独占欲 - 4/4

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 雨が喧しい。
 ここ数日叩きつけるような雨がただひたすらに降り続いている。雨音が後悔と懺悔を押し流し、呼吸を止めて窒息していく。眠れぬ夜を幾度明かせど、雨は降り続いたままである。
 陰鬱な日が変わらず続いていた。
 サバイバーが待機室に入る。謝必安は傘を開いた。
 引きずり出された范無咎は、表示された試合場の名称に、またここかと范無咎はうんざりする。
 隣でリッパーが気分も乗ってきたとばかりに鼻歌を口ずさみ、全員の準備を待っている。反対に范無咎は閉じたままの傘を片手に口をへの字に曲げた。
「気分でも悪いんですか」
「なに?」
「いえ、難しい顔をしておいでたから」
 リッパーの言葉に、范無咎は一つ鼻を鳴らして、頬杖をついた。
 それに、とリッパーは続ける。
「最近ゲーム中に白いあなたにお会いしていない」
「気のせいじゃないか」
 嘘である。
 范無咎は返答が不自然に早すぎたことに舌打ちをしつつ、傘の取っ手を少し強めに握った。
 サバイバー側の面子を見れば、医生の姿を確認した。この試合で必安が変わることはないだろうと、范無咎は小さな溜息をつく。
 あの試合以来、医生が出る試合では必安は決して姿を現さない。
 索敵を不得手とする范無咎としては、開始は謝必安が受け持った方が断然効率がいい。であるのに、サバイバー側にその姿を確認するや否や、拒絶も甚だしく、自身と交代してしまう。
 それでも、范無咎は謝必安に無理強いをしたくはなかった。彼が会いたくないならそれでいいと思う。もとより傷つきやすい性格をしている。自分を死に追いやってしまったという負い目が、必要以上にそうさせているのではないかと范無咎は考えてやまない。
「サバイバーの準備が整ったようですよ。行きましょうか」
「ああ」
 ゆっくりとリッパーが椅子から立ち上がり、范無咎は傘へもう一度目をやって、ゆっくりと腰を上げ、ゲームへ臨んだ。

 目を開ければ、ところどころ音が飛んでいる曲が狂ったように流れている。寂れた公園。月の河。
 破れたテントに、壊れたメリーゴーランド。かろうじて動くジェットコースターは、今にも倒壊しそうである。試合場中央部には橋がかかり、その下には川が流れている。湖景村とは違う、底の見えない深い川が、橋の下にある。
 ここ数日の雨のせいか、普段は穏やかに流れていた水が荒れ狂ったように押し寄せ、もう少しすれば橋まで押し流しそうな勢いであった。ハンター待機室ほどではないが、この試合場でも雨は降っていた。いくらか小雨になっているので、ゲームができないほどではない。
 必安を待っていたのは、橋の下だった。
 このステージの場合、最初から遊びに走るサバイバーも多いが、今回の相方はリッパーなので、その心配はなさそうである。
 肩を大きく回し、遠くでリッパーが早速一人ダウンさせたのに気づく。こちらはと言えば、耳鳴りはするものの、まだ姿は見つけられていない。
 周囲を探索するが、そもそも范無咎は細かい作業を苦手としている。
 耳障りな音が、暗号機から響き、ようやっとそこにサバイバーが一人いるのに気付く。
 幸い暗号機は近く、視界の端に調整を失敗したサバイバーが走って逃げる姿が確認できた。間に合わない距離ではない。
 范無咎はサバイバーが板を倒そうとした瞬間を狙って、傘を突き出す。板が倒れるよりも一寸早く、その切っ先がサバイバーの体を痛めつける。くるりと傘を大きく回転させ、動揺からか、倒した板を越えてきた幸運児を恐怖の一撃で跳ね飛ばした。
