生還者なし

 めそり、めそり。
 その泣き声に弱いのだと荘園で唯一の医師であるエミリー・ダイアーはそう告げた。その話を聞くのは、宝石のごとき翡翠の瞳を持つハンターである。
「君の脳味噌はまともに機能しているのかい」
「仕方ないじゃない。あんな風に泣かれたら部屋に入れざるを得ないわ」
「理解できない」
 手元で広げていた本を音を立てて閉じ、ジョゼフはエミリーへと顔を向けた。
「犬の躾はしたことが?」
「ないわ」
「駄目なものは駄目なんだ。どんなに可愛らしく上目使いで見上げてきても餌を与えてはいけない。そんなことをすれば、甘えれば自分の言うことを聞いてもらえる、と勘違いする」
「言いたいことは分かるけれど、彼は犬じゃないわ」
 犬と大差ないだろうと躾のできていないハンター仲間の顔を思い浮かべる。
 ジョゼフは、ソファに体をしっかり預け、腹の上で手を組み合わせ、溜息にも似た吐息をこぼす。
「犬でなければ三歳児と一緒だ。乳離れしてないだけだろう」
「乳離れ」
「間違ったことは言っていないと思うけど」
 目を眇め、ジョゼフは疲れたように返答する。
 サバイバーの待機室には椅子が四つあるが、そのうちの一つにはエミリーが、もう一つにはジョゼフが腰を下ろしている。
 本日のゲームはすでに終了しており、この待機室に誰かが来ることはない。
 何故そんな部屋にいるのかと言えば、最後のゲームの際に忘れてしまった剣を取りに来た際、一人エミリーがテーブルに突っ伏している姿を目撃したからである。
 先日のこともあり、声をかけるのは多少躊躇いもあったが、それはそれこれはこれとジョゼフはその疲れ切った背中に声をかけた。それだけの話である。
 そして現在に至る。
 彼女のもっぱらの悩みはやはり白黒無常に、主に謝必安にまつわるものであったのは言うまでもない。
 腹立たしくもあったが、聞けば聞くほど、その幼稚な振る舞いにジョゼフは頭を抱えた。人のことを言えたためしではないが、それでも空いた口が塞がらなかった。
 駄々っ子だ。どこからどう見ても。
 ジョゼフは警戒心を持つようエミリーに警告をしたが、確かに謝必安の振る舞いを聞くに、どうにもそれを異性として認識しろというのは土台無理な相談な気もした。
 一抹の憐みとともに、ジョゼフはテーブルに突っ伏して微動だにしないサバイバーに声をかける。
「エミリー」
「ああ、こんなところにいたのですか」
 ひょっこり扉から顔を覗かせたのは、ことの元凶である。
 すすと自然な動作でエミリーの隣にある一つ空いている席、ジョゼフとエミリーの間の席に腰かける。その手には淡い蒼が溢れる巻貝が持たれていた。
 ひどく嬉しげに持っているものだから、おそらく滅多に手に入らないものなのだろうとエミリーは勘付く。しかし、それが一体なんなのかまでは思い出せない。
 エミリーはその薄い肩を叩かれ、顔を上げた。答えを待つハンターにエミリーは柔らかい笑みを向ける。
 いかにも聞いて欲しそうに、そわそわと落ち着きなく見つめてくるものだから、エミリーは思わず破顔した。まるで小さな子供が宝物を見つけて、見せてくるかのような光景である。
「それはなにかしら」
「これですか?これは潮呼びです。とても綺麗でしょう。蒼色の効果が私が攻撃したりするとのるんです。今度対戦した時にお見せします」
「本当?今からとても楽しみね」
「ふふ」
 嬉しげな声が弧を描いた口から零れる。
 その茶番とも呼べる光景を眺めながら、ジョゼフは、それが全く母の愛情が欲しいだけの子供がすり寄っているだけの姿にしか見えず、呆れた声を落とす。
「なるほど、まったく三歳児だ」
 つい、言葉が零れる。
 その単語に明るい紫の瞳が細められ、ゆっくりと言葉が発された方へと向けられる。
「なにか」
「君の行動が、だよ。母親に縋りついて離れない子供と一緒だと言ったんだ」
「私が?」
「そうだよ。彼女に褒めてもらいたくてここに来たんだろう。わざわざ」
「問題でも」
 これは始末が悪い。
 ジョゼフは一瞬返す言葉を失った。思考を立て直し、謝必安へ指を向ける。
「一事が万事その調子なのかい」
「質問の意図が掴めません。私はエミリーの子供ではない」
「子供と一緒の行動だって言ってるんだよ、謝必安。三歳児じゃないって言うんなら、少しはそのべったりをやめたらどう」
 その提案に謝必安は眉根を寄せ、あからさまに不機嫌な色を顔に乗せる。
