引き留める、なし

 しんしん。雪が降り積もる。
 音は厚みをもった雪に吸われ、もはやそこは無音の世界であった。
 ただ一人残されたサバイバーの呼吸音だけが雪原の遠くから流れては、降り続ける雪に音を食われてハンターの耳に届くことなく消えていく。
 医療のための手袋は薄く、解読を欠片も進めていないため、氷のように冷たい暗号機の温度が直に伝わる。思わず手を引っ込めそうになったが、残りの暗号機は四つであるため、まだハッチも出現しておらず、暗号機に触れるしかない。エミリーはかちり、と暗号機のキーを一つ押した。手袋を嵌めていたため、指の皮を冷え切った暗号機に持っていかれることはなかった。
 今回のゲームを一人振り返る。
 マーサは運悪く窓越え恐怖をもらい、最初に椅子に座らされ、ウィリアムとカヴィンが粘着と四割救助を狙って行くも、ウィリアムは吸魂でダウンを取られた。その隙にカヴィンが縄救助したが、諸行無常で先回りされたようで、即座にカヴィンがダウン状態となる。マーサは信号銃で応戦するも、興奮を積んでいたのかマーサは椅子に座らされて飛んだ。そしてハンターは起死回生が終わるより、エミリーが救助に駆けつけるより早くオフェンスを椅子に座らせ、近場にいたカヴィンを同じく椅子に座らせた。
 エミリーはハンターがカヴィンを座らせている隙にウィリアムを救助したが、それは承知だったのか、ハンターは丁寧にウィリアムを傘で一撃殴り飛ばし、さらにカヴィンへと向かったエミリーの背を傘で抉る。荘園旧友で速度が上がったエミリーはカヴィンの椅子の縄を引き千切り、後ろを振り返ることなく逃げたが、カヴィンが後ろで倒れた音は耳が捉えた。続け様にもう一撃背中に入れられたが、危機一髪で痛みを堪えて走り逃げる。
 遠く離れた場所で一人起死回生で立ち上がり、ウィリアムの治療へと受難で見えた輪郭に走るが、ハンターが近くにいるの言葉に足を止める。そこからカヴィンの救助へは間に合わない。エミリーは自己治癒を済ませ、ウィリアムがダウンした場所に歯噛みした。地下がある。足が一瞬竦んだが、思考を瞬間的に廻らせ、足跡を残さぬように地下へと降りる。ハンターの心音はひどく喧しい。物陰で息を潜めた。ボールをウィリアムが使い切っていなければ、ウィリアムの前まで無傷で行くことができれば、攻撃を代わりに受けることで望みは繋がる。
 ハンターは、必ず、地下に座らせる。
 両手を震える手で組み合わせ、エミリーは祈る。神は願いを聞き届けたのか、静かな地下室にコンクリートの床を打つ足音とひどく暴れるウィリアムの声が響いた。
 吐息一つ聞き取られればとエミリーは両手で口を塞ぐ。まだ、出てはいけない。ハンターは落下攻撃でダブルダウンを狙いたいはずである。足音が小さくなったのを確認し、エミリーは物陰からこそりと顔を覗かせ、先生と声をあげかけたウィリアムに人差し指を唇の前で立てることで静寂を促す。物音一つ、立ててはいけない。まだボールが残っているのは確認できた。しゅ、と縄を解く。
 この段階で地下に潜んでいたのはばれているものの、落下攻撃を狙っているのは分かった。下りてこないのであればと、エミリーはウィリアムに治療を施すが、赤い光を階段の曲がり口に確認し、叫ぶ。走ってと。
 先に走り出すことで、傘の一撃を代わりにもらい、ウィリアムがその隙に横をボールで駆け抜ける。しかし、そうは問屋が卸さない。ウィル。攻撃は器用に、エミリーを掠ることなく、ウィリアムに当てられる。
 そうして三度目の椅子で、ウィリアムは暗号機四台とエミリーを雪の降り積もるマップに一人残して荘園へと帰ってしまった。
 敗因は何かと、反省会を帰ってから行うべきかもしれないが、今はまだそれを考えるべき時ではない。
 かちん、と暗号機を触りそして離す。あまり長時間触っていると、ハンターに居場所を知られる。逃げ回りながら、烏が飛ばないよう、少しずつ解読を進めていくしか逃げ道がない。ハッチは、ない。寒気を感じれば、足跡を、気配を消して物陰に隠れることを繰り返す。今日のハンターの特質が監視者でないことを、この時ほど感謝したことはなかった。