 水たまりに転んだ体を傍の椅子に括り付ける。
 耳鳴りがひどい。
 監視者を椅子の付近に放りなげ、他のサバイバーを狩っていく。もう間も無く、幸運児の周りに張り巡らされた檻が解ける。
 ばらまいていた監視者に反応があり、救助に来たのは二人。壁の向こうにまとまって息を潜めている。傘を投げ、椅子の前へと飛ぶ。
 格好の餌食である。
 范無咎は鐘を打ち鳴らし、サバイバーの動きを一瞬止めて、一撃。発見されたのに驚いたのか、踵を返して逃げようとしたのは愚策である。次の一撃は、謝必安よりも范無咎の方が格段に速い。逃走を試みた泥棒に一撃当てて、椅子に縛られた幸運児を助けに走った祭司にもう一度鐘を当てて、足を止めさせる。
 一瞬。
 范無咎はその一瞬を逃さなかった。射程距離いっぱいに傘を伸ばし、縄に手をかけた瞬間の祭司をダウンさせる。
 泥棒は警戒範囲から外れてしまったのか、耳鳴りはもうしない。倒れた祭司を椅子に座らせ、泥棒を探しに行く。あの怪我ではそう遠くに逃げているはずもなく、水たまりで見づらい足跡を追いかける。
 幸運児が飛ぶ。祭司も半分を過ぎた。
 救助に来てもよさそうなものだが、どうやら解読に専念しているようだった。これもまた、愚策。
 板が倒され、居場所が判明する。幸いすぐ後ろ。板の向こうにでもいるのかと振り返ったが、板を倒し間違えたようで、板の手前に泥棒は立っていた。慌てて、それを乗り越えようとしたが、時すでに遅し。范無咎は傘で泥棒の背を突き刺すように殴り飛ばした。
 板を割って、泥棒を乱暴に椅子に座らせる。
 気付けば雨が激しくなってきていた。祭司が雨の中、荘園へと帰る。
 橋からこちら側にサバイバーの気配はなく、彼らの状態を確認すれば、どうやらリッパーが各人それぞれ負傷を与えていた。成程、これでは救助活動はできない。
 そうこうしているうちに、リッパーがダウンさせた一人が、椅子に括り付けられた瞬間飛んだ。三回目。残すところ後五人。間もなく四人。
 椅子が飛ぶにはまだ時間があったものの、范無咎は橋向こうから泥棒を救助に来ることはないと判断し、リッパーの加勢へと向かう。
 ゲーム開始当初は小雨だったが、次第に強くなってきている。橋の下を流れる月の河は荒れ狂っており、次から次へと降り注ぐ雨を飲み込んでいた。
 あの日も、こんな雨だった。
 顔から、髪から、服まで水を含み体に纏わり付く。視界は悪く、サバイバーの足跡がほとんど見えない。足跡を探すよりかは、その本体の小さな動きを見つける方がよほど効率的な状況であった。
 鬱陶しいほどに降り注ぐ雨から視界を確保するため、顔を滴る雨を手で拭い取るも、あまり効果はない。
 しかし、橋の中央部の暗号機が揺れているのは、確認できた。あれは、雨風によるものではなく、人の手による不規則な、それ。
 范無咎はリッパーの救援へ行くのを中止し、揺れる暗号機へと足を向ける。
 小さな姿が橋の上で必死に暗号機を回していた。ナースキャップはリッパーから逃げる途中で落としたのか、髪は雨でほつれ、散々な状態であった。
 警戒範囲に入ったが、逃げる様子はない。何故と一瞬疑問に思ったが、すぐに納得がいった。
 残す暗号機は一つ。
 つまり、彼女の暗号機が解読が終了すれば、通電する。
 四人飛ばしているので、引き分け確定だが、どうやら投降の意図はない様子だった。
 読解加速の時間が訪れる。
 医生はこちらを見ることはない。ただひたすらに集中している。リッパーの足止めは残りの三人が。射程距離に入る。雨音と足音がかぶる。傘を振りかぶった。
 甲高い音が通電を知らせる。
