独占欲 - 2/4

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 日記の紙を滑る万年筆が止まった。
 エミリーは、空っぽのベッドへと視線を動かす。その上には誰もいない。部屋にはエミリー、その人ただ一人である。
「いやだわ」
 まるで、そこにいないのが寂しいかのような行動である。先程の行動を振り払うかのようにエミリーは両手で頬を一二度叩いた。
 久しく、この部屋にハンターの来訪者はない。
 そうはいっても、エミリーの自室を訪れるハンターは謝必安しかいない。ゲームでその姿を見かけても、言葉を交わすこともなく、自室に押しかけてくることもなくなった。
 雨の日に、暖炉の灯るあの部屋で、出会うこともなくなった。
 今までがおかしかったのだ。
 エミリーは考え直す。ハンターとサバイバーが不用意に会っている、交流があるその関係こそがおかしかったのだと。
 マーサが聞けば、苦虫をつぶしたような顔をして、やめた方がいいと諫言を口にしただろう。
 だから。
 だから、とエミリーは万年筆を再度動かし始める。
 今までが、やはりおかしかったのだ。
 日記を捲れば、思いの外、白黒無常の記載が多かった。最初は問診から。次第に日常的などうでもいいことへ。時折愚痴が混じっている。
 何日も前の記事のインクはすでに乾いてしまっていた。文字を指先でなぞるも、指先でインクがにじむことはない。
 もうそんなに前の話なのかと、エミリーは日記をめくりながら思い返す。
 そして日記を閉じる。その瞬間、ど、と心臓がはねた。
 ハンターが直近にいるそれ。
 呼吸が止まりかけ、エミリーはゆっくりと、小さな、それは本当に小さな期待を抱いて背後を振り返った。しかし、エミリーの目に映ったのは、いつもの彼ではなかった。
「やあ」
 瞬時に椅子を立ち上がり、廊下へと続く扉へと逃げる。
 しかし、エミリーの初動がいくら速かろうと、直線距離でハンターの速度にかなうはずもない。背後から伸びた手は乱暴に内開きの扉を叩いて閉ざした。大きな音に、肩が震える。
 ドアノブをいくら内側に引っ張っても、もはやその扉は内側から外へと向けて圧倒的な力で押さえつけられており、びくともしなかった。どうしようもない力の差に、ノブを握りしめる手が震えた。
 白衣が、視界の隅から覗く。
 浅い呼吸を繰り返し、エミリーは来訪者の名を呼んだ。
「写真家」
「こんばんは、レディ。乱暴をしに来たわけじゃない、落ち着いて座りたまえ」
「その言葉は、どこまで信用が」
「では、言い換えよう」
 十分な間がもたされ、小さな背がその胸と密着する。どっ、と一際大きく心臓が悲鳴をあげた。
「君の期待に、応えたほうが?」
 エミリーはジョゼフの言葉に、腹を括った。
 ドアと写真家の体に挟まれた、ほんの僅かな空間で、恐怖の正体と向き合い、目線を合わせる。美しい、澄み切った空を模したような宝石の瞳とかち合った。
 ジョゼフは、エミリーの無言の回答に満足したのか、笑みを深くして進路を開けた。通された道をエミリーは素直に歩き、部屋の片隅の椅子に腰かける。
 深く、息を吐き出して気持ちを落ち着け、恐れを隠してまっすぐに見据えた。
 ジョゼフと言えば、流れるような仕草で、エミリーが先程まで腰かけていた椅子にゆったりと座る。
「どうやって室内に」
 音も気配もなく、突如部屋に姿を現したことに警戒心を抱きつつ、エミリーはジョゼフへと問うた。その質問に、ジョゼフは背もたれに体重を預けながら、写真世界を伝って、と答える。
 そういえばとエミリーは思い出す。
