後遺症 - 2/3

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 それはなに。
 周囲の目がそういっている。
 エミリー・ダイアーはサバイバーが集まる食堂で、いそいそと自分の隣に座ろうとするハンターへ視線を送る。
「サバイバーの椅子は私には小さいですね。ああ、あの台を持ってきましょう。少し待っていてください」
 白い陶器の皿の上には、こんがり焼けたベーコンにふわふわのスクランブルエッグ、ぱりっと幾層にも重なっている焼き立てクロワッサン2つ。それにぶどうジュースにヨーグルト。
 座った席の周囲は異質な空間ができている。
 エミリーの隣に、謝必安は拝借してきた台を置き、その上にちょこんと膝をそろえて座った。フォークの代わりに箸とスプーンを使い、綺麗に皿の上を片付けていく。
「ねえ」
「食後の紅茶ですか?ええ、いいですよ」
 にこやかに受け答えをするが、エミリーはその笑みの裏にある不穏な、有無を言わさない空気を察知する。
 先日よりずっとこの調子である。べったりとへばりついて離れない。
 ゲーム中はともかく、食事に限らず、風呂や手洗いまでついてくるのだから、エミリーの精神は着実にすり減ってきていた。
 一人になりたい。少しでいいから。
「ここ、いいかな」
「駄目です。他所へ行ってください」
「まあそういわず。顔色がすぐれないですね、先生」
 謝必安の即答をイライは軽く受け流して、エミリーの対面に座る。
 イライはエミリーの顔を布越しで確認する。
 顔色が悪い、睡眠不足からくる目の下の隈は医者の不養生といったところである。その言葉にエミリーは眉尻を下げ、そんなことないわ、と返す。
 吐き出した息は疲労の色が濃い。
 発熱の可能性もあり、イライはエミリーの額へと手を伸ばした。しかし、その手は瞬時にひっこめられる。一瞬前に手があったところには、エミリーが食事をしていたフォークが突き刺さっていた。
「他所へ、行きなさい」
 エミリー・ダイアーに近付くものは容赦しないとばかりの威嚇に、イライは引っ込めた手を降参とばかりに体の前で上げた。
 しかし、席を移動することはない。会話を続ける。
「今日もゲームがありますけど、先生はどうします」
「出られるわ、大丈夫。ハンターは、まだ、分からないわね」
「ここ最近協力狩りばかりだったから、今日は写真家かと思いますよ。彼、出禁ですから」
「駄目です」
 エミリーの返答よりずっと早く、謝必安が立ち上がると同時に、座っていた台が後ろに倒れた。立てられた大きな音に周囲の目が集まる。
 謝必安はエミリーの腕を掴む。
「駄目です」
「ゲームには、出ないと。ですよね、先生」
「ええ、そうね」
 皿の上の朝食は半分も片付いていない。食べ物を食べても味がせず、砂を噛んでいるような感触に、エミリーはこれ以上箸を進めることができなかった。
 どうやら本格的に体調不良のようである。
「エミリー」
「私の、行動を制限しないで。私はサバイバーよ。ゲームには参加するわ」
 サバイバー、という単語を出され、謝必安は言葉を詰まらせる。
 ハンターがゲームに参加するように、サバイバーもゲームに当然参加する。ゲームに参加しないものは、この荘園に必要ない。
 怯んだ謝必安をエミリーはひたと見据える。謝必安の瞳に心配の色が、如実に表れている。
 彼に悪気がないのは、エミリーも痛いほどに分かっていた。ここ最近何故こうもへばりついて離れない理由までは推察できないが、何かしらの理由があってのことだとエミリーは思っている。だから、責めるような真似はできない。
 行かないで。
 目がそう言っている。その顔には、弱い。
 しかし、エミリーは一度目を閉じて、しっかりと謝必安へと視線を移した。しんどさを押し殺して、安心させるように笑みを作る。
「お茶を、準備して待っていてくれる?范無咎のお茶が、今度は飲んでみたいわ」
「エミリー」
「行かないと」
 制止を振り切り、エミリーは席を立った。