 互いにびしょ濡れで、向き合う。エミリー・ダイアーの仕事はまだ残っている。ゲートを開けることである。引き留めるの効果で、後一撃でももらえば、ダウン。
 攻撃速度が速く、すでに振りかぶっている范無咎の攻撃から逃れることはほぼ不可能に等しかった。しかし、エミリーは范無咎の攻撃を避けようとしなかった。
 ぴぃ。
 やられた、と范無咎は傘に当たって落ちた梟に顔を歪める。
 占い師が残っていた。橋の向こうで、雨音に消されかけた声が小さく届く。
「行って!」
 占い師はリッパーに板を当て、僅かにその動きを止めてから、医生とは反対方向へと逃げる。橋の近くで熾烈な攻防が繰り広げられていた。板を当てられ、リッパーが衝撃を振り払うように頭を振っている。
 占い師、空軍、探鉱者。面倒くさい面子である。
 范無咎は一瞬で思考を巡らせた。医生を追って、ゲートを開ける前に潰すか、リッパーへ加勢し、残りの三人を先に潰すか。負傷状態を鑑みれば、探鉱者と空軍のみ中治りは付与されてるようだった。
 決める。
 医生は放置する。ゲートが開ききる前に、三人を潰す。
 范無咎は鐘を高鳴らせる。攻撃範囲上にいた空軍が一瞬動きを止める。瞳から赤い光を靡かせながら、動きが止まった隙に距離を詰め、逃げようとした空軍に一撃を当ててダウンさせる。椅子に座らせる時間はない。
 探鉱者が小賢しくも、リッパーを翻弄している。磁石を器用に使い、スタンを食らわせ、距離を取り、さらに占い師がリッパーの足元をちょろちょろと動き回り気を散らさせる。
 失血で呻く空軍を放置し、范無咎は面倒な探鉱者を倒しにかかる。
「おい、こっちは俺がやる」
「お願いします」
 鐘を打ち鳴らす。
 范無咎の存在に気づき、探鉱者は占い師に磁石を付けて、大きく外へと飛ばす。リッパーはまだスタンから回復していない。
「逃げろ!ダイアー先生がゲートを開けているはずだ!」
「後で会おう!」
 占い師が一目散に遠ざかっていくが、その後をようやく回復したリッパーが追う。
 足元で磁場が発生する。逃げるには少し遅かった。自身に磁力が発生するのを感じる。忌々しげに范無咎は舌打ちした。面倒な能力、としか言いようがない。
 は、と探鉱者が肩で息をする。まだその眼は死んでいない。
「逃げるなよ」
「ゲート前で再会予定か?舐められたものだ」
「諦めは悪いのが定評だ」
 早々に范無咎はその体が乱暴に箱に叩きつけられ、息を詰まらせる。これだから厄介なのだと、背中を見せた探鉱者の行く先だけは見落とさない。
 スタンで指先が痺れ、それがとれるまでに、時間を要する。謝必安の足ならば容易に追いつけようが、范無咎の足ではまだ時間がかかる。橋の向こうへと一旦姿が消える。
 その後を追おうとした、范無咎は黄色い何かがゆらりと動いたのを視界の端に捉えた。
 立ち上がった動きを頭が否定する。この空軍は、起死回生をすでに吐いていたはずである。
 リッパーに一度拘束されたサバイバーを救助した際、危機一髪で救助したが、ダブルダウンを食らった。その後、面倒だったので監視者付きで放置していた。その際、立ち上がる時には、誰も空軍に近づいた者は一人としていなかった。
 ならば、と范無咎はどふゃぶりの雨で、視界が途切れる中、その黄色い女の後ろで膝をついていた女を見た。
 医生。
 ゲートを開けて、戻ってきていた。だから、探鉱者は。
 しまった。
 空軍が信号銃を構える。
 すさまじい衝撃が前面で弾ける。意識が一瞬飛ぶ。雨音も、何もかもがかき消される。
「逃げるわよ!エミリー!」
「にが、す、か」
 信号銃と豪雨のせいで、視界はほぼない。それでも范無咎は、足を踏み出した。