 ゲーム中、ゲートを開いていると、何の先触れもなく、引き留めるの内在人格を発動させ、いつもは青く鋭い瞳に、赤を靡かせ突如姿を現すその光景を。
 瞬間移動かとも思っていたが、瞬間移動であれば先触れはある。本当に、一切の気配を感知させず突如現れるものだから、びっくりしてゲートキーから手を離し、次の瞬間にはダウンさせられたのは、一度や二度ではない。
 苦い表情を隠しもしないエミリーに、ジョゼフは笑みを深くした。
「それで、一体なんの用かしら」
「ここ最近の君は精彩を欠いている。ゲームにおいても注意力散漫だからね。同じ医師として、様子を見に来たのさ」
 医師として。
 普段は青を基調とした貴族然としたその服が、白衣を纏っている。催眠医師の、それだった。
 的を得た指摘にエミリーは言い返すことができない。
 手当ての最中に、何度も調整を失敗してしまっている。その上、写真家から受けたダメージは他のハンターよりも多いということを忘れて、一回しか治療せず、次の一撃でダウンさせられたのも記憶に新しい。
 まったく、写真家の意見はその通りであった。
「悪かったと思っている。もし私のゲーム態度があなたを不快にさせたのであれば、謝罪するわ」
「何か気に病むことでも」
 探るような問に、エミリーは咄嗟に視線を逸らした。その態度は何よりもずっと雄弁である。
「彼は、君の患者ではない」
 全てを見透かしたように、ジョゼフは言葉を紡ぐ。
「彼はハンターで君はサバイバー。医師と患者の関係が成り立つとでも?」
「私は医師よ。互いの立場は、関係ない。彼は、苦しんでいた」
「でも、彼はもう来ていない。雨の日にも、君は会っていない」
 もうよくなったのでは?とジョゼフが続けた言葉に、エミリーは言葉を濁す。
「私は、彼がよくなった状態をこの目で、確認していない。半端に放り出すのは、医師としての信念に悖るわ」
「必要なくなったから、訪れなくなったと考えるのが自然だろう。それとも、彼は君に不要である旨を報告する義務でもあるのかい」
「それは」
 ない。
 エミリーは、膝の上に添えていた手を固く握りしめる。
 ジョゼフは俯き口閉ざしたエミリーを追い立てるように言葉を続けていく。
「彼は、ハンターとしての役割を全うしている。一切の不都合なく。君も、一度と言わず、彼がハンターのゲームに参加したことがあるはずだ」
「そうだけれど」
「彼は、ハンターとしての役割を果たしていただろう」
「そうよ」
「君の部屋に訪れるのは、応接間に姿を見せるのは、ハンターとしての役割、ではないね」
「そう、よ」
 まっとうな、意見を挟む余地のない正論に、エミリーは自然と声が震えた。分かっている、とエミリーは思う。
 白黒無常が来訪しないのは、声をかけないのは、ハンターとして、何らおかしくない。
 いっそ声をかけてくるハンターの方がよほど珍しい。異端とすら言える。
 ジョゼフは椅子から音もなく立ち上がり、俯いて唇を噛みしめたエミリーの横へと腰を下ろす。ゆっくりと、優しく、きつく握りしめられた手に自身の手を被せて添える。固く強張った指先の間に白い手が這い、ゆるりと指と指が絡み合わされる。
 エミリー、と白衣の、精神科医が、不安定な精神を揺さぶり、侵食していく。
「君の行動は独善的で、彼にとっては、迷惑だったのでは」
 君は、はなから必要なかったのさ。
 鼓膜から、声が、脳味噌を揺らした。

 范無咎は自室の寝台の上に横たわっていた。
 ここ最近、ずっと必安の機嫌が悪い。それはもう、すこぶる。疑いの余地などないほどに。
 互いに言葉を交わすことはないものの、ゲーム中や、生活の端々にそれは如実に表れている。
 例えば、必安は普段サバイバーを自ら仕留めることは少ない。足が速く、射程距離が長かろうと、攻撃再転速度が遅く、とどめを刺すのは自分の仕事である。