 逃げ隠れしながら解読を地道に進め、二台目の暗号機が寸止めとなった。ゲーム開始から気が遠くなるほどの時間が経過しており、ほ、とエミリーは胸を撫で下ろしたが、それも束の間で、視界の端でくるりと回った黒傘に思わず手を離してしまう。
「ここに居たか」
 発光する紺碧の波に飲まれ、ぐらりと視界が歪む。冷静さを欠くが、調整は成功させ、その場を逃げようと雪を蹴る。続け様に鳴らされた鐘は方向を変えてかろうじてその光の波を避ける。
 苛立ちの滲んだ声と共に傘が突き出されるが、その切っ先が当たるより早く板裏へ逃げ込み回避する。珍しく板当てを警戒したのか、体ごと突っ込んでくることはなく、傘の先端が引かれるのを確認し、板を勢いに任せて倒すと范無咎へ当てる。痛みに身を捩る姿にエミリーは息を詰めたが、真剣勝負に悠長なことを言っている暇などなく、背を向けて逃げる。
 雪の中を走るという行為は、通常の走る行為よりずっと体力を使う。じわりと服に汗が滲み、寒さ故か、それとも動いたことによる熱のせいか、頬が赤らむ。吐き出した息は白く、空気中に溶け広がり消えていった。
 がらん。
 側頭部から殴られたような、そんな振動が脳漿ごと、脳味噌を激しく揺らす。雪に足を取られ、縺れた足を前へと出すも、それに集中してしまい調整を失敗する。
「あ、」
 ここぞとばかりに傘が出されるが、エミリーは反転した世界の中で、無理矢理に足を運ぶ。運は味方したようで、傘は当たらない。
 最後の一人で、逃げたとしても敗北が確定しているこのやりとりに意味はあるのかと問われればエミリーには答えようもなかったが、それでも、先に飛んでしまった仲間のことを考えると、試合を放棄する気にはなれなかった。
 壁に体を預けながら、焦って突き出される傘を避ける。溜め攻撃であれば、当たる範囲だが、早く仕留めたいという感情が攻撃に滲み出ており、ミスが目立つ。暗号機は寸止めで、触りさえすればハッチが出現する。
 エミリーが視界の端に暗号機を入れているのは范無咎も気付いており、そちらから遠ざけるように追い回す。しかし、器用に傘を避けるその姿に、奥歯をぎりと噛み合わせる。
「必安」
 傘が雪の中でくるりと回る。
 なんだ、とエミリーは回った傘を一瞬注視した。それは悪手だった。その刹那が、暗号機へと踏み出した足を止めてしまった。
 白い波から、細い枯れ枝のような手が伸びると傘の柄を掴み取る。同時に、青磁の渦が発生し、一瞬で飲み込まれる。
 ぐわん。
 エミリーの視界はひどく遅く動く。
「おや珍しい。滅多に成功しないんですが」
 謝必安は暗号機にゆっくりと、それはなめくじよりも遅く伸ばされた指先を下から無慈悲に払う。
 小さな体を中心に、幾枚もの札がゆっくりと回り、淡く発光している。
 失魂落魄状態。
 エミリーは逃げようと方向を変えようとしたが、その動きはまるで水中に落とされたかのように鈍い。そうこうしている間に、二撃目が肩口から容赦なくめり込み、エミリーは積もった雪の中に体を埋もれさせた。
 起死回生も使い切り、もはや立ち上がる術はエミリーに残されてはいなかった。四吊り完全敗北。エミリーは先に行ってしまった仲間たちへ逃げきれなかったことを胸中で謝罪する。寒く冷たいこのマップから荘園へと帰れば、温かい紅茶を片手に反省会である。
 白い、降り続ける雪が傷口から滲んでいく色に染まっていく。
「エミリー」
 吊ろうとしない謝必安へエミリーはゆるやかに視線だけ向けた。下から見上げたその表情は、ひどくご満悦だった。
 白い雪が温かな血液で溶けていくも、上から降り続く白に埋め尽くされ、それは美しい桜色へと色を変えていく。じわり、じわり。失血による体温低下と酸素の欠乏の中で、頬に落ちた雪は次第に溶けることをやめ、白い頬の上に積り始める。
 ハッチも出ていない、通電していないのだからゲートも開いていないこの状況で、どこへ逃げられるはずもなく、エミリーはハンターの動向を窺う。次第に霞んでいく視界の中で謝必安の唇が動いたのが分かったが、音は雪が吸ってしまい、何を言っているのかまでは分からなかった。しん。しん。しん、と雪が世界を埋め尽くしていく。
 音が吸い尽くされる前に、謝必安は膝をおり雪原にしゃがむと、未だ意識のあるエミリーへと話しかける。この距離であれば、音は食われずにエミリーの耳へと届く。