 しかし、その瞬間、背中から強い力で引き寄せられる。サバイバーの腕力ではない。この感覚を、范無咎は覚えていた。つい、先程のことである。
 橋の付近に、小さな姿を認めた。
「たん、こうしゃぁ!」
 設けられた柵に背中から叩きつけられる。指先が、痺れた。雨で、指が、手が、滑る。
 あ。
 范無咎は、麻痺した指が何かを取り落したのに気づいた。それは。
 それは、
 視界だけが、いやにクリアになる。
 橋の、下へと。
 荒れ狂い暗くうねる水の中へ。
 体は、まだ、動かない。
 魂をもがれたような、絶望を塗布した叫びが、雨を引き裂いた。
 その悲痛な叫びが、あまりもあんまりだったから。
 エミリーは逃げかけた、しかしその足は欄干を踏み、橋を越えた。もとより体力はなく、窓や板を超えるのだって遅い。それでも、マーサが止めようと伸ばした手は間に合わなかった。
 滑る欄干を蹴りつけ、腕をめい一杯に伸ばす。関節が外れそうなほど、めい一杯に。
 雨の中、たった一つの傘が落ちていく。
 それを掴む。一瞬、目がかち合う。そして、彼に向かって、エミリーは込められるだけの力を込めて、手にした傘を放り投げた。ウィリアムと先日戯れに皆で遊んだことが、こんなところで役立つとは思わなかった。
 投げた傘は、范無咎の手に届く。水に飲み込まれる瞬間、范無咎が傘を抱きしめるように抱えた光景を、エミリーは見た。
 そして、濁流に小さな体が飲み込まれる。
 心臓が早鐘のように鳴り響いていた。呼吸は荒く、膝が震えた。傘を抱きしめる腕が、がたがたと言い知れぬ恐怖と安堵で止まらない。今、手にしているたった一つの魂が失われかけた光景が幾度もフラッシュバックする。
 眩暈を覚え、足元がふらつき、背後に倒れるように尻もちをついた。
 遠くで響く叫び声が、小さく届く。エミリー、と。
「…あ?」
 誰が、傘を投げた。
 濁流に呑まれるだけの傘を。誰が、投げた。
 あの小さな体は、誰のものだった。
 川に飛び込もうとする空軍を探鉱者が引き留め、欄干から引きずり下ろした。
 公園の外へと流れ出る川だが、そこに柵が敷かれているはずで、そうであれば体は引っかかるはずである。
 范無咎は濁流の向かう先へと顔を向けた。自身の鈍足では、間に合わない。
「必安、許せよ」
 雨の中、君を引きずり出すことを。
 范無咎は傘を構えた。まだ、早い。まだ、まだ。まだ、早い。最奥に届くほど、遠く。
 今。
 傘を投げた瞬間、范無咎は、傘の中に引きずり込まれる感覚を知った。白い背中が、一瞬だけ垣間見える。
 ああ、君。
 謝必安は、隔てる柵に手をかけた。目を皿のようにして、小さな小さな体を探す。毛先ひとつ見逃さないように。ダウンしたのであれば、その輪郭を掴むことができるはずである。
 しかし、その姿を捉えることができない。
 水は、ただ無情に流れていく。
 言葉を発することもできず、謝必安は水溜まりに膝をついた。鼓膜を雨音が激しく叩いていく。
 その中に、鼻歌が混じる。
「おや、そんなところで何をしているんですか?」
 鼻歌混じりのリッパーは椅子の縄を引っ張っていた。何かを、サバイバーを椅子に縛り付けている。
「占い師は梟を飛ばして、また一撃回避されたので、腹が立って霧でダウンさせて失血死させるために放置しているんです。こっちはさっき何故か気絶して、川に流されていたのを見つけて拾い上げたので、今」
 縛り付けているんです、と最後までリッパーの言葉を謝必安は言わさなかった。
 小さな体を拘束している縄を解こうと引っ張るが、長い爪が邪魔をしてうまく解けない。
