その後にロビーが枕を抱えて部屋を訪れたのは記憶に新しい。
 幽霊どころか魂を相手に仕事をしている謝必安と范無咎は怪談話には参加していなかったようだったが、翌朝ロビーがベッドに寝ていたことに対し年甲斐もなく憤慨し、「私も幽霊が怖いので一緒に寝ましょう」と肝心の対象の対処をする側の言葉ではないことを言いながら、ベッドに入り込んできた。
 大体実体のない幽霊などよりも、生きている人間の方が余程恐ろしい。
 話をしている相手はそれを何より知っていそうな男である。
「幽霊がいると室温が下がるらしいから、あー先生、やっぱ幽霊だ。先生の部屋に幽霊が来たんだ」
「思ってもいないことを言うの、割と上手ね」
「まあね」
「褒めてないわ。私を怖がらせたいなら、悪魔でも呼んでちょうだい。十字を切って、聖水を振り撒いてあげるから」
「参った参った。まあでも、人ならざるものがいる場所は温度が低くなるってのはなかなか面白い話じゃねえの」
「そんなことを言ったら、この荘園はずっと氷点下よ」
 エミリーは揶揄いながらそう言ったナワーブの皿の上に食べきれなかった葡萄を乗せて、小さく笑った。増えた食事をナワーブは摘み上げ、そりゃそうだと肩を軽く上げて見せた。

 そして。
 そして、エミリーは頭を抱えていた。
 続くはずがないと思っていた不可思議な現象は、数日に一度起こり、エミリーの頭を悩ませた。足元から這ってくるような冷気に、少々冷え症気味の体はすぐに冷え、必要もない足元の防寒具を手に届く場所に置くようになってしまった。
 一度范無咎に相談したこともあったが、謝必安と范無咎が部屋にいる時には、その現象は起こらないので、原因を一緒に確かめようがない。
 范無咎曰く、そういった類のものは付近にいないとのことであったが、しかし肝心の現象が起きていない以上、なんとも言えないところがある。
 何らかの弊害があるわけではない。危害を加えられることもない。弊害、と呼べるものではないが、底冷えするような寒さが嫌なことと、気になって外や廊下を確かめてしまうことに時間を割いてしまうことである。
「そろそろナイチンゲールに相談したほうがいいのかしら」
 まだ温かい紅茶に口をつけながら、エミリーは嘆息する。
 原因不明というのが兎角気味が悪い。原因がなければ結果に結びつかないのだから、何らかの原因は必ずあるはずなのだが、しかしそれが分からない。ただただ悩ましい。
「あら」
 エミリーは伸ばした指先に茶菓子が触れないのに気づき、声を上げた。どうやら、キッチンに茶菓子を乗せた皿ごと忘れてしまったようである。取りに行くのは面倒でもあったが、どちらにせよ小腹は空いているので、選択肢は一つしかない。
 椅子を後ろに押し下げ、エミリーは立ち上がるとショールを肩に軽く羽織る。ドアへと向かい歩き、そして、そのノブに触れた瞬間、内側から冷えていく感触に思わず手を放しかけ、しかし思いとどまりドアノブを勢いよく捻り扉を押し開けた。
 室内の明るさが廊下の暗がりを照らす。明と暗のあい中で、ガラスのような粒が舞い室内の光を美しく散らす。
 ガラスと思ったが、それは自身の勘違いであったことを、エミリーはすぐに悟る。吐き出した息はすぐに白煙に変わる。一歩踏み出した廊下は驚くほどに冷えていた。そして、視界の先でまず最初に目についたのは、エミリーがよく知るハンターの持ち物である。
 黄銅色の持ち手に白貼の傘。
 その傘を持っているのは、その肌を氷に覆われた長身痩躯の男であった。白を基調としたロングコートに浅いハット。氷結に覆われた面よりも目につくのは、心臓の位置で機械音を響かせる無機質かつ、しかし美しい冷気を発する機械その存在である。
 眼前の男がハンターであり、そして白黒無常であることは、エミリーにはすぐにわかった。次に気をつけるべきなのが、その在り方が自らに危害を加える存在であるか否かである。
「失礼、しました」
 一つ、言葉を発するたびに、周辺の空気が氷の粒となって床に落ちる。
 エミリーの質問を待つまでもなく、白黒無常は氷を生み出す。
「私は霜寒と言います」
「え、ええ。初め、まして」
「初めまして」
