傘の代わりの木剣が、朝のひんやりとした空気を鋭い音を立てて引き裂く。
広い庭園に他に人影はなく、サバイバーからはハンターと呼ばれ恐れられる男は、錫を溶かし込んだような色の肌にうっすらと浮かんだ汗を手の甲で拭い取り一息つく。
生前は幾度となく繰り返した動作を、今なお反復するのは、それこそ習慣というべきものである。普段手にしている傘よりも、ある意味ずっと手に馴染む感覚の剣の柄は、掌から伝わった低めの体温が移ってしまっている。
朝靄のうっすらとかかった視界が、時間の経過と共にゆっくりと晴れていく。それに伴い、小鳥の鳴き声が木々の隙間からちよちよと響く。
汗ばんだ服はじっとりと不快で、上衣の合わせを開き、肩から柔らかな布を落として上半身を外気にさらす。濡れた肌に湿った衣服、合わせて外気温の低さで、運動とは言えど、激しくはなく、軽く汗をかく程度のそれは、すぐに体温が低下させ、肌寒さでぶるりとひとつ身震いをする。
風邪をひくとは到底思えないが、それでも汗を放置するという行為は許容できず、持ってきていた乾いた布を肌の上に滑らせて汗を拭う。背を隠すほどに長い銀糸は汗で背中に幾本かへばりつき気持ち悪く、それを払って背を拭っていく。
小鳥の鳴き声しかしない中で、木の枝を折る音が、男の鼓膜を震わせる。
ハンターであれば、独特の気配で誰がいるのかがすぐにわかる。それがないのであれば、音を立てたのは動物か、それかサバイバーだけである。
音がした方向へと気づいているという意思を持って、顔を向ける。おずおずといった様子で、木の影から小柄な影が姿を現す。
「医生か」
よく知る、正確に言えば、自らと魂を同じくする者がよく知っている、或いは魂の片割れが遊んでいるサバイバーがそこにいた。
栗色の癖毛は普段のようにナースキャップにはおさめられてはおらず、身に纏う服も寝巻きに上着をかけているのみであり、白粉もふっていない。そのためか、もしくは外気温の低さ故か、その柔らかな饅頭のような頬はりんごのように赤く上気している。
は、と白い息が空気に溶ける。
「范将軍。あなた、なんて、格好で」
一度は合わさった視線が逸れ、小さな手がふっくらとした唇を隠す。
「何?」
言われた言葉の真意が掴めず、怪訝そうに眉間に縦皺を刻み、范将軍は今一度自身の服装を確かめる。武具は外し、上衣は脱ぎ落としているものの、その格好は普段となんら変わりがない。なんて、と言われるような覚えがあるような格好ではない。
手に持っていた布を肩にかけ、散らばる木葉を踏みしめると、視線を合わせようともしないサバイバーへと一歩踏み寄る。枯れた木葉が割れて、乾いた音が空気を伝わっていく。視線を逸らしたままの体が音に合わせて小さく震えた。
「服を、着てちょうだい」
それが恥じらいであるということに気付くのには数秒を要した。
「服」
「そうよ、服よ。そんな、何も着ないで、外に、いる、なんて」
「語弊がある物言いはよせ。下は履いている。上は汗を拭うために落としているだけだ」
数歩の距離を詰め、手を伸ばせば、その細い肩を掴める位置で范将軍は足を止めた。そしてそのまま、小さな頭を右手で掴み、力を軽くこめて上を向かせると視線を乱暴に合わさせる。目は口よりも雄弁で、あきらかな狼狽で視線は揺れ動き、しかし頭を手で固定されているため眼前の裸体を視界の外にやることもできず、最終的には固く目を瞑ることで、エミリー・ダイアーは范将軍の上半身を視界から消した。
固く瞑られた瞳を范将軍はまじまじと眺める。
「今更恥じる理由がわからんな。謝将軍の背に痕を残したくらいには、この体を見ているだろう。お前が想いを寄せるあれらのも」
瞼がその言葉にぴくりと動くが開きはしない。長い睫毛が揺れ、両の耳は頬よりもさらに血が集まって赤く染まる。
