指名手配

 のりがよくきき、ぱりっとした、透けるほどに白いシャツを丁寧に畳む。
 エミリーはあれやこれやで今だ返却に至っていなかったジョゼフのシャツを紙袋に入れた。昼食前には返してしまいたいところで、時計の針は間もなく十一時を指す。
 今日の午前中のゲームは協力狩りが二件。
 ジョゼフは協力狩りには参加できないことから、午前中は暇を持て余している、或いは優雅に紅茶でも飲んでいるのではないかと、考えつつ、服を借りた礼にと、手作りのスコーンを包装して、紙袋に添える。
 最近、部屋に入り浸るようになった謝必安といえば、協力狩りの要請を受け、美智子に連れられて行った。
 行きますえ、と口元を扇で隠し発された声音は、雹でも落ちているのかと思うほどには冷たく、我儘を言いがちな謝必安も二つ返事でついて行った。
 荷物を胸の前に抱え、エミリーは中庭を抜ける。
 エマが手入れしている庭には様々な花が咲きほこり、季節折々の色鮮やかな光景で目を楽しませてくれる。庭の一番見晴らしがよいところには、案山子が一体立っており、エミリーはその前で足を止め、物言わぬ案山子をまじまじと見る。
 以前、エマは案山子が喋って動くと言ったが、どこからどう見ても案山子は案山子であるし、触れても体温などなく、心音すら感じない。
「こんにちは」
 当然、声をかけたところで返事などあるはずもなかった。
 エミリーは目を一度伏せ、自身の行動に薄い笑みを刷く。その背中に、突然声が掛けられた。
「案山子はいつから口をきくようになったんだい」
 一切の気配なく、足音もなく、あまりにも突然のことに、心臓が止まりそうになる。エミリーは、飛び上がりそうなほど震えあがり、しかし声の主が誰であるかは、その声ですぐに分かったので、肩の力を抜いて振り返る。
 協力狩りにいつまでたっても参加できないジョゼフは、白くゆるやかな、癖のある髪を後ろで一つにまとめ、エミリーの視界に入る。
「あなたに会いに行くところだったの」
「僕に」
 エミリーの突然の言葉にジョゼフは思わずその目を丸く大きくする。
 少なくとも、エミリーと会う約束はしておらず、またその用事すらジョゼフには思い出すことができなかった。
 怪訝そうな顔をして、口をへの字に曲げているハンターにエミリーは肩を揺らして笑う。
「そう、あなたに。シャツを借りていたでしょう。色々あって返せていなかったから。のりもしっかりきいているし、文句は言わせない仕上がりよ」
 しかし、エミリーが差し出した紙袋をジョゼフは受け取らなかった。ただ、その両手で持たれた紙袋を見下ろしている。
 微動だにしないジョゼフにエミリーは紙袋を前へとさらに差し出す。
「どうしたの」
「僕も君の服を持ったままだ」
「そういえばそうね。カビが生えているなら捨てるけど」
「いや、洗っておいてある」
 その返答にエミリーは花がほころんだような笑みをぱっと浮かべた。その明るさに、ジョゼフは目を眇め、僅かに後ずさった。
 眩しい。
 エミリーは両手を打ち鳴らし、声を弾ませる。
「ならそれを持ってきてちょうだい。ちょうど天気もいいし、ここには素敵なテーブルと椅子もある。お茶会にでもしましょう」
 スコーンを焼いたの、とエミリーはラッピングしていたスコーン入りの袋を持ち上げ、ジョゼフの視線の高さへと持っていく。
 へえ、とジョゼフは顔を歪めてみせた。
「ハンターとお茶会?相当イかれてるね」
「皮肉は結構。するの、しないの?」
「君がどうしてもと言うのなら」
「面倒くさいハンターね。一時間後にまたここで」
「君に言われたくはないな。では、後ほど」
 ジョゼフは踵を返しその場を後にした。
 一時間後、彫刻の施された白いテーブルの上にテーブルクロスが敷かれる。その上には三段式のケーキスタンド。一番下の段には可愛らしい一口サイズのサンドウィッチ、真ん中の段には少し小さめの果物で彩られたケーキ。最上段には軽く焼き直したスコーン。その横には爽やかな香りのする紅茶の準備された。