「何するんですか、折角座らせたのに」
「ちょっと退いて!」
 リッパーの隣をマーサが駆け抜け、謝必安を押しのけると、エミリーを縛る縄を引き千切った。
 仲間の安否を確かめようとしたが、次の瞬間、大きな手に薙ぎ払われる。足が浮き、体が吹き飛ぶ。あわや地面に衝突するかというところを、ノートンが受け止める。
 攻撃判定はなかったようで、マーサは文句を言おうとしたが、目の前の光景に開きかけた口を閉じた。リッパーでさえ、困ったように頭を掻いている。
 謝必安は、意識をなくし、ずぶ濡れの体をきつく抱きしめて蹲まっていた。
 エミリー、と贖うようにその名前を呼び続けている。
「とりあえず、荘園に帰らないかい。雨もひどい。もう前も見えない」
 突如背後からかけられた声に、マーサとノートンは大きく体を震わせる。
 リッパーはそこに立つサバイバーの姿に首を傾げた。占い師はニコリと笑い、起死回生と一言答える。
「仕方ありませんね。このままではらちが明かない」
 肩をすくめたリッパーは最後に投降を選んだ。

「サバイバーなんて、荘園に戻ったらゲーム時の負傷はなくなるんですから。あんなに取り乱さなくても」
 リッパーの言葉を背中に、謝必安は待機室を飛び出し、カーテン向こうへと転がり込んだ。そこには、怪我一つなく、空軍たちに囲まれているエミリーが椅子に腰掛けている。
 二つの目が、謝必安を捉える。
 椅子ごと、その小さな体を抱きしめた。
 マーサたちは、ちらりと視線を合わせ、いそいそとサバイバー待機室を後にする。
「しゃ、びあん、くる、しい」
「すみません」
 謝罪はあるものの、腕の力は一向に緩まない。
 心臓の音を確かめるように胸元に押し付けられた頭は、小さく震えている。
 ああ、とエミリーは自身の行動を振り返る。
 溺れ死ぬ、という光景は彼にとっては、トラウマを抉るものだったと。互いにびしょ濡れの服と体で、エミリーはその震えが収まるまで、暫くそのままでいることを選択した。
 濡れた服に体温を奪われる。
 エミリーは謝必安の腕の中で大きく身震いをした。
 彼らの体は冷たく、温かみはない。
 小さくくしゃみをして、鼻を啜ると、ようやくその体が離れた。目が大きく見開かれ、その眼は困惑と不安に彩られている。
 濡れて顔にへばりついていた髪を指先でかきあげ、エミリーは安心させるように笑いかける。
「少し冷えただけよ。だ」
 大丈夫という言葉を最後まで言い切ることはできず、エミリーの体は一瞬無重力を味わい、あっという間に謝必安の腕の中に収まる。ただでさえ早い謝必安の足が、さらに速く目的地まで駆けていく。
 これ以上体温を奪われないようにと、きつく抱きしめられた状態で移動するため、呼吸もままならない。舌を噛みそうになる。
 謝必安は乱暴に目的地の引き戸を開け、湯が張られた大浴場に土足のままざぶりざぶりと湯をかき分けて入っていく。エミリーをかき抱いたまま、謝必安は湯に全身を浸した。
 冷たい雨がしみ込んでいた服が湯に浸かり、どちらにせよびしょ濡れに変わりはないが、体の芯まで冷えていくよううな感覚は止んだ。エミリーの体の震えは、ゆっくりと収まっていく。
「二度と」
 体を締め付ける力が一層強くなる。言葉はひどく震えていた。
「あのような真似は、しないでください」
 ああ。
 エミリーは自身の軽率な行動を恥じる。今回は幸か不幸かリッパーが引き上げてくれていたが、つまるところ、これが謝必安が原因で溺死をしたともなれば、彼のトラウマをなぞることになっていた。少なくとも、今現時点で、半分くらいはなぞっている。
 ただ、答えは決まっていた。