一つの器に魂が二つ宿っており、外見は変わるものの負傷等はそのままであることから、傷はそれぞれの体に引き継がれ残る。しかし、背中にできたミミズ腫れがなぜできたものであるのかは、想像に難くない。
太腿に残された、注射器で刺したような傷も、聞かずとも言わずとも、何故それがあるのかは容易く理解でき、その理由は頬の痛みが明らかにしてくれていた。
尤もそれらは少しばかり前の話であり、すでに傷は残っていない。
「そういう、ことじゃないの」
目を瞑っていても視線は感じるのか、今にも消え入りそうな声が足元に落ちていく。
僅かに瞼が持ち上げられ、しかし視線は睫毛の下で足元へと固定されたままである。視線は合わない。分からんな、と范将軍は口端を下へと落とした。
「何が違う。見ているものは同じだろう」
「同じだけれど、違うわ。取り敢えず服を着てちょうだい」
ごほんと一つ大きめの咳払いをして、眼前のサバイバーは平静を取り戻そうとしていた。
そこまで至って、范将軍は唐突に答えに辿り着いた。
「成程意識しているのか、俺を」
狭い肩が言葉に合わせて小さく震えた。その反応に導き出した答えが図星であることを察する。
「男として」
「な、」
ばちん。
「目が、合ったな」
かち合った視線を逸らすことは、許さなかった。視線を絡め取り、その答えを聞くまで頭を掴んだ手を離すつもりは到底なく、范将軍は動揺から小刻みに動くその赤茶けた瞳を逃さぬよう、二つの眼球でしっかりと捉えた。
その意図は、狼狽を露わにする女にも伝わったのか、観念したかのように唇が緩く開かれる。
しかし、その柔らかな唇から発された言葉は冷静そのもので、理路整然としており、可愛さのかけらもない。
「私たちの国では、男性であろうと女性の前でそんなふうに肌を見せたりしないの。だから、恥ずかしいと感じるのよ。あなたに限らず、私はそんな格好をしている男性がいれば、服を着るようにお願いするわ」
「そうであれば、お前の格好も随分なことだ」
「私の?」
「ああ。そのように足を出し、大股で駆け回る。女というのは柳のように揺れ動き、儚げにしていればよい」
范将軍は頭を掴んでいた手を離し、視線を外して軽く腰を曲げると、膝丈ほどにしかないスカートを人差し指と親指でつまみ上げ、捲らない程度に軽く持ち上げて見せた。外気にさらされた足は白く、冷たさで膝小僧が僅かに赤らんでいる。
反応がないことを怪訝に思い、范将軍は摘んでいたスカートから指を外して、ふと顔を先程まで見ていた方向へとやった。二つのくりくりと大きな瞳が真っすぐにこちらを見ていた。
「あなたでも、そんなことを言うのね」
「どう言う意味だ」
「謝将軍なら言いそうだけれど。あなたは謝将軍が、彼が私にしたことを謝ってくれたわ。だから、彼とは価値観が違うと思ったのよ」
エミリーのその言葉に、范将軍は言葉の意味を理解してああと肯く。
「将軍も悪意があってしたことではない。それに、俺とてそうしたいと思えば同じことをするだろう」
「しないと、思うわ」
すっぱりとそう言い切られたことに范将軍は表情を変えることなく、眼前に立つ小柄なサバイバーを見下ろす。
その佇まいに警戒心はなく、寄せられた信頼はなぜか厚い。少し手を伸ばせば、いともたやすく首をはねられる位置にいると言うのに、その距離を開けることなく、逃げ去るために背を向けることもない。
銀色の髪が金冠の中から一筋揺れた。
「根拠の無い確信は身を滅ぼすぞ」
そういうところだ、とエミリー・ダイアーは口に出さずともそう思った。いやに律儀な、なんだかんだと言ったところで、誠実な性質を持ち合わせている。その安堵と穏やかな気持ちからか、自然と口端が持ち上がり、表情筋が緩んで笑みができる。