 エミリーはセッティングに満足し、腰に手を当てて軽く胸を前へと出した。
 薔薇のゲートを通って近付いてくる客が視界に入る。寒気が装備されていなくとも、見つけるのは容易い。
 椅子を一つ引き、エミリーはどうぞと手で椅子を指し示す。
「どうも」
 ジョゼフは引かれた椅子に腰を優雅に下ろした。そしてエミリーも、もう一つの椅子に腰かけ、嬉しげに微笑み、小さく咳をした。
「自慢の出来よ」
「エスコートも申し分ないね」
「あなたのお墨付きなら間違いはないわ」
 ジョゼフはいたって気分の良い、あるいは警戒心の全く感じられないサバイバーの用意した紅茶を口にする。
 絶賛するほどおいしいものではないが、おいしいと呼べるほどには出来は良かった。
 文句が発されない状況にエミリーは気分を良くし、自身も紅茶を口にする。夜更かしをするときによく淹れるものであるから、自己流ではあるものの、ジョゼフが文句を垂れない程度には飲めるものだと安堵する。
 一口サイズのサンドウィッチに挟まれているのはレタスとハムに茹で卵。上品に手を添えて、口に放り込む。
 しゃきり、とレタスの新鮮な音が口の中で弾ける。
 イギリス式の小洒落たセットは、正直食べ方など分かりはしなかったが、軽食と呼べるものから口にしていく。
 次に軽く焼き直されたスコーンを取って二つに割る。側に置いてあった苺ジャムをひと匙。甘酸っぱいそれは、口の中でふわりと広がり、後に残らない。
「これはいいね」
 エミリーも同様にスコーンを食べている最中に、その言葉を耳にした。そして、その顔いっぱいにこれ以上ないほどの笑みを浮かべる。
 向けられた、柔らかな笑みにジョゼフはスコーンを一飲みにする。
 味が、分からなくなる。
 紅茶を飲むその仕草は洗練されており、一切の無駄がない。よくぞここまでとエミリーは視界の端でジョゼフの動きを捉えつつ、心から感心した。育ちがよい、とはこういうことを言う。
「君は」
 ふと発された言葉に、エミリーは紅茶を飲もうとした手を止める。唇に当たるか当たらないかのところで、カップが制止する。
 美しい、空色の宝石の中に、自身の姿が映し出されていた。
「誰にでも、こうなのか」
「お茶会なら皆と一緒に時々するけれど」
 一拍、間が持たれる。
 無防備で、無警戒で、誰でも受け入れるのだというその姿勢。
 ジョゼフの手から紅茶のカップがソーサーに叩き落され、中に入っていた紅茶が跳ね、その手にかかる。
 白い袖に紅茶の染みが滲んだ。
「どうしたの」
 顔に怯えが滲んでいる。
 ジョゼフは短く息を吐き、額をその手で押さえ、ささくれ立った気持ちを落ち着かせていく。
 いや、と短く返事をして、口角を小さく上げて笑みを作って見せる。それだけで、エミリー・ダイアーは胸を撫で下ろしていた。
 その姿に、苛立ちが肺腑を突き刺す。
「このスコーンとジャムなんだけど、今朝謝必安と作ったのよ。彼、いつも范無咎を引合いに出すけれど、彼も十分に器用だったわ」
 ケーキスタンドをテーブルから払い、地面に叩きつけなかった自分を褒めてやりたい。
 ジョゼフは、震える手をどうにか気力だけで押さえつけながら、紅茶を口に運ぶ。味がまともに分からない。
 一度空を仰ぎ、長く深く、荒れた感情をどうにかこうにかで平坦に持っていくも、ざわりざわりと海底地震でも起こっているかのように、波は立つ。
「彼は、君の部屋によく来るのかい」
「最近は入り浸っているから、用事があるなら、私の部屋に来た方が早いかも。ベッドも狭くて少し困ってるの」
「ベッド⁉︎」
 ジョゼフはその単語に目を開き、思わず立ち上がった。
 テーブルが大きく揺れ、エミリーは咄嗟の動きで倒れかけたケーキスタンドを押さえる。
「なに、そんなに驚いて」
「いやいや」