「それは無理よ」
「エミリー」
 力がさらに強められ、背骨が軋む。
「私はきっと、何度同じ場面に出くわしても、同じ行動を取る。あの傘が、あなたたちにとって、とても大切なものだと知ったから。助けられるのに、助けないのは、もうしたくないの」
 だからこれは私の我儘。
 とん、とエミリーは怯えたように背を丸めてしまっている謝必安の背を叩く。湯が小さくはねた。
「それより」
 エミリーはぐいと謝必安の顔を無理やり持ち上げた。
 隈が濃く、今にも泣きだしそうな顔をしていた。いつもの、エミリーが知るいつもの謝必安である。
「私を避けていた理由を教えてちょうだい」
 ごつんと強めに額をぶつけて、逃げられないように視線を絡め取る。切れ長の瞳が狼狽えて、下に視線を落とす。顔を逸らそうにも、エミリーの小さな手によって阻まれていた。
 しかし、その体を離すという選択肢はなく、謝必安は恐る恐る口を開き、零し始めた。小さな、ともすれば聞き逃しそうな声が浴場に反響する。
「ジョゼフと、以前、対戦した時のあなたに、興奮しました」
 言葉の真意が理解できず、エミリーは眉根を寄せる。謝必安はぼつぼつと続けた。
「満身創痍で、雪面を血で汚しながら這いつくばるその姿に」
 徐々にエミリーはその言葉の意味を理解し始める。震えそうになる体を気力だけで押さえる。
「何故」
 謝必安は小さく喉を鳴らす。声は、小さくか細くなる。
「何故、あそこに立っているハンターが私ではないのかと」
 サバイバーを叩きのめし、その死の中に立つのが何故自分ではないのかと。
 謝必安は自嘲する。
「でもエミリー、あなた。そんなことを言えば、私からも、逃げるでしょう」
 ジョゼフからも、あなたは逃げた。
 だから、と謝必安は言外にそれを告げ、項垂れた。
「サバイバーに興味などなかったのに。あなたにも、興味はないのに。だというのに」
 謝必安の手が、自身の頬を掴むエミリーの手首を強めに握った。それはまるで縋りつくかのごとき行動だった。
「無咎と、あなたといる時間が、心地よくて。でも、私を知れば、あなたは二度と近寄ってくれないような気がして」
 迷子の子供がここにいた。
 エミリーは一番最初に会った謝必安の姿を思い出す。なにをどうすればいいのか、途方に暮れたような顔をしていた。逃げたくて逃げられなくて、向かい合わなくてはならなくて、それも怖くて。
「エミリー」
 呼ばれた名前に、エミリーはゆっくりと笑みを作る。
「だって、あなたはハンターだわ。いいのよ、それで」
「逃げませんか」
「逃げるならもう逃げてる。ああでも、ゲームの時は逃げるわよ」
「逃げないのですね」
 念を押すように繰り返され、今度こそしっかり合わされた視線に、エミリーは答えを一瞬詰まらせるが、しかし確かに頷いた。
「逃げない」
 確約された言葉に、謝必安の体から弛緩したように力が抜ける。その憑物が落ちたような顔にエミリーはなんて顔、と小さく笑う。
 湯やら雨水やらで互いにびしょ濡れの顔を見合わせる。冷めた体はすっかり温まった。
 湯で濡れてしまい、顔にへばりつく髪を軽く梳いて、濡れ髪のまま結び直す。エミリーは解かれた手から体をはなし、湯をかき分けながら浴槽から上がった。湯をたっぷりと吸った服は体にへばりつき、柔肌を湯が滑り落ちて床に流れる。
「何してるんだい」
 ふとかけられた声に、どっと強くエミリーの心臓が跳ねた。
 普段であれば後ろで一つに結わえられている、銀糸に近い白髪が肩に流されている。腰にはタオルが一枚。エミリーはそしてここがどこなのか思い出す。