 それに、前に座っていたイライがグラスを差し出す。差し出されたグラスには紫色の液体が入っていた。そういえば、まだ淹れたぶどうジュースを飲んでいなかったとエミリーは思う。
 イライは人畜無害な笑みを浮かべ、飲むように差し向ける。
「先生。水分はしっかり取っておかないと。ゲーム中に倒れてもいけない」
「ありがとう」
 グラスを受け取り、エミリーは一気にそれを飲み干した。
 ふ、と一息吐き、吐こうとした時、足元が突如ふらついた。視界が大きく歪み、足元がふわふわと不安定になる。平衡感覚を保っていられず、エミリーは膝から落ちた。謝必安が咄嗟に転倒しかけた体を支える。
 ああいけない、とイライはまるで他人事のように、倒れたエミリーに慌てることなく平然と言葉を続ける。
「これじゃあ、今日のゲームには出られないですね」
 すでにエミリーは謝必安の腕の中で気をやっている。
 謝必安は、眉間に皺を寄せ、イライを見据えた。睨まないで、とイライは両手を広げ、敵意がないことを示す。
「毒を仕込んだわけじゃない。即効性睡眠薬の入ったワイン。申し訳ないけど、さっきすり替えさせてもらった」
 アルコールと薬を混ぜるなど正気の沙汰ではない。
 謝必安の表情から内心を汲み取ったのか、イライはぐっと同意のポーズをしてみせる。
「大丈夫。薬や毒については彼女程度或いはそれ以上に詳しいから。健康に害はない、保証する。熱もあるようだし、部屋で寝かせておいてあげてくれないか」
「何のつもりですか」
 探りを入れる言葉に、イライは梟をその腕に止まらせ、柔らかな羽を撫でる。
「僕らはサバイバーで、それぞれ理由があってゲームに参加している」
 尖った嘴を指先がなぞっていく。梟は気持ちよさげに目を細めた。
「ああいうゲームは、僕らとしても望むところじゃない」
 食堂の温度が、一気に下がる。
 乾いた喉が、からりと鳴る。謝必安はエミリーを抱き上げ、梟を従えた瞳を見せないサバイバーを見下ろし、一つ、聞いた。
「見たのですか」
「彼女が、帰ってくるのが遅かったから」
 にこやかに、穏やかに、しかし言葉に刺を含ませて。
「今日のゲームはきっと楽しいものになる」
 イライ・クラークはそう言った。

 謝必安はエミリーを自室へと連れ帰った。
 眩暈がひどく、気分が悪いのか、顔色は紙のように白く、しんどそうに時折呻き、胸を押さえている。
 本当に人体に害はないのかと疑いたくなるような症状である。
 部屋の扉に手をかけたとき、エミリーが一際大きく呻いた。あ、と気づいた時には遅く、吐瀉物で自身の服と水色のケープが汚れる。
 すっぱい臭いがつんと鼻をつく。
 そのままベッドに寝かせる予定だったが、このままではベッドを汚してしまうので、謝必安は室内にある小さなシャワー室へと向かった。
 脱衣所でエミリーを下ろしたが、意識はまだおぼろげで返事はない。
 まずは自身の汚れた上着を脱いで、洗濯籠に放り込んでおく。次に、エミリーのケープを外して、同様に入れる。汚れは下の服まで続いており、これも脱がしておかなければと謝必安は服のボタンに手をかけ、そこで止まった。
 いや。
 悪いことをしているわけではないと言い訳をする。
 指先が震える。
 無理矢理脱がすわけではなく、介抱の一環である。脱がさなければ、ベッドシーツを汚してしまうし、衛生上よくない。それに、先日部屋の掃除をしたばかりと聞いていた。
 一つ、ボタンを外す。鎖骨があらわになる。謝必安はボタンをそっと留め直す。そして、何も言わぬまま、片手で傘を開いた。
 開いた傘の下で、范無咎はボタンに手をかけた状態で止まっている自身の状態と、眼前で意識を飛ばしているエミリーを確認する。
「必安」
 面倒事を押しつけやがって。
 チッと盛大に舌打ちをして、范無咎はエミリーのボタンをてきぱきと外し、汚れた服を乱暴に脱がすと、下着にまで吐き出した液体が染みているのに気づく。
 深いため息をつき、下着すら取り外して洗濯機に放り込み、洗剤を入れてスイッチを押す。