 立ち上がったものの、再度椅子に腰を下ろしてジョゼフは身を乗り出す。
「一緒に寝ているのかい、まさか」
「入ってくるから」
「入ってくるからじゃないだろう。犬じゃないんだ。入ってきたら君はアナコンダでもなんでもベッドに招き入れるのか」
「その例えどうかと思うのだけれど」
 平然とした様子で紅茶を味わうエミリーに、ジョゼフは強烈な眩暈を覚えた。
 頭を抱えてテーブルに突っ伏したジョゼフに、エミリーはその理由を察するも、はにかむように笑い、目を細めて見せる。
「やだ、大丈夫よ。彼はそういうことはしないと約束しているし、それに私もいい歳よ。そんな目で見られたりしないわ」
 見当違いも甚だしい。
 ジョゼフは呆れ果て、優雅さなどどこへやら、頬杖をついて紅茶を匙でくるくると混ぜる。屈託のない笑みを浮かべ、理由のない信頼を語るその顔をどうにかして歪ませてやりたいと、そんな意地の悪い欲望がふつりと顔をもたげる。
 君が心を許して傍に置いているハンターは、並々ならぬ関心を君に寄せているし、君の何倍ともいえぬ時を存在しており、それに対すれば三二の歳月など意に介することなどないのだと。
 不愉快なのだとそう言い切った謝必安の顔をジョゼフははっきりと思い出せる。
 あれは、全てが欲しいという顔である。
 ジョゼフは椅子から立ち上がり、エミリーが座る椅子の背に手を乗せる。見下ろせば、胸から腰へ、男性にはない柔らかなラインがはっきりと見て取れる。
 影に隠れた顔に動揺の色が揺れた。
 ジョゼフは、ゆっくりと唇を開き、言葉を紡ぐ。
「君は自分に自信がないというわけだ。だから、誰も君に手を出すことはない、と」
「私である必要を感じないわ」
「君である必要はないかもしれない」
「ええ」
「でも、君でなくてはならない必要もない」
 ジョゼフはエミリーが座っている椅子へ力を入れ、くるりと四つの足のうち一つを支点に自身の方へと正面を向ける。
 揃えられていた膝を割るように、ジョゼフは膝を無理やりこじ入れ奥へとにじり寄る。膝を隠すか隠さないかくらいのナース服のスカート部分はずり上がり、白い柔肌が日の光に晒される。
「ちょっと」
 下着すら見えそうなほどに上がったスカートをエミリーは両手で引き下ろそうとするも、間に入っている青色のズボンをはいた膝が邪魔をする。
 エミリーは立ち上がれもしない状態で、眉間に皺を寄せて苦言を呈す。
「からかわないで」
「からかってなどいないさ」
 スカートを下ろそうと力の入っている手を取り、指先がするりと、手首から手の甲を這うように白い手袋へと潜り込ませ、指を絡み合わせながら手袋を落とす。
 長い爪先が手の甲から掌を軽く引っ掻き、手を覆っていく。
「ちょっと」
 空色の宝石の如き瞳にエミリーは吸い込まれていく。微動だにすることも許されず、まるで金縛りにでもあったかのように、瞬きひとつできないまま、エミリーはジョゼフの動きをただ見ていることしかできなかった。
 ジョゼフはエミリーの反応を意にも介さず、ひとりごつ。
「青く若い果実は好まれがちだけれど、熟して濃厚な果実の方が僕はおいしいと思うよ」
 あらわになった太腿に掌が添えられ、なめらかな皮膚の感触を楽しむかのように指先が柔らかい腿を撫でさすり、そのまま指先は下着の縁へと触れた。
「あ」
 歯の根が噛み合わず、エミリーの瞳から大粒の涙がぼろりと一つ零れる。
 そこでジョゼフは足の間から膝を抜き、一歩、距離を取ると持ってきていた紙袋をエミリーの胸に押し付けた。
「つまり、それくらいの警戒心は抱いてほしいものだ」
 ジョゼフはそう言い残すと、エミリーが持ってきていた自分の服が入っている方の紙袋を手に取ると、背中を向けて小さなお茶会の場を立ち去った。

 どうやって自室まで戻ったのか、エミリーは覚えていなかった。
 気付けば、眼下には真っ白な日記が開かれている。動きを止めた万年筆の先にインクだまりが一つ、できていた。