 何故そのように言われているのか、全く理解できない様子で、首を傾げ、ちらりと不安げな視線をエミリーへと向けた。
 暖簾に腕押し馬耳東風な気もしたが、ジョゼフはきつめの言葉を投げつけた。
「ママの顔色窺ってどうするのさ」
「母親では。エミリー」
「だから、そこでエミリーを呼ぶところがそうだって言ってるんだよ」
「ですが」
 ちら、と再度謝必安はエミリーへと視線を向け、そしてうろうろとその視線を彷徨わせると、相方の魂が宿った傘に救いを求めて開いた。
 傘から黒い雨粒が滴り落ち、その姿はどろりと中から出で、白から黒へと色を変えた。
 黒く長い三つ編みがゆると揺れ、同じ面だというのに、なぜか精悍な印象を受ける顔に苛立ちを滲ませて、現れた片割れは警戒心を隠しもせずに唸る。
 范無咎は揃っている面子を眺め、あからさまな溜息を吐いた。
「必安に何を言った」
 入れ替わる直前に感じた不安げな感情をくみ取り、范無咎はジョゼフを牽制した。顔半分を覆う痣の中に二つ光る、透き通った金の瞳はただ冷たく、怒りの感情を孕んで細められる。
 ジョゼフは肩を竦める。
「事実を」
「事実?」
「事実さ。母親にべったりの三歳児だと言っただけだ」
「誰が母親だ?」
 その問いかけに、ジョゼフは視線を疲れた顔色すら隠せていないエミリーへと向ける。
 答えを察し、范無咎は冗談じゃないと声を荒げる。
「医生が母親だと?冗談も休み休み言え」
「君の片割れの行動は言い訳もしようもないくらいだったけど」
「母親だ?は、なら見てろ」
 途端、范無咎は椅子に座っているエミリーの服をわしづかみ、乱暴に引き寄せた。突然の行動にエミリーが息を継ぐ暇もなく、その口を喰らう。
 あまりにも唐突なことに、ジョゼフも、そしてエミリー自身もただ目を丸くする。
 ぬるり。
 口内に長い舌が差し込まれ、歯列をなぞり、逃げる舌を絡め取られ、ただただ貪られる。呼吸が食い尽くされ、酸欠になって頭が朦朧とする。
「ん、ぅう」
 僅かに唇が離れ、呼吸を許されるが、角度を変えて食われ、口蓋を、舌先が奥から手前へとなぞっていく。
 我に返り、必死に両肩を拳で叩くがびくともせず、くらくらと眩暈と共に体の力が抜け、抵抗は縋りつくものへと変わっていく。飲み下せない唾液が合わさった口端から零れて首筋へと垂れる。
 舌が痺れ、まともな抵抗もできなくなったころ、ようやっと范無咎は合わせた唇を離し、舌先で己の唇を舐めあげた。持ち上がった口端から、尖った歯が覗く。
「どうだ。母親とは、接吻はせんだろうよ」
 勝ち誇った顔でそう言い放った范無咎に、ジョゼフは二の句が継げない。しかし、耳まで真っ赤になった憐れなサバイバーが小さな手をしっかりと振りかぶったのは見た。
 
 
 色の悪い頬にくっきりと紅葉が残っている。
 范無咎は頬を押さえて、理解できないとばかりに眉間に深い縦皺を寄せた。
「何故、叩かれなきゃならんのだ」
「今のは君が悪いと思うよ」
 謝必安が三歳児なら、范無咎は考えなしに突っ走るやんちゃ坊主である。
 兎角、エミリー・ダイアーには同情を禁じ得ない。
 ジョゼフは、苦笑いをこぼした。

 めそりめそり。
 ジョゼフは目の前のどうしようもない光景に辟易した。
 ハンターが座る待機椅子に、謝必安が范無咎の魂が宿った傘を抱えてべそをかきながら座っている。めそりめそり。
 陰鬱な、伝播するようなその声は、サバイバーが待機するテーブルまでは届かないものの、どうにも気が滅入るようなそれである。
 ぞろりとサバイバーのテーブルに面々が座る。ゲームの場は湖景村。
「あのさぁ。次のゲームのハンター、僕なんだけど。君は前の試合だろ?そこを退いてくれ」
「エミリーが部屋に入れてくれないんです」
 とうとう泣き落としもきかなくなった様子で、謝必安は鼻を啜る。溜息を吐きながら、大きな手で傘を撫でさする。
「私、どうにも悲しくて、ゲームも気が入らなくて」
 その言葉にジョゼフは、先の試合の戦績を見たが、見事に四吊りを果たしている上、暗号機は四つも残っている。サバイバーもまともなチェイスができていない。傭兵ですら、三十秒と持っていなかった。
 気が乗らないというハンターの言葉ではないし、戦績でもない。
 横目でジョゼフは再度謝必安を盗み見るが、やはり傘を抱きかかえて泣きごとを言っている。
「とにかく、そこを退いてくれよ。君、もう一回ハンターするのかい」