合わさった視線に不安を覚えることはない。
「服を着てくれるかしら。体を冷やすと風邪をひくから」
范将軍は一つ溜息をこぼし、はだけていた上衣を合わせて、きっちりと着正した。側に置いていた武具を手早くつけ、木剣ではなく持ち慣れた花が散らされている番傘を手に持つ。服に巻き込んだ長髪を、片手で結えた根元から毛先へと流せば引っかかることなく水のように溶け外れ、腰へと落ちた。
目元に散る金木犀の上に睫毛が一二度瞬く。
「それで、お前はどうした」
立てかけていた木剣に汗を吸った布を巻きつけて持つと、范将軍は空が白んでいないにも関わらず、早朝に一人庭を歩くという奇行をしているエミリーへと反対にその理由を問うた。自身の行動はおかしくないにせよ、女の暗がりの一人歩きは危険である。
突如理由を聞かれ、エミリーは一瞬答えに詰まる。
「散歩も悪くないと思って」
「嘘だな」
間髪入れずに看破された事実にエミリーは言葉をなくし、そして諦めたように視線を落とす。言いづらそうに、耳の後ろを指先で掻く姿に、范将軍は視線をそむけ、息を長く吐いた。
「興味はない。聞いただけだ。勝手にしろ」
空が白み始め、二つの影が木々の隙間から伸びる。まあ、と范将軍は続ける。
「日がない時分の一人歩きは危険だ。いくらお前が恥じらいなく走り回る粗野な虎とは言え、それはやめておけ。謝将軍もいい顔はせんだろう。声をかければ、ついて回るくらいのことはしてやる」
「粗野な、虎」
流れるように発された言葉にエミリーは軽く口元を痙攣らせ、目を細めて抗議する。しかし、范将軍はそれを意に介することなく、エミリーの額を人差し指で小突き、は、と鼻で笑ってみせる。
「違ったか?人の足に注射器を突き立てるような女は、嫋やかとは到底言えまい。謝将軍もとっとと狩ればいいものを。随分と遊ばせておく」
范将軍は近くにあったベンチに腰を下ろし、エミリーと視線の高さをあわせ、その長い足を組むと、頬杖をついた。半眼で合わされる視線は呆れとも呼べる色を含んでおり、ベンチに川のように流れる銀糸に微かにその色が映る。
放たれた言葉にエミリーは不服さを隠そうともせず、声に苛立ちを混ぜると、両手を組みあわせて頬を膨らませて反論した。
「同意もなく性行為に及ぼうとするからそんな目に遭うんだわ。自業自得よ」
「同意か。我々には縁遠い言葉だ」
頬杖をついたまま発された言葉にエミリーはふとした疑問を覚え、そしてそれをそのまま口にする。
「だったら、なぜあなたは私に謝罪したの」
「お前が、我々の国の女ではないからだ。もっと言えば、我々の時代の、我々の国の女ではない。で、あるならばお前にはお前の国の法があり、常識とやらがあるだろう。例えばそう、お前のその足のように。走れもせぬ、逃げもできぬ、男に身を寄せる哀れで庇護欲をかきたてるそれではない」
范将軍の傘を持つ手に力が込められ、エミリーのさらけ出された膝に先端が添えられ、それは地面に落ちるようにして向こう脛をなぞり、足の甲に触れると、僅かな動きで地面の表面を擦りあげ、体重を支えていた足をくるぶしのあたりから一気に払う。
突然のことにエミリーはバランスを崩し、右側面から地面に転げそうになるが、武具をはめた腕がしっかりとその体を抱きとめる。墨を溶かし込んだような黒の中に、体がすっぽりと埋まる。岩にでも支えられているかのように、その腕は僅かにも動かず、圧倒的な安定感でエミリーの小柄な体を支えた。
転ばした当人に謝辞を告げるのもおかしな話で、エミリーは答えに困り支えられたままの姿勢で眉尻をさげる。
「なに、かしら」
「同意なく体を奪ったとして、その後に男が女を娶ればいいのではないか」