 浴場の出入り口で立つそのハンターは、服を着たまま湯船に体を浸している二人を眺めて顔を盛大に顰めた。
「ここは男性用の大浴場だけれど…まあ、君が覗きを生業とする痴女なら別にこの状況は否定しないよ」
「誰が痴女ですって」
 皮肉と嫌味が混ざりあったジョゼフの言葉にエミリーは頬を痙攣らせる。
 間髪入れず噛み付いたエミリーに、ジョゼフは軽く肩を竦め、鼻を鳴らした。
「君以外に誰かいるかい?そこにいる謝必安はここにいたってなんらおかしくない。だが君とくればどうだ!そんなはしたない格好で。まあ君には前科もあるわけだし」
「前科?笑わせないでちょうだい」
「はは。躍起になって言い返すところがいい証拠だよ。なんだい、僕では物足りなかったかな」
「語弊のある言い方を」
「語弊もなにも事実だろう」
 苦虫を潰したような顔のエミリーにジョゼフは、自身の足元を指差してみせる。
「ここは?」
「…そうね、男性用の大浴場よ。言いたいことは分かったわ」
「よろしい」
 ここぞとばかりに勝ち誇った笑みをジョゼフはその顔に浮かべ、してやったりとその笑みを深くする。
 エミリーはジョゼフの態度に、苦々しい気持ちを堪えきれずにはいたものの、これ以上の口論は時間の無駄と判断し、腹に溜まった怒りを抑えるように深く長く、気持ちを落ち着け、息を吐き出した。
 ところで、とジョゼフは続ける。まだ何かあるというのかとエミリーは、目を細めてジョゼフを見た。もはや何を言われても泰然自若と受け止めることを固く決意する。
「君、服のことを忘れてないかい」
「忘れてないわ。今日のゲームが終わったら持っていくつもりだったの。ごめんなさい」
 思ったよりも普通の内容で、少しばかり拍子抜けしながら、エミリーは予定が狂ってしまったことを思い出す。
 あっさりと提示された謝罪に、ジョゼフも毒気が抜かれたのか、嫌味を返すことも忘れた。ごほん、と軽く咳をする。
「まあ、忘れていないならいいさ。君の服もこちらにあるから、また後で取りに来てくれ、エミリー」
「ええ、そうするわ」
 エミリーは頷いたが、その後向けられたジョゼフの何か納得していない表情に、怪訝な面持ちをする。
「なに」
「エミリー」
「ええ、なに」
「…エミリー」
「だから、なに」
 執拗に名前を呼ばれるも要件を言わないジョゼフに、エミリーは少しばかり苛立ちを覚え、声を若干荒げる。腰にタオル一枚という格好だというのに、様になるのは顔の良さ故か。
 エミリーの返答にジョゼフはゆっくりと口を開く。
「君は、エミリー・ダイアーだろう」
 ジョゼフが言わんとすることを、エミリーはようやっと理解する。以前のゲームで失血死させられた際も、そのことにやたらとこだわっていたことを思い出した。
 エミリーは根負けし、彼の名前を口にする。正しくは口に、しようとした。
「ジ」
 その言葉は最後まで続かなかった。
 骨張った手が口を完全に覆い隠し、小さな体は簡単に後ろに引き寄せられた。背中に濡れた体が当たる。
「私が、彼女をここへ連れてきたのです」
 謝必安は引き寄せた体を隠すように、自身の上衣で包み込む。濡れてはっきりとしていた体の線は、ジョゼフの視界から消えた。
「ジョゼフ」
 名を、代わりに呼ぶ。
 会話の邪魔をされ、ジョゼフの機嫌は地にまで落ちるが、武器も何もない状態でやりあうほどジョゼフも愚かではなかった。ふうん、と小さく声を漏らし、謝必安へとひたと視線を合わせる。
 一瞬、そう呼ぶには長すぎる沈黙が落ち、謝必安はエミリーを抱き上げ、にこりと完全に張り付けたような笑みをジョゼフへ向ける。
「あなたの気分を害してしまったのならば申し訳ありません。もう立ち退きますので、ゆっくりどうぞ」