「エミリー」
「それはもう分かったよ。そこでべそをかくくらいなら、さっさと彼女のところへ行って、弁解でもなんでもしてきたらどうなんだい。そっちの方がよほど有益だと思うけど」
「ですが何があったのか、私にはさっぱりで」
 そこまで言われて、ジョゼフはその事実を再認識する。
 彼らは情報を共有することができていない。
 表裏一体のその存在は、互いの存在を認知はしているが、互いの行動までは認知できていない。
 もっとも近く、そしてもっとも遠い。
 結果として、謝必安は片割れが何をしでかしたのか知らないままに、出入り禁止を申し渡されているわけである。なんとも憐れな。ジョゼフは鼻で笑った。
「ああ、何があったのか知らなかったのか。それは仕方ない」
「怒っているのはわかりました。頬に叩かれた痕があったので」
「キスしたんだよ」
 ぱちり、とジョゼフの言葉に謝必安は目を瞬く。
 驚いて体が硬直している腕を取り、ジョゼフは椅子から無理やり立ち上がらせると、代わりに椅子へと腰かける。無駄な時間を過ごしたせいで、待機時間いっぱいにサバイバーはくだらない会話を繰り広げていた。
 00:00。
「范無咎が、彼女に」
 ゲームが始まった。

 ゲーム中の負傷は、骨折など日常生活に支障をきたすようなものは、ゲーム終了時には自動的に完治するものの、擦過傷など小さな怪我は治らない。
 傭兵はその特質上、救助を専門としている。ハンターからの一撃を受けても、それが実際に反映されるまでのは時間を要する上、肘当てで一気に距離をとれることから、ダウン負傷をしても、無事にハンターの目を切れば、負傷の治療を受け、再度救助に行くことができる。
 故に、傭兵は度々負傷する。
 何を以て軽度とするのか、重度となるのか、その基準はよく分かっていない。
 エミリーは、先の試合でいつものように怪我をしたナワーブの治療をしていた。ハンターに殴り飛ばされた時に地面で擦りむき、腕に血が滲んでいる。
 土を水で落とし、感染症防止のため消毒を施す。
 最後にガーゼで負傷箇所を覆い、包帯で巻き固定する。
「はい」
「あんがと、先生」
「他に怪我した人はいるかしら」
「いや、今日は俺だけ。今日は救助の時の恐怖の一撃でみんなバカスカやられてったからさ。あー白黒無常の奴、タイミング合わせるの上手すぎだろ」
「お褒めにあずかり光栄です」
 突然かけられた声にナワーブは椅子から飛び上がった。肩に黒い滴が滴り落ちてくる。椅子から転がり落ちるようにして、ナワーブは姿を現したハンターと距離を取る。
 そして、先ほどまで怪我の治療をしてくれていたサバイバーの声の冷たさに口元を痙攣らせる。
「用事がないなら帰って。治療中よ」
 治療はすでに終わったはずではと思いつつ、ナワーブは口を挟まず、ちらりと二人を眺める。
 あまりにそっけない態度のエミリーに謝必安は眉尻を下げる。
「エミリー」
「帰って」
「エミ」
「帰りなさい」
 取りつく島もない。
 めそり。
 悲しげに頭を落としたハンターの姿に、ナワーブは同情を覚える。何をしてここまでの怒りを買ったのかは理解できないが、流石に気の毒に思え、エミリーへとナワーブは声をかける。
「あー、と先生。話くらい聞いてやってもいいんじゃないか」
 チェイスはまともにできなかったが、あの恐怖の一撃と見事な救助狩りに最大の賛辞を呈して。
 普段であれば、決して肩を持ったりなどしないが、ナワーブは、あの見事なゲームをした白黒無常に敬意を表して、それをした。
 しかし、藪をつつくべきではなかったとすぐに後悔する。
「あなたの傷、次回からはこっちの薬の方がよかったかしら」
 手にした消毒液は、ひどくしみるタイプのものである。
 ひえ、とナワーブは唾を飲み込み、顔を強張らせた。いらぬ虎の尾を踏んでしまったのは明らかである。顔が笑っていれば、まだ猶予はあるものの、ただただ冷たい。向けられた顔は、どうしようもなく真顔である。
 ナワーブは両手を上げて、エミリーから一二歩距離を取った。
 距離をとっても怒っているのが分かるほどに、エミリーは怒っていた。これ以上は部屋から出た方がいいのか、とナワーブはゆっくりと音を立てず扉の方へと下がっていく。
 しかし、反対に謝必安は開いていた距離を詰めた。ぎょっとするほどの近さである。後もう少し動けば、鼻と鼻がぶつかりそうになるほどにその距離は近い。