 しかし、ここ最近のゲームでは、必安がサバイバーにとどめを刺すことがよくある。ほぼ、殴っている。入れ替わってさあとどめをと思いきや、足元は血溜まりができ、サバイバーが全員失血死寸前で倒れているのはよくあることだった。
 椅子に固定されたサバイバーなど、無残なほどに殴られていたこともある。必安と代われば、顔面が腫れ上がり血塗れになった傭兵が膨れ上がった肉でよく見えていないだろうに、その隙間から恨みがましくこちらを睨みつけている場面にも出くわした。
 必安は、そういうことを好んでする性質ではない。
 しかしハンターが二人いる試合形式でもないので、やはり傭兵を甚ぶったのは他の誰でもない必安に相違ない。
 雨が降っている日は、いつものように応接間へ足を運ぶのかと思いきや、一人自室にこもり、怯えるように、殻にこもったように傘を抱きかかえ、目を閉じ一日を耐え忍ぶ。
「必安」
 名を呼ぶも当然返事はない。傘に宿るその魂を范無咎はゆっくりと撫でた。
 その優しすぎる気性故か、彼は自分の後を追った。そんな男だからこそ、ここ最近の態度はおかしい。十分におかしい。
 まあとどのつまりは、と范無咎は寝台から体を持ち上げる。
 原因は分かっているのである。
 必安の調子がおかしくなったのは、あのゲームからなのは誰の目にも明らかである。
 范無咎は少し考える。しかし、すぐに考えるのをやめた。深く考えるのは、性に合わない。気になるのならば聞けばいいのである。なにしろ、必安と違い、彼女とは、会話ができる。
 そして傘を開き、その中に身を溶け込ませた。

 范無咎は驚いた。
 これ以上ないほどに驚いた。左手が、己が反応するよりも早く、主導権が奪われた。
「乱暴だな」
 白衣の隙間から覗く白い手首を力任せに掴んでいる。自身の腕であるのに、それは自らの意思を伴った行動ではなかった。
 要するに、必安である。
 閉じられた傘ががたがたとふるえていた。
 ジョゼフの隣に腰かけていた医生の顔が、上がる。青白く、困惑した、うっすらとその眦には涙が浮かんでいるのが確認できた。
 ぞ、と范無咎は傘を持つ手から伝わってきた感情に、咄嗟に声を荒げる。
「必安、よせ」
 しかし手は言うことを聞かない。掴んでいたジョゼフの手首から、嫌な音が響いた。端正な顔が痛みで歪められる。左手は乱暴に、その体を投げ捨てた。
「必安」
 ジョゼフは体をその壁に叩きつけられ、ずるりと床に座り込む。折れたのか、額に脂汗が浮いている。
 一寸遅れて、その光景に我を取り戻したのか、医生が己の手首を押さえるジョゼフに駆け寄り、怪我の状態を診断する。
「折れては、いないわ」
「そうか」
「あなた」
 然程興味なく返事をすれば、医生から非難の目を向けられる。
 空っぽになったソファに范無咎は腰を下ろす。傘はソファに立てかけ、今にもジョゼフの首を絞めに行こうとしている左手を右手で押さえた。
 手早くジョゼフへの応急手当を済ませ、医生は氷を持ってくると部屋を走って出て行った。
 その気配が完全に消えてから、ジョゼフは、范無咎へと視線をやる。
「随分とご挨拶だ」
「俺の挨拶じゃない」
「そうだろうね」
「お前こそ、必安に何をした。随分と怒っている」
 怒っている、とは随分と言い方を柔らかくしている。いっそ、手にかけてしまうほどの興奮状態である。
 別に、手をかけたところで、范無咎としては痛くも痒くもないので、止める必要性はかほども感じないが、ここは荘園で、一定のルールが敷かれている。それを破るものには罰があるのだから、自ら進んで享受する必要も感じなかった。