「それは、どうも」
「それから」
 エミリーの口を塞いだまま、謝必安は静かに音もなくジョゼフの隣を歩き、通り過ぎる。
「ハンターの居館にサバイバーが一人はどうにも物騒ですし、私が彼女から預かって、あなたにお渡ししましょう」
「借りた本人が返すのが礼儀というものだよ」
 それとも、とジョゼフは誰もいなくなった浴槽に、体をひたす。湯の心地よさに吐息を零しつつ、かくんと首を落として振り返った。
「そうさせたくない、理由が?」
 ハンターの君が。
 言外に挑発され、謝必安は一瞬足を止める。しかし、一度は動きを止めた体はどろりと傘に飲み込まれた。
 魂が入れ替わり、閉じた瞳が開けられ、エミリーの口から手がのけられた。危うく窒息死しかけたエミリーは、はっと息を大きく吐き出す。
 范無咎は状況を把握するのに僅かな時間を要したが、謝必安の性格やらもろもろを考慮し、全てを理解する。
 傘が開き降り立った場所は、どうやら自室に違いなく、嗅ぎ慣れた香が焚かれている。
 腕に抱えていたエミリーを乱暴に寝台に放り投げる。
 上衣はエミリーに巻き付いていたが、それ以外の服もすっかりびしょ濡れで、軽く絞れば、だばだばと湯が落ちる。范無咎は濡れて体にへばりつく服を脱いで籠に放り入れる。
 乾いた布で濡れた体を拭き、新しく乾いた服を身に着ける。エミリーと言えば、自身を無視して着替えを始めた范無咎に背中を向けて寝台に座ることを余儀なくされていた。
 下履きからすべて乾いた室内着に着替え、范無咎はいいぞと、向けられた背に声をかける。
「医生」
 振り返ったエミリーを范無咎は見下ろす。
「礼を言う」
 普段の口の悪さからは考えられない言葉にエミリーは、瞬間的に目を丸くするが、しかし、それだけ彼にとって、あの互いの魂が込められている傘が大切なものであることを思い出し、いいえと答えた。
 范無咎はエミリーの体を隠していた濡れた上衣を預かり、濡れた衣服を入れた籠に放り込んだ。
 代わりに、乾いた大きめの布をエミリーに手渡す。濡れた衣服のせいで露わになった体の柔らかな線を隠すには十分な長さだった。
「帰れるか」
「子供じゃないのよ」
「そうか」
 ふむ、と一寸范無咎は考え、部屋の扉を押し開いた。
 細く長い体の横を通り、エミリーは静かな廊下へと歩み出る。
「おい」
 背中に再度声をかけられ、エミリーは足を止め、振り返った。
「必安は、いや」
 濡れた髪を振り、范無咎は難しい顔をする。
 范無咎は謝必安ではない。互いに顔を見ることは叶わず、その意思をかわすこともままならない。
 最も近くにいながら、最も遠くに存在している。
 だから、范無咎は謝必安の考えていることは感覚で理解していたが、彼の本意など知ろうはずがなかった。
 だから、彼がエミリーを拒絶していた理由を范無咎は知らなかった。知る必要はなく、その結果を重視していた。
 けれども、必安は彼女を抱きかかえていた。
 つまるところ、問題は解消されたという話だろうと范無咎は結論付ける。でなければ、あのゲームで自身が溺れた医生を探していたはずである。
 少しばかり悩み、范無咎は振り返った状態で待っているエミリーを通り過ぎて、その前を先導するように歩く。状況が飲み込めず佇んでいるエミリーに范無咎は、早く来いと催促する。
「置いていくぞ」
「え、いえ。一人で帰れるわ」
「くだくだ言うな。必安なら、こうする」
 なんなら代わってもいい。
 しかし、范無咎は傘を開かなかった。これは礼である。
 後ろをちょこちょこと走ってついてくるサバイバーに、范無咎は時折歩幅を狭めた。