 ベッドの上にはジョゼフが返してきた紙袋が未開封のまま放置されている。
「どうしたんですか」
「ひ」
 突然背後からかけられた声に、エミリーは全身を大きく震わせ、飛び上がる。
 振り返れば、開いた傘から黒い粒をこぼしつつ、人懐こささえ覚える笑みを浮かべているハンターがそこに立っていた。
 彼としてはいつものように、しかしエミリーとしては恐怖を覚えるように、謝必安は椅子に座ったままのエミリーの背後から両手を伸ばして日記へと触れた。
 ひゅ、と恐怖でエミリーの喉が鳴る。
「まだ何も書いていないんですね」
 謝必安はそのまま、エミリーの顔を横からぬっと覗き込んだ。
 頬が軽く触れ合う。
 普段であれば、それは大した距離ではない。いつもの距離感である。しかし、エミリーは咄嗟に両手を突き出した。
 伸ばした手は謝必安の薄い両肩を押す。けれども、非力な腕でその長い体が動くことはなく、反対にエミリーは突き出した腕の力で椅子から転げ落ちた。
 来るであろう痛みを覚悟してエミリーは目を瞑ったが、床にその背を打ち付ける前に、大きく骨ばった指がエミリーの腕を掴みとる。間一髪で転倒は回避される。
 謝必安は無言で腕を引っ張り、エミリーを椅子へと戻した。探るような目線に、エミリーは唾を飲み込む。言葉が出てこない。
「誰に、何を、吹き込まれたのですか」
 みしりと、掴まれた二の腕が悲鳴を上げる。
 刷かれていた笑みは取り払われ、縛り付けるような視線だけが向けられる。顔を上げることはできなかった。
 膝を折るような重圧が頭の先から足の爪先へとかかる。
 浅い呼吸を繰り返すも、答えを返さないエミリーに謝必安は痺れを切らしたかのように、再度名前を呼ぶ。エミリー。
 それに誘われるように、エミリーは一度固く瞳を閉じ、そして瞼を押し上げると、深く息を吐き、言葉を紡いだ。顔は上げない。
「あなたが、悪いわけじゃないの。これは、私の問題よ。申し訳ないのだけど、暫くの間、自分の部屋で寝てもらえるかしら」
 身を守るように自身の腕で体を抱えたエミリーに、謝必安は掴んでいた手を離した。そして、声音を和らげ、もう一度名前を繰り返す。
「あなた、不安なのです?」
 長い体を曲げ、しゃがみこみ、謝必安は俯いているエミリーを下から覗き込んで視線を合わせた。
 傘を抱えたハンターにエミリーは言葉を失くし、逃げるように視線を彷徨わせる。その反応に、謝必安は満足気に口元を緩めた。
「あなたがいいと言うまで、なにもしません。なにも」
 ええ。
「無咎に、誓って」
 謝必安は震えの収まらないエミリーの手を取り、己の手で包み込んだ。指先は絡め取られることなく、ただ、そっと包まれる。ゆっくりと指先の震えが収まっていく。
 彼にとっての范無咎がどれほどの存在か、承知している今では、その言葉は何よりも重く、確かである。
 強張っていた体からすっと力が抜け、エミリーは思わず落ちそうになった涙を腕で強く拭い取る。
「少し、混乱してしまって。ごめんなさい」
「謝らないで。まあ、下心がないと言えば、嘘になりますから」
「え」
 しれっととんでもない発言をした謝必安に、エミリーは思わず声を上げる。それに謝必安は首を軽く傾げて見せた。
「あなた、私のことを子供か何かと勘違いしていたんですか」
「だって、あなたの行動、三歳児だわ」
 ぽろりと出た言葉にエミリーは咄嗟に口を噤むも、出てしまった言葉は返ってくることはない。気まずさに視線を泳がせたが、謝必安はその言葉に小さな笑いで返す。
 その声音に怒りが含まれていないことを察し、エミリーはちらりと視線をずらし、その顔色を確かめた。謝必安は目を細めていた。口元は弧を描いている。
「大丈夫。まだ、なにもしませんよ」
 不穏である。
 エミリー・ダイアーはそっと片手に治療道具を詰め込んだ救急箱を握りしめた。