独占欲 - 3/4

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 恥じらいというものは、とジョゼフは下着をずり下されて唖然とした。
 曝け出された前を両手で隠す動作が終了する前に、温められた湯船に突き落とされる。足を滑らせてたんこぶなぞ作ろうものなら笑いものになるのは目に見えている。
 ジョゼフは、湯の中から顔を出した。白く透き通った髪は湯をたっぷりと含み、白くきめの細かい肌にへばりついている。
 袖をまくり、湯に当たっても問題ないような恰好をしているエミリーへとジョゼフは視線を持ち上げる。
「多少でも恥じらいをみせてくれればいいものを」
「私は医師よ。人の体を診るのが仕事なの。仕事中の私の前で生まれたままの姿でワルツを踊っても恥らうことはないわ。医学的見地以外の視点は持ち合わせていないもの」
「僕がそんなはしたない真似をするとでも」
「そうであっても、驚かないという話よ。さあ首を縁に乗せて。髪を洗うから」
 蒸しタオルを風呂の縁において、頭を置いても痛くないように準備してからエミリーはジョゼフの額を下へと押し、言われるがままにジョゼフは頭を預けた。
 丁度よい温度のシャワーがしっとりと地肌まで染みわたる。
 シャンプーを手に取り、エミリーは地肌をマッサージするように頭を丁寧に洗っていく。心地よい感触にジョゼフはゆっくりと瞳を閉じた。
 親が雛鳥に餌を与えるかのごとき食事が終わり、ジョゼフが服を着替えて寝ようとしたのを止めたのはエミリーその人だった。
 信じられない。
 そう、エミリーは顔を痙攣らせた。ジョゼフは言葉の意図が理解できず、眉を顰めたが、次の瞬間には脱衣所に押し込まれていた。
 あれよあれよという間に服ははぎとられ、死守していた下着は取り払われる。
 衛生面がどうのこうのと言っていたが、最早ジョゼフにはどうでもよく、なぜ小さなサバイバー一人に、しかも女性に、あられもない姿をさらさなければならないのかと文句を言おうとした口は、湯船に突き飛ばされたことで閉じられたのだった。
 それに、とエミリーはしっかりとシャンプーで髪を洗い終え、シャワーをかけて泡を落としながら続けた。
「あなた、もう結構な年でしょう。なんだかこう、介護している気分には今とてもなっているの。気にすることないわ」
「なんだって?」
 エミリーの聞き捨てならない言葉に、ジョゼフは思わず聞き返す。
 しかし、エミリーはというとジョセフの動揺など意にも介さず洗髪を続ける。
「綺麗な総白髪。私も年を取った時に、こんなふうになりたいものね」
「いや」
 髪にトリートメントをもみ込むようにつけていく。その手に迷いはない。
 ジョセフの言葉を完全に無視していたエミリーに、ジョセフは浴槽の縁から頭を起こして、不満もあらわに視線を合わせる。
「待ってくれ。僕がなんだって?」
「あなた結構な年なんでしょう?誰だったかしら。そう、ナワーブから聞いたのよ」
 あいつジジイのくせに、あんなに動きやがって。ぎっくり腰にでもなっちまえ。
 そう悔しげに愚痴をたれていた記憶を掘り起こす。どうやら肘当てをした際、写真世界か何かで先回りをされたのがよほど癪に障ったようだった。
 起こされた体をエミリーは半ば乱暴に押し戻し、暫くしてトリートメントを残さないように湯で洗い落とす。髪にタオルドライをかけ、括らなければ湯船に浸かるであろうそれを器用にまとめ上げると、頸をあらわにさせた。
 体を洗うから出て、とエミリーは腰かけ椅子を指差す。
「体くらい自分で洗う」
「痛くてご飯も一人で食べられない人が我儘を言わないで。さっきも言ったでしょう。変に意識するから恥ずかしいの。介護よ介護」
「介護」
「ほかに何かある?」
 きっぱりと言い切ったエミリーにジョゼフは溜息を諦めと共に吐き、湯船から渋々上がって、椅子に腰かける。医師にはっぱをかけたのは自身だが、この頑固さは想定外であった。
 背中に泡立てられたタオルが押し付けられ、垢をこすり落とすように上下に動かされる。