「聞いた話ですけれど」
 はぁ、と吐き出した息はまだ白く濁る。
「失血死する時の感覚は、性交で達して意識を飛ばす時のそれと似ているらしいですよ」
「わらえ、な、ぃ、じょうだ、ん、ね」
「ふふ、そうです?」
「も、ぉ、かえし、て」
 穏やかに微笑むハンターにサバイバーは懇願する。失血死は苦しい。徐々に酸素が足りなくなり、息苦しさと共に意識を落としていく。
 謝必安は微笑に歪んだものを混ぜ込むと、目を細めてエミリーの頬に積もる雪を指先で払い落とす。
「今日はもう少し、一緒にいたいです」
 謝必安は腿に積もった雪を払い落とし、すっくと立ち上がると、その三つ編みを攻撃が終わった後のように手の甲で滑らせる。
 その顔を端から黒く狭まっていく視界で捉えて、エミリーは彼がまったく本気であることを悟った。我儘の、こうと決めた時の、顔である。その顔の時は、エミリーが何を言っても、聞き入れてもらえた試しはない。
 エミリーは、諦観した。
 睫毛に白い雪化粧がなされ、唇は色を失い乾いていく。一度は払い落とした頬の雪はまた薄らと丸みのある頬のラインに積もる。
 傷口から止まることなく雪に色を吸われていく血液はその温もりを体から奪っていった。呼吸を繰り返し、酸素を取り込もうとも、もはやそれを全身に巡らせるだけの血液は体の中に十分に残っていなかった。
 息を一つ吐くごとに、体の中の何かが抜け落ちていく。体の末端から感覚が無くなっていき、暗く、視野が、思考が、せばまり、消えて、しずかに、なにもかもが、なくなって、おとも、においもおち、きえ、た。
 
 
 静かになった骸の傍らで、謝必安はそっと顎を上げて澄んだ夜空を見上げる。白い月が、ぽっかりと一つ口を開け、煌々と、雪原の中の緋色を照らす。その中心には、今丁度息絶えたサバイバーが一人。
 シーツの上に散らばれば、黒白の髪と混ざり合う亜麻色の癖のある長髪は、殴り飛ばした衝撃で解けすっかり乱れ、透明で薄く、吸い付けば容易く痕が残る肌は血の気が失せ、軟かさが徐々に失われていく。蠱惑的な瞳に光はなく、開き切った瞳孔に雪の結晶が落ちていた。放り出された手足は雪に沈んで動かず、その体を覆うように雪は降り積もる。
「ここが」
 ああ、と謝必安は目を眇めて、あと僅かもすれば荘園へと帰り、消えてしまうサバイバーの体を眺め下ろした。
 ただ一人で、逃げ惑い、けれど必死にもがくその姿のなんと魅力的なことか。失魂落魄状態で、敗北以外の道などどこにもないというのに、なお暗号機に手を伸ばそうとする、逃げようと無様に足掻くその姿に心が湧き立ち、肌が悦びで粟立つ。
 もっと。
 そう、もっと。
「エミリー」
 この赤い雪原は、私とあなたの始まりの場所。
 ふるりと謝必安は内から溢れ出た興奮に身を震わせる。
 言葉でいかにこの高揚感を説明したとて、サバイバーである彼女に理解できるはずもなく、ただそれでいいと飲んで受け入れた彼女もこの嗜虐心の本質を知りはしない。
 嵐の、あの心細く縊死したくなる夜に、傍に寄り添ってくれただけであれば、おそらくそれで終わりだったのだ。
 だが、観てしまった。血反吐を吐きながら、庭師を守るべく、這いずり、掴む手を振り払い、それでもその盾であろうとする姿を。観て、しまった。
 ジョゼフの手で血の海に沈み事切れる様を見せつけられ、どれほど後悔したことか。その感情の澱みは、寡黙で誠実な魂の片割れには、おそらく理解できない。
 深く。
 どれほど深く、悔いたことか。
 そこにいるべきは己であると。
 しかし、それでも平静を保てたのには理由がある。彼女が受け入れると言った以上に、それ以上に、いずれ誰しもが訪れる場所に、彼女も来ると分かったからである。
 その魂は清廉潔白純真無垢とは程遠く、悍しいほどの夥しい小さな赤い手形で汚れている。魂の、形すら覚束ないそれらが所狭しと纏わりついている。
 故に、どんな今世となろうとも、彼女が限りあるものである以上、何処にいようと何をしようと、いつか必ず再び会い見えるのだ。
 ゆっくりと、その笑みを深める。
「お待ちしております、私」
 黄泉にて、あなたの音が止まるのを。
 呟いた言葉は血を吸って赤くなった雪に混ざり溶け、そうして雪原には誰もいなくなった。