 調子を狂わされながら、エミリーは肌を突き刺すような寒さを忘れ、名乗りに挨拶を返す。しかし会話が続かず、気まずい沈黙が二人の間に落ちる。
 寒さの原因がわかれば文句の一つでも言ってやろうと思っていたエミリーは、しかし、礼儀正しく静謐に佇む男の姿に言葉を紡げないままでいる。何らかの悪意を伴っての行動でないことは、雰囲気からも明らかであったし、その物静かな表情に文句を言う気は綺麗さっぱり消え失せてしまった。
 このまま扉の前に立たれていても困るので、エミリーはいつものように、悪いことをして気まずそうに佇む謝必安の姿を思い出し、小さく微笑んで横に落とされた腕に手を伸ばす。怒っていないわ、と仲直りの言葉が部屋に招き入れる合図である。
 しかし、伸ばした手が触れる前に、服が張る音を立てる程の勢いで離された。肩より上へと持ち上げられた手に、当然エミリーが触れることはできない。
 突然の行動に驚き、エミリーは目を大きく見開き、パチパチと瞼を動かす。表情豊かなエミリーとは対照的に、扉の下に佇む男の表情筋は、その動作とは真逆に僅かにも動くことはなかった。
「あの」
 狼狽えたエミリーの問いに、平坦な声が返される。
「凍傷に、なります」
「え、ああ」
 ああ、なるほど。
 エミリーは一瞬その意味を理解しかねたが、持ち上げられた腕へと再度視線をやって、紡がれた言葉の意味を理解する。腕はどうやら金属製で、つまるところ熱伝導率が高い。立っているだけで、骨まで冷えるような冷気を発するのであれば、当然その体も冷たく、触れれば凍傷を起こすほどのものであることは自明であった。
 ひやり、とエミリーの足元で冷気が渦巻く。
「その、入る?ええと、謝必安、さん」
 同じ名前であることは違いないが、同じように呼ぶと混乱するので、エミリーは最後に敬称をつけることでそれを避ける。
 他人行儀にすら感じる呼び方ではあったが、霜寒はそれを気にすることなく一歩、部屋の中に踏み入る。扉の隙間から冷気が入ってくるのとはわけが違い、室内の温度が一気に下がる。思わずエミリーは大きく身震いして、薄手のショール一つでは防ぐことのできない寒さに歯の根を震わせた。吐息が白く凍る。
 その様子を見て、霜寒はそれ以上先に踏み入らずに、足を止めた。エミリーは慌てて、いいのよと続ける。
「ですが」
「そこの椅子を使って。謝必安や范無咎が使う椅子だから、大きさはちょうど良いと思うわ。私はほら、毛布を羽織るから」
 サイドテーブルに置かれていた紅茶は冷めた、というよりもすでにアイスティーになっている。
 エミリーは厚手の毛布を引っ張り、柔からなベッドに腰を下ろすと、足を折りたたみ、蓑虫のように包まった。冷気が触れる頬は、寒さから普段よりも赤い。霜寒は勧められたソファに、一寸の躊躇いの後に腰掛けた。ソファは凍らなかった。
「それで、ご用事は?何度か来てもらっていたようだけど。その、怪我をしたのならば、申し訳ないけれど私、機械は門外漢だから、そうね、バルクさんに頼むといいんじゃないかしら」
「いいえ、故障ではなく。その」
 負傷ではなく、故障と表現するあたり、眼前のハンターに流れているのは血液ではなく不凍液なのだろうかとエミリーは話を聞きながら思う。無表情かつ平坦な声ではあるものの、言葉遣いだけは感情を伴っているようにすら感じられる。
 エミリーは一層の寒さを感じて、毛布の合わせをきつくした。
「顔を、見てみたくて。ですが、我々はこのようですから、ええ」
 そう告げると、霜寒は手を伸ばしサイドテーブルに置いていた紅茶の入ったカップを静かな動作で手に取る。途端、中に入っていた紅茶は縁から凍り始め、数分と経たずに中の液体は完全に凍りついた。表面だけなのか、内部まで凍っているのかは、流石に確認してみないと分からないが、それでも眼前の男の、物理的な冷たさというのは一目瞭然である。
 凍傷程度で済めば、それは軽度ではないのかとエミリーは疑う。
「顔を見てみたいって、どうして」
「執着している様子でしたから、少し、どういう方かと」
「謝必安と范無咎が心配で、かしら」
「ああいえ、そういう意味ではありません。単純に、どのような女性かと知りたかっただけです。あなたと彼らの関係性に口を出すつもりはありません。権利もありません。そう、どの表現が一番適切でしょうか」