 耳の裏、首筋、背中、指の隙間。
 丁寧に、洗われていく。
「ちょっと」
「なに」
 腹付近まで体が洗われ、ジョゼフはそこで待ったをかけた。流石にそれは、ない。
「後は、自分で洗える」
 エミリーの手からタオルを痛まない方の手で奪い取り、背を向ける。呆れ果てたような息が溢された。
「ここまできて、今更恥ずかしいの?子供じゃあるまいし」
「子供じゃないからだろう」
「面倒なこと言わないで。私にも私の用事があるの」
「介護というなら、介護を受ける側の意見は素直に聞き入れるべきでは?それともなにかい?君はそこまでして洗いたいのかい」
 なにを、とまでは言わない。
 エミリーは泡立ったタオルで前を隠したジョゼフに、もはや言葉もなく、勝手にしてと浴室から出て行こうとした。しかしそれでは、体をうまく流せないことに気づき、ジョゼフは慌ててエミリーに手を伸ばす。
 怪我をしていない手でタオルを掴んでいたことから、伸ばした手は当然のことながら捻挫した方の手である。
 脳天を突き抜けるような痛みにジョゼフは呻いた。そして、滑った。
 転ける一寸手前に指が何かを探して掴む。指先に引っかかったのは、他の誰でもなく、エミリーの服である。ジョゼフ一人の体重が一気にかかり、立っていられるほどエミリーは剛力の持ち主ではなかった。自然と一緒に滑ってこける。エミリーの視界に白い浴室の天井が映し出される。
 そしてエミリーもジョゼフと同様、何かを掴もうと手を伸ばす。転けまいと、めい一杯に伸ばされた腕は、シャワーを掴む。とどめにとばかり、すっ転んだ足が蛇口を開ける。
 二人そろって床に滑って倒れ込み、エミリーはシャワーヘッドから大量に流れ落ちる湯に頭から足の先までびしょ濡れになった。
「信じられない」
「いい様だ」
 は、とジョゼフは床に腹を付けた状態で、濡れ鼠のエミリーの様子を嘲り笑う。もっとも、笑っているその姿も人の事を言えたものではない。
 エミリーはどこかで何かが切れる音を聞いた。
 暴れるシャワーを手に取った。躊躇なく、蛇口の温度を冷水まで一気に落とす。そして、シャワーヘッドの方向を倒れているジョゼフの頭へと狙いを定めた。
 ジョゼフの悲鳴が浴室に響き渡る。
「頭は冷えたかしら」
「何をするんだ!」
「あなたこそ!びしょ濡れじゃない!面倒なことを言わず、素直に私に任せておけば、こんなことにはならなかったわ!あ、ちょっばばば」
 ジョゼフはエミリーの手からシャワーをもぎ取り、そのまま報復とばかりに、エミリーの顔面に水流をこれでもかというほどに強めて水をぶつけた。
 エミリーは落ちていた洗面器を片手にジョゼフの顔面へ投擲する。額に見事に当たり、シャワーヘッドはジョゼフの手から落ち、それは床の上で暴れ狂い、二人に冷水を浴びせかけた。
 

 風呂に入ったつもりが、すっかり冷えた体で、エミリーは乱暴にジョゼフの前に風呂上りの水分補給に冷たいレモン水を叩き置いた。
 無論エミリーは水浸しで出たが、医師として体を冷やして風邪でも引かれたらかなわないと、ジョセフだけははりなおした湯船にもう一度ぶち込んだ。
 ジョゼフは出てしまった水分を補うかのようにレモン水を飲み干す。大きく息をつく。
 エミリーは空になったジョゼフのグラスに追加でレモン水を注ぎたした。
「殺されるかと思った」
「あなたを始末するときは、そんなまどろっこしいことはしない」
「それは光栄だ。医師の言葉とは到底思えないね。ああ、笑えてきた。毒は入ってないだろうね」
「睡眠薬をぶち込んでほしいなら今から入れてあげるけど。三秒でおねんねよ」
 そろそろ笑顔を作るのに疲れてきたとエミリーは口角を痙攣らせながら、自身にも入れた紅茶に口を付ける。すっかり冷え切った体が内側から温まっていく。
 着ていた服は風呂場での戦いの末、ちょっとやそっとでは乾かないほどに濡れてしまったので、エミリーはやむなくジョゼフにシャツを借りて身に着けていた。
 余りすぎるほどに余る袖は何回も折り返している。シャツだというのに、ちょっとしたワンピースと同じ長さである。