「地獄だわ」
エミリーは当然のように范将軍が口にした言葉にぶるりと大きく身震いして答えとした。錫色の肌に浮かんだ二つの白金はやや斜め上へと向き、軽く息を吐く。
「地獄?地獄か、そうか。だが、手をつけられた女を欲しがる男はおるまい。そう考えれば、特段おかしいこととは思わんがな」
「私たちの国ではそれをレイプと言うの。少なくとも、自分に乱暴を働いた男性の妻になろうとは思わないし、そうなるくらいなら、死を選ぶ女性もいる」
「だがお前は生きている。謝将軍に体を嬲られてなお。その理屈でいうならば、お前が今ここで会話をしているのはおかしい」
「私は」
告げられた言葉を受けとめ、エミリーは一つ息を吸い込んだ。錫色の肌の白金が二つ、それは赤茶けた瞳をまっすぐに覗き込んでいる。眼球の裏まで視線が突き刺さっている。背を支える掌は大きく、エミリーの体重をしっかりと受け止めている。
范将軍は見下ろす女の顔を、その表情に灯る二つの瞳が強い感情を隠しもしないのを確認する。
「私の願いを叶えるためにここにいる。怯えも悲しみもするけれど、それは歩みを止める理由にはならないわ」
「いい面構えだ。歴戦の武将にも劣らん」
背を支える掌が強く動き、エミリーの体を押し出して、鼻と鼻がぶつかりそうなほどの位置で立ち上がらせる。范将軍は組んでいた足を一度ほどき、華奢な体を脚で絡めとり、小豆色の下履の間にその体を収めるようにして足を組み直した。
ひゅ、とエミリーは息を短く吸い込み、僅かに体を仰反らせて、接触を防いだ。眼前の端正な顔立ちが愉快さを含んでゆるく歪む。
范将軍は自らの仏頂面が、愉快さで歪むのを知った。筆先で腹を撫でられているような感覚に襲われる。
「謝将軍にやるは、少々惜しくなった」
なんだったか、と范将軍は少し体を前へと出し、エミリーが仰反った分だけその距離を詰めた。
「同意、だったか。同意だな。うん」
「どう、い、え、ちょっと、足を解いて」
「まあ待て」
つ、とその指先で反らされた背骨をゆっくりと頸のあたりからなぞり落としていく。服越しとはいえ、愛撫とも呼べるその動きに、体が一つ大きく震える。エミリーは思わず上がりそうになった声を両手で口を塞いでくぐもったそれにとどめた。
柔らかな癖毛に薄い唇が触れ、耳朶に当たる。触れるだけ。当たるだけ。吐息の音だけが、鼓膜を揺らす。止めるように声を上げようと、口から手を離したその一瞬に、一際低い、骨を震わせるような重低音が耳に潜り込む。
「医生」
職業を呼ばれただけであるのに、膝が抜けそうなほどに足は揺れ、エミリーは自身の顔に一気に血が上ったのを知る。逃げようともがくも、長い脚に体は囲われ、前にも後ろにも逃げる事は叶わない。
「ちょ、」
「医生」
なにも、しない。
耳元で言葉をただ繰り返される。掌は最初に背をなぞったきりで、その手は背から震える足に添えられている。こちらも添えられているのみで、特段何かをしているわけではない。医生、と耳に言葉が繰り返し繰り返し囁き込まれる。
触れられた箇所が、火傷しそうなほどに、熱い。
呼ばれるだけの行為だというのに、エミリーは逃げ場を失った獲物のように体を縮こめ、目をきつく瞑った。
顔を押し退けようとした手を絡め取り、指の間をすり合わせていく。喉を愉快そうに鳴らし、范将軍は唇を小さな耳に押し当てる。言葉は声となり、その小さな体に注ぎ込まれる。夕焼けのように紅い耳を軽く喰む。
「ひっ」
「医生、是」
と、と同意を求めかけ、絡めた指の中、親指で掌をなぞろうとしたそれが、うまく動かないことに気付く。
奇妙に思い、絡めた指を離して自身の手を確認すれば、爪が、伸びている。切り揃えているはずの爪は尖り、その部分の肌は自らの錫色ではなく、より深い鈍色に近い。指先からその色が、自己を侵食するかの如く変わっていく。
