後遺症 - 3/3

3

 ジョゼフはホワイトサンド精神病院という文字を見ただけで辟易していた。
 横に長く、死角が多いこの対戦場は好きではない。それどころか嫌いだった。
 全てが面倒くさくなり、ジョゼフはベッドのある病室でごろりと横たわる。目を閉じて一眠りしていれば、通電してゲートを開いて荘園に彼らは帰る。
 これでいこうと深く息を吐き、ジョゼフは意識を闇に落とした。
「ん」
 どれくらい眠っただろうか。通電はすでに終わっている。もう全員荘園に帰っていてもよいころである。
 ジョゼフはサバイバーの状態を確認したが、そこで、首を傾げる。
 誰一人として脱出していない。
「あれ」
「おはよう、ジョゼフ」
 突然、ベッドの横から声をかけられ、ジョゼフは驚いてそちらへ顔を向ける。そこには、梟を肩に乗せた占い師が一人立っていた。
 やれやれとジョゼフは肩を落とす。
「まだいたの。まさか迷子かい」
「冗談言わないでくれ。君が起きるのを待っていたんだ」
 にこり、とイライは笑みを浮かべる。
 何故待つ必要があるのか、ジョゼフは理解ができず、首を傾ける。
 言っていることが分からない。手を抜いてやっているのだから、逃げれば四逃げの完全勝利である。
 梟がイライの肩から、翼を大きく広げて宙へと舞う。
「月の河公園では、どうもありがとう」
「ああ、僕も楽しかったからあれは」
「最後も、楽しかった?」
 ジョゼフは動きを一瞬止めた。
 占師の言葉の意味を感知し、ははと乾いた笑いをこぼす。
「成程、試合後観戦か。未練たらしく残っていたのかい。それで?いいものが見れた?晩のおかずにはなったかな。まあいいじゃないか、アレはちょっとした悪戯だし、君たちは勝利を得た。それが全てさ」
 ベッドで長い脚を組み、頬杖をついたハンターにイライは口端をゆっくりと持ち上げ、弧を描かせる。綺麗な三日月ができた。
「ああいうゲームはよくないと思う」
「僕がどういう立ち回りをしようが、君たちの関知するところじゃない」
「なら僕たちがどういう立ち回りをしようが、君には関係がない」
「そうだろうね。さあ勝手に出てくれ、ぇ」
 あ、とジョゼフは明滅した視界と共に体を支え切れず、ベッドに倒れ伏した。
 穏やかに笑う占い師の後ろにある衝立から、呪術師の姿が見える。横には、オフェンスと探鉱者。解読者なしのスタンメンバー。
 ぞっと体が震える。
 占い師は変わらず穏やかに微笑んでいた。
「君が寝ている間に随分といろんなものが貯まった」
 不吉な言葉が聞こえる。
「ジョゼフ、ゲームをしよう」
 柄を握る手は、梟を払っただけだった。

 ぼろぼろというにはこれ以上ないほどうってつけの状態であった。
 ソファに突っ伏して、ジョゼフはわめきたてるような大声をクッションに吸わせる。
「あら、どないしたの。ジョゼフはん」
「…聞いてくれるなら、話すよ」
「あらあら。傷心やねえ」
 美智子は髪は乱れ、服は汚れているジョゼフの隣に優雅に腰かける。ジョゼフは堰を切ったように、ホワイトサンド精神病院での惨事を語りつくす。
 結局、磁石に呪いにタックルにと尽くやられ、やり返そうと振るった剣は梟で防がれるわでさんざんであった。どうにか投降し、今現在に至る。
「次に会った時は、絶対全員吊る。絶対だ」
「そやけど、それあんさんが悪いんやないの」
「いや、僕の話聞いてた?四対一だよ」
 さらりと告げられた言葉にジョゼフは唖然として言い返すが、扇で美智子は口元を隠してくすくすと上品に笑う。
「気になる子にいやがらせしとうなる気持ちもわかるけど、大人気ないいやがらせはあかんなあ。女の柔肌に承諾なく痕残すのはいただけません」
 すい、と鼻先が触れそうなほど美智子の顔が接近し、ジョゼフは軽く体を仰け反らせる。
「通報案件どすえ」
「な」
 言葉をなくしたジョゼフに美智子は笑みを深めて、冗談どすと笑った。
 
 
 不機嫌な顔をしている。
 ノックされた扉を開ければ、そこには普段からは想像ができないほどボロボロになったハンターが一人立っていた。
 艶のある白髪はぼさぼさに乱れ、大いに汚れてしまっており、手触りのよい美しい服は皺がより、埃まみれで目も当てられない。
「どうしたの」
 エミリーは扉の下に立つジョゼフに声をかけた。