「汚さないでくれよ。君が普段身に着けている粗末な服とは違うんだ」
「できれば今すぐ脱いで返してさしあげたいくらいだけど」
「なら返してもらえるかい。今すぐ」
「高貴なご身分の方が淑女を全裸で放り出そうだなんて、どんな躾をされてきたのかしらね。育ちを疑うわ」
「はは君が?淑女?嫌がる僕の下着をはぎ取るような君が?冗談はよしてくれ。頭が痛い」
 嫌味をたっぷりと含んだ皮肉がテーブルをはさんで鬼のように飛び交う。
 二人そろって張り付いた笑顔でそれをしているものだから、空間としては十分に異様と呼べるそれであったし、イライがいれば、部屋に立ち入り禁止の札をかけたであろうほどであった。
 しばらく言葉の応酬がなされ、エミリーは口をへの字に曲げ、深く長く息を吐き出した。
 一体何をしているのか。
 紅茶を一気に飲み干す。少し熱めのそれは、喉を焼く。しかし、エミリーはお構いなしに、飲み下し、ソーサーに空になったカップを戻した。丁度ジョセフもグラスも空になり、エミリーはそのグラスと自身のカップをトレーの上に置き、椅子から立つ。
 最後に思い出しように、ジョセフへ告げる。
「とりあえず、明日も様子を見に来るわ。確かに度合いはひどいけれど、きちんと患部を冷やしておけば、明後日には問題なく動くはずよ」
「まさかと思うけれど、君明日も今日と同じことを繰り返すつもりじゃないだろうね」
「不衛生な環境は人を殺すのよ。医療とは、まずは衛生管理から。わかる?」
 エミリーの言葉にジョセフは頬杖をついて、口を尖らせた。しかし、意図は伝わったようで、ジョゼフは手を払い答える。
 それを確認して、エミリーはトレーを両手に持ち、部屋を出て行こうとする。その背中にジョセフは慌てて声をかける。呼び止められた理由が分からなかったが、一応足を止める。
 ジョゼフは唖然とした様子で、無事な手で頭を押さえた。小刻みに震える指先がエミリーを指す。
「…一応聞いてみるけれど、君、その格好で自室まで戻るつもりかい」
「私にずぶ濡れの服を着て帰れっていうならそうしてもいいけれど」
 皮肉を言いたいわけじゃない、とジョゼフは、意識が欠如しているエミリーの手からトレーを取り上げると、ソファに押し付けるようにして座らせる。柔らかな自身のシャツが、白く細い二つの足をくっきりと際立たせていた。
 やれ、とジョゼフは写真機を起動させた。ぱしゃり、と乾いた音が部屋に響く。
 そして、エミリーの手を引っ張り写真世界に引きずり込んだ。
 慌てたようなエミリーの声は無視して、手を持ったまま引きずるように、大股で写真世界を闊歩する。
 時間の止まった世界では誰と目が合うこともない。回廊を抜け、部屋の前で楽しげに会話をしているであろう姿のまま制止したオフェンスとカウボーイの横を通り過ぎ、お菓子と雑誌を片手に議論を繰り広げている調香師と空軍の前を抜ける。
 そして、ジョセフは目的地の部屋の扉を押し開けて、体力がなく息も絶え絶えなエミリーを押し込んだ。
「服は、明日の治療の際に取りに来てくれ。僕の服もその時に返してくれたのでかまわない」
 エミリーが二の句を継ぐ間もなく、その姿は赤い色となってかき消える。それと同時に写真世界は終わった。

 ジョゼフは自室で一人頭を抱えていた。
 本日の出来事が怒涛のように押し寄せ、脳内の処理が追いつかない。ちょっとした考えで、手当と介助をなどと言ったのがそもそもの間違いだったと心の底から後悔する。
 まさか、ここまでとは思わなかった。思わなかったのだ。
 ジョゼフは己の考えがあまりのも浅はかであることを知った。そして、エミリー・ダイアーという医師を侮っていた事実を悔いる。
 やるならば徹底的に。
 彼女ならば、座薬ですら容赦なく突っ込む。
 ふと頭に浮かんだ考えに、ぞっと全身を恐怖で震わせた。ハンターに見つかったサバイバーでもここまでの恐怖は味わうまい。
「ああ、くそ」
 それでも、自身のシャツを濡れた服の代わりにまとったその姿に、憎まれ口しか叩かなかったものの、なんとも言えない気持ちになったのは、決して口には出さない。