ふと立てかけていた傘を見れば、それは己のそれではない。陰陽の花散るそれではなく、漆黒の、朱色の呪が刻まれた符の貼られたそれである。
「は」
はは。
范将軍は笑った。そして、足先、指先から変わっていくのを感じ取りながら、絡めていたエミリーの体を持ち上げ、ベンチの上へと立たせる。突然の動きにエミリーは目を白黒させながら、声を上げる間も無く、金冠でまとめられた銀糸のカーテンの合間に錫色を見る。
細いが肉のついた、自らの力で走ることのできる脚をゆるりと踝から内腿まで一気に撫であげる。産毛をさらうかのように撫で方に膝からしゃがみ込もうとしたのを掌一つで押さえ、范将軍はその柔らかな脚に歯を立てた。なにが起きているのかわからないまま、エミリーは痛みで顔を顰める。
くつりと笑い声が銀糸の隙間から溢れた。
「お前の足は、好ましい」
「え、な」
顔があげられ、視線が一瞬合うも、エミリーの眼前でその面は、よく知るそれに飲みこまれた。
「范無咎」
ぶるりと大きく三つ編みがふるわれ、見慣れた不機嫌そうな顔があげられる。その顔は一見してすぐにわかる程度には疲労の色が濃く、普段から悪い顔色よりも一層ひどいものだった。かしいだ体をエミリーは慌ててベンチに膝をついて支える。
苦しげな呻き声が溢れ、しかし、范無咎は手をついてどうにか倒れるのを防ぐ。
「今、人を」
「構わん。休めば治る」
「でも」
「いい」
人を呼ぼうと、その場を離れようとしたエミリーの手首を掴み、范無咎は反対に引き寄せて腕の中に閉じ込める。肩に乗せられた頭から聞こえる呼気は荒く、肩は繰り返される呼吸に大きく上下していた。
「俺は」
乱れた呼吸の合間に言葉が混じる。
「必安ほど寛容ではない」
ベンチに乗せられた片膝に、范無咎は長い爪の手を被せた。掌の下には、先刻つけられたであろう歯形があるのを凹凸で感じ取れた。
「必安であれば、いい。必安以外は、駄目だ。謝必安でも、范無咎でも、だ」
無理矢理に主導権を奪い取った反動は体に反映され、呼吸もままならない。吐き気がひどく、頭はくらくらと目眩がおさまらず、立てば二歩で倒れる自信があった。酸欠で痺れる指先に歯形がふれ、范無咎は肩越しにその赤い痕を確認した。
じり、と臓腑が焼けるような焦燥に駆られる。
「范無」
「聞け」
ゆるりと指先で歯形を消すように撫でる。
「呼べ。范無咎の時は、主導権が取れる」
そこまで言い切り、范無咎は長く深い息をついた。ぐり、と細い肩に額を押し付ける。柔らかな体は力を込めれば折れてしまいそうなほどである。
気付いたのは、誰に言われたからでもなく、知っているが知らぬ臭いがこびりついていたからである。それは必安の匂いではなく、しかし同じ魂の臭いではあった。そのことについてエミリーが切り出すことがなかった故に、范無咎自身も問いただすような真似はしなかった。
他の己の行動は、薄ぼんやりとであればわかる。必安の感情の揺れよりかは、魂が同じである故か、より鮮明にそれに触れることができた。真っ暗な夢を見ているような感覚に近い。雑音のかかった音の合間を縫うように感じ取れる。
自らの意思で変わる時は一瞬で負担もないが、范無咎自身、他の自身から主導権を無理矢理奪い返すことがここまで負荷がかかることであることは想定外だった。指先一つ動かすのすら億劫で耐え難い。
柔らかな、甘い香りが鼻をくすぐる。
「遅れて、悪かった」
なにに、とは言わない。
遅れたのは事実であるし、変われない時は変われない。
「私は、大丈夫よ」
「そうか」
一拍の後にか細く呟かれた言葉に、范無咎はその細い体を抱きしめることで返答とした。