 不機嫌さを隠そうともせず、ジョゼフは小さな紙箱をエミリーの前へと突き出す。中が見えず、エミリーは首を傾げ、しかし受け取ることはしない。何が入っているか分かったものではない。
「いいから早く受け取りなよ」
「中に何が入っているの」
「うるさいなあ。別になんでもいいだろう」
 受け取ろうとしないエミリーの胸に持参してきた紙箱を押し付け、ジョゼフは承諾なく室内に入る。
 服についていた埃をはたき落とし、乱れた髪を手櫛でざっくりと直す。もともと細く、なめらかな髪はそれだけで普段の状態を取り戻す。それでも顔が不機嫌なのは変わらない。
 一体なんだというのか。
 理解できないまま、エミリーは紙箱の中をあらためる。中に入っていたのは、涼しげな果肉入りのゼリーであった。宝石のような色が美しい。
 体調が万全でないため、エミリーは寝間着で、体を冷やさないよう厚手のショールを羽織っていた。熱はまだ下がりきっていなかったが、ノックがしつこいので扉を開けた。
 エミリーの隣を通り過ぎ、ジョゼフは椅子を引くと、そこに乱暴に腰かけ、足を組む。むすくれた様子はまるで、思い通りにならないことに憤慨する子供のようである。
「風邪をうつしたらいけないから、出てちょうだい」
「悪かったよ」
「なにが」
 謝罪の理由が分からず、間髪入れず聞き返すも、エミリーの疑問にジョゼフは答えなかった。代わりに、テーブルの上に置いたままの中国茶をコップへ淹れて口を付ける。
 何がやりたいのか、何を伝えたいのか分からないまま、エミリーはもはやジョゼフが暫くここに居座るつもりであることを察して諦め、少し離れた椅子に腰かけた。
「一緒に食べる?」
「君に持ってきたんだ。君が食べたらいい」
「だってあなた。そこに座っているんだもの」
「…じゃあ、いただこう」
 口をへの字に曲げ、ジョゼフはそっぽを向く。いつも以上にひねくれたその態度に辟易しながら、エミリーはてきぱきとガラスの器にゼリーを移し、ジョゼフの前に銀のスプーンと共に置く。
 ふるり、と中の果実を輝かせながらゼリーがふれる。
 上品な仕草でジョゼフの口にゼリーが運ばれ、舌の上に乗る。絶品である。選択に間違いはなかったとジョゼフは音を立てることなく、ゼリーを食べ進める。
 ちらとエミリーの方へ視線をやれば、やはり美味しかったのか、目がきらきらと輝き、口元を手で押さえていた。
「おいしい」
「喜んでもらえたなら」
 ほっぺたが落ちそうと朗らかに笑うエミリーからジョゼフは視線を意図して外す。
 自分が持ってきたゼリーを自分で口に運び食べる。絶賛するほどかどうかは別として、兎角エミリー・ダイアーは喜んでいた。顔を見れば、分かる。
 なんだとジョセフは思う。
 こんなに簡単に微笑むものなのかと。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 中国茶よりは紅茶を嗜みたい。
 そこでジョゼフはふと手を止める。この部屋に中国茶が温かい状態で淹れられているのはおかしい。少なくとも、エミリーは中国茶の淹れ方なぞ知らないはずである。
 ジョゼフの疑問に答えるかのように、ずるりと傘から黒い雨粒とともに白い影が姿を現す。親の仇を殺すかの如き冷めた視線が送られる。別に怖くなどない。
「なぜ、あなたが、ここに」
 声音の低さに、室温が三度ほど下がった。
 白く長い三つ編みが動きに合わせて揺れ、牽制するかのように、エミリーとの間に体を差し込む。
「僕がどこにいようが勝手だろう。ほっといてくれ、傷心中だ」
「傷心するような繊細な心をお持ちとは思いませんでした」
 ゼリーをすくったスプーンを口に放り込みながら言い返すジョゼフに謝必安は、皮肉で以て返す。
 椅子を一脚滑らせるように移動させ、エミリーが座ったままの椅子を少しずらし、ジョゼフの椅子を足で蹴り飛ばした上で動かし、その間に自身が座るための椅子を据え置く。
「乱暴だな。余程足癖が悪いと見える。てっきり足癖が悪いのは范無咎の方かと思ってたよ」
「失礼。あなたよりも、ずっと、足が長いもので」
「ああそうだったね、どこぞの虫のような長さだ。虫籠は入用かな」
 嫌味と皮肉の応酬が続き、暫く視線をかち合わせ、火花を散らした後に、互いに顔を背ける。