「…十やそこらの子供じゃないんだぞ」
 今度こそ、水を浴びてきた方がいいのかもしれない。
 ジョセフは額を手の甲で押さえ、小さな呻き声を漏らした。

 エミリーは冷えきった体を温め直すため、湯船に湯を張り、ぶかぶかの服をさっさと脱ぐと、きっちりと洗って干す。アイロンをしっかり当てれば、明日の昼には十分に間に合うと、シャツを睨みつけた。
 ゆっくりと、湯船に体をつける。
 目を閉じれば、ほどよい温度の湯が体を外からじんわりと温めてくれる。細く長く、疲れを吐き出すように、エミリーは体を浴槽に預けた。
 ジョゼフの怪我は数日で完治するとしても、エミリーの懸案事項は他にあった。
 黒い傘に溶けてしまった。
 范無咎は対話を拒否した。話したくないと、そう言った。
 他の誰でもない彼がそういうのだから、謝必安は心から自分との対話を拒否したのだろうとエミリーは口まで湯につけ、ぶくぶくと息を吐き出す。膝を抱え、小さく体を丸める。
 あの時、ジョゼフが自身に告げた言葉は、間違うことなく真実で、どうしようもない現実であった。
 湯に泡が弾けては消える。
 彼はハンターで、自分はサバイバーで。
「私は、医師よ」
 まるで自らに言い聞かせるようにエミリーは呟いた。
「必要だった」
 君の行動は独善的で。
 耳にこびりついたように離れない声に頭を左右に強く振り、呪縛のような言葉から逃れようとする。しかし、それは何度も、繰り返し、耳の奥でしつこく繰り返される。
 ぎゅ、と目をきつく瞑る。
「おい」
 突然降ってきた声に、エミリーはぎょっと目を開ける。覚えのある声である。
「あなた」
 顔を上げれば、黒い傘を肩にかけ、細長い体躯を浴槽の縁に曲げて座っていた。
 范無咎その人である。
 謝必安と異なり、つっけんどんで、無愛想な顔をエミリーへと向けていた。
 水、とエミリーは咄嗟に思ったが、以前に、范無咎は水が苦手ではないと本人の口から聞いていたことを思い出す。
 突然すぎる来訪にエミリーは何を言えばいいのか分からず、小さく口を動かす。范無咎はその表情を読み取ったのか、先に口を開く。
「ジョゼフの治療はまだするのか」
「え、ええ。でもすぐに治るわ」
「お前がする必要はないのでは?」
「でも、彼は怪我をしている。治療をするのは当然よ」
「馬鹿馬鹿しい」
 范無咎はそう吐き捨て、驚異的なバランス感覚で浴槽の縁に立つ。傘が、一際大きく広げられる。
 そのあんまりな言いように、エミリーは眉根を寄せ、苦言を呈した。
「怪我をさせた側の言葉じゃないわ」
「知ったことか。あの程度で痛む手の方に問題があるんじゃないのか」
 くるりと傘が回転を始める。エミリーはその光景をゲームで幾度か見たことがある。まもなく、彼は移動する。聞きたいことは何一つ聞けてはいない。
 エミリーは、待ってと慌てて口に出した。范無咎は僅かに傘の回転を緩め、エミリーへと視線を合わせる。
 どちらも言葉を発さず、エミリーは小さく唾を飲み込んだ。
「謝必安は」
「断る」
「違う」
 違うのよ、とエミリーは言葉を選ぶ。
 これだけは伝えておかなければならない。
「怒ってないわ。あなたが、彼を傷つけたことを」
 すぐに泣いてしまう彼を思い出す。かなりの剣幕で、呼びつければ、それは、きっと出てきにくいのかもしれない。
 エミリーの言葉に范無咎は傘の動きを完全に止める。
 傘が、彼の顔を隠す。今はどちらなのだろうと、エミリーは傘を覗き見たが、暗くてよくわからなかった。嘆息が、その薄い唇から零れる。 
「謝必、」
「ところで、お前は俺と話すときはいつも服を脱いでいるが、そういう趣味なのか」
 唐突に指摘され、エミリーは思い出す。ここがどこで、何をしていたのか。
 状況が怒涛のように押し寄せ、一瞬で肌がゆでダコのように指先まで赤く染まる。
「はは」
 エミリーの言葉にならない悲鳴が浴室に轟く一瞬前に、范無咎は一つ笑って傘と共に姿を消す。
「勝手に入ってきたのはあなたでしょう!」
 言うべき相手はすでにいないものの、エミリーはぶつけようのない感情を持て余し、湯を激しく叩いた。