 范無咎の言葉に、ジョゼフは薄く笑って見せた。
「さてね。気に食わないんじゃないのか、僕が」
 あの穏やかな必安が手を上げるほど気に食わないなど、この男は一体何をしでかしたのかと范無咎は左手をぐっと押さえ込む。
 必安、と再度とどめるように口の中で名前を繰り返したところ、ようやっと左手の動きが戻った。手を一二度閉じ、開いて感覚を確かめ、傘を持つ。
 それと同時に、エミリーが氷嚢を片手に部屋へと駆け戻ってきた。
「見せてちょうだい」
「骨が折れてるんじゃないのかい」
「折れてないわ」
「本当に?」
「医師の診断を疑わないで」
「わかったよ。そんな目で見ないでくれ」
 エミリーは軽口をたたくジョゼフを軽く睨むと、氷嚢を患部へ押し当てる。
「捻挫ね。すこしひどいから、しばらくは動かさずに冷やして」
「食事はどうすればいいんだい」
「スプーンくらい持てるでしょう」
「この僕に獣のように薄汚く食事をしろとでも?」
「…食事の介助が必要なのね」
「言いたいことは伝わったようだ」
 目を細めたジョゼフにエミリーは溜息をついて、額を押さえた。
 彼を怪我させたのは、范無咎の言動から謝必安だとしても、この部屋の主は自分である。その上、治療したのも自分なのである。じわ、とエミリーは滲み出る責任感という言葉に苛まれた。
 怪我をさせた、という意味合いでは、謝必安がその介助をするのが最も適切であるのだろうが、彼がそれを得手としているようには見えないし、誰かの介助などとは対極の位置にいるように、彼の今までの行動から考えれば、エミリーは思えた。范無咎などは、ジョゼフの喉奥までスプーンを突っ込みそうである。
 二秒ほど考え、エミリーは両肩を落とす。
「治るまでよ。捻挫だし、そう長くはないでしょうけど」
「感謝するよ、エミリー。ああ痛い」
 いっそ白々しいほどの言葉に、エミリーは目を眇めたが、ジョゼフの申立て通り、確かにひどい捻挫であり、やられた瞬間など、言葉も出ないほどであったのは間違いない。
 後で部屋に行くわとエミリーはジョゼフを部屋から追いそうとしたが、頑として動かない。
「先に行っていてちょうだい」
「僕の部屋を知っているのかい」
 そういえば知らない。
 エミリーはジョゼフに椅子に座ってもらい、范無咎と向き合う。
 言いたいことは、范無咎は分かっていた。
 先程の弱った一面はどこへやら、固い意思がそこにある。范無咎は傘を撫で摩る。
「謝必安を出して」
「できんな」
「謝必安を出してちょうだい」
「できんと言っている」
 できない、というのは正確ではない。正しくは、出てこない、だ。
 明らかに怒っているエミリーを前に、范無咎は傘を開いて見せた。足元に白い波がさざめくものの、謝必安がそれに応えることはない。
 范無咎は傘を畳んだ。
「分かったか」
「謝必安」
 幼子を叱るような母の声。
 范無咎は傘がその声に僅かに震えたのを指先で感じ取った。傘の中で、その意識はきっと膝を抱えて怯えたように座っている。
 やれやれ。
「医生」
「范無咎、庇わないで」
「いいや」
 エミリーの言葉に范無咎は首を横に振った。
 彼女の言など、范無咎にとっては些末なことであった。大切なことは、謝必安が彼女に会うことを拒絶している、ただ、それだけである。
「言わんとするところは理解する。だが、必安がそれを拒んでいるのであれば、俺はそれを支持する。ではな」
「待ち」
 なさい、と最後までエミリーの言葉が届くことはなく、その姿は傘の闇に溶けてしまった。
 部屋にジョゼフと二人きりになり、エミリーはちらりとそちらに視線をやる。視線がかち合えば、ジョゼフはにこやかな笑みを見せ、傷まない方の手で扉を開けた。