 謝必安の前にゼリーが添えられたガラス器が置かれる。
「おや、これは綺麗ですね。とてもおいしそうです」
「昆虫にも物の良し悪しはわかるんだねぇ」
「皮肉を言いたいだけなら、お帰りになられては?行先は私がご案内した方がよろしいですか」
「じめじめした陰気なところはごめんでね。遠慮しておくよ。お気遣いありがとう」
「それはどういたしまして」
 二人はそろって顔に笑みを張り付けているが、目が笑っておらず、今にも殴り合いに発展しそうな、一触即発の状態であった。
 エミリーは溜息をついて、茶器に中国茶を淹れて謝必安の前に置く。
「喧嘩をするなら二人とも帰って」
「ところで、エミリー。あなたまだ熱があるでしょう。休んでいてください。言ってくだされば、ある程度のことはできます。無咎が」
「そう、彼が」
「ええ。無咎は何でもできます。器用なんです」
 謝必安のとんちきな返事に頭痛を覚えつつ、エミリーは椅子に座って食べかけのゼリーに再度手を付ける。
 熱がある身にひやりと冷たく口当たりの良いゼリーは本当においしい。一口一口が身に染みわたるように甘く、するりと口に入っていく。この時ばかりは、ジョゼフの贈り物に感謝をした。
 そこでエミリーはふと思い出す。
「そういえば、何か用事でも?」
「そこの彼には聞かないで、僕には聞くわけ?君は」
「謝必安は看病をしてくれていたの」
「范無咎が、の間違いじゃないのかい」
 吐き捨てるようにいい、ジョゼフは手を振りながら、背もたれに体重を預け、口先尖らせる。
 来た理由は。
 ジョゼフは口ごもる。満身創痍となったその原因がその理由と言っても過言ではない。
 暫くは、スタン持ちがサバイバーにいたら、途中退出をしそうなくらいには、嫌になった。
 別にとジョゼフは腕を組んだ状態で目を閉じ、天井を仰ぐ。
 別に、少しの可愛い悪戯心である。
 隣に座る白黒無常とは距離も近くいっそ同衾すらしているという話すらあるというのに、彼女とくれば、自分を見れば二歩下がり、目がかち合えば言葉の応酬しかない。
 それはすこし、ずるい。
 ずるいと、思う。
 ジョゼフは目を開ける。
「紅茶が飲みたいんだけど、謝必安」
「何故私に言うんです」
「病気のエミリーに客人をもてなさせるつもりかい。君の自慢の范無咎はなんでも器用にできるんだろう?」
「勿論です。無咎はなんでも」
「ならお願いするよ」
 挑発するように范無咎の名前を出せば、あっという間に謝必安は釣り針を飲み込んだ。続けられた言葉に、謝必安は一度口をぱくりと動かし、しかし分かりましたと苦虫をかみつぶしたような顔をして、傘を広げる。
 傘がくるりと回り、その姿は白波に消え、ゆっくりと、ずっと目つきの悪い男が姿を現す。
 范無咎は、ジョゼフと隣に座るエミリーに眉を顰めた。そして、誰かが言葉を発するよりも早く、椅子に座るエミリーの首根っこをひっつかんで、ベッドに投げ飛ばす。
 咄嗟のことに反応できず、投げ飛ばされた先のベッドで、跳ねたエミリーは起き上がろうとしたが、その頬を掠めて傘がベッドへ突き刺さる。スプリングが軋んだ。大きな影が威圧を込めて、地獄の底から響く声で唸る。
「病人は、寝ていろ」
 頬に僅かに傘の先端が掠め、ほんのりと赤く膨れる。
 落とされた影の圧迫感にエミリーはがくがくと震えながら首を縦に振った。それ以外の選択肢はない。
 掛け布団をすすと上に引き上げ、すっかり大人しくなったエミリーに范無咎は満足気に頷く。
「よし」
 そして、押し倒すように置いていた体を持ち上げ、前にかかった三つ編みを頭を振るって後ろに払う。
 そこでジョゼフが椅子に腰かけている事実に気づく。
「なにをしている」
「なにって、君の片割れが、君が紅茶淹れるというから待っているんだ」
「俺が?」
 怪訝そうに眉を顰めながら、范無咎はジョゼフの言葉に荒々しく言葉を返す。勿論、とジョゼフは肩を軽く竦めて見せた。
「君が」
「淹れたこともない茶など淹れられるか」
「自慢の謝必安が、君は器用でなんでもできるんだと豪語していたけれど」
 この二人はどうにも互いに弱い。
 ジョゼフは謝必安を引合いに出し、空になった中国茶器を差し出して傾ける。范無咎は小さく溜息を落とすと、ジョゼフの手から茶器を奪い取り、保証はせんと一言告げて、いったん部屋を出ていく。