 エミリーもその距離に思わずたじろぐ。
「無咎が、あなたに口付けを?」
「悪気はなかったんでしょうね」
「エミリー」
 事実を確認すると、謝必安はさらに距離を詰めた。鼻先が触れ合う。その行動に怒りが吹き飛び、動揺でエミリーは身を捩り、椅子から下りようとしたが、すでに両腕には謝必安の手が絡みついている。
 逃げられない。
「無咎は、あなたにどんな口付けをしたんですか」
 先程までの狼狽え、泣き出しそうな空気はもはやどこにもない。
 矢継ぎ早に質問がくる。
「触れるだけの?啄ばむように?それとも」
 それとも。
「魂を揺らすような」
 唇がかすかに触れ合う。
 先日のことが生々しく思い出され、一気に耳まで赤く染まる。エミリーはぎゅ、と目を閉じて体を固くした。
 そこに、緊張感のない声と共に、間にもう一つの体がぐいぐいと割って入る。
「はいはい、そこまでな」
 完全に部屋から出て行き損ねたナワーブは、背中にエミリーを隠すように間に入っていく。力ではハンターに敵うはずもなく、エミリーの腕に絡みついている手を解くことはできなかった。
 近付けられていた白黒無常の顔を押しのけて、間に入るので精一杯である。
 しかし、それが功を奏したようで、白黒無常はエミリーから手を離して、詰め寄っていた体を下げた。
「いや、よく分かんねーんだけどさ。とりあえず、先生怖がってるみたいだから」
 退け、とは言わない。
 けれども、無言で見下ろされる方が余程威圧感があるし、恐ろしい。実際、かけられているプレッシャーは半端なものではなく、戦場でこのような気配を出されたら、そこには極力近づかない。
 そこに突っ込んでいくのは、無謀な英雄か、余程の馬鹿か、はたまたただの死にたがりである。
 自分はどこに位置しているのだろうか、とナワーブは思いつつ、現実手を出されていない以上、話し合いの余地はあるようで、ナワーブは選択を間違わないように切り出した。
「先生はさ、こいつのこと嫌いなの。そんで、嫌だったの」
 背中を振り返ることなく、尋ねる。
 逃げたいという感情は表面張力でもっているようなもので、あと僅かに均衡が崩れたら、即窓から逃げ出しそうであるから、振り返ることなど、できはしない。
 ナワーブの言葉に、返答がすぐにあるはずもなく、冷や汗が、背中を伝っていく。
 ようやく返ってきた言葉は、どうにかこうにかで絞り出されたものである。
「おこ、っては、いるけれど、嫌いではないわ」
「だ、そうで。怒ってるらしいから、今は話し合いやめておいた方がいいと思うぜ。互いに冷静になってから話し合いした方が建設的だろ。争いごとってのは、互いに頭に血が上ってる間は解決しないもんさ」
「ずっと怒っています。部屋にも入れてくれない」
 俺は通訳じゃない。傭兵だ。
 ナワーブは泣きそうになった。けれど、間に入った手前、もはや逃亡という選択肢はない。
「先生、そう言ってるけど。話し合いの余地は」
 傭兵は交渉人ではない。
 エミリーは、気を取り直し、言葉に刺をもたせる。
「范無咎に誓ってと言ったでしょう」
「無咎は誓いましたか」
「まあ」
「誓っていないなら、お門違いというものです。大体あんな痕が残るまで無咎をひっぱたくなんて。無咎がかわいそうです」
「なんですって」
「いや、ちょっと御両人」
 折角人が間を取り持ってやろうとしているのに、このハンターは自らそれをぶち壊そうとするのか。今すぐにでもラグビーボールを今すぐ借りてきて、タックルをしてやりたい気分でいっぱいだった。
 ナワーブは前と後ろで言葉が飛び交う中心で、そっと遠い目をする。
 交渉は失敗した。
 謝必安は抱えている傘を、気の毒そうにするすると慰めるように撫でる。
「かわいそうな無咎」
 当然部屋からは叩き出された。

 叩きつけるように閉められた扉を背に、ナワーブは隣に立って、閉め切られた扉を叩くハンターを横目で見る。
「なあ」
「なんです」
「なんで、アンタあれで許してもらえると思ったんだよ。駄目だろ、あれは」
「駄目ですか」
「駄目だろ」
「そうですか。では、手法を変えてみましょう」
「え」
 謝必安は扉を叩く手を止め、傘の先を室内へと向ける。慌てて止めようとしたが、すでに遅い。傘はするりと施錠された扉を抜けて消えた。
 そして、部屋の中で物が投げられる音が轟き、ナワーブはそっとその場を後にした。