 脳内の辞書から言葉を引き出すかのように、霜寒はぶつぶつと小声で単語をいくつも呟いていく。しかし、そのどれもしっくりこないのか、暫くは膝を抱えて座るエミリーを放置して、言葉を紡ぎ続けた。
 そうして、ようやく納得いく言葉が出てきたのか、落とした視線をエミリーへと持ち上げた。表情に変化はない。
「疑問の解明」
 そのささやかな知識欲を満たすためだけに、ここ数日寒い思いをさせられたのかと、言葉にしようのない忿懣がふつりと沸いたが、エミリーはそれを口にすることはなかった。その代わりに、ふと疑問に思っていたことを口にする。
「一ついいかしら」
「どうぞ」
「あなたたちは一緒にいられるの」
「その質問は、私と無咎が同時に存在できるのか、という意味で間違いありませんか」
「ええ」
 エミリーの頷きに、霜寒は首を縦に振った。
「はい。ですが、鎮魂歌や血滴子のように常時一緒にいるわけではありません。東風遙のように気まぐれに共に在るわけでもありません。私と彼が一緒にいると、どうしても部屋が冷えます。長時間ですと部屋ごと凍ってしまうので、短時間或いは外で、互いに話をしたい時に、共に在るようにしています」
 外は外で、樹木や草花が凍りつくのではないかとエミリーは思ったが、それについては追求しない。
 そう、とエミリーは返した。
「気になりますか」
 霜寒の問い返しに、エミリーは出会った時から一切変わらぬ表情を見つめかえし、ええと頷いた。
「気には、そう。なるわ。謝必安と范無咎が会うことができればと、思っているから」
「不可能でしょう。彼らは、そういう在り方です」
「そう」
 告げる言葉に揺れはなく、厳然たる事実ばかりが突きつけられる。
 それ以上その話題に触れることはなく、エミリーは口を閉じた。沈黙が再度部屋に落ち、室温ばかりが下がっていく。
 指先までも赤くなり始め、あまりの寒さに思わずエミリーはくしゃみをする。寒いを通り越して、肌に痛いほどに室温が下がり続けている。ただただ無言で、自身を見つめてくる視線にエミリーは部屋から出ていくように告げるでもなく、ただ大人しく沈黙が明けるのを待った。
 くしゅん、と鼻を啜るくしゃみが暫くのちにエミリーの口から出た時に、霜寒はようやっとソファから立ち上がった。
「失礼、あなたの言葉の意味を長考していたもので」
「いいのよ。でも、そうね。次にあなたが部屋に来るときは、暖炉に火を焚べてもいいかしら。それは、あなたの体によくなかったりする?」
「外気温は我々には問題となりません。しかし、暖炉の火は消えるでしょう」
「なら仕方ないわね。ストーブあたりなら大丈夫かしらね。次に来る時は、必ず連絡を入れてからにしてちょうだい。范無咎さんにもそのように伝えておいてくれる」
「次、ですか」
 エミリーの言葉に霜寒は目元すら動かさずに、しかし疑問には思ったようでそう続ける。
「何か気にかかることがあれば、謝必安さんは来るのでしょう。范無咎さんはどうか知らないけれど。それから、部屋の前で立ち尽くすのもやめてちょうだい。とても寒いの。連絡さえ入れてもらえれば、私も快適な環境で話ができるように準備を整えるから、いくらでもいてもらって大丈夫よ。謝必安のように突然部屋に現れるのだけは遠慮してほしいけれど」
「理解しました。禁止事項は事前連絡なしの来訪、ですね。彼にもそのように伝えておきます」
「そうしてもらえると助かるわ。それじゃ、おやすみなさい。謝必安さん」
 最後の方は歯の根が噛み合っておらず、言葉がうまく紡げなかったが、しかし霜寒はそれを笑うことをせずに、当初と何ら変わらぬ様子で就寝の挨拶を返した。
「おやすみなさい。ダイアー医師」
 エミリーの言葉を聞くと、霜寒は当然のように傘を開き、雹にその姿を消した。
 寒さが一気に和らぎ、しかしまだ寒さの残る部屋でエミリーは部屋の窓を開けて、外の温かな空気を室内へと取り入れる。そして空に浮かぶ月を眺めながら、溜息をついた。
「出ていく時も、扉を使って欲しいものだわ」
 何のために扉があると思っているのか。
 ぼやかれた愚痴は誰の耳に届くこともなかった。