 二人っきりになった部屋で、ジョゼフはベッドで頭まで隠してしまったエミリーに話しかける。
「起きてるんだろう」
 返事はない。
 余程、范無咎の脅しが効いたとみえた。ジョゼフはエミリーが聞いているものと判断して話を続ける。
「別に、君と喧嘩をしたいわけじゃない。ちょっとした」
 白い背中は、腕は、足は、まだ指先の感覚が思い出せる。
「君は、彼らには優しく振る舞うのに。僕にはいつもつっけんどんで、頑なだ」
 返事は、変わらず、ない。
「だから、」
 ほんの少し、こっちを素直に向いてほしかっただけである。自分にも、その関心を向けてほしかった、それだけである。
 ジョゼフは口をそこで噤んだ。そこで、耳が規則的な呼吸音を拾う。思わず立ち上がり、布団を軽く捲る。そこにはもう深い眠りに落ちてしまっている医師がいた。
「この」
「この、なんだ」
 耳が音を捉えるより早く視界の隅で、黒い傘が頬に触れていた。
 ジョゼフは海よりも深い溜息をついて両手を、害悪がない意思を示してあげた。傘は警戒を解かないままゆっくりと引かれ、先を床につける。
 一歩下がって振り向くと、そこには范無咎が片手にティーポットとカップを置いたトレーを給仕よろしくバランスよく持っている。
「味は保障せんぞ」
「いいよ。謝必安の君対する盲目的な信頼は若干度を越しているからね」
 机の上に置かれたカップを流れるような動作で手にし、ジョゼフはカップに口を付け、それを一口飲み、そして盛大に吐き出す。口を押さえる手は間に合わなかった。
 范無咎はジョゼフのその様子を気に留めることなく、謝必安が用意していた椅子に腰かける。
「なんだいこれ。泥水を啜った方がまだましだよ」
「言ったろう。味の保証はせん、とな」
 素知らぬ顔をして、謝必安が半分残していたゼリーを平らげ、范無咎は味に満足したのか顔を緩める。
 こんなに不味い紅茶を淹れられる存在を他に知らない、とジョゼフはぼやきながら、色はまともであるというのに、渋さという渋さをぶち込んだような紅茶に絶望した視線を送る。
「君、器用じゃないの」
「知らんな。俺が知るのは、医生が淹れた紅茶ぐらいだ。それも一から準備している様子は見たことがないから、分からん」
「君さあ」
 ジョゼフは、それを口にしようとして、しかしやめた。
 怪訝そうな目を向けられるが、首を横に振り、泥水よりもひどい味のする紅茶を下げ、冷めてしまった中国茶を口直しに飲む。
 ふと視線を上げれば、そこにすでに范無咎の姿はなく、謝必安が椅子に腰かけていた。ジョゼフは結果を口にするのを諦め、最後のゼリーを口に運んだ。
「エミリーは寝たのですか」
「随分な方法でね」
 スプーンをガラス器に戻す。ちき、と高めの音が鳴った。
 彼は、あるいは彼らは。ジョゼフは視線を軽く上げ、穏やかな視線をベッドへ向けているハンターを見る。
「なんで、君は彼女の隣にいるんだい」
 素朴な疑問をする。そしてジョゼフはその質問が間違っていたことを知る。
 一度目が見開かれ、その後、ゆっくりと弧を描くように細められる。薄く開いた口からは白い歯が覗いている。
「不愉快だからです」
 范無咎が食べ、空になった器を手にし、首を傾げ、そのハンターはジョゼフと目を合わせてくる。視線が絡み、ジョゼフは思わず口元が自然に歪むのを知る。
「無咎と私。それ以外が、彼女の側にいるのが不愉快だからです。あなたも、例外ではない」
 寝ていた虎を起こしたか。
 肌がひりつき、ジョゼフはふふと小さく笑いをこぼし、席を立った。穏やかな笑みの向こうにあるのは慈悲などではない。
「君のその一面を見れば、彼女はなんと言うんだろうね」
 皮肉った言葉に、謝必安は笑みをゆっくりと深める。
「彼女は言ってくれました。私はハンターで、それでよいのだと」
「つまり、君のその一面すらもハンターだと」
「ええ」
 思わず笑いそうになった。ジョゼフは、緩みそうになった口角を隠すため、俯き、顔を両手で覆い隠す。そうでもしなければ、大声で笑い出しそうだった。
 そんな愚かな話はない。
 しかし、それを教えてやるほどジョゼフは親切ではなく、笑いを押し殺し、表情に力を籠め、嘲笑いそうになるところを堪えて神妙な顔をする。
「そう」
 果たして、地獄の警吏は誤魔化せただろうか。