「医生」
 返事はない。うっすらと開けられた唇からは酒の臭いがした。頬が赤いのは、熱のせいだけではなさそうである。
 タオルを湯で濡らし、体についた汚れを拭い取ると、シャツを手に取り、頭からすぽんと被せて着せる。荷物のように抱えあげ、掛け布団を剥いだベッドへと放り込む。ついでに氷嚢と汗をかいた後のことを考え、替えの服やらタオルを複数枚ベッド横の籠にほうりこむ。
 やることは終わったと范無咎は傍に在った椅子に腰かけ、傘に手をかけた。
 しかし、その手が一寸止まる。
 エミリーの目が、うっすらと開いた。意識はまだ曖昧なのか、目が泳いでいる。
「おい」
 細い手が、ゆらゆらと揺れながら持ち上がる。袖は細い腕に合わず、すとんと肩のあたりまで落ちる。
 白く、細く、強く握れば折れそうな腕である。
 范無咎はその二の腕の内側に鬱血痕を見つける。それは先日見つけたものであり、新しいものではない。あと数日もすれば消えてなくなる。
 伸ばされた手首を掴み取り、その痕をよく見る。
「フン」
 意気地なしめ。
 体重をかけたベッドが軋み、范無咎は傘を広げて二つの影を隠した。
 謝必安は、ぱちりと目を開いた。自身はベッドに座り、その眼下ではエミリーが清潔な服に着替えた状態でベッドに横たわり、洗濯機が音を立てて動いている。
「流石は無咎です」
 ほっと胸を撫で下ろしながら、謝必安はエミリーの額に水で濡らしたタオルを固く絞って置く。
 冷たい水を水差しに用意し、傍に在った椅子に腰かけて、机に上に置いてある本をめくる。
 どれくらい時間が経過したのか、覚えていないが、読んでいた厚みのある本が三冊ほど重なったころ、エミリーはようやっと目を覚ました。
 謝必安は体を起こすのを手伝い、水を入れたグラスを口に添える。汗を大量にかき、シャツはしっとりと濡れていた。
 着替えないと、とエミリーはぼんやりとした頭のまま、服を脱ぎ始める。
「エミリー」
「悪いけど、タオルを濡らして持ってきて、くれないかしら」
「あ、ここに。替えの服も無咎が」
「ありがとう」
 籠に一式揃えられており、謝必安から受け取った、温かなタオルで汗を拭い取る。体を拭くだけで、さっぱりとした感覚はかなり違う。
「背中を、拭きましょうか」
「お願いしても」
「ええ」
 エミリーからタオルを借り、謝必安は小さな背中を力を込め過ぎずに拭う。
 肩甲骨が翼のようである。背中に残されたいくつもの痕に思わず力が入り、エミリーが痛そうな声を上げる。
「すみません」
「いいのよ」
 指先でその痕が残る皮膚を一つずつ剥ぎ取りたい欲求に駆られるが、そんなことをすれば、彼女の背中は血塗れになる。
 どうせ数日で消えると謝必安はベッドへと視線を落とそうとした。しかし、丁度その時二の腕の痕に気が付き、目を丸くする。
「う、じん」
「え?」
 歯型。
「なに」
「なん、でも」
 残された痕を食いちぎるように残されたそれ。真新しいそれは、本当につい先刻つけられたものに違いなかった。
 無咎。
 謝必安は、魂の片割れの行動に叱咤されたような気がした。よくも代わったな、とそう言外に責めていた。
 エミリーは用意されていた服に着替え、汗で濡れてしまった服を代わりに籠に入れる。
 椅子に腰かけている謝必安へと、笑みが向けられる。
「ありがとう、とても助かったわ。ところで、今日のゲームは」
「ほかの者がでています。どちらにせよ、その調子では今日明日は無理でしょう。ゲーム中に倒れでもしたら、迷惑をかける」
「あなたの、言うとおりね。体調が悪いのに気付いて、気にかけてくれていたのに。ごめんなさい」
 それが理由で、片時も離れずにいたわけではない。
 しかし、謝必安はエミリーの言葉を訂正することはせず、いいえと答える。
「無咎のお茶は、あなたの体がよくなってから。さあ、休んでください。何か食べられるようなら、胃に優しいものを持ってきましょう」
 謝必安は、ゆっくりとエミリーの頬をなぜた。